くだら【百済】
読み方:くだら
古代朝鮮の三国の一。朝鮮半島西南部に拠った王国。4世紀半ばに部族国家の馬韓(ばかん)北部の伯済国が建国。都を漢城としたが、のち高句麗(こうくり)に圧迫され、熊津(ゆうしん)・夫余と変えた。建国当初より日本とは友好関係を保ち、日本に仏教その他の大陸文化を伝える。660年、新羅・唐連合軍に滅ぼされた。ひゃくさい。
《古代、百済などからの渡来人が多く住んだところから》摂津の国東南部(現在の大阪市生野区辺り)の古郡名。また、奈良県北西部、広陵町の地名。
ひゃくさい【百済】
読み方:ひゃくさい
⇒くだら(百済)
百済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/15 00:34 UTC 版)
百済(くだら/ひゃくさい[1]、朝鮮語:백제、旧字体:百濟、4世紀前半? - 660年[2])は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。当時の朝鮮半島には、百済の他に、北部から満州地方にかけて高句麗が、南東部に新羅が、南部には伽耶諸国がそれぞれ存在しており、朝鮮史の時代区分では三国時代と呼ばれている。
注釈
- ^ 浜田耕策は山尾幸久の分析を踏まえたうえで、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じていることから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを複製して倭王に贈ったと解釈し、この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[13]。
- ^ 広開土王碑を巡っては、特に倭国関係記事が集中する第1面を巡り、その信憑性を巡って長い議論が続けられてきた。現在では『三国史記』『日本書紀』にも対応する記述があり、高句麗からの百済の離脱、百済から倭への人質や、それによる百済と倭の同盟など大筋で一致していることから、碑文の史料的価値は高いとされる[18]。これを巡る主要な議論については武田幸男「その後の広開土王碑研究」(1993)にまとめられている[19]。
- ^ 上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県。これが現代のどの地方に当たるかについては、全羅南道にほぼ相当するという説と、全羅南道の南東部であるという二つの有力な説が存在する[31]。
- ^ a b 『日本書紀』は日本から百済への「割譲」とするが、『三国史記』に対応する記述はない。一方で、この地域では現代の考古学的調査によって日本列島に見られるものと類似する前方後円墳が発見される。 研究動向としては、この時代に倭がこの地方に実質的な支配権を持っていたとする学者は少ない。武田幸男は百済がこれらの地域を掌握するにあたって倭側の了解を取り付けたものであろうとする[30]。また、朝鮮古代史研究者の田中俊明はこの地域を百済が実力で確保していったものと見、四県割譲記事は「日本書紀の筆法」と見る[32]。
- ^ いわゆる「任那の調」はかつて任那が倭に献上していた(とされる)調を、その地を支配する新羅に対して代納することを倭が要求したもので、百済のみならず高句麗との対立も深まっていた新羅側が「任那使」を建ててこれを「献上」することで倭国との関係悪化を防ごうとしたものと解される。一般に当時「任那復興」を国策の一つとしていたが、現実的にそれを実現することが不可能であった倭国と、外交的孤立を避けようとした新羅の間で成立した政治的妥協の産物と見做される[44]。
- ^ ここでいう百姓は「農民」の意味ではなく、家臣または有力者の意[66]。百姓#漢語としての語義と日本での変遷
- ^ 李成市は、高句麗の神話と夫余の神話は類似点はあるものの、神話学的な類型では重要な相違点があり、夫余と高句麗を同族と見做す根拠として見ることはできないと指摘する。それによれば、高句麗の神話は外来王神話の一種であり、高句麗王権の権威と正統性を強めるため、東夷の中でも国家形成が古く名族として知られた夫余との同源性を強調すべく政治戦略的に採用されたと見られ、しかも時代が進むにつれその夫余神話と高句麗神話の習合が進むという。また、初期の中国人たちによって記録された夫余と高句麗の同源神話が、伝聞以上に憶測に基づいており信憑性に乏しいことなどを指摘している[94]。
- ^ 5世紀半ばに高句麗が新羅に対する巨大な影響力を行使していたという見解に対しては、高句麗軍の新羅駐留を確認すべきであるという指摘があった。しかし、『広開土王碑文』以来の高句麗、新羅間の関係から容易に想定が可能であり、更に『中原高句麗碑』の発見によって、新羅に高句麗が派遣した新羅土内幢主が存在していたことや、それが新羅の支配層をしばしば軍営に召集したこと、新羅に高句麗の服制が導入されたことなどが確認されたことから、現在ではその影響力は非常に実質的なものであったと考えられている[99]。
- ^ 『日本書紀』の紀年は特に雄略紀以前の年次が中国・朝鮮の歴史書と一致しない場合が多い。これは現代では『日本書紀』の編纂時に、4世紀に始まった中国・百済・伽耶との交渉開始を、干支を二運(120年)古く設定することで3世紀に引き上げる年次操作が行われていることがわかっている。神宮皇后46年を366年とするのはこの年次操作を修正した後の推定年次である。詳細は日本書紀の記事を参照。なお、神功皇后の実在は一般に疑わしいとされるが、ここでは本論から離れるため神功皇后の実在可能性の問題には触れない。これについての詳細は神功皇后の記事を参照。
- ^ 多くの学者によって5世紀の百済と倭国の関係についての『広開土王碑文』や『日本書紀』『三国史記』の記録の重要性は高く評価されるが、百済と倭との関係に上下関係を設定することには慎重な表現を用いることが一般的であり、しばしば倭と百済の「連盟[115]」や倭による「救援[114]」のような表現をされる。
- ^ 倭の五王による百済地域における軍権を含む称号の除正をめぐっては長く議論が行われている。坂元義種の理解によると、東夷の諸王に正式に除正された地位では、常に高句麗を最上位とし、続いて百済、最後に倭という南朝の序列は南北朝時代を通じて変わることがなかった[118][85]ただし、坂元義種は、南朝が倭王の百済に対する軍事的支配権を承認しなかったのは、北魏を封じ込めるために国際政策上百済を重視したからであり、「南朝が、最強の敵国北魏を締めつける国際的封鎖連環のなかに百済をがっちりとはめこんで、その弱化を認めまいとする、南朝の国際政策」と指摘する[119]。坂元義種の主張について石井正敏は、倭王が百済王よりも下位であるなら、上位である鎮東(大)将軍である百済の軍事的支配権を、下位である安東(大)将軍である倭王が執拗に要求しているのは何故かという素朴な疑問が付きまとうことを指摘している[120]。南朝から冊封され、希望する官爵を自称し、除正を求めるだけでなく、部下にも南朝の将軍号を仮授した上で除正を求めている倭王が、南朝の官爵制度を理解していないとは考えられないことから[120]、百済の軍事的支配権を主張した倭王は安東(大)将軍でも「都督百済諸軍事」号要求は可能であると認識していたと考えざるを得ず、何故なら倭王が、自らの安東(大)将軍という地位では「都督百済諸軍事」要求が不当なであると認識していたなら、さらに上位の称号を、除正を承認されないことを承知の上でも自称するはずであり、それは高句麗との対決を明確にした倭王武が、高句麗王と同等の待遇である「開府儀同三司」を自称し、除正を求めていることからも裏付けられる[121]。
- ^ 倭国の朝鮮半島における出先機関とされる、いわゆる「任那日本府」は、かつて朝鮮半島における倭国の統治機関と見做されたが現在ではこの考えを取る朝鮮史学者はほとんど存在しない。任那日本府は、任那(狭義においては加羅国)が新羅に制圧された後、百済・伽耶諸国との連携の下で「任那復興」を画策するという歴史的文脈の中で、『日本書紀』「欽明紀」にのみ登場する[130]。この任那日本府は「在安羅諸倭臣」とも記され、独自の利害に基づいて倭本国とは異なる行動(新羅や高句麗との通謀など)をとっていることがわかっている。また、日本府を交えた任那復興を巡る諸会議についての『日本書紀』の記録は概ね「百済本記」に拠って記述されていると考えられる[129][130]。その実態を巡っては諸説入り乱れているが、この任那復興会議自体が百済の主導によるものであったとし、任那日本府を自立性の強い勢力と見て倭王権と直接の繋がりを持たないとする見解や[129]、統治機関としての性質は持たない物の、元々は倭王権が任那における勢力回復を目指して6世紀に新たに設置した出先機関であるとする見解などがある[130]。詳細は任那日本府を参照。
- ^ 『日本書紀』における百済系史料の史料的価値の確認とその使用箇所を字音仮名の分析から行った木下礼仁は、稲荷山鉄剣銘に代表される5世紀から6世紀にかけての倭国の金石文の用字法が、推古朝遺文や、『日本書紀』に引用される『百済三書』等の用字法と類似しており、これらが百済文化との関連性で捉えられるとしている。一方で、『釈日本紀』に新羅に使者を出して文字を習ったとする記録がある事や、朝鮮半島に残る新羅の金石文もまた同様の字音体系を持つことから、稲荷山鉄剣銘や江田船山古墳大刀銘の表記法体系が広く朝鮮半島の文化要素を受容したものであることを指摘している[142]。
- ^ 倭国において彼ら百済系の渡来氏族は、倭王権に仕える諸蕃として「保存」され、異国人として歌舞の上奏などを行った。これによって諸蕃を支配するという倭王権の体裁を整える役割を果たし、一方では倭国における課役の免除や官吏としての任用などにおける特殊な地位を維持した。このことに意識的であった百済王氏や、百済系氏族の津氏は、延暦9年(790年)の段階の上奏においてなお日本を「貴国」と呼称したことが『続日本紀』に記録されており、百済出自であるという自己認識を維持し続けたことが確認できる[143]。
- ^ 全羅南道に複数ある前方後円墳が倭との密接な関係の中で造営されたことは疑いが無い[175]。しかし、様式が倭系の物であることをもって直ちに被葬者が倭人であるとすることには慎重を要する。 朝鮮古代史研究者の山本孝文は、その形態や副葬品の系譜が殆ど中国式と言って良く、他に類例の少ない様式である武寧王陵の被葬者が百済王である武寧王であると判別できたのは、ひとえにその墓から墓誌が発見されたからに他ならないと言う。 そして、もしこの墓から墓誌が発見されていなかったならば、その被葬者は百済支配層に含まれる中国系有力者や、中国で仕官した経験のある百済人、或いは中国系百済官僚などと解釈されていたであろうと述べ、墓形式や副葬品から考古学的に被葬者を割り出すことは極めて困難なことなので、結論には慎重であるべきであると指摘している[180]。
出典
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百済
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高句麗と百済は朝鮮半島の三国のうちの二国であるが、両者とも扶餘の後裔を自称した。百済の創始者、温祚王は高句麗の創始者の東明聖王の次男と言われるが、高句麗と百済は対立した。4世紀中、近肖古王が領土を高句麗から取って百済を北に広げた。369年、高句麗の故国原王が百済を2万で攻めたが、百済の太子の近仇首王に敗けた。371年、近仇首王が3万で楽浪郡の故地である平壌を攻め、故国原王を戦死させた。韓国の民族主義者には、百済は強力な海軍を持ち、その影響は当時衰退していた中国の前秦の遼西や山東や、九州にまで及んでいたとする意見がある。しかしながら、史料解釈に問題があり、中国・日本などから批判されている。 詳細は「晋平郡」および「朝鮮の大陸史観」を参照 故国原王の子の故国壌王は386年に百済を攻めた。392年、高句麗の好太王が4万で百済を攻め、10の城郭を落とした。これを受けて百済の阿莘王が393年と394年に反撃したが敗れ、敗北を重ねた百済は衰退した。395年、百済は再び敗けて都を南の漢水に移した。翌年、好太王は都の慰礼城を水陸両路により攻めて百済の58城700村を陥落させ、阿莘王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。これにより百済は衰退した。 400年、新羅が百済、伽耶、倭国の連合軍に対抗するため高句麗に救援を要請した。好太王は5万の援軍を送って連合軍を破った。433年、百済と新羅が高句麗に対抗するため同盟を結んだ(第二次羅済同盟)。 472年、百済の蓋鹵王は高句麗を滅ぼすべく中国の北魏と同盟を結ぼうとしたが、不成功であった。475年には好太王の子の長寿王が都を攻めて蓋鹵王を殺した。百済は天嶮の地である熊津に遷都した。 479年、百済と新羅が婚姻により同盟を結んだ。この同盟が高句麗が朝鮮半島全体を支配できなかった理由とされる。551年、百済と新羅の連合軍が漢江を奪回して分割するべく高句麗を攻撃した。553年、百済は大きな犠牲と引き換えに要所を奪回したが、新羅は救援と見せかけて百済を攻撃し、漢江を支配した。百済と新羅は対立し、百済王が戦死した。百済は新羅を612年、624年、627年に攻撃し、642年に高句麗と百済は同盟を結んだ(麗済同盟)。この同盟は新羅との戦いにおいて成功した。
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百済
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「百済の王 クンチョゴワン」の記事における「百済」の解説
朝鮮半島南西部に位置している国家。高句麗から離れたソソノ、オンジョ、ピリュらによって建国された。帯方郡を巡って、高句麗とは対立関係にあった。
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百済
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『日本書紀』によると、継体天皇10年(516年)、百済は倭国に送っていた博士段楊爾にかえて五経博士漢高安茂を貢上したという。しかし、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に送ったとされる王仁や五経博士や『論語』『千字文』などの歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判があり、王仁が『論語』『千字文』などの典籍をもたらしたという王仁伝説や、継体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝承は、事実とは認め難いとする指摘は多数存在する。一方、『日本書紀』には513年に百済は五経博士段楊爾を貢したが、3年後に彼を帰国させ、かわって漢高安茂を貢したとみえ、また554年に百済は五経博士王柳貴を貢し、固徳馬丁安にかえたとみえ、倭国に貢した(貢した=「貢ぎ物を差し上げる」)と記録している。五経博士の貢上は、512年から513年に倭国が百済に任那を割譲したことへの返礼という指摘がある。
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百済
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武(ム)王:パク・チョロ 百済第30代王。 義慈(ウィジャ)王:イ・ジヌ 百済第31代王。百済最後の王。 太子(テジャ。王位継承者)の頃は " 海東の曾子 " と賞された人物であったが、即位後は慢心し、恐怖政治を敷く。 扶余隆(プヨ・ユン):コン・ジョンファン ウィジャ王の息子。 太子だったが、直言をウィジャ王に疎まれ、廃位されてしまう。 扶余泰(プヨ・テ):ホ・ジョンミン ウィジャ王の息子。 扶余孝(プヨ・ヒョ):キム・ミンギ ウィジャ王の息子。 ユンの廃位後に太子となる。 扶余豊(プヨ・プン):チャン・テソン ウィジャ王の息子。 階伯(ケベク):チェ・ジェソン 百済の将軍。達率(タルソル)。 興首(フンス):イム・ビョンギ 佐平(チャピョン。大臣)。 成忠(ソンチュン):キム・ウォンベ 佐平。 慢心したウィジャ王に諫言を続けて怒りを買い、官職を剥奪されたのちに獄中で死亡してしまう。 福信(ボクシン):キム・ヨンギ(朝鮮語版) 百済の将軍。 百済滅亡後、復興のためにレジスタンス活動を率いる。 サンヨン:ウォン・ソギョン 佐平。奸臣。 新羅と内通している。 チュンサン:キム・ヨンホン 佐平。 新羅に投降する。 ファシ:ホン・ジニョン 刺客。密偵。 ケベクの死後、ソ・ジョンパンの暗殺を試みるが、返り討ちに遭ってしまう。
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百済
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新羅は北朝系の制度を置いたことが知られるが、百済の僧官について伝える史料はない。日本での僧正の導入に百済僧が関わっていたこと、また南朝と百済の密接な関係から、百済も南朝にならって僧正を任命したのではないかとする説がある。
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百済
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少なくとも百済では中国将軍号にもとづいて将軍府が開府された痕跡は認められない。おそらく、百済ではこれら中国将軍号にもとづいて開府し、府官を設置するということはなかった。
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