任那日本府
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任那日本府(みまなにほんふ)は、古代朝鮮半島にあったとするヤマト王権の出先機関ないし外交使節、またその学説。『日本書紀』を中心に、複数の古文書にそれらの存在を示唆する記述がある。1991年(平成3年)、日本の「前方後円墳」と類似した様式の墓が朝鮮半島南部で発掘され、倭系集団の存在が浮上した。2010年(平成22年)に日韓歴史共同研究委員会は、任那日本府(原表記「在安羅諸倭臣等」)に関しては、史料を無視してでも、その存在を極小化したい韓国側と、史料に基づいて大和王権への臣従関係が認められるとする日本側と対立し共通見解の確定には至らなかった。[1]
- ^ 日韓共同歴史研究会「日韓共同歴史研究報告書」(第1分科会、2010年)https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/1-allj.pdf
- ^ 鄭大均『日本のイメージ』中央公論社〈中公新書1439〉、1998年10月、177頁。ISBN 978-4121014399。
- ^ 田中(2008)
- ^ a b 田中(2009)
- ^ 室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』(新潮社、2010年)p. 213. ISBN 978-4106103605
- ^ a b c d 井上2004年 pp.106-107.また井上秀雄『任那日本府と倭』(東出版、1973年)
- ^ 請田(1974年)
- ^ 吉田晶『古代国家の形成(新岩波講座・日本歴史2)』(岩波書店、1975年6月)
- ^ 『日本書紀』巻第十七『継体天皇六年十二月』の条「冬十二月。百済遣使貢調。別表請任那国上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁四県。(中略)依表賜任那四県」。このことは同巻第十九『欽明天皇元年九月己卯』の条でも再説されている。
- ^ 『三国史記』巻第四 新羅本紀第四『法興王十九年』の条「金官國主金仇亥 與妃及三子(中略)以國帑寶物來降 王禮待之 授位上等 以本國爲食邑」
- ^ 『日本書紀』巻第十九『欽明天皇二三年正月』の条「二十三年春正月。新羅打滅任那官家」という表記も見られる。
- ^ 吉田孝『日本の誕生』(岩波書店、1997年6月)
- ^ 沈 2003, p. 382.
- ^ 沈 2003, p. 381.
- ^ 沈 2003, p. 384.
- ^ a b 沈 2003, p. 385.
- ^ 宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所〈PHP新書 387〉、2006年2月。ISBN 978-4569648804。
- ^ a b 鬼頭(1991)
- ^ 森(1998)、pp.66-68.
- ^ 『日本経済新聞』2002年4月10日朝刊
- ^ a b c 『毎日新聞』2015年08月11日 東京朝刊
- ^ a b 日韓歴史研究報告書の要旨“アーカイブされたコピー”. 2015年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月1日閲覧。
- ^ 「ヤマトの痕跡を消せ! 前方後円墳まで「整形」」(『歴史通』2014年1月号ironna)姜仁求教授によると、全長66メートル、後円径37・5メートル、前方部が若干丸みを帯びているが、円墳2基ではなく前方後円墳であるという。後円部上に石材が露呈するが、それは鳥居龍蔵が1914年に発掘した竪穴式石室の一部である。 『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』中央公論社、ISBN 978-4120016912
- ^ 沈奉謹編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』(東亜大学校博物館、2005年)
- ^ 「ヤマトの痕跡を消せ! 前方後円墳まで「整形」」(『歴史通』2014年1月号ironna)森浩一によると、1983年(昭和58年)に訪ねた際はダブルマウンドが丘陵上に造営されており、前方後円墳であることに躊躇なく、その後鳥居龍蔵が戦前に撮影した側面写真が発見されたことで確認できたが、その後、現在の形が近年の変形であるという噂話があったが、その噂話が意図的に流されていると感じていたという。 松鶴洞古墳の発掘は、「発掘もある種の遺跡の破壊」という考古学の事例であり、近年の変形を示す兆候は存在しないが、原形がダブルマウンドなのかの前提を抜いて、円墳連続説が発掘開始直後から提出され、結論ありきの結果が流布されており、「これは学問の手順として明らかに間違っているし、学問の名において文化財を変形・改変することになる」と批判している。
- ^ 「ヤマトの痕跡を消せ! 前方後円墳まで「整形」」(『歴史通』2014年1月号ironna)
- ^ 朴天秀(2007)
- ^ a b c d e f g h i j k l m 諸田正幸「任那日本府は存在したのか」『争点日本の歴史2 古代編I』(1990年)pp.137-139
- ^ 井上秀雄『任那日本府と倭』(東出版、1973年)
- ^ 金鉉球『大和政権の対外関係研究』(吉川弘文館、1985年)
- ^ 奥田尚「『任那日本府』と倭典」『古代国家の形成と展開』(吉川弘文館、1976年)
- ^ 大山誠一「所謂『任那日本府』の成立について」(『古代文化』260・262・263号、1980年)
- ^ https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/179014.pdf
- ^ 諸田正幸「任那日本府は存在したのか」(『争点日本の歴史2 古代編I』1990年)pp.140-141
- ^ 日韓共同歴史研究会『日韓共同歴史研究報告書』(第1分科会、2010年)https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/1-allj.pdf
- ^ “韓国はポルトガルの植民地だった!?”. 朝鮮日報. (2009年2月15日). オリジナルの2009年2月17日時点におけるアーカイブ。
- ^ “「21世紀版独立運動」ネットの韓国史わい曲訂正に奔走”. 中央日報. (2004年8月23日). オリジナルの2021年8月26日時点におけるアーカイブ。
- ^ 『朝鮮日報』2006年8月9日[2]
- ^ “中외교부, 임나일본부說 그대로 소개”. 朝鮮日報. (2004年7月22日). オリジナルの2021年8月28日時点におけるアーカイブ。
- ^ ““중 교과서 ‘고조선=야만, 삼국=신라·백제·가야’””. ハンギョレ. (2007年3月20日). オリジナルの2021年12月29日時点におけるアーカイブ。
任那日本府
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「任那日本府」も参照 1960年代頃から朝鮮半島では民族主義史学が広がり、実証主義への反動から、記紀に記されているヤマト王権の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた(後述)。 1983年、姜仁求(嶺南大学)は、慶尚南道の松鶴洞1号墳について、全長66メートル、後円径37・5メートルと実測し、後円部上に石材が露呈するが、それは鳥居龍蔵が1914年に発掘した竪穴式石室の一部であり、前方部が若干丸みを帯びているが、円墳2基ではなく前方後円墳であると発表した。しかし、その後、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので、前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱したが、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、改竄工事を行った疑惑が持たれている。これに関して1996年撮影写真は前方後円墳であったものが、2012年撮影写真では3つになっているという指摘がある(出典先に写真あり)。 朝鮮半島南西部では前方後円墳の発見が相次ぎ、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳があることが確認されている。 また朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷して併呑を進める以前に存在した任那地域の西部や半島の南端部に存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。 ヤマト王権の勢力を示す他の傍証としては、新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉などがある。戦前の日本の考古学者はこれをヤマト王権の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後には朝鮮から日本へ伝来したものとする新解釈が提唱されたこともあった。しかし、朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないことに加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明し、日本からの輸出品であることがわかった。 そのため、任那や加羅地域とその西隣の地域において支配権、軍事動員権および徴税権を有していた集団が、ヤマト王権と深い関連を持つ者達だった。ただしそれらは、ヤマト王権に臣従した在地豪族であって、ヤマト王権から派遣された官吏や軍人ではないという意見が有力である(詳しくは任那日本府)。ともあれ、少なくとも軍事や外交を主とする倭国の機関があり、倭国は任那地域に権限と権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたであろう。吉田孝は、「任那」とは、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国(ヤマト王権)と結んだ任那加羅(金官国)を盟主とする小国連合であり、いわゆる伽耶地域とは一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後世「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は倭人が移住した地域であり、532年の任那加羅(金官加羅)滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったと主張した。
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