虜囚とは? わかりやすく解説

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りょ‐しゅう〔‐シウ〕【虜囚】

読み方:りょしゅう

とらわれた人。捕虜


虜囚―三つの死

作者豊田穣

収載図書豊田穣文学戦記全集 第16巻
出版社光人社
刊行年月1993.8


虜囚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/26 06:18 UTC 版)

マリア・アウローラ・フォン・シュピーゲル」の記事における「虜囚」の解説

1686年神聖ローマ帝国ブダ戦いでオスマン帝国勝利しブダ奪還した。この時神ローマ軍の兵は、街に取り残されオスマン帝国人を奴隷にしたり略奪したりした。神聖ローマ軍に参加していたスウェーデン貴族アレクサンデル・エルスキンは、ラズィーヤロージア)、アシイェ(エイシア)、エミネ、ファトマ(ファティマ)という4人の女性捕らえたファティマは自らをムッラーの妻であると名乗った[要出典]。 スウェーデン帰ったエルスキンは、フィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルクの姉マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルクファティマ与えた。4人の女性1686年11月7日ストックホルム洗礼受けたスウェーデン王カール12世マリア・アウローラ・フォン・ケーニヒスマルクファティマ代父母となり、マリア・アウローラの名をそのまま洗礼名とした。その後宮廷マナーフランス語を身に着けた。

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虜囚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 01:28 UTC 版)

アブド・アルカーディル」の記事における「虜囚」の解説

降伏当時(1847年)のアルジェリア総督7月王政即位したルイ=フィリップ1世の子であるオマールアンリ・ドルレアンであり、アンリ・ドルレアンはアルカーディルらを捕虜としないことを約束した。しかし1848年二月革命によってフランス第二共和政成立するアンリ・ドルレアンは父のルイ=フィリップ1世とともにイギリス亡命し後継共和政約束反故にしてアルカーディルを捕虜とした。最初はアルカーディルとその家族及び25名の支持者フランストゥーロンの砦に移し次にポー城へ収監し、そして1848年11月からはアンボワーズ城幽閉した。以降5年渡ってアルカーディルは獄中過ごしたが、幽閉生活と強い湿気などの慣れない気候のために妻と兄弟、そして二人の子供と多数支持者を病で失った名声対するこのアルカーディルの扱い対し国内外から度々釈放求める声があがった新聞王にして政治家のエミール・デ・ジラルダン(英語版)、小説家にして政治家ヴィクトル・ユーゴー、後の首相エミール・オリヴィエ著名人加えイギリスからは5代ロンドンデリー侯ジョージ・ヴェーン=テンペスト通じてルイ・ナポレオン大統領(後の皇帝ナポレオン3世)に釈放要望伝えられていた。またルイ・ナポレオン個人的にアンボワーズでアルカーディルと面談しており、アルジェリア政策融和方針転換した場合にアルカーディルを活用する構想築きつつあった。

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虜囚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:48 UTC 版)

マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「虜囚」の解説

ローマ王になったものの、マクシミリアン東方ハンガリー問題前に西方ブルゴーニュ問題解決を図らねばならなかった。 帝国諸侯賛同得られない場合ローマ王戦費自費で賄わなければならなかった。戦争継続していたマクシミリアン軍事費としてネーデルラントビール税など新しい税を課したが、この一方的な増税は、古くから封建制中央集権化対立し地方自立主義堅持するネーデルラントの州や都市には受け入れがたいものであったまた、ドイツ傭兵素行悪く市民はその責任マクシミリアン転嫁した。 不満を抱いた市民たちを、フランスシャルル8世とその姉の摂政アンヌ・ド・ボージュー煽動した1488年1月マクシミリアン500名を従えて聖燭祭へのブルッヘ市民招きに応じて同地訪問した。しかし聖燭祭前日2月1日外部との往来制限され市内にわかに騒乱呈する。そして翌2月2日市民市長ピーテル・ランシャル(オランダ語版)以下の高官更迭マクシミリアン要求し市内暴動が起こる。マクシミリアン許可なく市内出ないことを宣言してマルク広場一角にある屋敷幽閉された。側近らはヘント移送され投獄され、うちカロンドレは処刑された。一部は、身分隠して市外脱出しマクシミリアンフリードリヒ3世救い求め手紙出したヘントブルッヘイーペル首班とする親仏派ネーデルラント都市マクシミリアンフランスへ引き渡すべく彼の身柄拘束したものの、王の処遇困ったまま3か月余り経過したローマ王の虜囚には、ドイツの諸侯のみならずローマ教皇スペインカトリック両王強く反発した同年5月ローマ王救出帝国軍派兵された。数か月に及ぶ無法状態によって、通商成立できず荒廃極める中、進軍の報を受けてヘントブルッヘは「ローマ王は、ブルゴーニュ公フィリップ後見地位放棄しフランス和平認めること」などの要求出した心身ともに衰弱したマクシミリアンは、この要求署名し5月16日解放された。 帝国軍は諸都市への攻囲行ったが、マクシミリアン信任得ていたフィリップ・フォン・クレーフェが諸都市側に寝返って善戦したため、諸都市陥落させるには至らなかった。「ローマ王救出」という当初の目的達成され駐留意義失った帝国軍は、同年8月頃から撤収開始し10月フリードリヒ自身ネーデルラントから撤退した。この戦いで市民商人が最も手強い相手となり、彼らと対立して窮地追い込まれマクシミリアン異な文化統治難しさ経験した。これ以降、彼は他の各地商人たち積極的に味方につける施政執るようになったザクセン公アルブレヒト(勇敢公)の活躍により最終的にクレーフェ降伏し内戦終結するのは1492年10月のことである。その結果ハプスブルク家によるネーデルラント中央集権的統治確立された。

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虜囚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:39 UTC 版)

ギルフォード・ダドリー」の記事における「虜囚」の解説

ジェーン即位宣言をした7月10日エドワード6世長姉メアリー王女からの、今や自分女王となったので枢密院臣従誓い要求する、と主張する手紙ロンドン届いたイースト・アングリア滞在していたメアリー王女のもとには支持者結集していた。何度かの議論の後、ジェーン女王は、父サフォーク公爵反対にかかわらずメアリー王女陣営に兵を送り込むことに同意したノーサンバーランド公爵軍勢引き連れてケンブリッジ進軍してから、7月20日ロンドン枢密院メアリー正統女王宣言するまで、1週間のあいだ動かなかった。ノーサンバーランド慌ててメアリー女王忠誠誓ったが、翌7月21日の朝に逮捕された。7月20日ロンドン枢密院メアリー女王即位宣言する数時間前にジェーンはある王室儀仗兵 (Gentleman at Arms) の息子洗礼代母務めその子に夫ギルフォード洗礼名授けたロンドン塔長いあいだ幽閉されていたカトリック支持派ウィンチェスター司教スティーブン・ガーディナーは、この話を聞きつけると、激しくこれを非難した枢密院メンバー大半は、ジェーン女王見捨てる前にロンドン塔離れていた。ジェーンの父サフォーク公爵は、枢密院仲間たち心変わりしたことを知るや否や受け持ち城塞放棄してタワー・ヒル近くメアリー女王忠誠誓ったサフォーク公爵夫妻屋敷に戻ることを許されたが、ジェーンギルフォード、そしてノーサンバーランド公爵夫人には許し下りなかった。その後ジェーンロンドン塔の中の王室住居部分から、貴紳のための監房移されギルフォードベル・タワー監獄収容された。その後すぐ、ギルフォード監獄にはすぐ上の兄のロバート・ダドリー連行されてきた。他の兄弟たち別のタワー監獄入れられた。父ノーサンバーランド公爵8月22日斬首刑処された。メアリー女王ジェーンギルフォードには恩赦与える気でいた。 ジェーンギルフォード8月12日起訴されジェーンメアリー女王対し女王陛下告訴された私の罪について陛下御許し請い陛下にことの真相お伝えいたします」との謝罪の手紙を書くことを提出させられた。同じ手紙の中で、ジェーンは自らについて「夫を深く慕う妻 ("a wife who loves her husband")」と呼んでいる。1553年11月14日ジェーンギルフォードは、カンタベリー大主教トマス・クランマーギルフォードの兄アンブローズ (Ambrose Dudley, 3rd Earl of Warwick) およびヘンリー一緒にギルドホール (Guildhall) で審理かけられた。申し開きが行われた後、彼らは全員大逆罪有罪となったギルフォードは、父ノーサンバーランド公爵のもとに配下軍勢合流させたこと、妻ジェーン女王だと認め扱ったことを根拠に、メアリー女王対す大逆罪犯したとされた。 12月ジェーンはクイーンズ・ガーデンを自由に散策する許可与えられた。ギルフォード兄ロバートベル・タワー入り口で外の空気を吸うことを許された。ギルフォードはおそらく、この頃からジェーンと会うこともできるようになった思われるギルフォードは妻の祈祷書中に義父サフォーク公爵対す次のようなメッセージ書き込んでいる、 「父上愛す忠実な息子は、父上喜び安楽に満ちた暮らしがご存命限り続くような、素晴らしく長い人生送られることを望んでます。生涯父上愚かな息子である、G・ダドリー(Your loving and obedient son wishes unto your grace long life in this world with as much joy and comfort as ever I wish to myself, and in the world to come joy everlasting. Your humble son to his death, G. Dudley

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虜囚

出典:『Wiktionary』 (2021/08/13 13:17 UTC 版)

名詞

りょしゅう

  1. 囚われた者。

発音(?)

りょ↗しゅー

類義語

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