王妃として
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キョセムのハレムでの地位は早い時期に上がった。ハレム内で権力を握っていたアフメト1世の祖母のサフィエ・スルタンは1604年に宮廷から追放され、1605年に母后のハンダン・スルタンが死んだ。これらの要因がキョセムのハレムにおける地位向上を可能にした。また、アフメト1世のお気に入りの妻と考えられ、彼との間に多くの子供を産んだ。 ヴェネチアの大使のシモン・コンタリニはキョセムのことを「彼女は美しくぬけ目がなく、多くの才能を持っており、優れた歌を歌う。彼女が全ての人から尊敬されているわけではないが、いくつかの問題に目を傾けていて、スルタンは彼女を気に入っている。」と述べている。 しかし1617年に夫のアフメト1世が亡くなるとトプカプ宮殿を出て、旧宮殿へ引退した。
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王妃として
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「ヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ」の記事における「王妃として」の解説
エナのスペイン王妃としての生活はこの不吉な事件から始まり、更にエナはスペインの人々に親しまれることはなく、不人気だった。彼女の結婚生活は、王国の継承者たる長男のアストゥリアス公アルフォンソを出産すると、良好なものになるかに見えた。しかし、生まれたばかりの王子に割礼が施されたとき、医師たちは王子の出血が止まらないことに狼狽した。これが王子の血友病の最初の兆候だった。エナは血友病の保因者であり、結果として長男と末息子は血友病患者として一生を過ごすことになった。アルフォンソ13世は、エナが血友病の世継ぎを産んだことを決して許そうとはしなかったし、またそのことについて口にすることもなかったと言われる。国王夫妻は4男2女(死産の1児を除く)をもうけたが、娘たちはどちらも血友病の因子を受け継ぐことはなかった。 子供たちが生まれた後、エナと夫との結婚生活は険悪になるばかりで、アルフォンソ13世は大勢の他の女たちとの情事に耽った。国王のお手付きの女の中には、エナの従姉のガリエラ公爵夫人ベアトリスもいたとされるが、これは事実ではなかった。アルフォンソがベアトリスに言い寄ったのは事実だが、ガリエラ公爵夫人は体を許さなかったのである。怒った国王はベアトリスとその夫のガリエラ公アルフォンソを国外へ追いやり、取り巻きたちにガリエラ公爵夫人はふしだらな振る舞いのせいでスペインにいられなくなったと吹聴させた。こうしてエナは近しい身内とも遠ざけられた。 エナは王妃として国民の医療、救貧、教育のための活動を行った。彼女はスペイン赤十字社の再編成に尽力した。1923年、教皇ピウス11世はエナに『黄金の薔薇』を贈っている。黄金の薔薇がイギリス出身の女性に贈られたのは、1555年のイングランド女王メアリー1世以来のことであった。
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王妃として
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「キャサリン・オブ・アラゴン」の記事における「王妃として」の解説
1509年4月21日、ヘンリー7世が崩御した。王位を継承した18歳の若き国王ヘンリー8世はキャサリンとの結婚しか念頭になく、枢密院での議論を無視し、父王の喪が明けぬ6月11日に立会人1人だけの結婚式を強引に挙げる。こうしてキャサリンはイングランド王妃となり、6月30日に戴冠式が執り行われた。ヨーロッパ政治の中心は、神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)とフランス王国(ヴァロワ家)であり、ヘンリーはハプスブルク家側に付いて国際社会における地歩固めをする意義があった。 アーサーとの死別以来8年近く苦境にあったキャサリンにとって、結婚と戴冠は幸福の絶頂であり、7月に結婚の喜びと感謝の気持ちを父に書き送った。ヘンリー8世は、薄幸の女性を救い王妃にしたことで、騎士道物語の英雄になったかのような誇らしい気持ちであり、一方キャサリンに母性をも求めた。キャサリンはヘンリー8世に対し、政策面でも強い影響力を持った。このように夫婦仲は、非常に円満であった。 しかし結婚生活の中、キャサリンはたび重なる流産と死産に見舞われることとなる。その最初の妊娠は新婚の1509年だった。しかし『レビ記』を口実とした反スペイン派の攻撃を受けぬよう、懐妊は極秘に伏せられたまま、翌1510年1月に女児を死産する。反キャサリン派の筆頭はサリー伯爵トマス・ハワード(後の第2代ノーフォーク公)だった。そして1511年1月5日に男児ヘンリー王子(英語版)を出産した。イングランドとスペインの血を引く王子の誕生は、カンブレー同盟戦争における両国関係を強固にするものだった。ヘンリー8世の喜びは大きく、ウォルシンガムに巡礼し神に感謝を捧げた。しかし、盛大な祝賀行事が続く中の2月22日、ヘンリー王子はわずか生後52日で亡くなっている。 王子を失った頃から、ヘンリー8世は好色さを露わにしていく。愛妾としてバッキンガム公の妹アン(英語版)やエリザベス・ハワードの名が残る。 1513年6月、ヘンリー8世は自らフランスに遠征し、キャサリンは摂政を命じられる。8月21日、突然侵攻してきたスコットランド軍に対し、サリー伯に反撃を命じ、フロドゥンの戦い(英語版)で大勝しスコットランド王ジェームズ4世を戦死させた。これはフランス王ルイ12世による陽動作戦だったが失敗に終わり、同時期にヘンリー8世もトゥルネーで勝利する。キャサリンは、スコットランドの幼王ジェームズ5世の摂政にヘンリー8世の姉マーガレット王太后をたて、スコットランドを弱体化させた。キャサリンの一連の働きは、国民の称賛を受けた。しかし、この間に再び流産し、また10月に帰国したヘンリー8世は海外における自身の活躍よりも、王妃が称賛されていることを誇らしく思うとともに嫉妬した。 スペインとイングランドはフランスを挟撃する計画だったが、新教皇レオ10世は戦争収拾を望み、皇帝マクシミリアン1世とフェルナンド2世、そしてルイ12世は1514年にパリでルネ王女とフェルナンド王子(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)の結婚を決めて旧同盟を破棄し、イングランドと対立する。キャサリンは父の裏切りを目の当たりにして、祖国スペインと決別する。 同年、再び男児を死産した。この頃、ヘンリーはトマス・ウルジーを重用し、新たな愛人エリザベス・ブラントも持ち、宮廷にキャサリンの居場所はなくなりつつあった。1516年、ようやく健康な女児メアリー王女を出産する。ヘンリー8世はメアリーを溺愛し、またキャサリンはすぐに君主としての教育を意識した。キャサリンはヘンリーや宮中の行事から距離を置く一方、慈善活動を熱心に行うようになり、後の救貧法の布石となった。また、トマス・モアの『ユートピア』にも関心を寄せて彼を宮廷に招いたり、フアン・ルイス・ビベスにも傾倒し、この後1522年にイングランドへ招き、メアリー王女の教師とした。 1517年5月1日にロンドンの暴動「魔のメイデイ事件」が発生する。この時季は遅いイングランドの春を謳歌する祭の期間であったが、貧富の差の拡大や流入する外国人の増加などで国内治安が悪化し、4月あたりから外国人に対する襲撃事件が相次いでいた。そして5月1日のメイデイ祭当日の朝に暴動が発生、外国人地区を焼き討ちし牢獄を襲って捕らえられていた同胞たちを解放した。ロンドン保安長官代理だったモアは説得を試みて1度は成功しかけたが、暴徒の1人から投石を浴びて逃げ帰り暴動が再燃、軍勢を率いたノーフォーク公によって鎮圧に成功した。300人にものぼった逮捕者の中から13人が翌日に極刑に処せられた。5月7日に残りの罪人の処刑が行われる予定であった。寵臣ウルジーの願い出も虚しく、ヘンリー8世は恩赦を拒否する。しかし、ロンドンに滞在中のスペイン人が多数殺害されたにもかかわらず、キャサリンは国王の姉でスコットランド王太后マーガレットと妹でサフォーク公妃のメアリーを伴ってヘンリー8世を説得し、恩赦が降りた。ロンドン市民は王妃に深く感謝した。 1518年に、イングランドとフランスの同盟が成立し、メアリーとフランス王太子フランソワが婚約する。しかし、キャサリンは甥シャルル(後の神聖ローマ皇帝カール5世、兼スペイン王カルロス1世)との縁組を希望していた。同年、女児を出産するが数時間で逝去したため、ヘンリー8世はキャサリンを見舞うこともなく、王妃との間に男子が望めないという現実に直面する。Joanna Denny "Anne Boleyn" によれば、キャサリンは非常に敬虔なため、妊娠中もしばしば断食をし、それが死産などに繋がった可能性があるという。そのため、当時の教皇はキャサリンの先夫アーサー王子宛に、キャサリンは断食しなくても良いという特赦状を送った。 キャサリンは学問の奨励に熱心になり、スペイン以来の女官イネス(アニエス)の夫ウィリアム・マウントジョイ(英語版)の紹介でデジデリウス・エラスムスやモアと交流を持ち、エラスムスはヘンリー8世よりキャサリンの教養が深いことを看破し、王妃の支援に感謝した。キャサリンが支援した人物には、人文学者のリチャード・ペイス(英語版)やビベス、医師のトマス・リネカー(英語版)が名を残す。教育改革と女子教育に熱意を向け、オックスフォード大学とケンブリッジ大学を支援するとともに、メアリー王女のために貴族の女子を宮廷に集めて教育を受けさせた。 1519年にマクシミリアン1世が崩御し、フランス王フランソワ1世との選挙戦の末、甥シャルルがスペイン王と神聖ローマ皇帝位を兼ねることとなった(カール5世)。一方、同年6月に愛人エリザベス・ブラントが産んだ男児はヘンリー・フィッツロイと名付けられ、キャサリンは動揺するがエリザベスに傲慢さはなく、やがて王の元を去る。
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