り‐こうしょう〔‐コウシヤウ〕【李鴻章】
李鴻章
李鴻章
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李 鴻章(り こうしょう、リー・ホンチャン、拼音: 、道光3年1月5日〈1823年2月15日〉- 光緒27年9月27日〈1901年11月7日〉)は、中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)として調印を行った。
- ^ 梁、P53、P56 - P60、岡本、P2 - P9、P34 - P52。
- ^ 梁、P64 - P100、P123 - P143、井上、P162 - P171、P198 - P200、岡本、P54 - P68、P126 - P128。
- ^ 梁、P105 - P121、井上、P203 - P204、岡本、P78 - P93。
- ^ 所属邦土は清は朝貢国(朝鮮ほか)を含む土地と解釈したが、日本は所属邦土を清の領土のみを指し、朝貢国は含まれないと考えていた。この認識のずれが後から問題になった。岡本、P96 - P113。
- ^ 井上、P202 - P222、岡本、P113 - P173。
- ^ 小山は1895年(明治28年)3月30日、山口地裁で無期徒刑の判決を受けた。
- ^ 『新聞集成明治編年史. 第九卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ^ 梁、P145 - P195、井上、P222 - P227、P232 - P242、岡本、P173 - P183。
- ^ イギリスが日本と日英同盟を結ぶのは、李鴻章の死から約3か月後の明治35年(1902年)1月30日である。
- ^ 梁、P195 - P244、井上、P300 - P302、岡本、P184 - P201。
- ^ Шуган, Ольга Владимировна (2017) (ロシア語). Ли Хунчжан На Нижегородской Выставке В 1896 Году (по Мемуарным Источникам И В Романе М. Горького "Жизнь Клима Самгина"). pp. 31–36 .
李鴻章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:06 UTC 版)
清の実力者・外交官。北洋艦隊司令官。日清戦争後は全権大使として下関条約の調印を行った。作中では加納から東アジア情勢の解決のために金玉均に助力してほしいと依頼を受けるが、駐日公使の李経方を通じて陸奥宗光に対し、金を朝鮮へと明け渡すことを提案。依頼を反故にされた加納の怒りを買った。
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李鴻章
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「まんが首里城ものがたり」の記事における「李鴻章」の解説
清国幹部。軍人として太平天国討伐に成功して、政治家となり西太后に接近。琉球独立派に助けを求められるが、内憂外患でそれどころではなかった。
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