外交と生存圏
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ナチ党政権下時代の外交政策は、一般にヒトラーの能動的な計画に帰す「ヒトラー中心主義」的解釈が行われることが多い。ヒトラーが時に外交政策に大きく関与したことは事実であるが、近年ではヨアヒム・フォン・リッベントロップやドイツ外務省、ゲーリングといった国内諸勢力の影響も研究対象となり、「ドイツの(外交)政策を、ヒトラーと同一視し続けることができるであろうか」という歴史家ウィリアム・カーの指摘も存在する。 1922年からヒトラーが訴えてきた基本的な外交方針は親英伊・反仏ソであり、当時のドイツ外務省の方針とは対ソビエト連邦政策を除いて大きく異ならなかった。ヒトラーには3つの固い信念があった。第一はベルサイユ条約でバラバラになったドイツを再統一すること、第二は資源確保のためにロシアあるいはバルカン半島方面に領土を拡張すること、第三はロシアの共産主義者を根絶やしにすることであった。 西ヨーロッパの知識人は保守系はもちろんリベラル系の一部までが、ロシア革命思想の伝播を恐れており、その防波堤として、ヒトラーに指導されたドイツに期待していた。第一次世界大戦では対独強硬派であった元英首相ロイド・ジョージは1934年11月28日に、「近いうちに、おそらく一年以内だと思うが、わが国の保守主義勢力は、ドイツをヨーロッパで拡散する共産主義思想に抵抗する前線基地だとする考えで一致するであろう。ドイツの再軍備を拙速に批判するようなことがあってはならない。わが国の友邦としてドイツを歓迎する日が来る」と述べている。ドイツの軍拡はイギリスのお墨付きの上で進んだ。1935年3月に再軍備宣言を行い、5月に徴兵制を実施した。そして二年間の秘密交渉の結果、1935年6月英独海軍協定(ドイツ語版)が締結された。ドイツ海軍は軍艦保有の上限を対英35%とし、潜水艦(Uボート)の建造は対英45%(状況によっては対英100%まで建造可能)であった。この協定はヴェルサイユ条約を実質反故にするものであり、主要国には寝耳に水の協定であった。フランスにとっては大きな打撃となった。 猛烈な反独感情を抱き続けるフランスはドイツの再軍備の動きに反応してロシアに接近した。1935年5月2日、仏ソ相互援助条約がパリで調印され、1936年2月27日、フランスはこの条約を批准した。ヒトラーはこの条約をロカルノ条約違反であるとみなしており、批准されないことを願っていたが、批准された以上はラインラントを無防備のままにしておけなかった。 1936年3月にはヴェルサイユ条約とロカルノ条約に反して非武装地帯と定められていたラインラントへの進駐を実行した。ヒトラーは主要な理由にソビエトの赤化工作攻勢に対抗しなければならないことを挙げた。そのためには、①ドイツとベルギー、フランス国境地帯の非武装地帯に関わる新たな多国間協定、②ベルギー、フランス、ドイツ、オランダによる期限25年の不可侵条約、③西ヨーロッパ諸国に対するソビエトによる無警告攻撃への対処に関わる航空協定、④ドイツの東方に位置する国との不可侵条約、の4つの新しい条約が必要であると訴えた。イギリスの対独宥和姿勢を肌で感じていたヒトラーは、イギリスはこの動きに理解を示すだろうとの自信はあったが、「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった」と後に述べている。フランス軍からの攻撃はなかった。フランスはこの問題を国際連盟理事会に提訴し、連盟はドイツの行為はベルサイユ条約とロカルノ条約違反と決議したが、制裁についての議論はなされなかった。ヒトラーは3月29日に国民投票を実施し、98.79%がラインラント進駐を是とした。ロカルノ体制の崩壊でボルシェビキ思想の拡散にヨーロッパ諸国は怯えた。一方ソビエトは、再生ドイツを恐れるヨーロッパ諸国に向かって、彼らを救済する国がソビエトであるとのポーズをとり始めた。ヒトラーは、共産主義の脅威に対抗しヨーロッパ内部における地位を高めたいという共通の思いを持つ、ムッソリーニと独伊協定を締結した。さらにヒトラーは、ベルサイユ条約ではドイツの重要な河川海運は国際連盟の国際委員会の管理下に置かれることになっていたが、この条項を破棄すると発表した。 ヒトラーは1936年7月にスペイン内戦において、スペイン共和国政府の過激な思想が西ヨーロッパ全体に広がることを恐れて、反乱軍のフランシスコ・フランコ支援を決定した。同年9月、ヒトラーは元英首相ロイド・ジョージとベルヒテスガーデンで会談し、共産主義思想からドイツを防衛していることを評価された。同年11月18日、独伊両国はフランコ政権を正式に承認し、ドイツは空軍部隊、イタリアは地上部隊を派遣した。1937年4月26日には、人民戦線軍の退却を阻止するために、ドイツ空軍「コンドル軍団」による、合法的軍事目標である橋などを狙ったゲルニカ空爆が行われたが、目標をそれた爆弾が市街地を直撃し、付属的被害として、一般市民に犠牲者が出た。 東欧を主眼とするヒトラーの対外政策にスペインはほとんど関係なかったが、スペイン内戦が長引けば長引くほど、国際社会の目はドイツ再軍備から遠のき、人民戦線政府支援をめぐり国論が二分されたフランスの政治的混乱は続き、英仏とイタリアの関係が悪化して、イタリアはドイツに頼らざるを得なくなるなど、ヒトラーにとって好都合であった。実際ドイツは第三国を通じて、人民戦線軍にも武器を売却しており、ヒトラーはスペイン内戦の早期終結はドイツの国益に合致しないと考えていた。1938年春、ヒトラーは、フランスと国境を接するカタロニア地方ではなく、南のバレンシアを攻めるよう、フランコに進言することを命じたが、それは、人民戦線派の拠点であるカタロニアを占領すれば、内戦が終わってしまうからであった。 1931年に発生した満州事変以降、ソ連やイギリス、アメリカとの間の関係悪化が鮮明化していた日本との関係が親密化を増し、1936年11月には、駐独日本国特命全権大使の武者小路公共とドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップの間で日独防共協定が結ばれ、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦への対抗を目指した。同協定は翌1937年11月6日にイタリアも入り日独伊防共協定となった。 1937年1月30日、ヒトラーは演説で、ベルサイユ条約の戦争責任条項(第231条)を弾劾し、ドイツがオーストリア、イタリア、日本、ポーランドと締結した条約や協定を挙げて、他国との協調の重要性を訴え、ベルギーやオランダへの中立保障案件やフランスとは事を構える考えがないことを言及したが、対ソビエトの姿勢だけは厳しかった。 1937年11月5日には陸海空軍の首脳を集め、「東方生存圏」獲得のための戦争計画を告げた(ホスバッハ覚書)。計画に批判的であった国防相ブロンベルクらは陰謀によって追放され、独立傾向があった軍を完全に掌握した(ブロンベルク罷免事件)。 1937年11月19日、ヒトラーはイギリスの枢密院議長のハリファックス卿とベルヒテスガーデンで会談した。ハリファックス卿はベルサイユ条約によるオーストリア、チェコスロバキアおよびダンツィヒに関わる線引きの変更については反対しない、と伝えた。ただし、それを平和的な手段で行なうことが条件であった。ハリファックス卿の考えはイギリス政府の考えを示すものであることは、彼が翌年2月に外務大臣に登用されたことからも明らかだった。彼が山荘を後にした時のヒトラーは高揚し、「ハリファックスは賢い政治家だ。ドイツの主張を100%支持してくれた」と述べた。 オーストリア併合の第一歩である1936年7月11日に結ばれた独墺間の合意では、両国はドイツ文化圏に属していることを確認し、文化交流を阻害する規制の即時撤廃を謳っており、両国の新聞は相手国を客観的に報道し、攻撃的な内容にしてはならないこと、オーストリアの外交は、ドイツの進める平和外交を勘案しながら進めることが決められていた。またオーストリアには野党からも代表を指名し、国家運営に責任をもたせることになった。ナチス・ドイツのプロパガンダ組織は、表面上は友好的な態度であったが、その裏で国家社会主義の宣伝に努めていた。1938年2月4日、中央ヨーロッパで攻勢に出ることに反対していた国防相ブロンベルクらが突然解任された。1938年2月12日、ヒトラーはオーストリア首相・クルト・シュシュニックとベルヒテスガーデンで会談し、自発的に併合の道を歩むことを迫った。その手始めとして、オーストリア・ナチス党幹部の入閣、ナチス党員の釈放、対独強硬派の参謀総長の解任を要求し、「オーストリアを助けに来る国はどこにもない」と続けた。イギリスでは、ベルサイユ体制の歪みの解消に理解を示したハリファックス卿が、対独強硬派のアンソニー・イーデンに代わって外相に就き(2月21日)、同じく強硬派だった外務次官ロバート・ヴァンシタートは更迭された。首相のシュシニクはヒトラーの要求を表面的に容れる一方、3月13日に国民投票を実施しようとした。この状況を見たヒトラーは軍事侵攻を決断し、3月12日朝、ドイツ軍はオーストリアに侵攻した。カトリック教国のオーストリアはもともとプロテスタント国家のプロイセンが嫌いで、普墺戦争(1866年)の敗北もあり、プロイセン嫌いの感情は根深いものがあったが、ドイツ軍への抵抗は皆無だった。オーストリア国民は侵入するドイツ軍をむしろ歓迎した。発砲の事態が一つもなく、花束で迎えられた。 1938年3月には武力による威嚇でオーストリアの首相にアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを就任させ、オーストリア併合にこぎつけた。かつてのオーストリア=ハンガリー帝国皇太子オットー・フォン・ハプスブルクがドイツの侵略計画に対抗する構えをみせたが、ヒトラーはこの動きを押さえつけてオーストリアの内閣を交代させたのである。なお、ヒトラーはハプスブルク家を憎悪しており、オットーがオーストリア政府の頂点に立った場合はただちにオーストリアに侵攻する計画を練っていた。その名も、ハプスブルク家当主オットーの名を冠した「オットー作戦(ドイツ語版)」というものだった。 こうしてオーストリア国内の抵抗勢力を封じ込めた後、3月12日にはヒトラー自身がオーストリアに入り、ウィーンや生まれ故郷リンツに戻った。オーストリア国民はヒトラーを里帰りの凱旋のごとく迎えた。ヒトラーは故郷リンツでこのように演説した。「もし神がドイツ国家の指導者たるべく私をこの町に召したのだとすれば、それは私に一つの任務を授けるためである。その任務とはわが愛する故国をドイツ国家に還付することである。私はその任務を信じた。私はそのために生き、そのために戦ってきた。そして今その任務を果たしたと信じる」。なお、この時、ヒトラーは、父親の生地を演習地に選び破壊している。ヒトラーは3月15日朝、ウィーン市民の前で演説した。広場にはヒトラーを一目見ようとする25万人の市民が集まった。ヒトラーは当初、連邦国家にするつもりであったが、予想もしなかった熱烈な歓迎を見て、大ドイツ帝国の一部として併合することに決めた。オーストリア国民の歓迎は、サン=ジェルマン条約に対する恨みもあったが、ドイツの進めてきた経済再建を評価し、オーストリアを苦境から救ってくれるのではないかと強く期待したからであった。ドイツに併合されたオーストリアの経済発展は目覚ましかった。投資、工業生産、住宅建設が活発化し消費も増大した。観光旅行を楽しむ者が増え、生活水準はたちまちに上がった。1937年の失業率は21.7%もあったが、1939年には3.2%まで低下した。 オーストリアを支配下に入れたヒトラーは続いて、第一次大戦後に誕生した多民族の人工国家で、東方進出への障害であるチェコスロバキア(チェコ系650万、ドイツ系325万、スロバキア系300万、ハンガリー系70万、ウクライナ系50万、ポーランド系6万)を狙い、まずドイツ系住民がほとんどを占めるズデーテン地方を併合しようとした。1919年のベルサイユ会議では、ウィルソンの民族自決の原則に反して、西部ボヘミアではドイツ系の多いスデーテン地方、北部モラヴィアではポーランドの炭鉱地帯、南部ハンガリー方面ではダニューブ川流域、東部はウクライナ南部にあたる地域がチェコスロバキア領に含まれた。チェコスロバキア政府は、民族独自の教育の容認、信教の自由、人口に比例した議員数など少数民族への配慮を約束し、スイスのように民主主義の構築の礎になると約束したが、人口の25%に相当するドイツ系、あるいはそれに匹敵するスロバキア系やマジャール系が議会で発言権を持つことを防ぐために、選挙区割りをチェコ人有利に変更し、500万を超えるドイツ系やマジャール系などの民族は、国会で一つの議席も持てなかった。彼らの要求はチェコ系によってことごとく無視された。世界同時不況が始まると、ドイツ系住民が多い地域では失業者ばかりになったが、ドイツ系失業者への手当は、チェコ系に比べてかなり少ない額であった。1935年から36年にかけて成立した法律で、チェコ系が公務員を占めることが多くなり、ドイツ系住民の地域にもチェコ系の警官が配置された。イギリス政府は6年にわたってチェコスロバキア政府に警告を続け、1937年末には、ドイツ系住民への配慮が必要だ、そうでなければ物理的な衝突が起きると強い警告を発した。1938年5月には、突然チェコスロバキアが軍を動員し、チェコ人警官がスデーテン地方で、誰何に答えなかったドイツ系の二人の男を射殺する事件が発生した。1920年から1938年にかけて、少数派となった民族は国際連盟に請願を繰り返した。そのうえ、1935年5月にはチェコスロバキアはソビエトと相互援助条約を締結していた。 1938年に入ると、西部ズデーテン地方のドイツ系住民はドイツへの編入に向けて実力行使に出た。1938年9月12日から13日には、ヒトラーはズデーテン地方のナチス党指導者コンラート・ヘンラインに蜂起を促し、ドイツとの併合を主張させた。チェコスロバキア政府は戒厳令の施行で対抗した。この状況をみたイギリスの首相ネヴィル・チェンバレンは9月15日、ヒトラーと会談し、チェコスロバキア政府との事前交渉なしで、ドイツ系住民が5割を超える地域のドイツ編入を容認し、フランスにもそれを納得させると約束した。9月22日、チェンバレンは英仏は9月15日の約束を承認したと伝えたが、ヒトラーはハードルを上げてズデーテン地方全域の併合を要求したため、交渉は決裂した。チェコスロバキア、ドイツ、イギリス、フランスは臨戦態勢に入った。1938年9月29日、ヒトラーはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン、フランス首相エドゥアール・ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニを招いてミュンヘン会談を行い、チェコスロバキアの意志とは無関係にズデーテン地方をドイツに譲ることが確定した。イギリスとフランスからも屈服を要求されたチェコスロバキアはズデーテンを差し出すしかなかった。ヒトラーは合意が成立するとチェンバレンと二人きりで秘密会談に臨み、「ドイツ総統と英国首相はミュンヘン協定と英独海軍協定こそが両国が二度と戦うことはないという証であると認めた」ということを明記した、独英友好をうたう書面に署名した。 イギリスの歴史教育サイトは、チェンバレンが対独宥和の代名詞となったミュンヘン協定を結んだ背景に次の6点を挙げている。 英国民はチェコスロバキアの領土をめぐって参戦することに同意しなかっただろうこと ヒトラーの要求の多くが正当であると思われていたこと チェンバレンは、ドイツがロシア共産主義の防波堤になるためにはそれなりの強国になる必要があると考えたこと 英国陸軍は戦う準備ができていなかったこと ヒトラーはドイツ経済を成長させていただけに、多くの人々がヒトラーに良い意味で驚嘆していたこと(1938年のタイム誌はヒトラーを「Man of The Year」に選出していた) チェンバレンは先の大戦の悲惨さが身に染みていたこと 当時のヨーロッパ各国は戦争が回避できたことを素直に喜んだ。そのことは帰国したチェンバレンをロンドン市民が熱狂的に歓迎したことからもわかる。 1938年10月2日、スデーテン地方併合の混乱に乗じて、ポーランドはチェコスロバキアに侵攻し、チェシンを併合した。チェコスロバキアに領土を奪取された恨みがあったハンガリーも、ルテニア地方の町コシス(現スロバキア)を奪った。少数民族の圧力を軽減するためチェコスロバキアは、スロバキア(スロバク系)、カルパチア・ルテニア(マジァール系・ウクライナ系)の自治を認めた。 自由都市ダンツィヒは国際連盟保護下に置かれ、実質的な経済運営はポーランドが担っていたが、人口の95%にあたる35万のドイツ系住民はドイツへの帰属を求める運動を活発化させていた。また、ドイツとダンツィヒを分断するポーランド回廊にもドイツへの復帰を求める150万のドイツ系住民がいた。ヒトラーは内政上、ダンツィヒとポーランド回廊問題を放置することはできなかった。ヒトラーはミュンヘン協定の交渉でズデーテン地方併合がドイツ最後の要求であると各国指導者に説明しており、1934年1月に期限10年の独波不可侵条約を締結していたポーランドとの領土回復交渉は、二国間の円満な合意によって解決したいと考えていた。 1938年10月24日、ドイツの外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップはポーランド駐独大使ヨーゼフ・リプスキに「ダンツィヒのドイツ返還を容認し、同市へのアクセスルートとなる道路および鉄道をポーランド回廊内に施設することに同意してほしい。その代わり、ダンツィヒの経済インフラストラクチャーおよび鉄道施設についてはポーランドがこのまま管理権限をもっても構わない。現行のポーランド国境についてはそれを認める。この問題が解決でき次第、独波反共同盟を結びたい」と提案した。ヒトラーもリッベントロップもこの提案をポーランドが容認するはずだとの自信があったが、ポーランドの外相ユゼフ・ベックはこの提案を拒否した。 1938年11月7日、ポーランドから逃れてきたユダヤ人の青年ヘルシェル・グリュンシュパンがパリのドイツ大使館を訪れ、三等書記官エルンスト・フォム・ラートを射殺した。この事件をきっかけにユダヤ人に対する略奪と暴行が起こった(水晶の夜)。11月13日、ドイツ政府はドイツ国内のユダヤ人に対し連帯責任として10億マルクの罰金を科した。さらにすべてのユダヤ人生徒を高校、大学から追放し、ユダヤ人が特定の職業に就くことを禁じた。ユダヤ人の映画館、劇場、博物館、コンサート、講演会への立ち入りが禁止され、運転免許も没収された。ユダヤ人隔離を徹底させる命令も出た。アメリカの大統領ルーズベルトはドイツ政府の措置を厳しく批判し、ドイツ情勢の聞き取りを理由に駐独大使ヒュー・ウィルソンを召還した。ドイツはこれに反発してディークホフ駐米大使を召還し、1938年4月にドイツが合併したオーストリアの対外債務の継承を拒んで以来こじれていた米独関係はさらに悪化した。 1938年12月6日、仏独友好協定が調印され、フランスはヒトラーの東方への拡張計画に同意する態度をとった。 1939年1月5日、ヒトラーはポーランドの外相ベックをベルヒテスガーデンに招き直接交渉に臨んだ。ヒトラーの要求は、イギリスの歴史家ベイジル・リデル=ハートが驚くほど穏健なものであったと書くほどであったが、ベックはドイツの提案をすべて拒否した。独外相リッベントロップとベックはこの案件について、1月6日にベルリンで、1月25日から27日にかけてワルシャワで話し合ったが、何の進捗もなかった。3月になって、ヒトラーはベックとミュンヘンで会談し、ポーランドに格別の配慮を見せたが、ベックはヒトラーの示した条件をただちに拒否した。こうしてヒトラーが期待するダンツィヒ・ポーランド回廊問題の外交的処理は暗礁に乗り上げた。 1939年1月21日、ヒトラーはチェコスロバキア外相フランティシェク・フヴァルコフスキーをベルリンに呼び、チェコスロバキアはただちに国際連盟を脱退すること、その外交をナチス政権の要求に沿ったものにすること、陸軍を縮小することを要求した。 1939年2月、アメリカ駐仏大使ウィリアム・ブリットはポーランドの駐仏大使ユリウシュ・ウカシェヴィチに対して、「戦いが始まればアメリカはすぐにでも英仏の側に立って参戦する」と語り、アメリカ大統領の決意を伝えた。 1939年3月になると、チェコスロバキアの少数民族の動きが激しくなったため、3月7日、前年11月30日に就任した大統領エミール・ハーハは、独立を主張するルテニア自治政府を解散させ、3月10日、同じく独立を主張するスロバキア自治政府の首相ヨゼフ・ティソを解任し、スロバキアの首都ブラチスラヴァを占領した。ティソはウィーンに脱出し、3月13日にヒトラーと会談した。翌14日、スロバキアはチェコスロバキアからの独立を宣言し、ルテニアもカルパト・ウクライナとして独立を宣言した。ハンガリー王国はヒトラーの容認を受けてルテニアに侵攻した。ハーハはチェコ系が多数派のボヘミア、モラヴィアの安全保障を考えなくてはならなくなった。3月15日午前1時、ハーハ大統領とヒトラーの交渉がベルリンで始まり、午前4時、ハーハはチェコ民族とその国家をドイツの保護下に委ねる書面に署名した。この日、ヒトラーはプラハに入った。 ヒトラーの指示により傀儡国家のスロバキア共和国が成立し、チェコはドイツの保護領「ベーメン・メーレン保護領」となった(チェコスロバキア併合)。この直後の1939年3月23日には、1923年にリトアニアによって占領されたメーメルを返還させることにも成功している。 3月15日、アメリカの大統領ルーズベルトはイギリスの外相ハリファックスに対して、イギリスがその対独外交方針を変更しなければ、米国世論は反英に傾くと脅し、ドイツから英大使を召還することまで要求した。英首相チェンバレンは米大統領やチャーチルらの対独強硬派から圧力を受けて、それまでの対独宥和外交から対独強硬外交に変更し、3月31日、ポーランドの独立保障宣言をした。フランスも追随した。一方ポーランドは、アメリカやイギリスから圧力を受けて対独強硬姿勢を取った。その結果、ヒトラーがダンツィヒ・ポーランド回廊問題を外交交渉によって解決する道は閉ざされた。4月13日には、イギリスはフランスとともに、ギリシャとルーマニアにも軍事援助を約束した。 4月28日、憤ったヒトラーは独英海軍協定と独波不可侵条約の破棄を発表した。しかし、ヒトラーはポーランドとの外交交渉を諦めておらず、「ドイツとポーランドが新しい合意に至るドアはまだ開いている。両国が対等な立場であることを前提に、そのような合意がなることを歓迎したい」と訴えた。5月5日、英仏の独立保障を得たポーランドのベックは議会演説で、ドイツとの交渉を拒絶すると言明した。それでもドイツは諦めず、ドイツメディアに反発させないようにさせた。「ドイツは英仏両国がポーランドに対して圧力をかけ、交渉再開させるだろうと思っている。ダンツィヒ帰属問題をめぐってヨーロッパが戦争する価値などないことぐらいすぐにわかるだろう。それがドイツの考えである」とフランス駐独大使は本省に報告した。しかしポーランドの対独交渉拒否の姿勢は変わらなかった。 4月以降、英仏両国はソビエトと三国軍事同盟締結のための交渉を続けていた。英仏ソ三国同盟が締結されれば、ドイツを牽制できることは確実だった。同盟の政治的条件についての詰めは7月末に終わり、軍事面での条件を詰める作業だけになっていた。8月11日、英仏代表団はモスクワに入ったが、交渉は一向に進捗せず、8月21日に無期限延期となった。英仏軍事使節団は貨客船で11日間かけてソ連入りした後、レニングラードからモスクワまで6日かけて移動していた。しかも、使節団を率いたのは、英仏両軍の中でも地位の低い人物で、ソ連側が要求した政府高官の派遣は英政府によって拒絶されていた。
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