広義の任那
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 11:52 UTC 版)
広義の任那は、任那諸国の汎称である。後述の諸史料のうち日本史料では任那と加羅は区別して用いられ、任那を任那諸国の汎称として用いている。中国及び朝鮮史料の解釈でも、広義では任那諸国全域の総称とする説がある。百済にも新羅にも属さなかった領域=広義の任那の具体的な範囲は、例えば478年の倭王武の上表文にみられる「任那・加羅・秦韓・慕韓」にて推測できる。ここにでてくる四者のうち、任那は上記の「狭義の任那」=金官国(及び金官国を中心とする諸国)。同じく加羅は上記の「狭義の加羅」=大加羅(及び大加羅を中心とする諸国)。秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存していた諸国、例えば卓淳国や非自本国、啄国など。慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存していた諸国、例えば百済に割譲された任那四県など、にそれぞれ該当する。『日本書紀』ではこれらの総称として任那という地名を使っているが、これらはこの後、徐々に新羅と百済に侵食されていったため、時期によって任那の範囲は段階的に狭まっており、領域が一定しているわけではないので注意が必要である。 田中俊明は、朝鮮・中国の史料では任那を加羅諸国の汎称として用いることはなく金官国を指すものと結論し、『日本書紀』においても特定国を指す用法があるとともに、総称としての用法が認められるがそれは『日本書紀』に独自の特殊な用法だと主張した。権珠賢は、日本、朝鮮、中国の金石文を含む23種類の史料における任那と加羅の全用例を精査し、任那は特定の小国の呼称ではなく、百済にも新羅にも属さなかった諸小国の総称であること、任那の範囲と加羅の範囲は一致しないこと、任那という呼称は倭国と高句麗による他称であると主張している。吉田孝は、『日本書紀』が加羅諸国を総称して任那と呼んだとする田中説が一般化したことを批判し、『日本書紀』の任那の用法は、「ヤマト」が大和国を指すと同時に倭国全体を指すのと同様に、任那加羅(金官国)を指すと同時に任那加羅を中心とする政治的領域の全体を指したものであると主張している。 森公章によると、現在(2015年)は任那は百済や新羅のような領域全般ではなく、領域内の小国金官国を指す場合が多く、それらの複数の小国で構成される領域全般が加耶と称すという学説が有力視されているという。
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