任迪簡とは? わかりやすく解説

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任迪簡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/13 08:00 UTC 版)

任 迪簡(じん てきかん、生没年不詳)は、唐代軍人官僚本貫京兆府万年県[1][2]

経歴

陵州刺史の任鵬の子として生まれた。兵部尚書の任雅相の玄孫にあたる。進士に及第した。貞元年間、天徳軍西受降城都防禦使の李景略の下で判官をつとめた。あるとき軍の宴があり、酒を運ぶ者が誤って酢を持ってきた。迪簡は間違いに気づいたが、李景略の性格が厳格なことから、酒をつかさどる者が罪を受けることを心配した。気張って酢を飲みほして顔色を偽り、酒が薄いといって取り換えさせ、間違いを隠してやった。このことが広まって軍中を感服させた。貞元20年(804年)、李景略が死去すると、天徳軍の人々は迪簡を後継に推した。監軍使が迪簡を別室に拘禁したが、軍の人々が連呼してやってきて、かれの身柄を取り戻した。迪簡は豊州刺史・天徳軍使となり、御史大夫を兼ねた。のちに入朝すると、太常寺少卿・汝州刺史・太子左庶子に任じられた[1][2]

元和5年(810年)、張茂昭が義武軍節度使を退任すると、迪簡は義武軍行軍司馬となった。定州に着任すると、都虞候の楊伯玉が反乱を起こし、迪簡は捕らえられた。兵馬使の張佐元が楊伯玉を殺害した。迪簡が帰朝を図ったため、義武軍の人々はこれを恐れて、張佐元を殺害した[3]。ほどなく迪簡は検校工部尚書を加えられ、義武軍節度使をつとめた[1][4]

3年して、病のために交代し、工部侍郎に任じられた。長安に入ったが、朝廷に出仕することができなかった。太子賓客に転じて死去した。刑部尚書の位を追贈された。は襄といった[1][4]

脚注

  1. ^ a b c d 旧唐書 1975, p. 4829.
  2. ^ a b 新唐書 1975, p. 5177.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 432–433.
  4. ^ a b 新唐書 1975, p. 5178.

伝記資料

参考文献




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