戦況とは? わかりやすく解説

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せん‐きょう〔‐キヤウ〕【戦況】

読み方:せんきょう

戦争・戦闘状況。戦状。

「戦況」に似た言葉

戦況

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 03:35 UTC 版)

越前一向一揆」の記事における「戦況」の解説

1月19日、長繁は自ら一揆衆の大将として出陣し一乗谷城攻略取り掛かった城主桂田長俊はこの時失明していて指揮が執れず、さらに一揆兵力が3以上と大軍だったことや、長繁の腹心である毛屋猪介活躍もあり、さしたる抵抗できないまま討死した。息子の新七郎一族城外逃亡したが、翌20日には捕捉され皆殺しにされた。 一揆衆は1月21日には信長府中の旧朝倉土佐守館に置いていた三人奉行木下祐久津田元嘉三沢秀次溝尾茂朝)を攻めたが、安居景健朝倉景健)が間に入って調停したため和睦三人越前出て岐阜向かった1月24日、長繁はさらに策謀巡らし桂田成敗の宴を開くと称して有力者である魚住景固を自らの居城である龍門寺城に招き次男魚住彦四郎もろとも謀殺した。翌日には鳥羽野城攻めて景固の嫡男彦三郎も討ち取って魚住一族滅亡させた。しかし、敵対関係になかった魚住一族無闇に滅亡追い込んだことで、一揆衆の長繁に対す不信感生じたという。加えて同時期、長繁が信長に対して自らの越前守任命引き換え実弟人質差し出して恭順する、と誼を通じたという風聞立ったこともそれに拍車をかける結果となった(『越州軍記』)。 そして、一揆衆は長繁と手を切り加賀国から一向一揆指導者である七里頼周杉浦玄任招き、自勢力首領とした。杉浦玄任坊官ありながら越中において、総大将として一揆軍率い上杉謙信戦った武将であった尻垂坂の戦いでは謙信敗れたが、五福山や日宮城上杉方に勝利を収めていた他、朝倉義景とも戦っており、実績も十分であった一揆衆の中に相当数浄土真宗本願寺教団一向宗)の門徒がおり、彼らの意見通ったのである。こうして富田長繁大将とする土一揆は、そのまま七里頼周大将とする一向一揆変貌した2月13日一揆勢は先制攻撃をかけ、長繁の家臣である増井甚内助が守る片山館、毛屋猪介が守る旧朝倉土佐守館などを攻略二人滅ぼした2月16日には長繁も反撃に出、帆山河原一揆勢3をわずか700の兵で敗走させている。 翌2月17日には長繁は府中町衆や一一揆指導的立場にある浄土真宗本願寺派一向宗)と対立する真宗高田派専修寺派)・真宗三門徒派等と手を結び北ノ庄城奪取狙い北上対して七里頼周杉浦玄任も長繁を討つべく北ノ庄方面より集められ一揆5万人を差し向け両者浅水辺り激突した。このとき、長繁勢は一揆衆より兵力では圧倒的に劣勢であった奮戦して一揆勢の先鋒崩壊させ、潰走する一揆勢を散々に打ち破った(『越州軍記』)。次いで17日夕刻、長繁は浅水合戦参戦せず傍観していた安居景健朝倉景胤らを敵対者見なし、彼らの拠る長泉寺山の砦に攻撃仕掛けた。しかし、一揆衆との合戦の影響疲弊した長繁勢はさしたる戦果挙げられなかった。長繁は翌18日再度総攻撃下知したものの、無謀な合戦を強いる長繁に対して配下の不満と不信高まり18日早朝からの合戦最中、長繁は配下小林吉隆裏切られ背後から鉄砲撃たれ討死、長繁勢は瓦解した。その首は19日一揆軍司令官一人である杉浦玄任の陣に届き竜沢寺首実検が行われた。またこの日、一揆勢は白山信仰拠点であった豊原寺降伏させて味方につけている。 4月に入ると、一揆衆の攻撃勢い増し江城(別名金津城、溝江館)を落城させ、溝江景逸溝江長逸溝江氏一族舎弟妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前英勝および小泉藤左衛門藤崎内蔵助市川佐助とともに自害し果てた(長逸の一子溝江長澄だけは溝江城から脱出した)。 4月14日一揆勢は土橋信鏡朝倉景鏡)の居城である亥山城攻撃、信鏡は城を捨てて平泉寺立て籠もったが、平泉寺放火されて衆徒壊滅。信鏡は逃亡図ったものの、最期わずかな家臣とともに敵中突撃討死した(『朝倉始末記』)。 5月には織田城の織田景綱朝倉景綱)を攻撃する景綱奮戦した寡兵であったことから夜陰乗じて家臣見捨て妻子だけを連れて敦賀逃走した。こうして、朝倉旧臣団は一向一揆通じた安居景健朝倉景胤など一部の将を除いてことごとく滅ぼされ越前加賀続いて百姓持ちたる国」となった

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戦況

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 17:36 UTC 版)

天王寺の戦い (1576年)」の記事における「戦況」の解説

信長本願寺挙兵危機感強め佐久間信盛明智光秀塙直政細川藤孝筒井順慶中川清秀高山右近荒木村重らを摂津方面出兵させた。この時、信長光秀宛て送った書状現存している。 其表の麦悉く捨て候哉。猶以て油断無く申付くべき事専一に候。然して隙を明け候はば、大坂籠城男女の事は相免ずべき候間、早々罷出ずべきの旨、口々に立札然るべく候。坊主下用にも立ち候者をば、赦免すべからず候。其意をなすべく候本願寺周辺の麦を薙ぎ捨てよ(刈畠)、油断ないようにせよという他、「一般信徒男女赦免するので城を出るべきである」という立て札立てよ、という点がこれまでの長島一向一揆越前一向一揆への対応とは全く異なる。ただし指導者である坊主は許すな(=殺せ)と命じている。 4月14日信長は、荒木村重には尼崎から海上通って北の野田に3箇所明智光秀細川藤孝らは南東守口河内の2箇所に、塙直政は南の天王寺に1箇所それぞれ砦を築かせ、本願寺包囲強めようとした。一方本願寺側はの岸・木津の2箇所に砦があり、難波方面への水路確保していた。信長はこれを断つため木津砦を攻撃する事を決め天王寺砦に佐久間信盛嫡男佐久間信栄光秀入れ置いた5月3日早朝織田軍は木津攻撃をかける。陣立て先陣三好康長根来衆和泉衆、2番手が塙直政大和衆・山城衆である。しかし、の岸砦から本願寺勢・約1万討って出てきて、織田軍を包囲しつつ数千丁の鉄砲銃撃加えた精強鉄砲隊雑賀衆味方していた)。直政軍勢がこの攻撃引き受けて数刻の間戦ったが敵に囲まれ直政一族塙安弘・塙小七郎浦無右衛門丹羽小四郎と共に討死、康長は逃亡して軍は崩壊した本願寺勢は勢い乗じて天王寺砦を包囲・攻撃窮地陥った光秀・信栄らは、京都滞在していた信長援軍要請した。 これを聞いた信長諸国動員令を出し5日100人の兵を率いて河内若江城入った。しかし突然の命令だったため、兵力が集まらなかった。この時のことは次のように記されている。 五月五日後詰として御馬を出だされ、明衣仕立、僅か百騎ばかりに若江に至つて御参陣。次日御逗留あつて、先手様子をもきかせられ御人数を揃へられ候といへども、俄懸の事に候間、相調はず、下々の者、人足下中相続かず、首々ばかり着陣候 —『信長公記6日信長軍勢到着待ったが、突然の出陣だったためあまり兵力が集まらなかった。天王寺砦からは「あと3、5日さえ持ちこたえるのは難しい」とたびたび知らせてきたため、信長このまま眼前味方攻め殺させて面目失って無念考えわずかな手勢本願寺勢を強襲することを決定翌日7日信長3000ほどの兵で本願寺1万5千に突撃した陣立て3段で、先陣佐久間信盛松永久秀細川藤孝若江衆、2番手は滝川一益蜂屋頼隆羽柴秀吉丹羽長秀稲葉一鉄ら、3番手は信長馬廻りで、信長自身先手足軽混じって指揮取った。なおこの時、信長荒木村重先陣任せようとしたが、重は木津方面守備引き受けといって断った。後に荒木村重裏切った時、信長は「荒木先陣をさせなくてよかった」と回想したという(『信長公記』)。本願寺勢は鉄砲防戦したが、織田軍はこれに突っ込んで敵陣切り崩し天王寺砦の守備隊合流したこの際信長は敵の鉄砲を足に受けて軽傷負った合流されたとはいえ本願寺勢は退却せず、陣形立て直しつつあった。信長はそこへ再度攻撃をかける事を決める。家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由(いま敵が間近にいるのは天の与え好機である)」と言い放ち陣形2段立て直して突撃本願寺勢を撃破し、更にこれを石山本願寺木戸口まで追撃し2700余りの敵を討ち取った。こうして織田軍の勝利天王寺砦の戦い終結した信長大坂10箇所付城作るよう命じ佐久間信盛・信栄父子松永久秀らを天王寺砦に入れると、6月5日若江城帰還した。翌6日信長京都帰還している。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 05:29 UTC 版)

岐阜城の戦い」の記事における「戦況」の解説

東海道進軍する東軍に対して岐阜13万石領有していた織田秀信は、岐阜城中心に箇所に陣を張っていた。これは、東軍がどこで木曽川を渡るかが推測できなかったためといわれている。このため兵力分散してしまっていた。 これに対し池田輝政は、兵力集中して突破試みる。1600年慶長5年8月22日明け方池田輝政率い東軍諸隊は、尾張国葉栗郡河田(現・一宮市)から美濃国羽栗郡河田島(現・各務原市付近に進軍木曽川渡河する。これに対して西軍織田軍は鉄砲隊応戦する河田木曽川渡河の戦い)。木曽川渡河成功した東軍諸隊は、8月22日昼、美濃国羽栗郡米野村(現・笠松町)で西軍織田家百々綱家ら3千人激突米野の戦い)、陣を突破する。これに対して織田秀信は自ら出陣羽栗郡印食(現・岐南町)で東軍迎え撃つ敗退岐阜城に戻る。 一方福島正則尾張国中島郡起(現・一宮市)から木曽川渡河行おうとしたが、西軍方の防御堅固だったためさらに下流南下東加賀野井から木曽川渡河、旧加賀野井城羽島市)を経由して北上し竹ヶ鼻城包囲する城主杉浦重勝抵抗するが、頼りにしていた援軍毛利広盛らが福島正則降伏してしまったため重勝は降伏し竹ヶ鼻城落城する(竹ヶ鼻城の戦い)。 一説では、狼煙合図池田輝政の軍と福島正則の軍は同時に木曽川渡河する手はずであったという。しかし、西軍側の挑発や、地元有力者野々垣源兵衛水先案内人として活躍したことから、池田輝政の軍が先行したという。 池田輝政の軍と福島正則の軍は合流し岐阜城の南の荒田川河川敷布陣する。 追いつめられた秀信は8月22日夜、大垣城犬山城救援要請を行う。そして、援軍到着まで岐阜城篭城岐阜城援軍挟み撃ち考える。家臣からは残存兵力岐阜城集め徹底篭城意見もでたが、秀信は各武将命じ岐阜城とそれを守る稲葉山砦、権現山砦、瑞龍寺山砦岐阜城への入り口などを固める。岐阜城は秀信と織田秀則岐阜城へ向かう登山口4箇所には、津田藤三郎、木造長政百々綱家らを布陣し兵力分散させる8月23日明け方東軍犬山城大垣城からの援軍警戒し、東の各務郡新加納長塚村古市場村(現・各務原市)に山内一豊有馬豊氏戸川達安堀尾忠氏らを配置、西の方県郡河渡(現・岐阜市)には田中吉政藤堂高虎黒田長政らを布陣させる。 8月23日朝、最初に瑞龍寺山砦浅野幸長攻撃開始する続いて井伊直政稲葉山権現山砦へ攻撃、城の登山口には福島正則らが殺到し、完全に岐阜城包囲されてしまう。 この時、当てにしていた犬山城からの援軍無かった犬山城城主石川貞清は、稲葉貞通稲葉典通稲葉方通加藤貞泰関一政竹中重門らと籠城していたが、極秘東軍井伊直政密書送り内応約定していた。三成大垣城増援岐阜城向かっていたが、高虎長政らによって河渡迎撃され敗走し逆に東軍垂井赤坂まで侵攻した岐阜城本丸以外は全て東軍攻め落とされてしまう。秀信は最後まで抵抗したが、圧倒的な兵力東軍対し、秀信の周りの兵は数十になってしまい、覚悟決めた秀信は自害しようとするが、池田輝政説得家臣木造長政らにの説得により、東軍降伏する。こうして岐阜城はわずか1日陥落した。秀信は降伏後下山し上加納の浄泉坊(現・円徳寺)で剃髪し関ヶ原の戦い終結後高野山入った石田三成は、岐阜城がわずか一日陥落するとは想定していなかった。そのために対応が後手周り戦略練り直さざるを得なくなったという。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:20 UTC 版)

エーリヒ・ハルトマン」の記事における「戦況」の解説

東部戦線においてのドイツ戦闘機パイロットは、ハルトマン限らず驚異的な戦果をあげている。太平洋戦争において日本アメリカのトップエースで100機以上の撃墜記録を持つ者は稀であるが、東部戦線でのドイツ空軍戦闘機パイロットは、100機を撃墜してようやく一人前一流呼ばれるには150機からという世界だったのであるハルトマン先輩たちは、戦闘機性能絶対的に優位な期間に撃墜数を大きく伸ばしていたといえる。その理由には以下のものが挙げられる戦闘空域までの距離が短く一日何度も出撃できた(対して海戦大半占めた太平洋戦線では、連日出撃すら稀である) ソ連軍機の数はドイツ軍より多数であった技術及び戦術的練度が低い上、地上部隊との直協任務主体としており低空飛んでいることが多いため、ベテランパイロットからすれば落としやすい相手だった。 ソ連軍機は雑多な機体寄せ集め旧式機が多く、それに対してドイツ軍機は、高性能メッサーシュミットBf109でほぼ統一されていた。 東部戦線陸上至近距離戦闘であり、撃墜され場合にも脱出、あるいは不時着し徒歩帰還可能であり、何度も再戦できた。機体についても回収可能であれば同様である。被弾し機体パイロットもそれを意図して飛行継続可能であっても早々に不時着し、それら機体撃墜数として数えられた(対して太平洋戦線では、洋上撃墜され場合生還可能性極めて低い。被弾しパイロット飛行継続可能であれば、何とか帰還しようとし、撃墜数には数えられない)。 それに対してハルトマン実戦部隊配属され1942年末には、ソ連新鋭機を続々投入するまでに盛り返しており、緒戦高性能誇ったBf109徐々に陳腐化しており(新型機であるフォッケウルフ Fw190実戦投入行われた)、戦闘機性能上の優位それほどなくなっていた。それにもかかわらずそれからわずか2年半で、20歳過ぎたばかりの若年パイロットありながらBf109駆って352撃墜という不滅記録達成したのである。 ただ、1.と4.の事情1942年以降も同様であり、ハルトマン初出撃の際、燃料切れ不時着し、また撃墜した敵機破片浴びてソ連戦線内に不時着しソ連兵捕まったこともあるが、脱出して徒歩生還して再戦機会得ている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 08:47 UTC 版)

ニューオーリンズの戦い」の記事における「戦況」の解説

1月8日イギリス軍3回渡って攻撃するが、アメリカ軍食い止められた。パクナム少将3回目攻撃負傷したが、死亡する前に更なる攻撃命令出したアメリカ軍にはジャン・ラフィット彼の仲間海賊達加わっていた。彼らはイギリス軍と同じ赤い服を着ていたため、判別が困難であった。そのため何人かの海賊イギリス小隊紛れ込み奇襲仕掛けることができた。 アメリカ軍損害 13人:死者 58人:負傷 イギリス軍損害 約2,000人:死亡負傷捕虜 パクナム少将死後指揮継いだジョン・ランバート将軍撤退命じる。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/18 21:44 UTC 版)

第二次リンカーンの戦い」の記事における「戦況」の解説

ストウ市から数マイルほど南西リンカーンがあり、マーシャル軍はここから行進した出陣ペルシュ伯爵知られてしまい、彼の騎士たちは敵軍強さについて議論をしたが、マーシャル軍の勢力比較小さいと予想した者たちは、攻撃的な作戦提案した。すなわち、マーシャル軍はリンカーン市の城門到達する前に野営地がある丘の上開けた場所戦おう、というのである一方でマーシャル軍が大規模なものであり危険だ予想したものたちは、より防衛的な案を提案した。すなわち、マーシャル軍が城門到達するのを遅らせつつ、包囲攻撃継続し、城を占拠して優位な立場得ようというのである意見衝突長く続かず結局は防衛的な案が採用されることになったマーシャル軍は、城に最も近い城壁のある区画である、北門進んだマーシャル軍の石弓部隊率い傭兵・ファルケ・ド・ブレント(en:Falkes de Breauté)の襲撃により、門を開かせた。ペルシェ伯爵の軍はこれに対応せず、城への包囲攻撃続けたいたという。 北門マーシャル軍の主力によって確保されると、ブレント石弓部隊建物屋根の上に陣取り高所押さえてしまった。高所からの石弓による一斉射撃は、速やかに敵軍殺していき、ペルシュ軍に損害混乱もたらしたペルシュ伯爵降伏勧告されたけれど、包囲作戦崩壊させたからと死ぬまで戦うのであったルイ軍のうち、捕虜とされなかったものたちは南の門からリンカーンから逃げてロンドン向かった戦闘終了まで、およそ6時間ほどを要した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:55 UTC 版)

唐・新羅戦争」の記事における「戦況」の解説

唐と新羅は、同盟を結び、660年百済を、668年高句麗滅ぼした。しかし、唐は、百済の地に熊津都督府を、高句麗の地には安東都護府設け、さらに新羅鶏林州都督府として、新羅文武王自身鶏林大都督とし、朝鮮半島全体支配しようとした。このため唐と新羅対立するようになった文武王は、高句麗遺民高句麗復興運動支援した670年3月高句麗遺民軍と新羅軍が鴨緑江渡り唐軍攻撃し戦争始まったまた、新羅高句麗の安勝を高句麗王にした。 新羅は、百済地域唐軍攻撃し82個城を奪い671年には泗沘城を陥落させ、所夫里州を設置して百済地域占領した671年10月百済向かっていた薛仁貴率いる唐の水軍が、黄海新羅水軍敗れた一方672年7月唐軍靺鞨軍が平壌占領し8月には韓始城と馬邑城も占領した高句麗復興軍新羅軍は、672年12月白氷山で唐軍敗れた673年には瓠瀘河でも唐軍敗れ高句麗復興運動衰えた新羅674年に安勝を百済地域設けた報徳国の王とした。 674年1月、唐の高宗文武王冊封取り消し代わりに文武王の弟の金仁問(朝鮮語版)を新羅王冊封した。文武王は、675年2月謝罪使を派遣し、元の状態に戻った675年9月新羅軍は、泉城で唐の薛仁貴の軍を破り、買肖城戦闘(朝鮮語版)でも李謹行の軍を破った。さらに、676年11月新羅水軍錦江河口の伎伐浦海戦朝鮮語版)で薛仁貴水軍を破る。唐は、熊津都督府安東都護府遼東移し朝鮮半島から撤退した。この結果新羅勝利するようになり、朝鮮半島三国統一をした。新羅は、戦争中も唐との朝貢冊封関係を維持し、唐の年号使い続けていた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 03:02 UTC 版)

米野の戦い」の記事における「戦況」の解説

1600年8月21日池田輝政浅野幸長山内一豊率い東軍1万8千人美濃国羽栗郡河田島村(現・各務原市付近に進軍木曽川渡り岐阜城へと向かおうとしていた。 これに対し岐阜城城主織田秀信は、羽栗郡米野村(現・笠松町)に百々綱家飯沼長資らを配置、さらに、羽栗郡中屋村各務郡新加納(現・各務原市)、厚見郡川手(現・岐阜市)にも布陣し二重の防戦網を張った総数9千人だったという。 8月22日明方、池田輝政率い東軍木曽川渡河西軍鉄砲隊応戦した河田木曽川渡河の戦い)。 8月22日昼、両軍米野村激突する西軍は9千人擁していたとはいえ米野村には3千人程しか布陣していなかった。二重の防戦網を引いたのが敗戦原因となった。 これに対して東軍1万8千人と、戦力差は歴然としていた。その日夕方には戦い終わり飯沼長資戦死百々綱家残存兵は岐阜城後退する東軍岐阜城向かい、翌8月23日岐阜城落城する事になる。 河田木曽川渡河の戦いと、米野の戦いは、同じ8月22日戦いで、同じ戦いとされているが、東軍木曽川渡河を防ぐ戦い河田木曽川渡河の戦い東軍織田秀信最前線の軍との戦い米野の戦い解釈されている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 08:08 UTC 版)

芦屋河原の合戦」の記事における「戦況」の解説

淡路守護の細川尚春総大将となり兵庫上陸との連絡が入ると、鷹尾城正頼高国注進高国馬廻衆として、柳本宗雄、波多野元清能勢頼豊、荒木大輔30余名援軍3千を派兵し芦屋浜に布陣正頼鷹尾城中心に山方固めた。尚春軍には灘五郷地侍衆が加わり7月26日戦闘開始された。高国援軍芦屋川河原衝突し正頼山方戦闘になったようである。この時の戦闘の様子は「マクツマクラリツ、逐ツヲワレ花火ヲチラシ戦」(『瓦林政頼記』)とありかなりの激戦であった。またこの時正頼の一族思われ、澄元方与していた瓦林新五郎なる人物鷹尾城詰め外城落城させたことにより、澄元から感状賞されている。本城山頂にあった主郭部分(鷹尾山城)、山麓には外構え芦屋城)が形成されていたとしている。鷹尾城外城落城したが、正頼勝ち抜き、尚春軍の200余人討ち取ったその後追撃戦となり有馬郡湯原村まで追い立てた一方隣国播磨守護であった赤松義村義母洞松院細川勝元の娘であったことから、澄元方付いていた。また澄元の兄の阿波守護細川之持は義姉婿という縁もあり、高国とは敵対関係にあったそのような間柄により澄元は援軍要請8月上旬に義御着城出立し加古川周辺軍勢整え敗残していた尚春・灘五郷連合軍大蔵谷周辺合流8月5日兵庫浦に到着した。この時の総数は2ほどであった8月8日には鷹尾城包囲、翌9日より戦闘開始されたようである。赤松軍は「さかしき谷、高き岸ともいわず」(『細川両家記』)「息もさせず」(『瓦林政頼記』)攻め立てたとある。戦闘10日続き城方何回応戦した死傷者が3千名出た。翌11日には火攻めがあるという噂が流れ正頼開城決意10日夜に城兵引き連れて伊丹元扶拠る伊丹城退却した

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 05:05 UTC 版)

河田木曽川渡河の戦い」の記事における「戦況」の解説

池田輝政浅野幸長山内一豊率い東軍1万8千人は、美濃国羽栗郡河田島村(現・各務原市川島河田町)まで進軍し木曽川目前としていた。これに対し岐阜城城主織田秀信は、百々綱家飯沼長資らを羽栗郡米野村(現・笠松町)に配置した織田秀信作戦は、米野村撃破し、さらに羽栗郡中屋村各務郡新加納(現・各務原市)、厚見郡川手(現・岐阜市)で残党撃破するものであった西軍総勢9千人であった1600年8月22日明方、池田輝政率い東軍木曽川渡河決行西軍鉄砲隊中心に撃破試みたが、東軍木曽川中洲小屋場島(現・各務原市)まで進軍し、陣を張る。そして対岸米野村進軍開始する同日昼、両軍米野村激突する。(米野の戦い

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フィドニシの戦い」の記事における「戦況」の解説

6月29日ロシア海軍拠点セヴァストポリ発したマルコ・イヴァノビッチ・ヴォイノビッチ(ロシア語版英語版海軍少将率いロシア艦隊は、7月10日大提督カプダン・パシャ(トルコ語版、英語版)に率いられトルコ艦隊北西発見した。このトルコ艦隊同日テンドラ島に入ったロシア艦隊3日にわたり動き回ったのち、キンバーン(英語版)の南方およそ100マイルにあるフィドニシ島付近トルコ艦隊捕捉した。 ヴォイノビッチは北東側左舷を開く陣形をとると、風向き南東方向変化した。これに耐えたトルコ艦隊は、3時以降風上から攻撃し始めたロシア艦隊旗艦フリゲートBerislavとStryelaはトルコ艦隊陣形崩そう試みたが、逆に船団分断されかける危機陥った。そこでSv. Pavelロシア語版)に乗っていた副司令官フョードル・ウシャコフが艦列の隙を埋めたトルコ艦隊のジェリザイルリ・ガーズィ・ハサン・パシャはロシア艦隊旗艦攻撃彼の麾下海軍中将少将はヴォイノビッチを狙った。しかし乗船損傷し、彼は5時前に戦線離脱余儀なくされ、他の艦船もこれに従って撤退したトルコ艦隊は1隻のジーベック失った15日から17日にかけて、ロシアトルコ艦隊西方クリミア移動した18日トルコ艦隊姿を消して包囲下のオチャーコフ(ロシア語版英語版)に入港したこの後オチャーコフはロシア軍により陥落しハサン・パシャらは捕虜となった。(オチャーコフ攻囲戦 (1788年)

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