日本軍の撤退
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2月9日、日本の第54師団長の宮崎繁三郎中将は、長澤連隊長にラムリー島からの全軍撤退を命令した。輸送用に小発動艇4隻と徴発した小舟約100隻が送られたが、11日夕刻に徴用小舟数隻が着いたほかは撃沈されるか四散してしまった。現地の猪股少佐は負傷者だけでも船で脱出させようとしたが失敗し、島内での遊撃戦に移ると具申した。それでも長澤大佐は撤退をあきらめず、泳いででも脱出するよう指示した。第28軍司令官の桜井省三中将も、玉砕は避けるべきとの意見であったと回想している。 撤退の援護のため、日本軍は航空機によるイギリス軍封鎖艦隊の排除を試みた。2月11日には飛行第64戦隊の一式戦闘機12機が爆装して出撃し、駆逐艦1隻撃沈・1隻大破、巡洋艦1隻損傷の戦果を報じた。イギリス側記録によると、P級駆逐艦パスファインダー(en)が大破し、修理されないまま戦後に廃艦となっている。2月18日夜の渡河時にも、2機がクリーク内の連合軍砲艇を爆撃したが、効果は無かった。 2月13日に陣地を出た日本軍守備隊は、2月18日夜半、本土との間のミンガン・クリークを泳いで渡河を開始した。一帯はマングローブが茂る湿地で、水路の中央300mほどは水深が深く泳ぐ必要があった。途中で溺れかけた兵士の一人が大声をあげたことから、砲艇に発見され、サーチライトによる照射射撃を浴びてしまった。混乱のうちに大部分の将兵は引き返そうとしたが、猪股大隊長などは戦死し、一部は英軍の艦艇に捕虜として収容された。約50人だけはそのまま対岸に渡り切った。 浜辺に戻った日本兵は、陸海から集中砲火を受けて多数が死傷し、ばらばらになって山中に落ちのびた。島民は引き続き日本軍に友好的で、食糧や船などの手厚い援助を日本兵に与えた。そのおかげで、3月中旬までに、守備隊の半数にあたる約500人の日本兵は、本土のタンガップへと集結することができた。 2月22日、イギリス軍の公式記録ではラムリー島での戦闘が終わったとされている。 なお、日本軍の撤退時に渡河中の多数の日本兵が野生のイリエワニに襲われ、命を落としたとする説があり、ギネスブックにもワニによって約1000人もの日本人が犠牲になった「動物がもたらした最悪の災害」(“The Greatest disaster suffered from animals”)として登載されている。しかし、日本側の戦史叢書にはワニに襲われたとする記述は無く、前述のように現地人の支援により比較的に多数の将兵が、後に無事に島を脱出している。この事件を追ったドキュメンタリー番組でも、渡河中に射撃され命を落とした日本兵の死肉に、翌日あまりにも多くのイリエワニが群がっただけと推測されている。この調査により、2017年度版ギネスブックでは「少なくとも死亡者の数については疑問が呈される」と追記された。
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日本軍の撤退
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「ポートモレスビー作戦」の記事における「日本軍の撤退」の解説
第17軍はガダルカナル方面の対応(兵員、航空機、艦船)を優先させるため、南海支隊がイオリバイワを攻撃する前に「スタンレー山系の頂上付近を占領、爾後の前進を準備せよ」といった命令(前進抑制命令 8月28日)を出した。続いて、「歩兵第41連隊をココダ付近に集結せよ」という命令(後退命令 9月8日)を出したが、命令伝達の遅延等もあり日本軍の前進は9月16日のイオリバイワ占領まで続いた。堀井少将は歩兵第41連隊第2大隊を後衛にすると決めた上で、9月16日に次のような命令を出した。 攻撃中の陣地(イオリバイワ)を制圧後、直ちに防御のため占領する。 一部はイオリバイワ後方のマワイに下がり、食料集めを行う。 可能であれば第一線の兵力を減らして食料輸送を行う。 — 堀井富太郎少将, 9月16日、東部ニューギニア戦 堀井少将は作戦開始前から人員数と補給路を机上計算し補給の難しさと食料不足を理解していた。食料不足の南海支隊にとってはできるだけ早いポートモレスビー総攻撃が必要だった。しかし、ガダルカナル島の戦局悪化によりポートモレスビー総攻撃はできなくなってしまった。イオリバイワの敵陣を奪取し倉庫を探したが、オーストラリア軍は倉庫に食料を残してはいなかった。片道分に足りない食料で進軍し総攻撃を待つばかりであった、そして占領後のポートモレスビーで食料を得て、傷病者の手当てをしなければならなかった南海支隊にとって、ここでの後退は過酷であった。 南海支隊は食料が尽きたまま、先衛の歩兵第41連隊主力が9月16日にココダに向け撤退を開始し、また歩兵第144連隊の第2大隊を基幹に1個山砲中隊と1個工兵中隊からなるスタンレー支隊を編成しスタンレー山脈の峠(カギ方面)での陣地造りに先発させた。後衛の歩兵第41連隊第2大隊に防御を命じ、南海支隊主力の撤退準備が行われ、9月24日にカギ方面に向け退却を開始しココダへの集結を目指した。日本軍は栄養失調だけでなくマラリアで動けない患者が多数いたため、主力の撤退開始は患者輸送を待たなければならなかった。同年中に日本軍が行った補給は9月23日の海軍機による空中投下と10月4日の陸軍輸送船による補給の2回であり、すでに日本軍側は制空権を失っていた。 マッカーサー大将が師団長以下の指揮官などを解任したため豪軍の追撃は遅れ、そして、日本軍の南海支隊も、歩兵第144連隊長の楠瀬大佐などマラリアにかかりラバウルに後送された指揮官や、転勤で内地に帰還する指揮官などがいたため、双方の指揮は一時混乱する。 日本軍の南海支隊は9月24日にイオリバイワから撤退し10月4日ココダに到着、オーストラリア軍は9月28日にイオリバイワを奪還し本格的に攻勢をはじめ、10月3日にギャップに到着し、その後ギャップの陣地を包囲して浸透するように前進を行ったため日本軍の撤退は難航した。だが、イオリバイワを先発したスタンレー支隊は、ギャップ、イオラで地形を利用した陣を築いて抵抗を示し、10月中旬まで持ちこたえた。しかしアメリカ軍の第32歩兵師団の一部が山脈を越えて空輸され先回りしてブナを窺う形勢となった。南海支隊はココダからオイビへ、さらに11月10日にはオイビからも撤退しバサブア(ゴナ)へ向かった。 10月8日頃、物資、患者輸送の任に就いていた輜重隊が解体されて原隊に復帰し、戦闘に加わった。この防衛線は5日間、オーストラリア軍を阻止したが、10月10日ジャウレ道から進撃してきたアメリカ軍の急進により退路が断たれたため堀井少将が撤退を決定する。また10月下旬になるとオーストラリア軍のスタンレー支隊への攻撃が激しさを増し、南海支隊は第17軍よりギルワ河右岸まで撤退するよう命令された。これを受けて、堀井少将は10月25日、歩兵第41連隊の1個大隊ほどの人員をカギ方面に急行させスタンレー支隊と交替し「後退は28日以降に行い31日にココダへ到着」するようにせよ、と命じた。
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日本軍の撤退
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「ガダルカナル島の戦い」の記事における「日本軍の撤退」の解説
8月の上陸以来、戦いの主力を担って疲労が大きくマラリアにも苦しめられていた第1海兵師団は師団長のヴァンデグリフト将軍とともに12月半ばにオーストラリアに後退した。1月にはアメリカ軍の規模は5万人余りの陸軍と第2海兵師団となり、積極的な攻勢を開始した。 詳細は「ルンガ沖夜戦」を参照 第38師団の輸送失敗のあと、大本営はさらに第51師団と第6師団をガダルカナル島に送り込むことを計画する。だが、ガダルカナル島の航空基地も増強されていて、アメリカ軍の制空権下の輸送が成功する見通しは全く立たなくなっていた。 既に低速の輸送船はガダルカナルに近づくことができず、駆逐艦の「鼠輸送」に終始していた。しかし駆逐艦による輸送でも、10月下旬の第2師団総攻撃失敗以降、わずか3か月あまりの間に10数隻の駆逐艦が撃沈される結果となった。やむなく潜水艦による輸送まで試みられていたが、駆逐艦以上に搭載力が小さく、成功しても効果は微々たるものであった。 12月6日には閣議において、参謀本部作戦部長の田中新一中将が支援に必要な16万5000トンの艦船をガダルカナルに送り込むよう訴えたが、その半分の増援も認めなかったため、東條首相ら政務側に対し「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ事実上更迭された。その理由は、元々東條はこの方面の作戦には反対であったこと、過去に投入した船団もことごとく全滅状態となったことであった。また参謀本部や海軍の要求を通すと南方からの資源輸送・南方への物資輸送が滞り、戦時経済そのものに悪影響を与えるためでもあった。 12月31日の御前会議において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定された。
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日本軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 23:10 UTC 版)
日本時間6月5日午後9時15分、山本長官は第二艦隊と南雲機動部隊(赤城・飛龍)に対し、夜戦の中止と主隊(大和以下、第一艦隊)への合流を命じ、午後10時11分、南雲部隊は反転した。午後11時55分、山本長官は連合艦隊電令161号で以下の命令を伝達した。 AF(ミッドウェー島)攻略を中止す。 主隊は攻略部隊(第二艦隊)、第一機動部隊(欠、飛竜及び同警戒艦)を集結し、予定地点に至り補給を受くべし。 警戒部隊、飛竜同警戒艦、及び日進は、右地点に回航すべし。 占領部隊は西進し、ミッドウェー飛行圏外に脱出すべし。 ミッドウェー作戦の中止が決定した瞬間であった。日本軍は撤退を開始する。6月6日午前4時30分(現地時間6月5日07:30)、軽空母鳳翔の九六式艦上攻撃機が漂流する飛龍と甲板上の生存者を発見、連合艦隊司令部は南雲司令部に飛龍が沈没したかどうかを確認せよとの命令をだした。飛龍の現状を知らなかった南雲部隊司令部は午前9時45分(12:45)、長良より偵察機を発進させ、駆逐艦谷風を飛龍の処分と生存者救助のために派遣した。谷風はエンタープライズから発進したSBDドーントレス16機の攻撃を受けたが、4機の撃墜を報告して生還した。谷風を攻撃したホーネット隊は「香取型練習巡洋艦を攻撃した」と報告したが(実際は駆逐艦谷風)、撃墜されたのは1機であった。午前中に、山本の主隊、近藤の攻略部隊、南雲の残存部隊は合流した。 詳細は「三隈 (重巡洋艦)」を参照 支援隊の第七戦隊(重巡洋艦:旗艦熊野と、鈴谷、三隈、最上)は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって山本から新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速で前進していた。その後、夜戦中止に先立ってミッドウェー島砲撃中止命令が出された。第七戦隊はミッドウェー島90浬の地点で転進を行ったが、その1時間20分後、米潜水艦タンバー(SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に三番艦三隈と最後尾の最上が衝突。最上は艦首を切断、速力10ノットに落ちた。第七戦隊司令官の栗田健男少将は最上の護衛に三隈と駆逐艦2隻(第八駆逐隊:荒潮、朝潮)をあてると南西のトラック島への退避を命じ、栗田少将は熊野と鈴谷を率いて主力部隊と合流するため北西に向かった。 一方のアメリカ軍では、飛龍攻撃隊により空母ヨークタウンが大破し漂流していた。駆逐艦ヒューズだけがヨークタウンの護衛として残された。その後ヨークタウンではサルベージ作業が進み、艦隊曳船ヴィレオが救助に向かう。フレッチャーから指揮権を渡されたスプルーアンス少将の第16任務部隊も日本艦隊の動向が把握できず夜戦に持ちこまれる可能性を考慮、一時的に東へ退避する。しかし翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進する。 日本時間6月6日、潜水艦タンバーの報告を受けたアメリカ軍は、まずミッドウェー島の航空戦力で三隈と最上を攻撃した。SBDドーントレス6機、SB2Uビンディケーター6機、B-17爆撃機8機が攻撃、SB2U指揮官機が三隈の後部砲塔に体当たりし、最上が至近弾で戦死者2名を出した。アメリカ軍機動部隊の追撃を受けた三隈と最上はウェーク島に向かい、連合艦隊主隊と攻略部隊も三隈の救援と米機動部隊の捕捉に向けて動き出す。6月7日、スプルーアンスは「空母1隻、駆逐艦5隻発見」という索敵機の報告を元に、ホーネットとエンタープライズから撃隊を発進させた。アメリカ軍攻撃隊は空母の代わりに「戦艦」を発見し、最初は航空母艦、次は戦艦と誤認された三隈は集中攻撃を受けて沈没。また最上や駆逐艦朝潮、荒潮も被弾。近藤信竹中将は第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈・最上を救援せんとす」と命じて反転したが、アメリカ軍機動部隊の捕捉に失敗している。翌8日午前中、最上は救援にかけつけた第二艦隊と合流、空襲圏外へ脱した。 戦艦大和以下の主力部隊は夜戦を企図し東進していたが、飛龍を失い、再考して翌0時に夜戦の中止を決定し、3時頃には作戦自体を中止。主力部隊は結局ミッドウェー島の遥か数百キロメートル後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の整った戦艦で手当てを行ったに留まる。赤城の生存者達は、大和以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことを罵ったという。日本軍輸送船団は、アメリカ軍機動部隊の追撃に備えて陣形を変更した。山本長官は、アメリカ軍の追撃部隊をウェーク島の基地航空隊活動圏内に引き込むよう命じたが、アメリカ軍はそこまで深追いしなかった。 6月7日、ヨークタウンは曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていた。このとき駆逐艦ハムマンに移乗していたヨークタウン艦長エリオット・バックマスターと161名が再びヨークタウンに乗艦している。さらに駆逐艦モナガン、グウィン、バルチ、ベンハムが護衛に加わった。その頃、ミッドウェー島を砲撃後に同島海域に留まっていた伊168潜水艦がヨークタウン撃沈の任を受け、同艦に接近。(13:34)、4本の九五式魚雷を発射し、2本をヨークタウンの左舷に命中させ、撃沈した。さらに、同行の駆逐艦ハンマンにも1本が命中しこれも沈没。このときのヨークタウンを日本軍は「甲板の損傷なき模様」として、飛龍が最初に攻撃したのとは別の空母だと考えていた。 6月13日、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットは艦載機と搭乗員に大きな損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。アメリカ軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母2隻の沈没を確認し、ボートに乗って漂流していた飛龍の機関科員を救助・尋問して飛龍の沈没を知り、計3隻の撃沈を確信した。赤城については暗号解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜を尋問して得た情報を分析した結果によるものであった。
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日本軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/21 18:32 UTC 版)
日本海軍第8艦隊司令部は、海軍独力での作戦続行は不可能と判断し、青葉支隊主力の到着する9月中旬の攻勢再開を計画した。そして、それまでの間、橋頭堡を持久するものとした。 しかし、連合軍が第18旅団を中心に反撃を強めたため、日本軍は追い詰められ、9月3日には暗号書の処分に至った。士気の低下も著しく、負傷した矢野中佐は、現地の最先任にもかかわらず補給の駆逐艦に収容されて脱出してしまった。4日には、代わって最先任となった呉3特の副官も、隊員224名とともに駆逐艦に便乗して撤退した。 こうした状況から、持久は不可能と判断した第8艦隊司令部は、ついに撤退を決断した。9月5日、収容掩護部隊として横5特を乗せた軽巡「天龍」と哨戒艇2隻が赴き、生存者の収容を行った。収容漏れがあると見られたため、翌9月6日夜にも軽巡「龍田」と駆逐艦「嵐」が湾内に突入したが、生存者は発見できなかった。日本艦隊は、オーストラリアの輸送船「アンシュン(英語版)」(3188総トン)を撃沈し、陸上への艦砲射撃で十数名を死傷させて帰還した。当時、湾内には病院船「マヌンダ(英語版)」も在泊中であったが、病院船と判明したために攻撃対象とはならなかった。日本軍は生存者の収容が完了したと判断したが、実際には若干の取り残された日本兵があり、連合軍は数週間かけて掃討戦を行った。 消息不明になっていた佐5特主力部隊の捜索は難航し、グッドイナフ島にいることが判明したのは部隊からの伝令がカヌーでブナに到着した9月9日であった。翌9月10日に駆逐艦「磯風」と「弥生」が救出に向かったが、途中で「弥生」が連合軍の空爆により沈没し、佐5特部隊の救出作戦は一時中止になった。9月22日に漂流中のカッターが発見され、これを収容したところ「弥生」の生存者が近くの島にいることが判明し、駆逐艦「磯風」と「望月」が現地に向かった。9月26日に梶本艦長以下「弥生」乗組員83名が救出された。この頃になると連合軍の航空機の活動が活発になっており佐5特部隊の水上艦による救出は困難視された。そこで潜水艦による救出を行うことになり、10月3日に潜水艦「伊1」(潜水艦長安久榮太郎)はグッドイナフ島に到着し部隊の傷病者(71名)を収容し、次いで伊1は大発2隻を島に輸送した。部隊は追加の大発の到着を待っていたが、10月23日に島に連合軍が上陸して戦闘になったので、翌24日に大発2隻でグッドイナフ島を離脱して近くのウェレ島に渡り、ここでようやく残りの部隊(261名)は軽巡「天龍」に収容された。消息不明になってから2ヶ月後のことであった。佐5特部隊の消息が判明する前、捜索・連絡のためにラビの近くに20名の連絡員が派遣されたがこれも消息不明になってしまい、帰還できないままとなった。 グッドイナフ島から救出された横須賀第5特別陸戦隊主力はブナに駐留するが、11月のブナ・ゴナの戦いにおいて南海支隊ともども全滅することとなる。
※この「日本軍の撤退」の解説は、「ラビの戦い」の解説の一部です。
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