閔氏一族の時代
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1866年に閔妃(明成皇后)が王妃として王宮へ入ると、大院君は閔妃と対立を始め、閔妃を中心とした閔氏一族と崔益鉉らの儒者勢力、政敵安東金氏の勢力を中心に、大院君排除のための動きを見せていた。これらの勢力が結託し、1873年、高宗が成人すると親政を宣言し、崔益鉉の弾劾を機に大院君は追放される。代わりに政権を握ったのは閔妃の一族である閔氏であった。高宗は性格的に気の強い閔妃に頼るところが多く、政権を握った閔妃は閔氏一族を要職につけ、以後閔氏一族による勢道政治が始まる。 閔妃派が勢力を握ると、国内の情勢は鎖国から開国へ傾きかけ、開化派勢力が台頭してくる。1876年、日朝修好条規(江華島条約)が締結される。これをきっかけに、アメリカ、フランス、ロシアとも通商条約を立て続けに結んでいくことになる。ロシアの南下政策に対し、清・日本・アメリカと協力しこれに対抗するという動きも見せ始めた。しかし国内の政治は、開化派と守旧派勢力(衛正斥邪派)との対立が深刻化していた。大院君もこの動きに連動し、高宗の異母兄を王位につける国王廃立の動きを見せていた。高宗と閔氏一族は、衛正斥邪派を弾圧することによって政局混乱の収拾を試みるが、政治の混乱はさらに激しくなった。 1882年、新式軍隊(近代式軍隊)に対する旧式軍隊の差別待遇、賃金未払いなどに対して、不満を募らせた旧式軍隊と衛正斥邪派・大院君の勢力が結託し、閔妃暗殺、閔氏一族・開化派勢力の追放をもくろんだ壬午事変が発生する。壬午事変によって一時的に大院君は復権するが、殺されたと思われていた閔妃は清の袁世凱に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。大院君は清へ連れ去られ、清は朝鮮の治安維持の目的で、3000の兵を朝鮮国内に駐屯させた。一方、この事変により日本公使館を襲撃され、多くの日本人が殺害された。日本も軍艦を朝鮮半島へ向かわせ、賠償を要求。済物浦条約により賠償金の支払いと邦人保護のための軍隊駐留を認めさせる。この事件により、清と日本の軍隊が朝鮮国内に駐留することになり、朝鮮の軍事権は深刻なダメージを受けた。
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