外交と生存圏とは? わかりやすく解説

外交と生存圏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)

アドルフ・ヒトラー」の記事における「外交と生存圏」の解説

ナチ党政権下時代外交政策は、一般にヒトラー能動的な計画帰すヒトラー中心主義」的解釈が行われることが多い。ヒトラー時に外交政策大きく関与したことは事実であるが、近年ではヨアヒム・フォン・リッベントロップドイツ外務省ゲーリングといった国内諸勢力影響研究対象となり、「ドイツの(外交政策を、ヒトラー同一視し続けることができるであろうか」という歴史家ウィリアム・カー指摘存在する1922年からヒトラー訴えてきた基本的な外交方針は親英伊・反仏ソであり、当時ドイツ外務省方針とは対ソビエト連邦政策除いて大きく異ならなかった。ヒトラーには3つの固い信念があった。第一ベルサイユ条約バラバラになったドイツ再統一すること、第二資源確保のためにロシアあるいはバルカン半島方面領土拡張すること、第三ロシアの共産主義者根絶やしにすることであった西ヨーロッパ知識人保守系はもちろんリベラル系の一部までが、ロシア革命思想伝播恐れており、その防波堤として、ヒトラー指導されドイツ期待していた。第一次世界大戦では対独強硬派であった元英首相ロイド・ジョージ1934年11月28日に、「近いうちに、おそらく一年以内だと思うが、わが国保守主義勢力は、ドイツヨーロッパで拡散する共産主義思想抵抗する前線基地だとする考え一致するであろうドイツの再軍備拙速批判するようなことがあってはならないわが国友邦としてドイツ歓迎する日が来る」と述べている。ドイツ軍拡イギリスお墨付きの上進んだ1935年3月再軍備宣言行い5月徴兵制実施した。そして二年間秘密交渉結果1935年6月英独海軍協定ドイツ語版)が締結された。ドイツ海軍軍艦保有の上限を対英35%とし、潜水艦Uボート)の建造は対英45%(状況によっては対英100%まで建造可能)であった。この協定ヴェルサイユ条約実質反故にするものであり、主要国には寝耳に水協定であったフランスにとっては大きな打撃となった猛烈な反独感情抱き続けフランスドイツの再軍備動き反応してロシア接近した1935年5月2日、仏ソ相互援助条約パリ調印され1936年2月27日フランスはこの条約批准したヒトラーはこの条約ロカルノ条約違反であるとみなしており、批准されないことを願っていたが、批准された以上はラインラント無防備のままにしておけなかった。 1936年3月にはヴェルサイユ条約ロカルノ条約反して非武装地帯定められていたラインラントへの進駐実行したヒトラー主要な理由ソビエト赤化工作攻勢対抗しなければならないことを挙げた。そのためには、①ドイツベルギーフランス国境地帯の非武装地帯関わる新たな多国間協定、②ベルギーフランスドイツオランダによる期限25年不可侵条約、③西ヨーロッパ諸国対すソビエトによる無警告攻撃への対処関わる航空協定、④ドイツ東方位置する国との不可侵条約、の4つ新し条約が必要であると訴えたイギリスの対独宥和姿勢肌で感じていたヒトラーは、イギリスはこの動き理解を示すだろうとの自信はあったが、「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。もし、フランス軍ラインラント進軍してきたら、貧弱な軍備ドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった」と後に述べている。フランス軍からの攻撃はなかった。フランスはこの問題国際連盟理事会提訴し連盟ドイツ行為ベルサイユ条約ロカルノ条約違反決議したが、制裁についての議論はなされなかった。ヒトラー3月29日国民投票実施し、98.79%がラインラント進駐を是とした。ロカルノ体制の崩壊ボルシェビキ思想拡散ヨーロッパ諸国怯えた一方ソビエトは、再生ドイツ恐れヨーロッパ諸国向かって、彼らを救済する国がソビエトであるとのポーズをとり始めたヒトラーは、共産主義脅威対抗しヨーロッパ内部における地位高めたいという共通の思いを持つ、ムッソリーニと独伊協定締結した。さらにヒトラーは、ベルサイユ条約ではドイツ重要な河川海運国際連盟国際委員会管理下に置かれることになっていたが、この条項破棄する発表したヒトラー1936年7月スペイン内戦において、スペイン共和国政府過激な思想西ヨーロッパ全体広がることを恐れて反乱軍フランシスコ・フランコ支援決定した同年9月ヒトラー元英首相ロイド・ジョージベルヒテスガーデン会談し共産主義思想からドイツ防衛していることを評価された。同年11月18日、独伊両国フランコ政権正式に承認しドイツ空軍部隊イタリア地上部隊派遣した1937年4月26日には、人民戦線軍の退却阻止するために、ドイツ空軍コンドル軍団」による、合法的軍事目標であるなどを狙ったゲルニカ空爆が行われたが、目標をそれた爆弾市街地直撃し付属的被害として、一般市民犠牲者出た東欧主眼とするヒトラー対外政策スペインはほとんど関係なかったが、スペイン内戦長引けば長引くほど、国際社会の目はドイツ再軍備から遠のき、人民戦線政府支援をめぐり国論二分されたフランスの政治混乱続き英仏イタリアの関係が悪化してイタリアドイツに頼らざるを得なくなるなど、ヒトラーにとって好都合であった実際ドイツ第三国通じて人民戦線軍にも武器売却しており、ヒトラースペイン内戦早期終結ドイツ国益合致しない考えていた。1938年春、ヒトラーは、フランス国境接すカタロニア地方ではなく、南のバレンシア攻めるよう、フランコ進言することを命じたが、それは、人民戦線派の拠点であるカタロニア占領すれば、内戦終わってしまうからであった1931年発生した満州事変以降ソ連イギリスアメリカとの間の関係悪化鮮明化していた日本との関係が親密化を増し1936年11月には、駐独日本国特命全権大使武者小路公共ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップの間で日独防共協定結ばれヨシフ・スターリン率いソビエト連邦への対抗目指した。同協定は翌1937年11月6日イタリア入り日独伊防共協定となった1937年1月30日ヒトラー演説で、ベルサイユ条約戦争責任条項(第231条)を弾劾しドイツオーストリアイタリア日本ポーランド締結した条約協定挙げて他国との協調重要性訴えベルギーオランダへ中立保障案件フランスとは事を構える考えがないことを言及したが、対ソビエト姿勢だけは厳しかった1937年11月5日には陸海空軍首脳集め、「東方生存圏獲得のための戦争計画告げたホスバッハ覚書)。計画批判的であった国防相ブロンベルクらは陰謀によって追放され独立傾向があった軍を完全に掌握したブロンベルク罷免事件)。 1937年11月19日ヒトラーイギリス枢密院議長ハリファックス卿ベルヒテスガーデン会談したハリファックス卿ベルサイユ条約によるオーストリアチェコスロバキアおよびダンツィヒ関わる線引き変更については反対しない、と伝えた。ただし、それを平和的な手段行なうことが条件であったハリファックス卿考えイギリス政府考えを示すものであることは、彼が翌年2月外務大臣登用されたことからも明らかだった。彼が山荘を後にした時のヒトラー高揚し、「ハリファックスは賢い政治家だ。ドイツ主張100%支持してくれた」と述べたオーストリア併合第一歩である1936年7月11日結ばれた独墺間の合意では、両国ドイツ文化圏属していることを確認し文化交流阻害する規制即時撤廃謳っており、両国新聞相手国を客観的に報道し攻撃的な内容にしてはならないこと、オーストリア外交は、ドイツ進める平和外交勘案しながら進めることが決められていた。またオーストリアには野党からも代表を指名し国家運営責任もたせることになったナチス・ドイツのプロパガンダ組織は、表面上は友好的な態度であったが、その裏国家社会主義宣伝努めていた。1938年2月4日中央ヨーロッパで攻勢に出ることに反対していた国防相ブロンベルクらが突然解任された。1938年2月12日ヒトラーオーストリア首相クルト・シュシュニックベルヒテスガーデン会談し自発的に併合の道を歩むことを迫ったその手始めとして、オーストリア・ナチス党幹部入閣ナチス党員の釈放、対独強硬派参謀総長解任要求し、「オーストリア助けに来る国はどこにもない」と続けたイギリスでは、ベルサイユ体制歪み解消理解示したハリファックス卿が、対独強硬派アンソニー・イーデンに代わって外相に就き2月21日)、同じく強硬派だった外務次官ロバート・ヴァンシタートは更迭された。首相のシュシニクはヒトラー要求表面的に容れる一方3月13日国民投票実施しようとした。この状況見たヒトラー軍事侵攻決断し3月12日朝、ドイツ軍オーストリア侵攻したカトリック教国のオーストリアはもともとプロテスタント国家プロイセンが嫌いで、普墺戦争1866年)の敗北もあり、プロイセン嫌いの感情根深いものがあったが、ドイツ軍への抵抗皆無だったオーストリア国民侵入するドイツ軍をむしろ歓迎した発砲事態一つもなく、花束迎えられた。 1938年3月には武力による威嚇オーストリアの首相アルトゥル・ザイス=インクヴァルト就任させ、オーストリア併合こぎつけた。かつてのオーストリア=ハンガリー帝国皇太子オットー・フォン・ハプスブルクドイツの侵略計画対抗する構えをみせたが、ヒトラーはこの動き押さえつけてオーストリアの内閣交代させたのである。なお、ヒトラーハプスブルク家憎悪しており、オットーオーストリア政府頂点立った場合はただちにオーストリア侵攻する計画練っていた。その名も、ハプスブルク家当主オットーの名を冠したオットー作戦ドイツ語版)」というものだった。 こうしてオーストリア国内抵抗勢力封じ込めた後、3月12日にはヒトラー自身オーストリア入りウィーン生まれ故郷リンツ戻ったオーストリア国民ヒトラー里帰り凱旋のごとく迎えたヒトラー故郷リンツこのように演説した。「もし神がドイツ国家の指導者たるべく私をこの町に召しただとすれば、それは私に一つ任務授けるためである。その任務とはわが愛する故国ドイツ国家に還付することである。私はその任務信じた。私はそのために生き、そのために戦ってきた。そして今その任務果たした信じる」。なお、この時、ヒトラーは、父親生地演習地選び破壊している。ヒトラー3月15日朝、ウィーン市民の前で演説した広場にはヒトラー一目見ようとする25万人市民集まったヒトラー当初連邦国家にするつもりであったが、予想もしなかった熱烈な歓迎見て大ドイツ帝国一部として併合することに決めたオーストリア国民歓迎は、サン=ジェルマン条約対す恨みもあったが、ドイツ進めてきた経済再建評価しオーストリア苦境から救ってくれるのではないか強く期待したからであったドイツ併合されオーストリア経済発展目覚ましかった。投資工業生産住宅建設活発化消費増大した観光旅行を楽しむ者が増え生活水準はたちまちに上がった1937年失業率は21.7%もあったが、1939年には3.2%まで低下したオーストリア支配下入れたヒトラー続いて第一次大戦後誕生した民族人工国家で、東方進出への障害であるチェコスロバキアチェコ系650ドイツ系325スロバキア系300ハンガリー系70ウクライナ系50ポーランド系6)を狙い、まずドイツ系住民がほとんどを占めズデーテン地方併合しようとした1919年ベルサイユ会議では、ウィルソン民族自決の原則反して西部ボヘミアではドイツ系の多いスデーテン地方北部モラヴィアではポーランド炭鉱地帯南部ハンガリー方面ではダニューブ川流域東部ウクライナ南部にあたる地域チェコスロバキア領に含まれた。チェコスロバキア政府は、民族独自の教育容認信教の自由人口比例した議員数など少数民族への配慮約束しスイスのように民主主義構築の礎になると約束したが、人口25%相当するドイツ系、あるいはそれに匹敵するスロバキア系マジャール系が議会発言権を持つことを防ぐために、選挙区割りチェコ人有利に変更し500超えるドイツ系マジャール系などの民族は、国会で一つ議席持てなかった。彼らの要求チェコ系によってことごとく無視された。世界同時不況が始まると、ドイツ系住民が多い地域では失業者ばかりになったが、ドイツ系失業者の手当は、チェコ系比べてかなり少ない額であった1935年から36年にかけて成立した法律で、チェコ系公務員占めることが多くなり、ドイツ系住民地域にもチェコ系警官配置された。イギリス政府6年わたってチェコスロバキア政府警告続け1937年末には、ドイツ系住民への配慮必要だそうでなければ物理的な衝突起きると強い警告発した1938年5月には、突然チェコスロバキアが軍を動員しチェコ人警官がスデーテン地方で、誰何答えなかったドイツ系二人の男を射殺する事件発生した1920年から1938年にかけて、少数派となった民族国際連盟請願繰り返した。そのうえ、1935年5月にはチェコスロバキアソビエト相互援助条約締結していた。 1938年に入ると、西部ズデーテン地方ドイツ系住民ドイツへ編入向けて実力行使出た1938年9月12日から13日には、ヒトラーズデーテン地方ナチス党指導者コンラート・ヘンライン蜂起促しドイツとの併合主張させた。チェコスロバキア政府戒厳令施行対抗した。この状況をみたイギリスの首相ネヴィル・チェンバレン9月15日ヒトラー会談しチェコスロバキア政府との事前交渉なしで、ドイツ系住民が5割を超える地域ドイツ編入容認しフランスにもそれを納得させる約束した9月22日チェンバレン英仏9月15日約束承認した伝えたが、ヒトラーハードル上げてズデーテン地方全域併合要求したため、交渉決裂したチェコスロバキアドイツイギリスフランス臨戦態勢入った1938年9月29日ヒトラーイギリス首相ネヴィル・チェンバレンフランス首相エドゥアール・ダラディエイタリア首相ムッソリーニ招いてミュンヘン会談行いチェコスロバキア意志とは無関係にズデーテン地方ドイツに譲ることが確定したイギリスフランスからも屈服要求されチェコスロバキアズデーテン差し出すしかなかった。ヒトラー合意成立するチェンバレン二人きり秘密会談に臨み、「ドイツ総統英国首相ミュンヘン協定英独海軍協定こそが両国二度と戦うことはないという証であると認めたということ明記した、独英友好をうたう書面署名したイギリスの歴史教育サイトは、チェンバレンが対独宥和代名詞となったミュンヘン協定結んだ背景次の6点挙げている。 英国民はチェコスロバキア領土めぐって参戦することに同意しなかっただろうこと ヒトラー要求多くが正当であると思われていたこと チェンバレンは、ドイツロシア共産主義防波堤になるためにはそれなりの強国になる必要がある考えたこと 英国陸軍は戦う準備ができていなかったこと ヒトラードイツ経済成長させていただけに、多く人々ヒトラー良い意味驚嘆していたこと(1938年タイム誌ヒトラーを「Man of The Year」に選出していた) チェンバレン先の大戦悲惨さ身に染みていたこと 当時ヨーロッパ各国戦争回避できたことを素直に喜んだそのこと帰国したチェンバレンロンドン市民が熱狂的に歓迎したことからもわかる。 1938年10月2日、スデーテン地方併合混乱乗じてポーランドチェコスロバキア侵攻しチェシン併合したチェコスロバキア領土奪取され恨みがあったハンガリーも、ルテニア地方の町コシス(現スロバキア)を奪った少数民族圧力軽減するためチェコスロバキアは、スロバキア(スロバク系)、カルパチア・ルテニア(マジァール系・ウクライナ系)の自治認めた自由都市ダンツィヒ国際連盟保護下に置かれ実質的な経済運営ポーランド担っていたが、人口95%にあたる35ドイツ系住民ドイツへ帰属求め運動活発化させていた。また、ドイツダンツィヒ分断するポーランド回廊にもドイツへ復帰求め150ドイツ系住民がいた。ヒトラー内政上、ダンツィヒポーランド回廊問題放置することはできなかった。ヒトラーミュンヘン協定交渉ズデーテン地方併合ドイツ最後要求であると各国指導者に説明しており、1934年1月期限10年独波不可侵条約締結していたポーランドとの領土回復交渉は、二国間円満な合意によって解決したい考えていた。 1938年10月24日ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップポーランド駐独大使ヨーゼフ・リプスキに「ダンツィヒドイツ返還容認し、同市へのアクセスルートとなる道路および鉄道ポーランド回廊内に施設することに同意してほしい。その代わりダンツィヒ経済インフラストラクチャーおよび鉄道施設についてはポーランドこのまま管理権をもって構わない現行のポーランド国境についてはそれを認める。この問題解決でき次第、独波反共同盟結びたい」と提案したヒトラーリッベントロップもこの提案ポーランド容認するはずだとの自信があったが、ポーランド外相ユゼフ・ベックはこの提案拒否した1938年11月7日ポーランドから逃れてきたユダヤ人青年ヘルシェル・グリュンシュパンパリドイツ大使館訪れ三等書記官エルンスト・フォム・ラート射殺した。この事件きっかけユダヤ人対す略奪暴行起こった水晶の夜)。11月13日ドイツ政府ドイツ国内ユダヤ人対し連帯責任として10億マルク罰金科した。さらにすべてのユダヤ人生徒高校、大学から追放しユダヤ人特定の職業に就くことを禁じたユダヤ人映画館劇場博物館コンサート講演会への立ち入り禁止され運転免許没収された。ユダヤ人隔離徹底させる命令出たアメリカの大統領ルーズベルトドイツ政府措置厳しく批判しドイツ情勢聞き取り理由駐独大使ヒュー・ウィルソン召還したドイツはこれに反発してディークホフ駐米大使召還し1938年4月ドイツ合併したオーストリア対外債務継承拒んで以来こじれていた米独関係はさらに悪化した1938年12月6日仏独友好協定調印されフランスヒトラー東方への拡張計画同意する態度をとった。 1939年1月5日ヒトラーポーランド外相ベックベルヒテスガーデン招き直接交渉臨んだヒトラー要求は、イギリスの歴史ベイジル・リデル=ハートが驚くほど穏健なものであったと書くほどであったが、ベックドイツ提案をすべて拒否した。独外相リッベントロップベックはこの案件について、1月6日ベルリンで、1月25日から27日にかけてワルシャワ話し合ったが、何の進捗もなかった。3月になってヒトラーベックミュンヘン会談しポーランド格別配慮見せたが、ベックヒトラー示した条件をただちに拒否した。こうしてヒトラー期待するダンツィヒ・ポーランド回廊問題外交的処理は暗礁に乗り上げた1939年1月21日ヒトラーチェコスロバキア外相フランティシェク・フヴァルコフスキーをベルリン呼びチェコスロバキアはただちに国際連盟脱退すること、その外交ナチス政権要求沿ったものにすること、陸軍縮小することを要求した1939年2月アメリカ駐仏大使ウィリアム・ブリットはポーランド駐仏大使ユリウシュ・ウカシェヴィチに対して、「戦い始まればアメリカはすぐにでも英仏の側に立って参戦する」と語りアメリカ大統領決意伝えた1939年3月になると、チェコスロバキア少数民族動き激しくなったため、3月7日前年11月30日就任した大統領エミール・ハーハは、独立主張するルテニア自治政府解散させ、3月10日同じく独立主張するスロバキア自治政府首相ヨゼフ・ティソ解任し、スロバキア首都ブラチスラヴァ占領したティソウィーン脱出し3月13日ヒトラー会談した。翌14日スロバキアチェコスロバキアからの独立宣言しルテニアカルパト・ウクライナとして独立宣言したハンガリー王国ヒトラー容認受けてルテニア侵攻したハーハチェコ系多数派ボヘミアモラヴィア安全保障考えなくてはならなくなった3月15日午前1時、ハーハ大統領ヒトラー交渉ベルリン始まり午前4時ハーハチェコ民族とその国家ドイツ保護下に委ねる書面署名した。この日、ヒトラープラハ入ったヒトラー指示により傀儡国家スロバキア共和国成立しチェコドイツ保護領ベーメン・メーレン保護領となったチェコスロバキア併合)。この直後1939年3月23日には、1923年リトアニアによって占領されメーメル返還させることにも成功している。 3月15日アメリカの大統領ルーズベルトイギリス外相ハリファックスに対してイギリスがその対独外交方針変更しなければ米国世論反英に傾くと脅しドイツから英大使召還することまで要求した英首相チェンバレン米大統領チャーチルらの対独強硬派から圧力受けてそれまで対独宥和外交から対独強硬外交変更し3月31日ポーランド独立保障宣言をした。フランス追随した一方ポーランドは、アメリカイギリスから圧力受けて対独強硬姿勢取ったその結果ヒトラーがダンツィヒ・ポーランド回廊問題外交交渉によって解決する道は閉ざされた。4月13日には、イギリスフランスとともにギリシャルーマニアにも軍事援助約束した4月28日憤ったヒトラーは独英海軍協定独波不可侵条約破棄発表した。しかし、ヒトラーポーランドとの外交交渉諦めておらず、「ドイツとポーランド新し合意に至るドアはまだ開いている。両国対等な立場であることを前提に、そのような合意がなることを歓迎したい」と訴えた5月5日英仏独立保障得たポーランドベック議会演説で、ドイツとの交渉拒絶する言明した。それでもドイツ諦めず、ドイツメディアに反発させないようにさせた。「ドイツ英仏両国ポーランドに対して圧力をかけ、交渉再開させるだろうと思っている。ダンツィヒ帰属問題めぐってヨーロッパ戦争する価値などないことぐらいすぐにわかるだろう。それがドイツ考えである」とフランス駐独大使本省報告した。しかしポーランドの対独交渉拒否姿勢は変わらなかった。 4月以降英仏両国ソビエト三国軍事同盟締結のための交渉続けていた。英仏三国同盟締結されれば、ドイツ牽制できること確実だった同盟政治的条件についての詰め7月末に終わり軍事面での条件詰め作業だけになっていた。8月11日英仏代表団モスクワ入ったが、交渉一向に進捗せず、8月21日無期限延期となった英仏軍事使節団貨客船11日間かけてソ連入りした後、レニングラードからモスクワまで6日かけて移動していた。しかも、使節団率いたのは、英仏両軍中でも地位の低い人物で、ソ連側要求した政府高官派遣英政府によって拒絶されていた。

※この「外交と生存圏」の解説は、「アドルフ・ヒトラー」の解説の一部です。
「外交と生存圏」を含む「アドルフ・ヒトラー」の記事については、「アドルフ・ヒトラー」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「外交と生存圏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「外交と生存圏」の関連用語

外交と生存圏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



外交と生存圏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアドルフ・ヒトラー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS