騎馬民族征服王朝説とは? わかりやすく解説

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騎馬民族征服王朝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 20:49 UTC 版)

騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として[1]日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたとする学説[2]。単に騎馬民族説(きばみんぞくせつ)ともいう[2]。東洋史学者の江上波夫が、古墳文化の変容と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話伝承の内容、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に解釈し、さらに騎馬民族と農耕民族の一般的性格を考慮に入れて唱えた日本国家の起源に関する仮説である[2][3]


注釈

  1. ^ AERA2009年12月28日号では、「ある専門家は『騎馬民族征服説というのは証拠のない仮説で、今日ではほとんど否定されている』と指摘した」と報じている。
  2. ^ 穴沢は、日本における考古学・古代史の大部分の学者の意見を「騎馬『文化』はやってきた、だが騎馬『民族』は来なかった」と集約し、自身の見解としては「『日本人のルーツはこの日本以外のどこでもなく弥生の泥田の中から農民の汗と血にまもれて日本の国が成長してきたのだ』という、おもしろくもおかしくもない平凡な結論が正解のように思われる」と述べている[9]
  3. ^ カール・ポパーは、すべての「科学的理論」は「反証可能」でなければならないとしている[12]
  4. ^ 田中琢は、5世紀代の最大の技術革新は農業にあったことを指摘しており、この新しい農業技術も騎馬民族が持ち込んだものなのかという疑問を呈している[16]
  5. ^ 英語学者で評論家の渡部昇一はかつて江上の講演で江上本人にこの矛盾を質問したが、「えっ、出て来ない? そうだったかな。困ったな」と狼狽してまともに答えられなかったという[18]
  6. ^ 『古事記』では沼河比売を訪れた八千矛神(大国主)がスセリビメの嫉妬を宥める場面で片手を馬のにかけ、片足をに踏み入れて歌ったとある。他には大毘古命が少女の不吉な歌を聴いて「馬を返して」少女に歌の意味を尋ねたという1箇所のみである。『日本書紀』の同じ場面では「馬を返して」が無く、ヤマトタケル信濃国を通る場面で2箇所「馬」が現れるが、いずれもヤマトタケルの行動ではない。記紀ともに住吉仲皇子の乱で阿知使主司馬曹達阿直岐と同一人物ともされる)らが履中天皇を馬に乗せて救出したことを記すが、5世紀初頭と考えられる。
  7. ^ 田中琢は、江上が初現時期の異なる短甲と挂甲とを一緒くたにしていると批判している[16]
  8. ^ 『日本書紀』には垂仁天皇が先皇(崇神天皇)の名前に因んで任那を命名したという記事がある。『古事記』では崇神の皇后を御真津比売(ミマツヒメ)と称することからも「ミマ」説の成立の余地はあるが、本説とは全く逆の関係である。
  9. ^ 神話関係に関していえば、日本の古代神話の主要な説話はいずれも海外にも類話をもっており、とりわけ中国大陸と朝鮮半島は重要な分布地となっているが、支配者の穀物起源については高句麗、天孫降臨説話については新羅と加羅、神武東征説話については百済というように特定の国家とだけ排他的に結びつくのではなく、さまざまな王国の建国神話伝承と関係をもっていることが着目される[24]。そこからすれば、支配者が朝鮮半島から王権神話をたずさえて日本列島に乗り込んできたというよりは、列島の支配者が朝鮮諸王国の神話からそれぞれ適当な部分を主体的に選択して受容した可能性の方が高いと考えられる[24]。大林太良は、支配者自身が移動しなくても支配者文化は移動するという現象は世界的に広くみられ、たとえば正倉院の収蔵品からも、奈良時代における支配者文化の(移動をともなわない)国際性を指摘できるとしている[24]。なお、大林は日本への王権神話の流入は古墳時代の頃で、その王権文化はアルタイ語族の文化につらなる要素が多く、それを仲立ちとして西方のインド・ヨーロッパ語族の神話要素も含んでいるとしている[24]
  10. ^ 黎明編ではニニギを騎馬民族の王として描いているが、記紀ともにニニギが馬に乗っていたという記事は無い。またヒミコの弟スサノオが姉の御殿に牛を投げ込む場面があるが、これはアマテラスの弟スサノオが姉の御殿に馬を投げ込んだ神話を(騎馬民族征服王朝説に都合が悪いため)改変したものか、手塚の記憶違いか明らかではない(なお魏志倭人伝には倭の地には牛もいないと書かれている)。続くヤマト編でもヤマトタケルは馬に乗って活躍した英雄に変わっているが、同編ではヤマトタケルの父は「ソガ大王」(石舞台古墳に葬られた蘇我馬子)とされ、創作部分の多い作品となっている。
  11. ^ 岡田は体験談として次のように述べている。「騎馬民族説が世間に熱狂的に受け入れられているあいだは、ほかの学者がいくら批判しても、まったく利きめがなかった。日本人にはモンゴルが好きな人が多くて、モンゴルに観光旅行に行っては、われわれの祖先はここから来たんですね、と言う。騎馬民族説には何の根拠もないですよ、あれはまったくの空想なんですよと言っても、みんな、ふーんと言うだけで、まったく耳をかそうとしない。だいたい、ふつうの人はそういうものだ。これは、神話としての歴史を必要とする、心理的な欲求があることを示している。歴史に、情緒的な満足を求めているのだ。だから、騎馬民族説が、根拠のないただの空想で、歴史的事実ではないとしても、それが史実ではない、と言うだけではだめなので、もっと『よい歴史』を提供しなければいけない、ということになる。」[28]
  12. ^ 吉村武彦は、白石太一郎らの河内王朝論は、江上の騎馬民族説と水野の古代王朝交替論の影響があるのではないかとしている[3]。応神朝を外来系の征服王朝とみるのではなく、隣接する河内(難波)の地の豪族による征服とみるのが河内王朝論である[3]。これに対し、吉村は近藤義郎の主張を継承して王墓の所在地と政治勢力の本拠地は切り離して考慮すべきとしている[48]
  13. ^ 高麗朝期の史書『三国史記』には新羅王家の始祖は前漢孝宣帝の五鳳元年の4月丙辰の日に即位したとあるなど、ヴェトナムや朝鮮半島では中国との関わりから、ミャンマーやスリランカの場合はインド文明のかかわりから自らの歴史の古さを由緒あるものに仕立てあげているが、日本では大陸の大文明との関わりを求めようとはせず、自らの宇宙論すなわち高天原に王権の基礎を求めていることに着目している[50]

出典

  1. ^ 小林
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 篠川 1995, pp. 17–19
  3. ^ a b c d e f g h i 吉村 2010, pp. 99–101
  4. ^ 岡内三眞 1994, p. 41.
  5. ^ a b c d e 穴沢 1990, pp. 74–75
  6. ^ 江上波夫”. エンカルタ百科事典. 2009年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月22日閲覧。
  7. ^ 『毎日新聞』2002年11月16日
  8. ^ 白石 2009 [要ページ番号]
  9. ^ a b 穴沢 1990, pp. 86–88
  10. ^ a b c d e f g 穴沢 1990, pp. 75–78
  11. ^ 江上 1992 [要ページ番号]
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 穴沢 1990, pp. 80–82
  13. ^ a b c 小林行雄「上代日本における乗馬の風習」『史林』34-3(1951)
  14. ^ a b c d 伊東信雄
  15. ^ a b 安本 1991 [要ページ番号]
  16. ^ a b c d 田中琢 1991, pp. 316–318
  17. ^ 樋口 1983 [要ページ番号]
  18. ^ a b c 渡部 2011, pp. 22–23
  19. ^ 都出 2000 [要ページ番号]
  20. ^ 岡内 1993 [要ページ番号]
  21. ^ 大塚 2007 [要ページ番号]
  22. ^ a b c d 佐原 1993, pp.136-143, pp. 206-207
  23. ^ 後藤 1953 [要ページ番号]
  24. ^ a b c d e 大林 1989, pp. 126–128
  25. ^ a b c d 小林敏男「騎馬民族説の記紀批判の妥当性を問う」『歴史と旅』平成6年12月号(1994)pp.54-61
  26. ^ 手塚治虫火の鳥・黎明編』角川書店〈角川文庫〉、1991年12月。ISBN 4-04-185101-7 
  27. ^ a b c d e f g h i 穴沢 1990, pp. 78–80
  28. ^ a b c 岡田 2001, pp. 113–116
  29. ^ a b c “中国边疆史学争议频发”. 鳳凰衛視. (2006年12月11日). オリジナルの2015年7月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150715121227/http://phtv.ifeng.com/phoenixtv/72999905567703040/20061211/907524.shtml 
  30. ^ 週刊新潮(編)「「天皇家は韓国から来た」喝采を浴びた「小沢一郎幹事長」ソウルの不敬発言」『週刊新潮』第55巻1 (通号 2725)、新潮社、2009年12月31日、28-31頁。 
  31. ^ 『日本大百科全書』「騎馬民族」より
  32. ^ 週刊新潮 2009, pp. 28–31
  33. ^ 鈴木 1994, p. 42
  34. ^ 鈴木 1994, p. 43
  35. ^ 東アジアの古代文化を考える会同人誌分科会 2002, pp. 1–142
  36. ^ a b c 森安孝夫 (2020年9月). “森安通信” (PDF). 大阪大学大学院文学研究科東洋史学研究室. p. 32. http://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/members/moriyasu/moriyasu_tsushin_202009.pdf 2022年3月4日閲覧。 
  37. ^ a b 岡内三眞 1994, p. 56.
  38. ^ 佐原 1993, p. 220
  39. ^ 田辺 1982 [要ページ番号]
  40. ^ 大塚初重『朝日新聞』、2002年11月18日
  41. ^ 樋口ほか 1983 [要ページ番号]
  42. ^ 岡内 1993 [要ページ番号]
  43. ^ 岡内 1994, p. 45
  44. ^ 田中琢 1991, pp. 318–319
  45. ^ a b c 水野祐『日本古代の国家形成』(1967)pp.100-107
  46. ^ 水野祐『日本古代の国家形成』(1967)pp.191-193
  47. ^ a b c d e 水野祐「ネオ騎馬民族説から見た騎馬民族説」『歴史と旅』平成6年12月号(1994)pp.108-117
  48. ^ 吉村 2010, pp. 98–99
  49. ^ a b c d e f g h i 田中俊明「騎馬民族は朝鮮半島を南進したか」『歴史と旅』平成6年12月号(1994)pp.100-107
  50. ^ 大林 1990 [要ページ番号]
  51. ^ Hammer MF, Karafet TM, Park H et al. (2006). "Dual origins of the Japanese: common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes". J. Hum. Genet. 51 (1): 47–58. doi:10.1007/s10038-005-0322-0. PMID 16328082.
  52. ^ 2002年11月16日読売新聞
  53. ^ 佐原真『騎馬民族は来なかった』NHK出版NHKブックス〉、1993年9月1日。ISBN 4140016582 



騎馬民族征服王朝説

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江上波夫」の記事における「騎馬民族征服王朝説」の解説

江上一般歴史・考古学ファンの心をつかんだのは、ロマンあふれる騎馬民族征服王朝説だった。古事記、日本書紀等の古い時代資料日本人騎馬民族あるかのような記述見られないが、渡来人に関する記述数多くみられる。特にニニギノミコト天孫降臨に対して数多く学者たちから数多く検証なされてきた。日本古代国家起源東北アジア騎馬民族求めた壮大な説である騎馬民族征服王朝説は戦後間もない1948年東京お茶の水駅近く喫茶店江上岡正雄八幡一郎石田英一郎学究仲間3氏が集った座談会披露され、「日本民族文化源流日本国家の形成」という特集記事発表された。かかわり深かった研究誌民族学研究』の出版元経済的に困っているので売れ論文書いて助けよう、と座談会企画されたという。騎馬民族説学会大きな論争巻き起こし発表直後から柳田國男折口信夫といった民俗学者をはじめ、様々な分野研究者から批判受けた。この説については佐原真はじめ、岡内三眞、穴沢咊光、鈴木靖民安本美典など多く研究者からも批判寄せられた。しかし、江上学説不備指摘されると、その都度修正補強し続けた学界で疑問視する意見も強いが、発表後50年以上経っても、一般に流布し学説として生き続けている。学説発表されたのは天皇家起源神話求め皇国史観束縛から解き放たれ時期で、マスコミこぞって江上説を紹介した北方から騎馬民族南下し次々と農民族を支配下入れて新王朝建設するという話に、ロマン感じる人が多かった晩年には反騎馬民族説主唱する佐原真対論挑まれ2人激論した著作刊行された。この説は日本古代史上の仮説として学会でも激し論争となったが、定説には至らなかった。しかし議論自体は現在も残されままともいわれる。なお、騎馬民族征服王朝説の「征服王朝と言い出したのは江上ではなくヨーロッパ学者で、おそらくウィットフォーゲル最初だろうと江上自身語っている。 騎馬民族説は「昭和伝説となったが、江上学者として真価はむしろ、日本の考古学海外調査への道を開いたという点にある。

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