『三国史記』百済本紀とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『三国史記』百済本紀の意味・解説 

『三国史記』百済本紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:42 UTC 版)

温祚王」の記事における「『三国史記』百済本紀」の解説

温祚の父は鄒牟または朱蒙チュモン)(高句麗始祖)といい、北扶余から逃れて卒本扶余遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に着いた扶余王には男児無く娘が3人いたが、朱蒙人となり見て非凡の人であるとして二番目の娘を嫁がせた。その後扶余王が亡くなったので朱蒙王位について、二人の子をなした。長子沸流(ふつりゅう、ピリュ)、次子温祚といった。朱蒙がかつて扶余にいたときの子(後の高句麗第2代瑠璃明王)が朱蒙の下に来て太子となったため、沸流温祚はこの太子に受け容れられないことを恐れて、烏干・馬黎らの10人の家臣大勢人々とともに南方逃れた。漢山(京畿道広州市)まできて負児嶽に上り居留地として相応しかどうかをみることとした。沸流海浜住みたいと言い出し10人の家臣はこの地が都とするに相応しいと諌めた聞かず引き連れた人々分けて、弥鄒忽(びすうこつ、ミチュホル、仁川広域市)まで行ってそこに国を建て、温祚は漢山の地で慰礼城(いれいじょう、ウィレソン、京畿道河南市)に都を置き、国を起こした。これが前漢鴻嘉3年(前18年)のことであり、初め10人の家臣援けられたので国号を「十済」としたが、のちに沸流の下に従った人たちも慰礼城帰属し百姓を受け容れたので国号を「百済」と改めた系譜扶余連なるので、氏の名を扶余とした。 この記事中にも分注として、朱蒙が卒本扶余至った際に越郡の娘を得て二子もうけたとする異説載せている。

※この「『三国史記』百済本紀」の解説は、「温祚王」の解説の一部です。
「『三国史記』百済本紀」を含む「温祚王」の記事については、「温祚王」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『三国史記』百済本紀」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「『三国史記』百済本紀」の関連用語

『三国史記』百済本紀のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『三国史記』百済本紀のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの温祚王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS