ボスニア王妃として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/10 04:55 UTC 版)
「マリア・ブランコヴィチ (ボスニア王妃)」の記事における「ボスニア王妃として」の解説
しかしマリアのボスニア王妃としての生活も、長続きしなかった。1462年、スティエパン・トマシェヴィチがオスマン帝国への貢納を停止するという命取りになる決断を下し、オスマン帝国の侵攻を招いた。ボスニア王族は敵の追撃を逃れるため、めいめいに隣国のクロアチアやダルマチアなどに分散して逃げようとしたとみられる。王であるスティエパン・トマシェヴィチはマリアをルカの聖遺物と共にダルマチアへ送り出した後、オスマン軍に捕らえられ処刑された。結局生き残った王族は王妃マリアと王太后カテリナの2人だけで、彼女らは最終的にラグサ共和国に逃げ込んだ。16世紀の年代記者マヴロ・オルビニは、マリアがアドリア海沿岸へ逃れる途中にクロアチアのバンであるパヴァオ・シピランチッチに捕らえられたと書き記しているが、実際には当時パヴァオ自身がオスマン帝国の虜囚となっていたため、この話は不正確だと考えられている。
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