さ‐こく【鎖国】
鎖国 (さこく)
鎖国
鎖国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 00:48 UTC 版)
1638年の春に幕府は、島原半島と天草諸島のキリシタンの百姓が起こした島原の乱を鎮圧した。それ以降幕府は、キリシタンの摘発をより強化し、禁教の徹底のためにカトリック国であるポルトガルとの関係を断絶しようとした。しかし、現実には、ポルトガルがマカオからもたらす中国産の生糸などが当時の日本にとって必要不可欠であり、オランダ東インド会社への信頼に不安を感じていたため、幕府は、1638年にはポルトガルとの貿易の断絶に踏み切れず、その代わり、マカオから江戸に派遣されたカピタン・モールの将軍への謁見を拒否するだけにとどまった。 1639年、平戸のオランダ商館長フランソワ・カロンが江戸に参府し、ポルトガルとの関係の断絶を幕閣に訴え、オランダがポルトガルに代わって、日本が求める輸入品を確実に提供できることを主張した。幕閣はカロンから、台湾や東南アジアから渡航する中国人が、直接長崎に来航することが問題ないことや、オランダがスペインとポルトガルに妨害されず長崎に来航できること、台湾に渡航する中国人を通じて、オランダが日本が求める輸入品を確保でき、かつ、台湾に渡航する中国人が明朝の渡航証明書を持っていることなどを確認し、ポルトガルとの関係を断絶しても支障がないと判断した。その結果として、同年、幕府は長崎奉行や九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布して、ポルトガル人を出島から退去させた。翌年の1640年には、マカオからのポルトガルの使節が、貿易再開を要求して長崎に渡来した。これに対して幕府は、ポルトガルの使節を処刑することで、ポルトガルとの貿易を改めて再開しない意思を示した。 その後、出島は無人状態となり、貿易利潤の損失だけでなく土地使用料も入らなくなったために、長崎の町は困窮した。幕府は出島築造の際に出資した人々の訴えを踏まえ、1639年に建設された倉庫の破風に西暦年号が記されているのを口実として、1641年に平戸(ひらど、現在の平戸市)のオランダ東インド会社の商館を出島に移すように求めた。オランダ側にはこれに反対する意見もあったが、商館長カロンはこれを受け入れた。 こうしてオランダ商館は平戸から出島に移設された。以後約200年間、出島には武装と宗教活動を規制されたオランダ東インド会社社員等が居住することになり、それまでのポルトガル人同様にオランダ人も幕府の監視下に置かれることとなった。 通常、長崎には毎年2隻のオランダ船が季節風を利用してバタヴィア(現在のジャカルタ)を出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきた。例年7 - 8月ごろ来航し、その年の11 - 12月に帰路につくまでの約4ヶ月の滞在であった。船がいる間は多くのオランダ人を中心にした欧州人、マレー人が滞在していたが、それ以外の期間は商館長(カピタン)、次席商館長(ヘトル)、倉庫長、書記役(1 - 3人)、 商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使(マレー人)など15人前後の人が住んでいた。 翌年夏にオランダ船が入港するまでの間には、貿易に関する仕事や江戸参府などを行っていた。 オランダ商館長は、歴代、通商免許に対する礼として江戸に下り、将軍に謁見して貿易の御礼を言上して贈り物を献上している。これを「カピタンの江戸参府」といい、毎年、定例として行うようになったのは1633年(寛永10年)からであり、商館が平戸から長崎に移されて以後も継続された。1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められたが、特派使節の東上は1850年(嘉永3年)まで166回を数えた。江戸の長崎屋、京の海老屋は「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられた。
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鎖国
出典:『Wiktionary』 (2021/08/17 13:51 UTC 版)
名詞
- 政府が外国との交易及び交流を著しくĢ制限し、又は禁止すること。また、そうした国家の状態。
- 特に、日本が江戸時代に行っていた外交政策及びその状態。これにより、江戸時代の日本ではオランダや中国など、特定の国家以外との交流が断絶された。ペリーの開国要求により解消された。
語源
エンゲルベルト・ケンペル著の『日本誌』(“History of Japan”)中の章、「今日のように日本国を閉鎖してその国民が国内においても国外においても外国と通商を営むことを許さないことが同国にとって利益ありや否やについての研究」を、志筑忠雄が訳した際に用いた語句の『鎖国論』から[1]。
発音(?)
東京アクセント
- さ↗こく
NHK
関連語
翻訳
動詞
活用
- サ行変格活用
- 鎖国-する
「鎖国」の例文・使い方・用例・文例
- 鎖国政策
- まぁ、日本も鎖国していたわけだしなあ。
- 鎖国政策.
- 黒船の浦賀来航はこれら頑冥な保守主義者たちにも, 彼らの鎖国政策がいかに時勢に遅れたものであるかを自覚させるのに, 十二分であった.
- 外界の知識が種々の経路を経て鎖国の日本へ伝わった
- 鎖国の日本はオランダを掛橋として外界の事情を知った
- 幕府は鎖国を行った
- 鎖国策
- 鎖国党
- 鎖国主義
- 鎖国の日本は長崎のオランダ人を通じて外界の事情を知るのみであった
- 開国主義という,鎖国をやめて国を開くべきであるとする考え方
- (江戸時代の)鎖国令という法令
- その旅は,日本の庶民が鎖国時代に外国の文化に接する貴重な機会となった。
- 井伊は日本の鎖国を終わらせようとしていた。
品詞の分類
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