金官国(駕洛国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:29 UTC 版)
詳細は「狗邪韓国」を参照 2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の金官国(狗邪韓国、駕洛国)であった。任那の文化中心は金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯であり、現在も貝塚や土坑墓などの遺跡が散在している。 6世紀前半になると百済は南下し朝鮮半島南部まで影響力を及ぼす。5世紀初頭に至り高句麗は楽浪郡・帯方郡を征服し、新羅にまで勢力を及ぼすようになった。新羅も辰韓の盟主として独自の勢力を固めていた。
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金官国(駕洛国)
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金官国、もしくは駕洛国・金官加羅・任那加羅ともいい、現在の韓国慶尚南道金海市に有ったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国であると考えられている。前期伽耶連盟の盟主的な立場にあった。『三国遺事』巻二に収められている『駕洛国記』に拠れば、駕洛国の建国神話は卵生神話型のものであり、初代の首露王は金の卵から産まれた為に姓を金と名乗ったという。532年に新羅の圧力に抗しきれず、仇衡王(金仇亥)が国を挙げて降伏している。その一族は新羅の首都金城(慶州市)に移り住んで食邑を与えられ、新羅の貴族階級に組み入れられた)。金仇亥の曾孫に金庾信が現れ、新羅の半島統一に大功を挙げた。金官国の王族金氏は、新羅王家の慶州金氏と区別するために金官金氏(後に金海金氏という)と呼ばれ、韓国内では最大の本貫となっている。ただし、『三国史記』金庾信列伝には、金庾信は首露王の後裔であり、その祖先は中国黄帝の子・少昊金天氏であり、それ故、金姓を名乗っていたとある。
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