騎馬民族とは? わかりやすく解説

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きば‐みんぞく【騎馬民族】


騎馬民族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 06:18 UTC 版)

フン族の想像図(19世紀)

騎馬民族(きばみんぞく)は、を主要な移動手段として用いる民族であり、遊牧民の騎馬民族、狩猟民の騎馬民族、農耕民の騎馬民族など、その生業はさまざまである[1]

騎馬民族とは、馬を多数飼養し、騎乗による機動力を自分たちの日常的な生産活動から交易を含む対外活動に至るまで利用し[2]、騎馬戦術を用いては農耕地帯に進出して、略奪ないし征服をおこない、また、そこに移住した諸民族をまとめた呼称である[3]

本来的には、ユーラシア大陸中央部のステップ(草原)の遊牧騎馬民族または騎馬遊牧民族のことを指している[2]

概要

Kyz kuu(girl chasing)と称される、チュルク系民族の若い男女で競う馬術ゲーム(カザフスタン2000年)。
女性が勝利して男性にムチをふるっている。2人ともカザフの伝統的な衣装を着ている。

騎馬民族には、ユーラシア内陸部の乾燥地帯を中心に活動した遊牧民系の騎馬民族と、元来は乾燥地帯と森林または農耕地帯とが近接する一帯で牧畜、農耕、狩猟にたずさわっていた非遊牧民系の騎馬民族がある[3]

遊牧民系の騎馬民族には、西方においてはスキタイサルマタイパルティアアランフンアヴァールハザールなどの諸民族、東方にあっては、匈奴柔然突厥ウイグル契丹モンゴルジュンガルといった勢力が知られている[2][3]。その中間には、サカ烏孫康居エフタルカザフなどの諸族が知られる[2]

一方、非遊牧民系は、東方の烏桓鮮卑夫余女真満洲族などである[3]高句麗)を騎馬民族として扱うこともある[3]。非遊牧民系の騎馬民族も、多くの場合、隣接した遊牧民系騎馬民族の影響を受けて騎馬民族化したものと考えられる[3]

歴史

古代メソポタミアニネヴェで出土したクツワ

当初、ウマは食料用であったという[4]。それが家畜化されたのは紀元前4千年紀ドニエプル川流域で興ったスレドニ・ストグ文化においてであったと考えられる[4][注釈 1]。ただし、このウマは放牧によるのではなく、囲いの中で飼養されていたとみられる[4]。そして、乗馬の風習の考古学的証拠は約5,500年前のボタイ文化英語版にさかのぼり、ヨーロッパの草原地帯における最古の乗馬を示す証拠はヤムナ文化(紀元前3600年ごろ~紀元前2200年ごろ)から見つかっている(約5,000年前)。なお、乗用に先だって、ウマは駄載や牽引の用役に供されたものと考えられるが、その運搬力や機動力は生活や生業の便益拡大のみならず戦闘力として重用された[5]

スキタイの黄金製の
シカの浮彫彫刻がなされている

騎馬民族の成立に果たした遊牧民の役割は、上述した経緯からも、きわめて大きいといわなければならないが、遊牧と騎馬とは必ずしも最初から結び付いていたわけではない[3]。騎乗には、手綱ハミ、クツワが最低限必要不可欠である[4][6][注釈 2]クラアブミもまた必要である[6]。こうした道具を用いた騎馬術が古代オリエントの地で普及したのは、おそらくは紀元前10世紀前後であろうと考えられている[3][注釈 3]。そして、おそらくは当該地域から騎乗術を学んでそれを遊牧と結合させ、世界史上最初の遊牧騎馬民族国家を成立させたのが、アーリア系(イラン系)のスキタイである[3]。スキタイは、紀元前8世紀の末ごろ、東方より南ロシアのステップ地帯に遊牧騎馬民族として出現し、紀元前6世紀以後、ポントス草原を中心に南ロシアから北コーカサスにかけての地域に強大な遊牧国家を樹立した[2][3][注釈 4]。その文化は、二枝式のハミと棒状の鏡板とからなるクツワといった馬具、アキナケス型剣や両翼・三翼鏃といった武器、および、馬具・武器・装身具バックルやピンなど)などに施された動物文様(動物のかたちを透彫り、または浮彫りにした文様)に特色がある[3][7][8][注釈 5][注釈 6]。動物の文様はまた、衣装やウマの飾りにも施された[7][8]。スキタイは、アケメネス朝ペルシアダレイオス1世アルゲアス朝マケドニアの大王アレクサンドロス3世と戦い、これを破ったこともあった[注釈 7]護雅夫によれば、「遊牧民は騎馬術の採用によって、蒸気機関の発明以前における最大の機動力を獲得し、神出鬼没の騎兵軍団をつくりあげ、農業定着民の軍隊を圧倒した」のである[3]

トラヤヌスの記念柱に刻されたサルマタイカタフラクト(重騎兵)、2世紀
アヴァール人の騎馬弓

スキタイ以降、中央ユーラシアの遊牧民は相次いで騎馬民族化していった[2]。遊牧民たちはヒツジヤギウシラクダ、そしてウマなどといった動物を飼い、これを追って季節的に一定地域での移動を繰り返し、これら家畜の肉、乳、毛、皮を衣食住に利用して平和に暮らしていたが、金属製ハミなどといった馬具がもたらされ、騎乗術が進歩すると、この機動力を牧畜生産にあてはめて遊牧経済を拡大させていった[2]。ヒツジをはじめとする動物の群れを分散して放牧することが可能になり、集団内部の相互の連絡や家畜管理、他の集団との連携も容易になった[6]。草原でウマを飼養することは難しいことではないので騎馬術はたちまち普及した[6]。そして、おびただしい数の馬を背景としてその機動力を組織化し、飛躍的に戦闘力を増強して、それを外部に向けるようになった[2]。こうした対外活動は遊牧騎馬民族同士の場合もあったが、農耕地帯に対しても多く向けられた[2]。特に後者に対する略奪・征服活動は、長期にわたって世界史を動かし、展開させることに大きな役割を果たした[2]紀元前4世紀、西方ではサルマタイの活躍がみられた[10]。スキタイ同様イラン系に属していたと考えられる彼らは、東方よりやって来てスキタイの勢力をクリミア半島方面に追いつめ、スキタイ遊牧帝国を滅ぼして、これを併合した[7][10]。一方、スキタイの動物文様を特徴とする騎馬文化は東方のモンゴル高原にも伝わり、紀元前3世紀末に同地で興った騎馬遊牧国家の匈奴にも影響をあたえた[3][9]

匈奴は、テュルク系またはモンゴル系といわれ、アルタイ語系に属し、単于と呼ばれる君主のもとで強大化した[11]

なお、三品彰英は、馬を知らなかった北アメリカの先住民が、やがてスペイン人のもたらした馬を受容して有力な騎馬民族になった事例を紹介している[12]

騎馬文化の影響

ズボン
ズボンを履いたスキタイ人

ズボンは、ユーラシア大陸の乾燥地帯に住む人々の騎馬生活および遊牧生活のなかから生まれてきた衣服の代表である[13]。モンゴル高原から中央アジア、西アジアを経てアフリカに至るまで、馬に乗って草原や砂漠を移動しつづける彼らのファッションは定着生活を送る農耕民族とはおのずと異なるものであった[13]2014年、中国北西のタリム盆地にある墳墓から3,300年前のズボンが出土した[14]。騎馬遊牧民が馬に騎乗する際に着用していたものと考えられており、この墳墓からは他にムチやクツワ、弓、なども出土している[14]。酷寒や猛暑から身を守り、ウマにまたがる暮らしから生まれ、スキタイや匈奴などで利用されたズボンはおそらく当初は獣皮フェルトでつくられたものと考えられるが、やがて製になり、ヨーロッパに伝播して今日の洋服のズボンの祖型となった[13]

競馬

競馬は騎馬民族がことのほか愛好するスポーツである[15]。馬を走らせる機会は多岐にわたるが、とりわけ死者の供養祭には競馬がつきものである[15]。キルギス草原で行われた、富裕なキルギス人の亡父の供養祭に立ち会った19世紀後半の言語学者の記録によれば、このレースの1位の賞品は「赤い布で作った小ぶりのテントと必要な家具一式、鞍をおいた馬に乗る花嫁衣裳をまとった1人の若い娘、50頭のラクダ、50頭のウマ、50頭のウシ、50頭のヒツジ」であったという[15][注釈 8]。死者祭りの競馬は中央アジアの遊牧民には一般的な習俗であり、一説には、もともと死者が騎乗して死者界に赴くのを可能にするとともに死者の新しい住地(死者界)での乗用動物を附与する意味合いを有していたという[15]。競馬は騎馬文化ともにユーラシアの各地に広まって、各地のそれぞれの文化と混じりあって様々な民俗行事となり、多様な儀礼形態を生んだ[15]

騎馬民族に関連する学説

騎馬民族の例

脚注

注釈

  1. ^ ユーラシアの草原地帯においては、野生馬の原型として約200種が知られている[4]。そのうち、スレドニ・ストグ文化において家畜化されたのはタルパンと称される種であった[4]
  2. ^ クツワは、ウマの口にかませるハミ、ハミがはずれないように口の両側につける鏡板、手綱を結ぶ引き手から成っており、その意匠には民族の特色が現れ、芸術的なものも多い[4]
  3. ^ 最古の馬術書は、紀元前1400年ころにヒッタイトの馬匹調教師キックリによって、粘土板5枚に楔形文字で記された「キックリ文書」で、その内容は、チャリオット(戦闘用馬車)を牽引する馬匹の給餌や強い馬体づくりの方法、ウマの体調管理などについてであった[5]
  4. ^ スキタイに先立ってキンメリア人という遊牧民があったことが知られているが、詳細はよくわかっていない[7]。キンメリアとスキタイは同じ種族に属し、互いに相似た言語を使用していただろうと推測されている[7]
  5. ^ アキナケス型剣とは逆ハート形のをもった短剣である[8]
  6. ^ 馬具・武器・動物文様を「スキタイの三要素」と称することがあるが、特に動物文様はスキタイならではの文化要素である[8]。最もよく登場する動物は、シカ、ウマ、ヤギ、ヒョウワシグリフォンなどである[8]
  7. ^ 紀元前6世紀末のダレイオス1世のスキタイ遠征によってペルシア帝国の領域は中央アジアにも拡大し、現在のカザフスタン南部にも及んだ[9]紀元前4世紀後半、アケメネス朝の中央アジア領はマケドニアのアレクサンドロス大王に継承された[9]
  8. ^ 10位の賞品はウマ5頭であった[15]

出典

  1. ^ 岡内 1994,pp.41-42
  2. ^ a b c d e f g h i j 吉田順一(改訂新版 世界大百科事典)『騎馬民族』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 護雅夫(日本大百科全書)『騎馬民族』 - コトバンク
  4. ^ a b c d e f g 加藤 1991,D116-D119
  5. ^ a b 新庄武彦(日本大百科全書)『馬術』 - コトバンク
  6. ^ a b c d 岩村 1975,pp.84-86
  7. ^ a b c d e 岩村 1975,pp.90-94
  8. ^ a b c d e 林 1990, pp. 34–35
  9. ^ a b c 岡田 1990, pp. 8–14
  10. ^ a b 林 1990, pp. 56–58
  11. ^ 岩村 1975,pp.101-104
  12. ^ 佐原 1993,pp.72-73
  13. ^ a b c 丹野 1991,D114-D115
  14. ^ a b “タリム盆地で世界最古のパンツ発見、3300年前の遊牧民族が乗馬で着用か―中国”. レコードチャイナ (レコードチャイナ). (2014年6月5日). https://www.recordchina.co.jp/b89205-s0-c70-d0000.html 2024年5月16日閲覧。 
  15. ^ a b c d e f 寒川 1991,D125

参考文献

  • 岩村忍『世界の歴史5 西域とイスラム』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。 
  • 岡内三眞「「騎馬民族征服王朝説」の問題点」『早稲田大学大学院文学研究科紀要. 哲学・史学編』第40巻、早稲田大学大学院文学研究科、1994年、41-58頁。 
  • 岡田英弘 著「序章 中央ユーラシアの歴史世界」、護雅夫・岡田英弘 編『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』山川出版社、1990年6月。ISBN 4-634-44040-7 
  • 加藤九祚 著「遊牧民とウマ」、野上毅 編『朝日百科世界の歴史2』朝日新聞社、1991年11月。ISBN 4-02-380008-2 
  • 佐原真『考古学千夜一夜』小学館、1993年7月。ISBN 4-09-626054-1 
  • 寒川恒夫 著「競馬:馬供養から民俗行事へ」、野上毅 編『朝日百科世界の歴史2』朝日新聞社、1991年11月。ISBN 4-02-380008-2 
  • 丹野郁 著「ズボン」、野上毅 編『朝日百科世界の歴史2』朝日新聞社、1991年11月。ISBN 4-02-380008-2 
  • 林俊雄 著「第I章 草原の民-古代ユーラシアの遊牧騎馬民族」、護雅夫岡田英弘 編『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』山川出版社、1990年6月。ISBN 4-634-44040-7 

関連項目

外部リンク


騎馬民族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:21 UTC 版)

生贄」の記事における「騎馬民族」の解説

動物生贄として墓に入れ習慣動物供儀動物殉葬)は、匈奴鮮卑の騎馬民族の墓にしばしばみられる。騎馬民族は、例外なく馬の飼育繁殖投資していた。強力な騎兵力を有することは、騎馬民族の生存保障する重要なバックボーンだからである。1987年山西省大同市の南およそ3キロ紅旗より七里村一帯多数北魏墓が発見され翌年調査された。現地は御河と十里河の合流地点位置するが、低い台地上に墓が密集し発掘され北魏墓は167基に達する。調査され167基のうち75基、44.6%の墓から牛、羊、馬、などの動物骨が出土し41基は前に置かれ方形図形の漆案上から動物骨が出土している。別の17基は墓室内に壁竈を設け、そこに生贄置いていた。墓道に生贄ならべた例も少なくない当時平城には多様な民族居住していたが、大同市南郊北魏墓群から出土した人骨は、形質学的に漢人とは異なり鮮卑をふくむ胡族の墓地とみられる

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「騎馬民族」を含む「生贄」の記事については、「生贄」の概要を参照ください。

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