外交で右往左往
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 04:07 UTC 版)
「ジャン5世 (ブルターニュ公)」の記事における「外交で右往左往」の解説
1417年にイングランド軍が本格的にフランスの征服に取り掛かると、領土侵略を恐れたジャン5世は11月にヘンリー5世と休戦協定を結び、リッシュモンの釈放を求めたが却下された。しかし一方でフランスとも繋がりを保ち、1418年9月に無怖公とアルマニャック派の仲介に奔走したが失敗した。それでも両者は交渉を重ね歩み寄りが見られたが、翌1419年に無怖公は暗殺されることになり、後を継いだ無怖公の息子フィリップ3世(善良公)はイングランドと結び平和は遠のいた。 1420年2月12日、ジャン5世の身に危機が迫る。オリヴィエ・ド・ブロワと母マルグリットに和解の為の狩猟と称して呼び出されたジャン5世は末弟リシャールと共にパンティエーヴル領のシャントソー城に幽閉されたのである。そのことを知ったリッシュモンは「犯された悪事を正さんが為」とヘンリー5世に放免を願い出るが叶わなかった。 妻ジャンヌは夫の解放に動き、弟である王太子シャルル(後のシャルル7世)に手紙を書き、2人の子供を連れてブルターニュ議会に乗り込んだ。そこでの彼女の訴えに貴族たちが感動し、ジャン5世の救出を誓った。その際、満場一致でリッシュモンが頭目に指名され、ブルターニュ尚璽官ジャン・ド・マレストロワを長とする特命全権使節団がヘンリー5世と接触、ブルトン軍を指揮して国の正義を回復するため、リッシュモンを貸してもらえるように請願がなされた。請願は拒否されリッシュモンは捕虜のままだったが、マルグリットはシャントソーで武装した数千のブルトン人に包囲され降伏、7月にジャン5世を釈放した。 同月、リッシュモンも捕虜身分のままながら解放を許可され、ブルターニュへ帰還して釈放されたばかりのジャン5世と再会した。その後リッシュモンはまたイングランドで虜囚として過ごすが、ジャン5世は1421年にフランスと同盟を締結、関係強化のため王太子がリシャールにエタンプ伯領を与え、甥のアランソン公ジャン2世とオルレアン公の娘ジャンヌとの政略結婚も結ばれた。これに対するイングランドの抗議を無視したが、フランスからも信用されず翌1422年にラ・ロシェルを占領される羽目になった。 同年にヘンリー5世が死去、即位したヘンリー6世の摂政ベッドフォード公ジョンからの交渉を受けると、翌1423年にイングランドへ寝返った。しかし、今度はフランス側からシャルル7世の姑ヨランド・ダラゴンがジャン5世に接触、善良公も交えた会議で1424年、三者で休戦協定が結ばれた。ヨランドは更にブルターニュとの関係を深めたいため、同年にイングランドから脱走したリッシュモンを大元帥に推薦、ジャン5世も後押しした結果、1425年3月にリッシュモンは大元帥に就任、ジャン5世も10月にシャルル7世と同盟を結びブルターニュはフランスへ復帰した。ところが、1426年にサン・ジャム・ド・ブーヴロン包囲に失敗、イングランド軍が報復に出てブルターニュを侵略すると、またもやイングランドへ鞍替えした。リッシュモンも1427年にシャルル7世の寵臣ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユとの政争に敗れ宮廷から追放、フランスとブルターニュの関係は途切れた。
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