戦況と日本の講和条件案
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1894年(明治27年)9月の黄海海戦と平壌陥落によって、朝鮮半島を軍事的に確保するという日本側の第一期作戦が勝利のうちに終了し、第二期作戦は直隷平野すなわち華北平原での決戦をめざして、10月以降、山県有朋率いる帝国陸軍第一軍は鴨緑江渡河作戦、大山巌率いる第二軍は遼東半島攻略作戦へと乗り出した。なお、当初計画では直隷決戦に際し、広島大本営を前線へと移動させ、天皇も大本営とともに清国に渡るという構想が立てられていたが、天皇による親征は現実的でないことから大本営の作戦部門だけを「征清大総督府」として派遣することに変更された。 一方、清国では摂政体制を布いていた西太后が講和に傾斜しつつあり、また、西太后の夫咸豊帝の弟で10年来政治から離れていた恭親王奕訢が総署大臣に返り咲いて、戦争終結のため、諸外国に調停を打診すべく行動を始めた。 10月8日、清国との通商を重んじるイギリスは、戦火が清国全土に拡大するのを怖れて、駐日公使のパワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチを通じて日本政府に仲裁を提起した。それは、「日本国政府ハ各国ニテ朝鮮ノ独立ヲ担保スルコト及軍費トシテ日本国ヘ償金ヲ払フコトヲ以テ媾和(こうわ)ノ条件トシテ承諾スヘキヤ」という講和の打診であった。すなわち、朝鮮の独立を各国が保証し、賠償金の支払いを清国に求めるというもので、イギリスはこれをロシアとの共同勧告というかたちにすることによってロシアを牽制することを企図していた。これは、日本政府が講和条件を検討する端緒となり、第2次伊藤内閣の外務大臣陸奥宗光は、内閣総理大臣の伊藤博文とも協議のうえ、取り急ぎ、講和条件として甲・乙・丙の3案を起草した。それは、 甲案1. 清国をして朝鮮の独立を確認せしめ、かつ朝鮮の内政に干渉せざる永久の担保として旅順口および大連湾を日本に割与せしむる事 2. 清国をして軍費を日本に償還せしむる事 3. 清国はその欧州各国と締結せる現行条約を基礎とし、日本と新条約を締結すべき事 以上の条件を実行するまで清国は日本政府に向かい充分の担保を与うべき事 乙案1. 各強国にて朝鮮の独立を担保する事 2. 清国は台湾全島を日本に割与すべき事 その他の条款はまさに甲案に同じ 丙案日本政府がいかなる条件により、戦争の息止を承諾すべきかを確言する前、先ず清国政府の意向を承知するを要す というものであった。 3案のうち、甲・乙の両案は李氏朝鮮の独立とともに賠償金と領土割譲について言及しており、賠償金額は両案とも提示せず、領土に関しては、甲案が陸軍の意向を受けて遼東半島の旅順口および大連湾、乙案が海軍の意向を尊重して台湾割譲という条件であった。報告を受けた伊藤は甲案に賛成の意を表した。ただし、遼東半島にしても台湾にしても、まだ占領もなされていない土地であり、在外公館を通じて得た情報からは割譲要求についての諸外国の反応は日本に対して決して好意的とはいえなかった。 戦勝国の側が敗戦国に対して過酷な条件を提示することで、結果的に休戦を実現させようとする方法は、この時期の列強間にも少なからずみられ、陸奥宗光がこの戦争において参照した事例は普仏戦争(1870年-71年)のそれであった。普仏戦後の1871年のフランクフルト講和条約において、勝利側のプロイセン(ドイツ帝国)は敗北したフランスに対して敗戦条約を課し、アルザス(エルザス)・ロレーヌ(ロートリンゲン)の2州を割譲させ、50億フランの賠償金を獲得したのである。 イギリス政府は、列国会議を開いて連合仲裁のかたちでの調停を試みたが、他の列強の同意を得られず、英国民もまた、この方針を支持しなかったので、この案は曖昧なままとなっていた。陸奥は、駐日各国公使との会合の様子や在外公館からの情報からうかがう限り、列国共同勧告には至らないと判断したので、条件案の詳細をイギリスはじめ各国政府には伝えなかった。伊藤首相がイギリス政府への回答の引き延ばしを望んだことから、10月23日、陸奥外相はトレンチ公使に対し、婉曲にではあるが仲裁を断った。 ロシア帝国やアメリカ合衆国もまた、日清戦争の講和に関心をもっており、11月上旬からは両国がそれぞれ調停のための斡旋を開始した。11月6日には、エドウィン・ダン駐日アメリカ公使より、「友誼的仲裁」の申し入れがなされた。しかし、清国との決戦を戦争目的の一つとみなしていた日本政府は、この段階での講和成立を無用と判断した。また、陸奥個人としては、交渉当事者が勝者と敗者である以上、仲裁役はむしろ不要であるとの考えに立っていたが、ただし、国交断絶中の両国の意志を取り次ぐ役目を果たす第三国は必要であるとしており、その場合は、シナ大陸に多くの権益を有するイギリスよりもアメリカの方が好ましいと判断していた。一方、清国では11月12日、駐独清国公使がドイツ外相に講和仲裁を申し込んだという情報が青木周蔵駐独公使より日本政府にもたらされた。 11月21日、日本陸軍第二軍は旅順口の戦いで清国軍を破った。とはいえ、清国は東アジアの大国であり、旅順口や大連湾で激しい攻防がなされているとき、北京では歌舞音曲のなか、西太后の還暦を祝う祝宴が盛大に催されていた。旅順の陥落によって、陸奥はそろそろ講和に向けた準備が必要であるとの考えに至った。 11月22日、北京駐在清アメリカ公使チャールズ・ハーヴェイ・デンビー(英語版)は、清国政府が日本政府に対し、朝鮮独立承認と賠償金弁済をもって講和交渉を開くことを申し出た旨、東京駐在のダン駐日アメリカ公使に電報で伝えた。 一方、当時、李鴻章の懐刀といわれた清朝お抱えのドイツ人で天津税務司のグスタフ・デットリング(英語版)が李の内命を受け、講和の瀬踏みと日本側の意向を探るために11月26日に神戸を訪れ、兵庫県知事の周布公平と面会し、伊藤首相との会談を求めてきた。彼は、首相あて親書を持参したが、日本側は正式な使節とは認めがたいとして彼との公式な接触を避けた。 また、デンビー駐清公使は、これについて、総署大臣の恭親王奕訢に対し、機が熟せばアメリカが調停に入ることになっているはずなのに、デットリングなるドイツ人が不審な動きをしており、アメリカとしては不快であるとの苦情を申し入れている。デットリングは李鴻章からの天津発の電報で帰国し、親書を大本営のある広島市に郵送した。ただし、デットリングの得た日本での感触から、日本側が清国側が考えていた以上に強気の姿勢で交渉に臨み、講和条件も厳しいものとなるであろうことを李鴻章も予想したのである。なお、一方の陸奥外相は李鴻章のデットリング派遣について、「すこぶる児戯に類した」と酷評している。 12月4日、伊藤博文首相は、「威海衛を衝き台湾を略すべき方略」という意見書を広島大本営に提出した。それによれば、このまま直隷決戦に向け、シナ本土に進軍するのは必ずしも得策ではなく、下手をすれば清朝瓦解というおそれもあって、そうなればかえって諸列強の戦争介入は強まり、日本は一転して外交的に不利な立場に立たされる可能性がある、というものであった。それゆえ、第一軍・第二軍のいずれか一方は渤海を渡って威海衛(現、山東省威海市)の制圧へ、そして、もう一方は台湾占領作戦へと転進すべきであり、特に台湾は実際に占領状態をつくらなければ、台湾の譲渡について世論に訴えることも、和平条約の要件として盛り込むこともできないと論じて、当初立てた第二期作戦の変更を提案したのである。 1895年(明治28年)1月に入ると日本国内では講和条約案が話し合われるようになった。前年末に、アメリカ合衆国を介して、清国から講和使節派遣の申し入れがあったからである。日本軍の連戦連勝のさなかでの講和であることから、「対外硬」と呼ばれた人士はもとより、政府部内にあっても取れるだけのものはできるだけ取っておきたいという雰囲気が濃厚で、外務大臣の陸奥宗光をおおいに悩ませた。 1895年1月27日、広島大本営において日清講和に関する御前会議が開かれた。 席上、陸奥外相から、 朝鮮独立の承認 領地の割譲と償金支払い 欧米並みの特権の提供 を骨子とする方針が示され、参加者各位より諒承された。帝国海軍は資源確保と南進の拠点として台湾全島および澎湖諸島の割譲を望んだ。それに対し、陸軍はこの戦争で最も多くの血を流した激戦地である遼東半島の割譲を求めた。財政を担当する大蔵省は、戦後経営のことを考慮して巨額の補償金を要望しており、松方正義にいたっては、のちに10億両(テール)という驚異的な賠償額を提示した。なお、テールとは清国税関の庫平銀の単位であり、当時の10億両は日本円に換算すると約15億円に相当した。 駐露公使であった西徳次郎男爵は、ロシアを刺激することになる領土要求よりもむしろ償金を優先すべきという考えであり、領土割譲は多額の償金の担保という名目で行った方がロシアなどからの干渉を極力排除できると説き、それに対し、駐英公使の青木周蔵は、盛京省および吉林・直隷両省の一部を割譲させて将来的な日本の軍事的根拠地をそこに建設し、償金は英貨1億ポンドとすべきことを主張した。また、当時の外務省のアメリカ人顧問ヘンリー・デニソンが示した賠償金は、甲案が3億円、乙案が5億円であった。 立憲改進党の一部や在野の対外硬派は、和議の交渉をしている間も戦闘を続行することを要望し、そのうえで相手が停戦に応じたら、台湾割譲、償金3億円以上のほか、山東省・江蘇省・福建省・広東省の日本領有を清国に認めさせるべきであるという強硬論を表明した。対外硬とは一線を画しているはずの自由党でさえ、東三省すなわち黒竜江省・吉林省・盛京省および台湾割譲を主張している。伊藤博文・陸奥宗光・山県有朋ら政府首脳はいずれも、このような過大な日本の要求は、事と次第によっては第三国の干渉を招くことがありうると予想しており、それを念頭に置きつつ交渉に臨まなければならないと判断していた。
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