古代から近代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 02:02 UTC 版)
被服の誕生以降、長きにわたって自給自足の時代が続き、その入手、製作の困難さにもかかわらずすべての人にとっての必需品だったために非常に価値のあるものであった[要出典]。被服の原料である布が、その有用性と希少性のために古代においてはしばしば貨幣としての役割を持ち、中国や日本においては租庸調のうちの「庸」または「調」として租税のうちに組み入れられていたことは、その表れである。社会上層を除いては所持点数も少なく、奈良時代の下級役人層では所持する衣服を洗濯するには、わざわざ休暇を申請することも珍しくなかった。 古典古代期に利用された衣服は、トーガのように幅広の布を体に巻き付けるか、一枚の布を袋状に仕立てて首と腕を出す部分に穴を開けたチュニック(ポンチョ)やガウンの類であった。これらの衣服は、布地を体型に合わせて裁断することなく仕立てるために、着るというよりも纏うものであり、ひだが多く緩やかなラインになる特徴がある。中世初期に中央アジアのテュルク系騎馬民族が、布地を体型に合わせて裁断し前開きに仕立てたカフタンや革靴を使用するようになる。寒さと騎乗に適応したジャケット型の上着やズボンと革靴は、モンゴル帝国の拡大とともにユーラシア大陸の東西に伝播し、独自の進化を遂げていく。 被服の材料としては、羊毛、麻、絹、綿といった自然繊維や毛皮が主なものであった。このうち絹は歴史時代を通じて常に価値が高く、高級な素材として扱われた。綿は低緯度地帯での栽培が中心でありヨーロッパや東アジアでの本格利用は遅れたものの、その安さや着心地の良さから16世紀以降本格的な利用が始まり、最も一般的な被服素材の一つとなった。日本においては古来よりカラムシから取られた麻(苧麻)が主な衣服素材であり、また絹の生産も行われていたが、17世紀前半には保温性や柔軟性に優れた綿の生産が急速に広がり、主力衣料原料となっていった。 被服はこうした価値の高さから生産工程や素材に関しての改良が絶えず加えられていたが、織物に関しては1760年代のイギリスにおける産業革命で織機、紡績機の改良が進み水力や蒸気機関の応用によって格段に生産能力が向上した。さらに1820年代には型紙とミシンの普及によって、一定のサイズでの衣服の大量生産が可能になり、既製服が誕生して、1850年代以降急速に拡大した。また、それまで天然素材しか存在しなかった染料や繊維に関しても、合成染料(19世紀中頃)や化学繊維(19世紀末)などが発明され、素材の種類が大幅に広がった。西洋世界の文化的軍事的優位を基盤として、欧米以外の世界各地に洋服が普及しはじめたのもこの時期のことである。日本においては戦前から徐々に洋服化が進行していたものの、戦後すぐに完全な和服からの転換が起き、洋服が日常着となった。 第二次世界大戦が始まると、日本では1942年2月1日から衣類の配給制(点数切符制)が導入された。都市部の住民には1人年間100点、都市部以外の住民には1人年間80点が年齢に関係なく与えられ、点数化された衣料品(例:スーツ一式31点、国民服、学生服14点、婦人用ワンピース4点など)を購入することができた。当初は内地のみに限った1年間の期限付き制度であったが、戦局が悪化するにつれ延長していった。
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