高句麗と百済の戦争
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391年に高句麗で広開土王(好太王)が即位し、百済に占領された領土の回復を図り、396年には漢江以北、大同江以南の地域を奪回した。 百済は、高句麗の圧力増大の中、倭国に支援を求めた。阿莘王6年(397年)には太子腆支が倭国へ人質として出され、引き換えに倭国の軍事的な介入が行われたと見られる。百済は、新羅とも結んで高句麗へ対抗した。 この間の事情は広開土王碑文に詳しく、それによれば391年以来、倭が海を渡り百済と新羅を臣民としたが、高句麗は396年に百済を破り百済王を服属させた。しかし399年に百済王が誓約を破り倭国と和通したため、翌400年には新羅へ出兵して倭軍を駆逐し、404年には帯方に侵入した倭を撃退、407年にも百済へ出兵して6城を奪ったという。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが、百済と高句麗が倭国も交えて長期に亘り戦いを続けていたこと自体は間違いがない。 高句麗の長寿王は奪回した平壌へ遷都し(427年)、本格的に朝鮮半島方面への経営に乗り出した。華北の北魏との関係が安定するといよいよ百済に対する圧力は強まり、455年以後、高句麗による百済への侵攻が繰り返された。これに対して百済は、この頃に高句麗の影響力の低減を目指していた新羅と結び、蓋鹵王の18年(472年)には北魏にも高句麗攻撃を要請した。 醜類漸盛,遂見凌逼,構怨連禍,三十餘載,財殫力竭,轉自孱踧,若天慈曲矜,遠及無外,速遣一將,來救臣國醜類(高句麗)はようやく隆盛になり、ついに(我が百済を)侵略するようになりました。(このように)怨みを重ね禍いを連ねること三十余年になり、(百済は)財力も戦力も使いはたし、しだいに弱り苦しんでいます。 もし天子が弱くあわれな者に慈悲深く、(その慈愛が)はてしなく遠くまで及ぶのでしたら、速やかに一人の将軍を派遣して、臣の国を救ってください。-『三国史記』百済本紀/蓋鹵王18年 井上秀雄訳。 しかし、中国が南北朝時代にあった当時、百済は伝統的に中国の南朝と通交していた。北魏は高句麗がより熱心に遣使していることに触れ、百済への支援は提供されなかった。蓋鹵王21年(475年)には高句麗の長寿王が自ら率いた大軍によって王都漢城を包囲され、敗勢が決定的となった。蓋鹵王は脱出を試みたが捕縛され殺害された。漢城陥落は『三国史記』と『日本書紀』、そして書紀が引用する『百済記』で言及されている。 二十一年,秋九月,麗王巨璉,帥兵三萬,來圍王都漢城,王閉城門,不能出戰,麗人分兵爲四道夾攻,又乘風縱火,焚燒城門,人心危懼,或有欲出降者,王窘不知所圖,領數十騎,出門西走,麗人追而害之二十一年(475年)秋九月、(高句)麗王巨璉(長寿王)は三万人の軍隊を率いて、王都の漢城を包囲した。 王は城門を閉ざし、(城を出て)戦うことができなかった。麗軍は、軍隊を分けて、四つの街道を通って、挟み撃ちにした。 また風に乗じて火を放ち、城門を焼いたので、(城内の)人たちはあやぶみ懼れ、あるものは(城を)出て降伏しようとする者もいた。王は追い詰められてどうしてよいかわからず、(ついに、)数十騎を率いて(城)門を出、西方に逃走した。麗軍が(王を)追撃して、これを殺害した。-『三国史記』百済本紀/蓋鹵王21年 井上秀雄訳 廿年冬,高麗王,大發軍兵,伐盡百濟,爰有小許遺衆,聚居倉下,兵糧既盡,憂泣茲深...百濟記云,蓋鹵王乙卯年冬,狛大軍來,攻大城七日七夜,王城降陷,遂失尉禮,國王及大后,王子等,皆沒敵手(雄略天皇)二十年冬、高(句)麗王が大軍をもって攻め、百済を滅ぼした。その時少しばかりの生き残りが倉下(へすおと)に集っていた。 食料も尽き憂え泣くのみであった。...百済記に云わく「蓋鹵王の乙卯年冬、狛(高句麗)の大軍が来た。大城を攻めること七日七夜、王城は陥落し遂に尉礼(百済)の国を失った。王及び大后王子たちは皆、敵の手に没した。」-『日本書紀』巻14/大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)/20年冬 学者の中にはこの時一度百済は滅亡したと評する者もおり、そうでなくても首都失陥は百済の歴史上重大な出来事であり、現代では475年を百済史の区切りとしている。
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