演習地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 09:14 UTC 版)
演習地として西三河から尾張東部にかけてのいわゆる尾三の地がなぜ選ばれたかであるが、『半田市誌』にはその理由として、「知多半島が、古来、伊勢から東海道一帯にかけて軍事的要地であったこと。また陸海軍の演習を合同で行う上での便宜を有する地であったこと」と記述されている。 だが、知多半島が軍事的要地であったとはにわかに肯定しがたい。古来、知多半島の領有を巡っての合戦があったということは歴史上、古代から近代までないのである。知多半島を足掛かりにして勢力を三河、尾張、伊勢方面へ伸ばした武将が存在したこともないのである。 中世に三河から知多半島を横断し、伊勢へ至る交通路が開かれていたことはあるが、それをもってしても軍事的要地であったとは言えない。 演習が行われたので後付の理屈を考え出したと考えざるを得ない。また演習を行う上での便宜を有する地であったとの記述も、具体的にどのような便宜を供することが出来たのかについての言及がないので、これも後付の理屈であるとしか考えようがない。 では実際のところ、いかなる理由で尾三の地が演習地として選択されたのか。その答えは、当時の幹線鉄道の運転区間と師団の配置にあるのである。現在の幹線鉄道のうち、明治23年(1890年)の時点で全線営業運転をしていたのは東海道本線のみである。 そして師団は近衛師団・第一師団が東京、第二師団が仙台、第三師団が名古屋、第四師団が大阪、第五師団が広島、第六師団が熊本に配置されていた。 飛行機や自動車のない時代であり、軍隊の移動は鉄道か船か徒歩行進によるしかない。演習に参加する部隊の移動や諸外国から演習陪観に招待した公使たち、さらには一般拝観者の演習地への移動を考慮すれば、東海道沿線以外に演習の地を求めることは出来ない。 しかも、海戦に引き続き陸戦をするという演習日程を考えれば、御召艦(おめしかん)が入港出来る港湾があり、かつそこまで鉄道で移動が可能で、さらにその近傍に師団規模の部隊が展開できる開豁地(かいかつち)のあることが必要不可欠の条件となる。 東海道沿線でそれらの条件を満たす場所を探すと、天然の良港を有する武豊からその対岸に広がる濃尾平野を有する尾三の地に限られる。武豊線は、東海道線の敷設のために武豊港に陸揚げされた資材を運搬するために敷設された路線であり、武豊港から名古屋へは直通で運行されていた。また武豊港は水深もあり、天然の良港である。木製とはいえ大型の桟橋も整備されており、荷役作業もできるようになっていた。武豊港については、明治24年(1891年)に愛知県から内務大臣あてに「特別輸出港中に加えられたき件」として建議され、明治32年(1899年)に開港場として指定を受けていることから考えても、大型軍艦の入港に何らの支障もない。 明治20年(1887年)に、京都での孝明天皇二十年祭を済ませた天皇と皇后は東京への帰途、現在の武豊町役場の位置にあった長尾山へ行幸啓された。そこから武豊港で行われた陸海軍対抗演習を天覧され、その後、武豊港から軍艦に乗御し帰京された。そのことも大演習で武豊港を使用することになった理由の一つになったと言える。
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