虜囚として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 14:16 UTC 版)
「コルギス (オングト部)」の記事における「虜囚として」の解説
カイドゥは建国以来の「婿(キュレゲン)」の家系たるコルギスに娘を嫁がせ自らの婿とすることで配下に入れようとしたが、コルギスは「我はオルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)の婿である、どうして再び妻を愛ることができようか」と語ってこれを拒絶した。コルギスはその後釈放されることがなかったが、一度だけクビライの派遣した使者が面会することができた。その時コルギスはまず両宮(公主)の安否を尋ね、次いで我が子の安否を聞いたが、話し終わる前に監視者に連行されて使者と2度と合うことはなかったという。この面会を経て、コルギスは遂にカイドゥの誘いに屈することなく亡くなった。1305年(大徳9年)、朝廷は亡くなったコルギスに対して高唐忠献王と追封した。コルギスが捕虜となった時、息子のジュアンはまだ幼かったため、弟のジュクナンが跡を継いだ。 前述したように、コルギスをカトリック教徒に改宗させたモンテ・コルヴィノはコルギス死後のオングト部族の動向について多少言及している。 善きゲオルギウス王について。この地方のキリスト教ネストリウス派のさる王。彼はインディアのプレスター・ジョン大王の血筋にあたると言われていたが、私がここに来た最初の年私に付き従い、私によって真のカソリック信仰に改宗し、下級の位階を受け、私がミサを行う時は聖服を着て執り行い、そのため他のネストリウス派教徒たちは彼を背教者と非難した。しかし彼は、自分の国民の大きな部分を真のカソリック信仰に導いたし、王の偉大さに相応しい美しい教会を、我らが神と聖なる三位一体と教皇貌下を讃えて建設し、私の名にちなんでそれをローマ教会と呼んだ。そのゲオルギウス王は6年前、揺籠に世継ぎの子を残して、真のキリスト教徒として主の許に身まかった。その子は今9歳である。ところが、ゲオルギウス王の兄弟たちは、ネストリウスの誤りに惑わされ、王の死後、彼が改宗させた者を皆覆し、かつての分離派に戻した…。 — モンテ・コルヴィノ、モンテ・コルヴィノ書簡Ⅱ モンテ・コルヴィノによると、コルギスの死後当主となったジュクナンらによってオングト部族はカトリック信仰から再びネストリウス派信仰に戻ったという。
※この「虜囚として」の解説は、「コルギス (オングト部)」の解説の一部です。
「虜囚として」を含む「コルギス (オングト部)」の記事については、「コルギス (オングト部)」の概要を参照ください。
- 虜囚としてのページへのリンク