きん‐ぎょくきん【金玉均】
金玉均
金玉均
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 03:54 UTC 版)
金 玉均(きん ぎょくきん、キム・オッキュン、김옥균、1851年2月23日〈旧暦1月23日〉 - 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。李氏朝鮮時代の思想家[1]。字は伯温(ペゴン、백온)、号は古愚(コウ、고우)。本貫は新安東金氏。開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や『漢城旬報』の創刊発行に協力した。
注釈
- ^ 創刊発行は政府機関の「博文局」である。「博文」の意味は大朝鮮国民に広く文学的に読み書きが広がるように、さらに博学的に知識が身につくように、願いを込めた意味がある。日本国の初代内閣総理大臣伊藤博文の「博文」とは無関係であり関係ない。
- ^ 写真および資料はアジア歴史資料センター Ref.B03030202500で見ることができる。晒された首には「大逆不道玉均」と見える説明が添えられている(晒し首にされる金玉均(朝鮮)の写真)。
- ^ 可読性のため、原文に読点を挿入した。
- ^ この資料はアジア歴史資料センターレファレンスコード:B03030202500『金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4 明治27年4月16日から明治27年12月21日』の発第130号 『朴泳孝復爵甲申明治17年罪犯赦免金玉均妻女発見ノ件』で見ることができる
現代語訳
出典
- ^ a b c d 金玉均の政治亡命と日本 大畑 篤四郎, 早稲田法学, 51(1-2),133-151 (1976-03-20)
- ^ 3. 京城小事変並ニ栗野書記官同地ヘ出張/3 明治18年12月27日から〔明治19年〕1月20日
- ^ アジア歴史資料センター Ref.B03030200700 pp51のうちp.9より「金玉均は岩田秋作、劉岳樓は山田惟一、張殷奎は田中虎造と称して、各々立派な戸籍を有するそうである。もっともその戸籍は長崎に於いて得たものであると云う。」
- ^ 父島に明治19~21年迄。
- ^ 今日の歴史(2月22日) 聯合ニュース 2009/02/22
- ^ 宮崎滔天 三十三年の夢 松岡正剛の千冊千夜、1168夜、2006年12月30日
- ^ 岩波書店『福澤諭吉全集』第10巻「朝鮮独立党の処刑」では「金玉均・徐載弼・徐光範の父母妻子は2月2日を以て南大門に絞罪に処せらる」とある。
- ^ 平山洋『福沢諭吉の真実』
- ^ 『快傑伝』第3編 伊藤痴遊編 (忠誠堂, 1926)
- ^ 改葬免じた東京の金玉均墓地(中央日報WEB日本語版 2005.05.23)
金玉均
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:06 UTC 版)
朝鮮の改革派政治家。甲申事変の失敗により日本へと亡命。日本各地を転々とし福沢諭吉、勝海舟らと会うが協力を引き出すことは出来ず。護衛を務める加納については「勝海舟の元にいた方が大きな仕事ができる」とし、あえて距離を置くことになる。清国の李鴻章との会談のために上海へと渡るが、同地で閔氏政権の刺客に暗殺された。亡命中には日本名「岩田秋作」を名乗っていた。
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金玉均
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 02:57 UTC 版)
暗殺された後、朝鮮政府によって遺体がこの刑に処された。写真も現存している。
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