戦況
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1月19日、長繁は自ら一揆衆の大将として出陣し、一乗谷城の攻略に取り掛かった。城主・桂田長俊はこの時失明していて指揮が執れず、さらに一揆の兵力が3万以上と大軍だったことや、長繁の腹心である毛屋猪介の活躍もあり、さしたる抵抗もできないまま討死した。息子の新七郎ら一族は城外に逃亡したが、翌20日には捕捉されて皆殺しにされた。 一揆衆は1月21日には信長が府中の旧朝倉土佐守館に置いていた三人の奉行、木下祐久・津田元嘉・三沢秀次(溝尾茂朝)を攻めたが、安居景健(朝倉景健)が間に入って調停をしたため和睦。三人は越前を出て岐阜に向かった。 1月24日、長繁はさらに策謀を巡らし、桂田成敗の宴を開くと称して有力者である魚住景固を自らの居城である龍門寺城に招き、次男の魚住彦四郎もろとも謀殺した。翌日には鳥羽野城を攻めて景固の嫡男彦三郎も討ち取って魚住一族を滅亡させた。しかし、敵対関係になかった魚住一族を無闇に滅亡に追い込んだことで、一揆衆の長繁に対する不信感が生じたという。加えて同時期、長繁が信長に対して自らの越前守護任命と引き換えに実弟を人質を差し出して恭順する、と誼を通じたという風聞が立ったこともそれに拍車をかける結果となった(『越州軍記』)。 そして、一揆衆は長繁と手を切り、加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任を招き、自勢力の首領とした。杉浦玄任は坊官でありながら越中において、総大将として一揆軍を率い、上杉謙信と戦った武将であった。尻垂坂の戦いでは謙信に敗れたが、五福山や日宮城で上杉方に勝利を収めていた他、朝倉義景とも戦っており、実績も十分であった。一揆衆の中に相当数の浄土真宗本願寺教団(一向宗)の門徒がおり、彼らの意見が通ったのである。こうして富田長繁を大将とする土一揆は、そのまま七里頼周を大将とする一向一揆に変貌した。 2月13日、一揆勢は先制攻撃をかけ、長繁の家臣である増井甚内助が守る片山館、毛屋猪介が守る旧朝倉土佐守館などを攻略、二人を滅ぼした。2月16日には長繁も反撃に出、帆山河原の一揆勢3万をわずか700の兵で敗走させている。 翌2月17日には長繁は府中の町衆や一向一揆の指導的立場にある浄土真宗本願寺派(一向宗)と対立する真宗高田派(専修寺派)・真宗三門徒派等と手を結び、北ノ庄城の奪取を狙い北上。対して、七里頼周と杉浦玄任も長繁を討つべく北ノ庄方面より集められた一揆勢5万人を差し向け、両者は浅水の辺りで激突した。このとき、長繁勢は一揆衆より兵力では圧倒的に劣勢であったが奮戦して一揆勢の先鋒を崩壊させ、潰走する一揆勢を散々に打ち破った(『越州軍記』)。次いで17日夕刻、長繁は浅水の合戦に参戦せず傍観していた安居景健、朝倉景胤らを敵対者と見なし、彼らの拠る長泉寺山の砦に攻撃を仕掛けた。しかし、一揆衆との合戦の影響で疲弊した長繁勢はさしたる戦果を挙げられなかった。長繁は翌18日に再度総攻撃を下知したものの、無謀な合戦を強いる長繁に対して配下の不満と不信が高まり、18日早朝からの合戦の最中、長繁は配下の小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で撃たれて討死、長繁勢は瓦解した。その首は19日、一揆軍の司令官の一人である杉浦玄任の陣に届き、竜沢寺で首実検が行われた。またこの日、一揆勢は白山信仰の拠点であった豊原寺を降伏させて味方につけている。 4月に入ると、一揆衆の攻撃は勢いを増し溝江城(別名金津城、溝江館)を落城させ、溝江景逸と溝江長逸ら溝江氏一族は舎弟の妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前寺英勝および小泉藤左衛門、藤崎内蔵助、市川佐助らとともに自害して果てた(長逸の一子、溝江長澄だけは溝江城から脱出した)。 4月14日、一揆勢は土橋信鏡(朝倉景鏡)の居城である亥山城を攻撃、信鏡は城を捨てて平泉寺に立て籠もったが、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅。信鏡は逃亡を図ったものの、最期はわずかな家臣とともに敵中に突撃、討死した(『朝倉始末記』)。 5月には織田城の織田景綱(朝倉景綱)を攻撃する。景綱も奮戦したが寡兵であったことから夜陰に乗じて家臣を見捨て、妻子だけを連れて敦賀に逃走した。こうして、朝倉旧臣団は一向一揆に通じた安居景健、朝倉景胤など一部の将を除いてことごとく滅ぼされ、越前も加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となった。
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戦況
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「天王寺の戦い (1576年)」の記事における「戦況」の解説
信長は本願寺の挙兵に危機感を強め、佐久間信盛・明智光秀・塙直政・細川藤孝・筒井順慶・中川清秀・高山右近・荒木村重らを摂津方面に出兵させた。この時、信長が光秀・藤孝宛てに送った書状が現存している。 其表の麦悉く薙捨て候哉。猶以て油断無く申付くべき事専一に候。然して隙を明け候はば、大坂籠城候男女の事は相免ずべき候間、早々罷出ずべきの旨、口々に立札然るべく候。坊主以下用にも立ち候者をば、赦免すべからず候。其意をなすべく候也 本願寺周辺の麦を薙ぎ捨てよ(刈畠)、油断のないようにせよという他、「一般の信徒の男女は赦免するので城を出るべきである」という立て札を立てよ、という点がこれまでの長島一向一揆・越前一向一揆への対応とは全く異なる。ただし指導者である坊主は許すな(=殺せ)と命じている。 4月14日、信長は、荒木村重には尼崎から海上を通って北の野田に3箇所、明智光秀・細川藤孝らは南東の守口・森河内の2箇所に、塙直政は南の天王寺に1箇所それぞれ砦を築かせ、本願寺の包囲を強めようとした。一方、本願寺側は楼の岸・木津の2箇所に砦があり、難波方面への水路を確保していた。信長はこれを断つため木津砦を攻撃する事を決め、天王寺砦に佐久間信盛の嫡男佐久間信栄と光秀を入れ置いた。 5月3日早朝、織田軍は木津に攻撃をかける。陣立ては先陣が三好康長・根来衆・和泉衆、2番手が塙直政・大和衆・山城衆である。しかし、楼の岸砦から本願寺勢・約1万が討って出てきて、織田軍を包囲しつつ数千丁の鉄砲で銃撃を加えた(精強鉄砲隊の雑賀衆が味方していた)。直政の軍勢がこの攻撃を引き受けて数刻の間戦ったが敵に囲まれ、直政は一族の塙安弘・塙小七郎や蓑浦無右衛門・丹羽小四郎らと共に討死、康長は逃亡して軍は崩壊した。本願寺勢は勢いに乗じて天王寺砦を包囲・攻撃、窮地に陥った光秀・信栄らは、京都に滞在していた信長に援軍を要請した。 これを聞いた信長は諸国に動員令を出し、5日に100人の兵を率いて河内若江城に入った。しかし突然の命令だったため、兵力が集まらなかった。この時のことは次のように記されている。 五月五日、後詰として御馬を出だされ、明衣の仕立、僅か百騎ばかりにて若江に至つて御参陣。次日御逗留あつて、先手の様子をもきかせられ、御人数を揃へられ候といへども、俄懸の事に候間、相調はず、下々の者、人足以下中々相続かず、首々ばかり着陣候 —『信長公記』 6日、信長は軍勢の到着を待ったが、突然の出陣だったためあまり兵力が集まらなかった。天王寺砦からは「あと3、5日さえ持ちこたえるのは難しい」とたびたび知らせてきたため、信長はこのまま眼前で味方を攻め殺させて面目を失っては無念と考え、わずかな手勢で本願寺勢を強襲することを決定、翌日の7日、信長は3000ほどの兵で本願寺勢1万5千に突撃した。 陣立ては3段で、先陣は佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆、2番手は滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄ら、3番手は信長の馬廻りで、信長自身は先手の足軽に混じって指揮を取った。なおこの時、信長は荒木村重に先陣を任せようとしたが、村重は木津方面の守備を引き受けるといって断った。後に荒木村重が裏切った時、信長は「荒木に先陣をさせなくてよかった」と回想したという(『信長公記』)。本願寺勢は鉄砲で防戦したが、織田軍はこれに突っ込んで敵陣を切り崩し、天王寺砦の守備隊と合流した。この際、信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷を負った。 合流されたとはいえ、本願寺勢は退却せず、陣形を立て直しつつあった。信長はそこへ再度攻撃をかける事を決める。家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由(いま敵が間近にいるのは天の与えた好機である)」と言い放ち、陣形を2段に立て直して突撃。本願寺勢を撃破し、更にこれを石山本願寺の木戸口まで追撃し、2700余りの敵を討ち取った。こうして織田軍の勝利で天王寺砦の戦いは終結した。 信長は大坂の10箇所に付城を作るよう命じ、佐久間信盛・信栄父子と松永久秀らを天王寺砦に入れると、6月5日に若江城に帰還した。翌6日、信長は京都に帰還している。
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戦況
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東海道を進軍する東軍に対して岐阜13万石を領有していた織田秀信は、岐阜城を中心に数箇所に陣を張っていた。これは、東軍がどこで木曽川を渡るかが推測できなかったためといわれている。このため、兵力が分散してしまっていた。 これに対し池田輝政は、兵力を集中しての突破を試みる。1600年(慶長5年)8月22日明け方、池田輝政が率いる東軍諸隊は、尾張国葉栗郡河田(現・一宮市)から美濃国羽栗郡河田島(現・各務原市)付近に進軍。木曽川を渡河する。これに対して西軍の織田軍は鉄砲隊で応戦する(河田木曽川渡河の戦い)。木曽川の渡河に成功した東軍諸隊は、8月22日昼、美濃国羽栗郡米野村(現・笠松町)で西軍織田家の百々綱家ら3千人と激突(米野の戦い)、陣を突破する。これに対して織田秀信は自ら出陣、羽栗郡印食(現・岐南町)で東軍を迎え撃つが敗退。岐阜城に戻る。 一方、福島正則は尾張国中島郡起(現・一宮市)から木曽川を渡河を行おうとしたが、西軍方の防御が堅固だったためさらに下流へ南下、東加賀野井から木曽川を渡河、旧加賀野井城(羽島市)を経由して北上し、竹ヶ鼻城を包囲する。城主の杉浦重勝は抵抗するが、頼りにしていた援軍の毛利広盛らが福島正則に降伏してしまったため重勝は降伏し、竹ヶ鼻城は落城する(竹ヶ鼻城の戦い)。 一説では、狼煙を合図に池田輝政の軍と福島正則の軍は同時に木曽川を渡河する手はずであったという。しかし、西軍側の挑発や、地元の有力者野々垣源兵衛が水先案内人として活躍したことから、池田輝政の軍が先行したという。 池田輝政の軍と福島正則の軍は合流し、岐阜城の南の荒田川河川敷に布陣する。 追いつめられた秀信は8月22日夜、大垣城と犬山城に救援要請を行う。そして、援軍到着まで岐阜城に篭城、岐阜城と援軍で挟み撃ちを考える。家臣からは残存兵力を岐阜城に集め、徹底篭城の意見もでたが、秀信は各武将に命じ、岐阜城とそれを守る稲葉山砦、権現山砦、瑞龍寺山砦と岐阜城への入り口などを固める。岐阜城は秀信と織田秀則、岐阜城へ向かう登山口4箇所には、津田藤三郎、木造長政、百々綱家らを布陣し、兵力を分散させる。 8月23日明け方、東軍は犬山城、大垣城からの援軍を警戒し、東の各務郡新加納村、長塚村、古市場村(現・各務原市)に山内一豊、有馬豊氏、戸川達安、堀尾忠氏らを配置、西の方県郡河渡(現・岐阜市)には田中吉政、藤堂高虎、黒田長政らを布陣させる。 8月23日朝、最初に瑞龍寺山砦へ浅野幸長ら攻撃を開始する。続いて井伊直政が稲葉山、権現山砦へ攻撃、城の登山口には福島正則らが殺到し、完全に岐阜城は包囲されてしまう。 この時、当てにしていた犬山城からの援軍は無かった。犬山城城主の石川貞清は、稲葉貞通、稲葉典通、稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らと籠城していたが、極秘に東軍の井伊直政に密書を送り、内応を約定していた。三成ら大垣城の増援は岐阜城に向かっていたが、高虎・長政らによって河渡で迎撃され敗走し、逆に東軍は垂井・赤坂まで侵攻した。 岐阜城は本丸以外は全て東軍に攻め落とされてしまう。秀信は最後まで抵抗したが、圧倒的な兵力の東軍に対し、秀信の周りの兵は数十人になってしまい、覚悟を決めた秀信は自害しようとするが、池田輝政の説得と家臣の木造長政らにの説得により、東軍に降伏する。こうして岐阜城はわずか1日で陥落した。秀信は降伏後下山して上加納の浄泉坊(現・円徳寺)で剃髪し、関ヶ原の戦い終結後に高野山へ入った。 石田三成は、岐阜城がわずか一日で陥落するとは想定していなかった。そのために対応が後手に周り、戦略を練り直さざるを得なくなったという。
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戦況
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「エーリヒ・ハルトマン」の記事における「戦況」の解説
東部戦線においてのドイツの戦闘機パイロットは、ハルトマンに限らず驚異的な戦果をあげている。太平洋戦争において日本やアメリカのトップエースで100機以上の撃墜記録を持つ者は極稀であるが、東部戦線でのドイツ空軍の戦闘機パイロットは、100機を撃墜してようやく一人前、一流と呼ばれるには150機からという世界だったのである。ハルトマンの先輩たちは、戦闘機の性能が絶対的に優位な期間に撃墜数を大きく伸ばしていたといえる。その理由には以下のものが挙げられる。 戦闘空域までの距離が短く一日に何度も出撃できた(対して海戦が大半を占めた太平洋戦線では、連日の出撃すら稀である) ソ連軍機の数はドイツ軍より多数であったが技術及び戦術的練度が低い上、地上部隊との直協任務を主体としており低空を飛んでいることが多いため、ベテランパイロットからすれば落としやすい相手だった。 ソ連軍機は雑多な機体の寄せ集めで旧式機が多く、それに対してドイツ軍機は、高性能のメッサーシュミットBf109でほぼ統一されていた。 東部戦線は陸上で至近距離の戦闘であり、撃墜された場合にも脱出、あるいは不時着し、徒歩で帰還可能であり、何度も再戦できた。機体についても回収可能であれば同様である。被弾した機体のパイロットもそれを意図して、飛行継続可能であっても早々に不時着し、それら機体も撃墜数として数えられた(対して太平洋戦線では、洋上で撃墜された場合、生還の可能性は極めて低い。被弾したパイロットも飛行継続可能であれば、何とか帰還しようとし、撃墜数には数えられない)。 それに対してハルトマンが実戦部隊に配属された1942年末には、ソ連も新鋭機を続々と投入するまでに盛り返しており、緒戦で高性能を誇ったBf109も徐々に陳腐化しており(新型機であるフォッケウルフ Fw190の実戦投入も行われた)、戦闘機の性能上の優位はそれほどなくなっていた。それにもかかわらずそれからわずか2年半で、20歳を過ぎたばかりの若年パイロットでありながら、Bf109を駆って352機撃墜という不滅の記録を達成したのである。 ただ、1.と4.の事情は1942年以降も同様であり、ハルトマンは初出撃の際、燃料切れで不時着し、また撃墜した敵機の破片を浴びてソ連戦線内に不時着してソ連兵に捕まったこともあるが、脱出して徒歩で生還して再戦の機会を得ている。
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戦況
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「ニューオーリンズの戦い」の記事における「戦況」の解説
1月8日、イギリス軍は3回に渡って攻撃するが、アメリカ軍に食い止められた。パクナム少将は3回目の攻撃で負傷したが、死亡する前に更なる攻撃命令を出した。アメリカ軍にはジャン・ラフィットと彼の仲間の海賊達が加わっていた。彼らはイギリス軍と同じ赤い服を着ていたため、判別が困難であった。そのため何人かの海賊はイギリスの小隊に紛れ込み、奇襲を仕掛けることができた。 アメリカ軍の損害 13人:死者 58人:負傷 イギリス軍の損害 約2,000人:死亡、負傷、捕虜 パクナム少将の死後指揮を継いだジョン・ランバート将軍は撤退を命じる。
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戦況
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「第二次リンカーンの戦い」の記事における「戦況」の解説
ストウ市から数マイルほど南西にリンカーンがあり、マーシャル軍はここから行進した。出陣がペルシュ伯爵に知られてしまい、彼の騎士たちは敵軍の強さについて議論をしたが、マーシャル軍の勢力は比較的小さいと予想した者たちは、攻撃的な作戦を提案した。すなわち、マーシャル軍はリンカーン市の城門に到達する前に野営地がある丘の上の開けた場所で戦おう、というのである。一方で、マーシャル軍が大規模なものであり危険だと予想したものたちは、より防衛的な案を提案した。すなわち、マーシャル軍が城門に到達するのを遅らせつつ、包囲攻撃も継続し、城を占拠して優位な立場を得ようというのである。意見の衝突は長く続かず、結局は防衛的な案が採用されることになった。 マーシャル軍は、城に最も近い城壁のある区画である、北門に進んだ。マーシャル軍の石弓部隊を率いる傭兵・ファルケ・ド・ブレント(en:Falkes de Breauté)の襲撃により、門を開かせた。ペルシェ伯爵の軍はこれに対応せず、城への包囲攻撃を続けたいたという。 北門がマーシャル軍の主力によって確保されると、ブレントの石弓部隊が建物の屋根の上に陣取り、高所を押さえてしまった。高所からの石弓による一斉射撃は、速やかに敵軍を殺していき、ペルシュ軍に損害と混乱をもたらした。ペルシュ伯爵は降伏を勧告されたけれど、包囲作戦を崩壊させたからと死ぬまで戦うのであった。ルイ軍のうち、捕虜とされなかったものたちは南の門からリンカーンから逃げてロンドンに向かった。戦闘終了まで、およそ6時間ほどを要した。
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戦況
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唐と新羅は、同盟を結び、660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。しかし、唐は、百済の地に熊津都督府を、高句麗の地には安東都護府を設け、さらに新羅も鶏林州都督府として、新羅の文武王自身も鶏林州大都督とし、朝鮮半島全体を支配しようとした。このため唐と新羅は対立するようになった。文武王は、高句麗遺民の高句麗復興運動を支援した。670年3月、高句麗遺民軍と新羅軍が鴨緑江を渡り唐軍を攻撃し、戦争が始まった。また、新羅は高句麗の安勝を高句麗王にした。 新羅は、百済地域の唐軍も攻撃し82個城を奪い、671年には泗沘城を陥落させ、所夫里州を設置して、百済地域を占領した。671年10月、百済に向かっていた薛仁貴が率いる唐の水軍が、黄海で新羅の水軍に敗れた。 一方672年7月、唐軍と靺鞨軍が平壌を占領し、8月には韓始城と馬邑城も占領した。高句麗復興軍と新羅軍は、672年12月に白氷山で唐軍に敗れた。673年には瓠瀘河でも唐軍に敗れ、高句麗復興運動は衰えた。新羅は674年に安勝を百済地域に設けた報徳国の王とした。 674年1月、唐の高宗は文武王の冊封を取り消し、代わりに文武王の弟の金仁問(朝鮮語版)を新羅王に冊封した。文武王は、675年2月に謝罪使を派遣し、元の状態に戻った。 675年9月に新羅軍は、泉城で唐の薛仁貴の軍を破り、買肖城戦闘(朝鮮語版)でも李謹行の軍を破った。さらに、676年11月、新羅の水軍が錦江河口の伎伐浦海戦(朝鮮語版)で薛仁貴の水軍を破る。唐は、熊津都督府と安東都護府を遼東に移し、朝鮮半島から撤退した。この結果、新羅が勝利するようになり、朝鮮半島の三国統一をした。新羅は、戦争中も唐との朝貢冊封関係を維持し、唐の年号を使い続けていた。
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戦況
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1600年8月21日、池田輝政、浅野幸長、山内一豊率いる東軍1万8千人は美濃国羽栗郡河田島村(現・各務原市)付近に進軍。木曽川を渡り岐阜城へと向かおうとしていた。 これに対し岐阜城城主織田秀信は、羽栗郡米野村(現・笠松町)に百々綱家、飯沼長資らを配置、さらに、羽栗郡中屋村、各務郡新加納村(現・各務原市)、厚見郡川手村(現・岐阜市)にも布陣し、二重の防戦網を張った。総数9千人だったという。 8月22日明方、池田輝政ら率いる東軍は木曽川を渡河、西軍は鉄砲隊で応戦した(河田木曽川渡河の戦い)。 8月22日昼、両軍は米野村で激突する。 西軍は9千人を擁していたとはいえ、米野村には3千人程しか布陣していなかった。二重の防戦網を引いたのが敗戦の原因となった。 これに対して東軍は1万8千人と、戦力差は歴然としていた。その日の夕方には戦いは終わり、飯沼長資は戦死、百々綱家ら残存兵は岐阜城へ後退する。 東軍は岐阜城へ向かい、翌8月23日、岐阜城は落城する事になる。 河田木曽川渡河の戦いと、米野の戦いは、同じ8月22日の戦いで、同じ戦いとされているが、東軍の木曽川渡河を防ぐ戦いが河田木曽川渡河の戦い、東軍と織田秀信の最前線の軍との戦いが米野の戦いと解釈されている。
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戦況
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淡路守護の細川尚春が総大将となり兵庫に上陸との連絡が入ると、鷹尾城の正頼は高国に注進、高国は馬廻衆として、柳本宗雄、波多野元清、能勢頼豊、荒木大輔ら30余名と援軍3千を派兵して芦屋浜に布陣、正頼は鷹尾城を中心に山方を固めた。尚春軍には灘五郷の地侍衆が加わり、7月26日に戦闘が開始された。高国の援軍は芦屋川の河原で衝突し、正頼は山方で戦闘になったようである。この時の戦闘の様子は「マクツマクラリツ、逐ツヲワレ花火ヲチラシ戦」(『瓦林政頼記』)とありかなりの激戦であった。またこの時正頼の一族と思われ、澄元方に与していた瓦林新五郎なる人物が鷹尾城へ詰め、外城を落城させたことにより、澄元から感状が賞されている。本城は山頂にあった主郭部分(鷹尾山城)、山麓には外構え(芦屋城)が形成されていたとしている。鷹尾城の外城は落城したが、正頼は勝ち抜き、尚春軍の200余人を討ち取った。その後追撃戦となり有馬郡湯原村まで追い立てた。 一方、隣国播磨の守護であった赤松義村は義母の洞松院が細川勝元の娘であったことから、澄元方に付いていた。また澄元の兄の阿波守護細川之持は義村の姉婿という縁もあり、高国とは敵対関係にあった。そのような間柄により澄元は援軍を要請、8月上旬に義村は御着城を出立し加古川周辺で軍勢を整え、敗残していた尚春・灘五郷連合軍と大蔵谷周辺で合流、8月5日に兵庫浦に到着した。この時の総数は2万ほどであった。 8月8日には鷹尾城を包囲、翌9日より戦闘が開始されたようである。赤松軍は「さかしき谷、高き岸ともいわず」(『細川両家記』)「息もさせず」(『瓦林政頼記』)攻め立てたとある。戦闘は10日間続き、城方は何回も応戦したが死傷者が3千名出た。翌11日には火攻めがあるという噂が流れ、正頼は開城を決意、10日夜に城兵を引き連れて伊丹元扶の拠る伊丹城に退却した。
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戦況
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「河田木曽川渡河の戦い」の記事における「戦況」の解説
池田輝政、浅野幸長、山内一豊率いる東軍1万8千人は、美濃国羽栗郡河田島村(現・各務原市川島河田町)まで進軍し、木曽川を目前としていた。これに対し、岐阜城城主織田秀信は、百々綱家、飯沼長資らを羽栗郡米野村(現・笠松町)に配置した。織田秀信の作戦は、米野村で撃破し、さらに羽栗郡中屋村、各務郡新加納村(現・各務原市)、厚見郡川手村(現・岐阜市)で残党を撃破するものであった。西軍は総勢9千人であった。 1600年8月22日明方、池田輝政率いる東軍は木曽川渡河を決行。西軍は鉄砲隊を中心に撃破を試みたが、東軍は木曽川の中洲の小屋場島(現・各務原市)まで進軍し、陣を張る。そして対岸の米野村に進軍を開始する。 同日昼、両軍は米野村で激突する。(米野の戦い)
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戦況
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6月29日、ロシア海軍の拠点セヴァストポリを発したマルコ・イヴァノビッチ・ヴォイノビッチ(ロシア語版、英語版)海軍少将率いるロシア艦隊は、7月10日、大提督カプダン・パシャ(トルコ語版、英語版)に率いられたトルコ艦隊を北西に発見した。このトルコ艦隊は同日テンドラ島に入った。ロシア艦隊が3日にわたり動き回ったのち、キンバーン(英語版)の南方およそ100マイルにあるフィドニシ島付近でトルコ艦隊を捕捉した。 ヴォイノビッチは北東側の左舷を開く陣形をとると、風向きが南東方向へ変化した。これに耐えたトルコ艦隊は、3時以降風上から攻撃し始めた。ロシア艦隊旗艦のフリゲートBerislavとStryelaはトルコ艦隊の陣形を崩そうと試みたが、逆に船団を分断されかける危機に陥った。そこでSv. Pavel(ロシア語版)に乗っていた副司令官フョードル・ウシャコフが艦列の隙を埋めた。 トルコ艦隊のジェリザイルリ・ガーズィ・ハサン・パシャはロシア艦隊の旗艦を攻撃、彼の麾下の海軍中将や少将はヴォイノビッチを狙った。しかし乗船が損傷し、彼は5時前に戦線離脱を余儀なくされ、他の艦船もこれに従って撤退した。トルコ艦隊は1隻のジーベックを失った。 15日から17日にかけて、ロシアとトルコの艦隊は西方のクリミアへ移動した。18日、トルコ艦隊は姿を消して包囲下のオチャーコフ(ロシア語版、英語版)に入港した。この後オチャーコフはロシア軍により陥落し、ハサン・パシャらは捕虜となった。(オチャーコフ攻囲戦 (1788年))
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