閔氏一族の時代とは? わかりやすく解説

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閔氏一族の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 00:54 UTC 版)

高宗 (朝鮮)」の記事における「閔氏一族の時代」の解説

1866年閔妃明成皇后)が王妃として王宮へ入ると、大院君閔妃対立始め閔妃中心とした閔氏一族崔益鉉らの儒者勢力政敵安東金氏勢力中心に大院君排除のための動き見せていた。これらの勢力結託し1873年高宗成人する親政宣言し崔益鉉弾劾機に大院君追放される代わりに政権握ったのは閔妃一族である閔氏であった高宗性格的に気の強い閔妃に頼るところが多く政権握った閔妃閔氏一族要職につけ、以後閔氏一族による勢道政治が始まる。 閔妃派が勢力を握ると、国内情勢鎖国から開国傾きかけ、開化派勢力台頭してくる。1876年日朝修好条規江華島条約)が締結される。これをきっかけに、アメリカフランスロシアとも通商条約立て続け結んでいくことになる。ロシア南下政策対し、清・日本アメリカ協力しこれに対抗するという動き見せ始めた。しかし国内政治は、開化派守旧派勢力衛正斥邪派)との対立深刻化していた。大院君もこの動き連動し高宗異母兄王位につける国王廃立動き見せていた。高宗閔氏一族は、衛正斥邪派弾圧することによって政局混乱収拾試みるが、政治混乱はさらに激しくなった。 1882年新式軍隊近代軍隊)に対す旧式軍隊差別待遇賃金未払いなどに対して、不満を募らせ旧式軍隊衛正斥邪派大院君勢力結託し閔妃暗殺閔氏一族開化派勢力追放もくろんだ壬午事変発生する壬午事変によって一時的に大院君復権するが、殺されたと思われていた閔妃は清の袁世凱介入要請。清軍が出撃しこれらの勢力排除する大院君は清へ連れ去られ、清は朝鮮治安維持目的で、3000の兵を朝鮮国内に駐屯させた。一方、この事変により日本公使館襲撃され多く日本人殺害された。日本軍艦朝鮮半島へ向かわせ、賠償要求済物浦条約により賠償金の支払い邦人保護のための軍隊駐留認めさせる。この事件により、清と日本の軍隊朝鮮国内に駐留することになり、朝鮮の軍事深刻なダメージ受けた

※この「閔氏一族の時代」の解説は、「高宗 (朝鮮)」の解説の一部です。
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