閔氏政権
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「明成皇后 (テレビドラマ)」の記事における「閔氏政権」の解説
第33回 第34回 第35回 第36回 苦労の末、王妃は4度目の妊娠で嫡子となる男児を、つまり後の純宗(1874年 - 1926年)を出産する。かねてから外戚の豊壌趙氏出身である大王大妃(高宗が即位するにあたり、血統上の問題を解決するため養子縁組をしたことから、形式上は高宗の母にあたる。憲宗の実母。)は、次代の王となる「世子」を自らの意に沿う人物とするために、後宮の李尚宮(永保堂李氏)が産んだ完和君を世子候補に推していたが、そうした動きを牽制し自らの正室である閔妃が産んだ嫡子を世子にしたいと考える国王の高宗は、左議政でもある伯父の興寅君から祝詞を伝達された際に突如として正室の子を世子にする旨、宣言する。 他方、閔妃は実母である府夫人に、嫡子が無事に世子となった暁には新しい家を与えると伝えたところ、現在住んでいる家(「感古堂」)は閔妃から与えられたものだと閔妃の兄である閔升鎬から聞いていたがそうではなかったのか、と尋ねられ、ここで閔妃は兄たちが、王家との繋がりを傘に着て賄賂を受け取り蓄財していたことを知り激怒する。 その頃、賄賂をふんだんに利用して清に手を回し、完和君を世子に任命するようにと清から圧力を掛けさせることに成功した大王大妃一派であったが、この問題を解決するため閔家の次兄である閔謙鎬は、落ちぶれている安東金氏の家長である金炳冀と取り引きする。閔謙鎬は外戚の力を利用して金炳冀を領議政に据える工作を行う代わりに、閔妃の嫡子を世子とするよう清から圧力を掛けてもらうために使う清への賄賂の資金を、金炳冀から出させることに成功する。 第37回 ようやくのことで誕生した嫡子が、生後百日あまりで突然の高熱により危篤に陥る。最終的な典医らの見立ては水疱瘡であったが、当時は民間療法しか存在しなかったため、ひたすら祈ることで解決しようとする。 このころ清から、日本の国力伸長を警戒し軍備を万全にするよう伝達された高宗と閔妃は、外交問題を解決するため有用な人材を集めるよう指示する。その流れの中で閔妃は次兄の閔謙鎬から、彼の2歳上のいとこにあたる同族の閔奎鎬(ミン·ギュホ)を紹介される。彼は閔一族の出であり、哲宗3年の文科に及第して吏曹参議を経て吏曹参判となっていた官吏であったが、そのような人物が同族にいることを閔妃は初めて知る。外戚の専横を嫌う閔妃は彼の登用を躊躇うが、次兄の閔謙鎬から閔奎鎬は事実上の大院君の治世下で行われた、洋夷撃退の思いを記した斥和碑の全国的な建立事業に反対していた外交通であることを聞かされると、閔妃は思いを改めるとともに、彼と開国へ向けた検討を進めることを約束する。 この頃、大院君が都から楊州へ追放されただけでなく、大王大妃一派によりその政策を尽く否定されたことに怒りが収まらない大院君の従僕である張淳奎(チャン·スンギュ)や千喜然(チョン·ヒヨン)らは、大院君に内緒で何らかの計画を進めていた。 第38回 大王大妃が朝会を利用して大王大妃派の領議政である李裕元に完和君の世子冊立を進言させようとしていた。高宗は領議政の発言を遮って興寅君に嫡子を抱いて来させたが、興寅君は「世子が病気から回復した」と重臣たちに告げる。不意打ちを食らった領議政は完和君の話を切り出すこともできなかったが、後にこの興寅君の発言は閔妃の意図によるものであったことが判明する。 政事について高宗と話し合いをしていた閔妃は、大院君からは良い顔をされない開化派であることを高宗に告げた上で礼曹判書に閔奎鎬を登用するよう進言し、高宗からは外交を閔妃に一任する旨と閔奎鎬の礼判への任命を許される。 元領議政で今は引退し、領敦寧府事(ヨンドンニョンブサ)となっていた金炳学による双方への説得もあり、大院君は高宗との和解のため、都へ戻ることを決定する。 田舎の官吏の姿をした者が、貴重品であるとして贈り物を閔妃の実家へ置いていく。帰宅した長兄の閔升鎬は、自身の子や母の府夫人の前で贈り物の箱を開けたが、その瞬間に箱が爆発する。 第39回 宮中では、閔妃が再び懐妊したことを高宗に伝えていたその頃、閔升鎬がその子ともども暗殺によって爆死する。その場にいた閔妃の母である府夫人も、次兄の閔謙鎬の家へ運び込まれるが治療の甲斐なく落命する。 ちょうど時を同じくして、翌日には大院君が都へ向けて隠居先の楊州を出発することとなっていたため、閔妃の産んだ嫡子を世子とするであろう大院君の帰京を阻みたい大王大妃らは、閔妃の実家の爆発事件を大院君の仕業であるとして犯人探しを開始する。 拷問にかけられそうになった閔家の下僕は、爆発物の入った「贈り物」を持ってきたのが、慶尚右兵使を務めた、大院君一派の申哲均が抱える下僕であると証言する。 閔妃の嫡子の世子任命を阻止したい大王大妃一派は、都へ戻ってしまった大院君を雲峴宮に軟禁するための勅命を、高宗から引き出すことに成功する。 閔妃は死の床にある母を見舞うが、右手右足を爆発で失っているためボロボロになった左手を差し出した母の姿に衝撃を受け、思わず部屋を飛び出したところに見舞いへ訪れた大院君と鉢合わせする。 第40回 第41回 第42回 第43回 第44回から第50回 1875年に日本の軍艦が朝鮮を挑発し、いわゆる江華島事件になり、1876年に江華島で日朝が会談し、朝鮮は開国することになる。日朝修好条規を調印する(第50回)。朝鮮に不利な不平等条約だが、大院君以外は問題に気づかない。 第51回 第52回 第53回 張(チャン)尚宮が義和君(1877年 - 1955年)を出産する。 第54回 1880年、李尚宮の子である完和君が死去する。 第55回 1880年、公使花房義質が高宗に謁見する。 第56回 1881年、安驥永(アン・ギヨン)の謀反計画が発覚する。 第57回 1881年、国王高宗の異母兄である李載先が謀反計画を自首する。 第58回 第59回 世子である純宗の妃として閔台鎬(ミン・テホ)の娘が選ばれ、式が執り行われる。
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