せん‐きょう〔‐キヤウ〕【戦況】
戦況
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1月19日、長繁は自ら一揆衆の大将として出陣し、一乗谷城の攻略に取り掛かった。城主・桂田長俊はこの時失明していて指揮が執れず、さらに一揆の兵力が3万以上と大軍だったことや、長繁の腹心である毛屋猪介の活躍もあり、さしたる抵抗もできないまま討死した。息子の新七郎ら一族は城外に逃亡したが、翌20日には捕捉されて皆殺しにされた。 一揆衆は1月21日には信長が府中の旧朝倉土佐守館に置いていた三人の奉行、木下祐久・津田元嘉・三沢秀次(溝尾茂朝)を攻めたが、安居景健(朝倉景健)が間に入って調停をしたため和睦。三人は越前を出て岐阜に向かった。 1月24日、長繁はさらに策謀を巡らし、桂田成敗の宴を開くと称して有力者である魚住景固を自らの居城である龍門寺城に招き、次男の魚住彦四郎もろとも謀殺した。翌日には鳥羽野城を攻めて景固の嫡男彦三郎も討ち取って魚住一族を滅亡させた。しかし、敵対関係になかった魚住一族を無闇に滅亡に追い込んだことで、一揆衆の長繁に対する不信感が生じたという。加えて同時期、長繁が信長に対して自らの越前守護任命と引き換えに実弟を人質を差し出して恭順する、と誼を通じたという風聞が立ったこともそれに拍車をかける結果となった(『越州軍記』)。 そして、一揆衆は長繁と手を切り、加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を招き、自勢力の首領とした。杉浦玄任は坊官でありながら越中において、総大将として一揆軍を率い、上杉謙信と戦った武将であった。尻垂坂の戦いでは謙信に敗れたが、五福山や日宮城で上杉方に勝利を収めていた他、朝倉義景とも戦っており、実績も十分であった。一揆衆の中に相当数の浄土真宗本願寺教団(一向宗)の門徒がおり、彼らの意見が通ったのである。こうして富田長繁を大将とする土一揆は、そのまま七里頼周を大将とする一向一揆に変貌した。 2月13日、一揆勢は先制攻撃をかけ、長繁の家臣である増井甚内助が守る片山館、毛屋猪介が守る旧朝倉土佐守館などを攻略、二人を滅ぼした。2月16日には長繁も反撃に出、帆山河原の一揆勢3万をわずか700の兵で敗走させている。 翌2月17日には長繁は府中の町衆や一向一揆の指導的立場にある浄土真宗本願寺派(一向宗)と対立する真宗高田派(専修寺派)・真宗三門徒派等と手を結び、北ノ庄城の奪取を狙い北上。対して、七里頼周と杉浦玄任も長繁を討つべく北ノ庄方面より集められた一揆勢5万人を差し向け、両者は浅水の辺りで激突した。このとき、長繁勢は一揆衆より兵力では圧倒的に劣勢であったが奮戦して一揆勢の先鋒を崩壊させ、潰走する一揆勢を散々に打ち破った(『越州軍記』)。次いで17日夕刻、長繁は浅水の合戦に参戦せず傍観していた安居景健、朝倉景胤らを敵対者と見なし、彼らの拠る長泉寺山の砦に攻撃を仕掛けた。しかし、一揆衆との合戦の影響で疲弊した長繁勢はさしたる戦果を挙げられなかった。長繁は翌18日に再度総攻撃を下知したものの、無謀な合戦を強いる長繁に対して配下の不満と不信が高まり、18日早朝からの合戦の最中、長繁は配下の小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で撃たれて討死、長繁勢は瓦解した。その首は19日、一揆軍の司令官の一人である杉浦玄任の陣に届き、竜沢寺で首実検が行われた。またこの日、一揆勢は白山信仰の拠点であった豊原寺を降伏させて味方につけている。 4月に入ると、一揆衆の攻撃は勢いを増し溝江城(別名金津城、溝江館)を落城させ、溝江景逸と溝江長逸ら溝江氏一族は舎弟の妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前寺英勝および小泉藤左衛門、藤崎内蔵助、市川佐助らとともに自害して果てた(長逸の一子、溝江長澄だけは溝江城から脱出した)。 4月14日、一揆勢は土橋信鏡(朝倉景鏡)の居城である亥山城を攻撃、信鏡は城を捨てて平泉寺に立て籠もったが、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅。信鏡は逃亡を図ったものの、最期はわずかな家臣とともに敵中に突撃、討死した(『朝倉始末記』)。 5月には織田城の織田景綱(朝倉景綱)を攻撃する。景綱も奮戦したが寡兵であったことから夜陰に乗じて家臣を見捨て、妻子だけを連れて敦賀に逃走した。こうして、朝倉旧臣団は一向一揆に通じた安居景健、朝倉景胤など一部の将を除いてことごとく滅ぼされ、越前も加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となった。
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