高句麗を攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)
同月、高句麗の将軍如奴子は一連の戦役に乗じて遼東の河城(現在の遼寧省遼陽市の北東)を占拠していたが、慕容廆は将軍張統を派遣してこれを攻撃させた。張統は城を急襲して如奴子を生け捕りにし、千家余りを捕虜にした。この中には崔毖の旧臣である崔燾・高瞻・韓恒・石琮らがいたが、慕容廆は彼らを棘城に移すと、賓客として礼遇した。 これ以降、高句麗美川王は度々兵を派遣して遼東を襲撃したが、慕容廆は慕容翰と慕容仁にこれを阻ませた。美川王が和睦を請うと、慕容翰らを撤退させた。 この年、西晋の東萊郡太守であった鞠彭が北海出身の鄭林と共に慕容廆に帰順した。慕容廆は鞠彭を龍驤参軍事に任じると共に、鄭林には車牛や粟帛を送ったが、彼はいずれも受けずに農民の生活を営んだ。
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