外交と内政改革
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国政の細部に無関心な王から実務を任され、外国使節の間で「もう1人の国王」と渾名されたが、実際の王は外交・軍事に関しては積極的に関与、政事を自ら裁可することもあった。かたやウルジーは王の支持だけが基盤のため、彼の意向を忠実に汲み取り従うしか無かった。また教皇の地位を狙い、1521年のレオ10世死去、1523年のハドリアヌス6世死去で行われたコンクラーヴェに出馬したとされるが、ローマ教皇庁への連絡が疎かだと教皇と同輩の枢機卿から苦情が上がっていたこと、出馬はヘンリー8世の方が積極的でウルジー本人は不出馬を明言したことなどから否定されている。2度のコンクラーヴェで教皇はそれぞれハドリアヌス6世(1522年)、クレメンス7世(レオ10世の従弟、1523年)が選出されたが、後にヘンリー8世は離婚問題でクレメンス7世と決裂することになる。 外交はヨーロッパ諸国の調停者となることでイングランドの国際的地位を高めることを画策、そうした意図で1518年のロンドン条約(英語版)を諸国との間で締結した。初めフランス王フランソワ1世とヘンリー8世との和睦になるはずだった話を、オスマン帝国に対する十字軍結成を教皇レオ10世が呼びかけたことを利用、教皇特使の地位を活用してキリスト教諸国の団結を目的にした同盟に纏め、批准国が20か国にもおよぶ平和条約へと規模を拡大させたのである。セント・ポール大聖堂で各国大使が一堂に会したイングランドの首都ロンドンは一時的ながら脚光を浴び、ウルジーは主君ヘンリー8世の国際的地位を上げて得意の絶頂に浸る一方で、フランスに60万クラウンでトゥルネーを返す実利も獲得している。1519年の神聖ローマ皇帝選挙でヘンリー8世に出馬を決意させたが当選はならず、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世が皇帝カール5世に選出、イングランドは栄光から一転してスペイン・神聖ローマ帝国を治めるハプスブルク家とフランスの間で翻弄されることになる。 1521年にフランスの侵攻で第三次イタリア戦争が勃発するとロンドン条約を主導した立場上フランス・スペインの調停に当たったが失敗、直接会見したカール5世からフランスへの共同出兵を要求され、出兵を2年後の1523年に引き延ばすことを条件に受けるしか無かった。1523年にイングランド軍は北フランスを攻めたが戦果は無く、1525年のパヴィアの戦いでスペイン・神聖ローマ帝国連合軍がフランソワ1世を捕らえる大勝利を飾り、翌1526年のマドリード条約でカール5世の覇権が確立されつつある中、イングランドは戦争で何も得られず、ウルジーはヘンリー8世共々軍資金の窮乏に苦しみ、1524年にイングランドへ臨時税(強制借用金)をかけようとして国内の猛反発で撤回する有様だった。マドリード条約によるスペインの強大化に警戒、皇帝の勢力を弱めようと一転してフランスと和睦、教皇クレメンス7世やヴェネツィアらイタリア諸国・フランスとコニャック同盟を結んでコニャック同盟戦争が始まったが、1527年のローマ劫掠でクレメンス7世はカール5世の影響下に置かれ、1529年のカンブレーの和約によるフランス・スペインの和睦でコニャック同盟戦争はカール5世が勝利、和睦を無視されたイングランドは孤立しウルジーの外交政策は暗礁に乗り上げてしまった。 内政では巨額の戦費を賄うため新税の徴収を図り、1513年の遠征費用に十分の一税と併用した特別税を考案して徴収したが戦費には足りず、1524年の強制借用金の徴収撤回など財政で苦慮した。一方で司法改革と社会問題も手掛け、国王の裁判権強化と大法官裁判所(英語版)の発達と星室庁の強化、1517年から2年かけて囲い込みの実態調査および取り締まりを行い、地主たちを法廷に召喚して囲い込んだ土地について問い質した(その中には囲い込みの批判者トマス・モアもおり、囲い込んだ疑いがある土地を耕作地に戻し家屋も再建したと釈明したという)。教会改革も実行して約30ほどの小修道院の解散も行い、そこから得られた資産で母校オックスフォード大学と故郷イプスウィッチにカレッジ設立を考え、オックスフォード大学にカーディナル・カレッジ(後のクライスト・チャーチ)を創設したが、教会改革が中途半端に終わり、自身が多くの聖職禄を抱え豪奢な生活を送り、聖職者の悪弊の象徴を体現していたため人々の反聖職者感情を刺激した。かたや後にヘンリー8世統治下のイングランド政治を支えたトマス・クロムウェルを抜擢し1516年から召し抱え、小修道院の調査委員に任じて解散の実務およびカーディナル・カレッジとイプスウィッチのグラマースクールの管理に当たらせた。クロムウェルはウルジー失脚後は彼に代わる王の側近となり、ウルジーの小修道院解散より規模を拡大した修道院解散などに辣腕を振るうことになる。
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