ブナ・ゴナの戦い
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「ニューギニアの戦い」の記事における「ブナ・ゴナの戦い」の解説
詳細は「ブナ・ゴナの戦い」を参照 ブナはポートモレスビー作戦の拠点とするため1942年7月21日、日本軍が上陸した。ブナとゴナには少数の連合軍(オーストラリア軍)がいたが既に退却していたため戦闘はなかった。ここからポートモレスビー攻略部隊は出発したが、攻略作戦は失敗に終った。日本軍は11月9日、第17軍の上に第8方面軍を、第8方面軍の下に第18軍と第6飛行師団を新設した。これは第17軍には戦況が悪化するソロモン諸島方面(ガダルカナル)に専念させ、東部ニューギニア方面は第18軍をあてて戦線の建て直しを図るものであった。第18軍司令官には北支那方面軍参謀長の職にあった安達二十三中将が起用された。南海支隊長の後任には小田健作少将が任じられた。 11月中旬、オーストラリア軍第7師団とアメリカ軍第32歩兵師団がブナ・ゴナ地区へ向けて前進していた。この頃のブナ方面の日本軍はポートモレスビー攻略の失敗と撤退により疲弊した部隊が多く、その戦力はあまり望めない状況であった。だがブナ・ゴナ地区は日本軍のポートモレスビー作戦の策源地であり、ここを失えばポートモレスビー攻略は不可能となる。そこでラバウルから増援を輸送することになったが制空権がない中ではブナ・ゴナ地区へ南海支隊の補充兵と独立混成第21旅団、歩兵第229連隊の一部を増派するのがやっとであった。 連合軍は攻勢を強め12月8日にバザブア(ブナとゴナの間に位置し日本軍の兵員、物資の揚陸地)の守備隊が玉砕、1943年1月2日にブナの守備隊が玉砕した。最後に残ったギルワ(ブナとゴナの間に位置)守備隊は玉砕の覚悟を決めたが、安達軍司令官は玉砕を戒めクムシ河口への撤退を命じた。1月17日、小田少将は歩行可能な将兵をギルワから脱出させた後、自らは拳銃で自決した。南海支隊の上陸以降の一連の地上戦闘により、投入された日本軍将兵1万1,000名のうち7,600名が戦死あるいは戦病死し、ブナ、ゴナ、ギルワにおける日本兵の捕虜はわずか200名から250名余りという結果となった。 12月末から陸軍の第6飛行師団の航空機がブナの戦闘に参加し(このときはラバウルから発進)以後、ニューギニアでの航空戦は陸軍航空部隊が主に担うことになっていく。
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