補註
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「ビリー・アイリッシュ」の記事における「補註」の解説
^ 2021年には、当時この曲はリリースする予定はなく、ダンス教室の先生に振り付け用の曲を作ってほしいと言われ先生にリンクを送る方法として簡単なSoundCouldにアップロードしたところSoundCouldでヒットし数千回再生され、当時の自分には大きな出来事であり、作曲者である兄のフィニアスと喜悦したが、本当の意味で話題になった訳でもないし生活も大して変わらなかったと振り返っている。
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^ 武市瑞山と同門である。 ^ 坂本龍馬とは同時期の同門人である。 ^ 菊地明 (2010年11月20日). “国立国会図書館月報. 2010年 (11月) (596)”. 坂本龍馬 近江屋事件の現在. 国立国会図書館. 2018年4月11日閲覧。 ^ 『太政官日誌』明治7年(第1-63号)コマ番号124
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^ 野中兼山の養父にあたる。 ^ 「乾和三 - 乾和成 - 乾信勝 - 乾信宣 - 安積祥任の妻 - 乾直建の妻 - 乾正聰 - 乾信武 - 乾正成 - 板垣退助」とつながる。 ^ 野中兼山の祖父にあたる。 ^ 山内一豊の妹「お合」の娘にあたる。
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^ 1968年(昭和43年)刊行の『岩美町誌』によると、「実子」ではなく「養子」との説を採り、「因幡国巨濃郡姥ヶ谷城主の吉見範仲が但馬国美方郡に逃れ、芦屋城主となり"塩冶周防守"と名乗った」とする説が紹介されているが、これを証明する一次史料は存在していない。『浜坂町史』にもこの説の影響を受け「因幡国の吉見兵部が、塩冶左衛門尉綱高の養子となり"塩冶周防守高清"と名乗った」と記載されている。 ^ 『群書類従(系図部)』に所収されている『佐々木系図』によれば塩冶高貞の甥・塩冶通清の四男・塩冶周防守の子・某が但州塩冶の祖に当るという。 ^ 当時の高信は豊国によって鵯尾城から追われていた。 ^ 『岩国藩分限帖』、『御家中系図』 ^ 一説、左京亮とも。
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^ a b 『愛国団体一覧表』 ^ “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2021年8月1日閲覧。 ^ 『頭山精神』藤本尚則著 ^ 『相撲史その2』
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「皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会」の記事における「補註」の解説
^ a b 『日本福音ルーテル教會史』、383頁。
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「遺伝子系譜学国際協会」の記事における「補註」の解説
[ヘルプ] ^ “The International Society of Genetic Genealogy”. ISOGG. 2013年7月1日閲覧。 See Homepage, Our Mission and About ISOGG. ^ “ISOGG 2013 Y-DNA Haplogroup Tree”. ISOGG. 2013年7月10日閲覧。 “ISOGG (International Society of Genetic Genealogy) is not affiliated with any registered, trademarked, and/or copyrighted names of companies, websites and organizations.” ^ “Family History and DNA: Genetic Genealogy in 2013”. Southern California Genealogical Society. 2013年7月7日閲覧。 ^ “ISOGG Regional Coordinators”. ISOGG. 2013年7月9日閲覧。 ^ “ISOGG Meetings”. ISOGG. 2013年7月9日閲覧。 ^ a b King, Turi E.; Jobling, Mark A. (2009). "What's in a name? Y chromosomes, surnames and the genetic genealogy revolution". Trends in Genetics 25 (8): 351?60. doi:10.1016/j.tig.2009.06.003. PMID 19665817. "The International Society of Genetic Genealogy (www.isogg.org) advocates the use of genetics as a tool for genealogical research, and provides a support network for genetic genealogists. It hosts the ISOGG Y-haplogroup tree, which has the virtue of being regularly updated." ^ “ISOGG 2006 Y-DNA Haplogroup Tree”. ISOGG. 2013年7月8日閲覧。 “An ISOGG group was formed in November 2005 to create a web-based document which could be updated to keep pace with the rapid developments in the field.” ^ Athey, Whit (2008). "Editor's Corner: A New Y-Chromosome Phylogenetic Tree". Journal of Genetic Genealogy 4 (1): i?ii. Retrieved July 8, 2013. "ISOGG is committed to a tree with the minimum of confusion for users, so naturally, with the publication of the new tree in Karafet (2008), ISOGG will be changing several haplogroup names to conform to the choices made by Karafet ... Meanwhile, new SNPs are being announced or published almost every month. ISOGG’s role will be to maintain a tree that is as up-to-date as possible, allowing us to see where each new SNP fits in."
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[脚注の使い方] ^ 『壬辰倭乱の金応瑞将軍は、金日成の祖先か?』張海成(ジャン・ヘソン、장해성)前半では、北朝鮮の歴史教育で「金日成の家は代々続いてきた革命家の家系」だったとしている件を取り上げ、現在は金日成の曾祖父の金膺禹以降の家系からしか教えないが、かつて党が「唯一思想体系」を考えた当初は、これを金應瑞まで接続して、「壬辰倭乱時に平壌まで侵攻してきた倭将小西飛騨守(内藤如安)の首を刎ねた、金應瑞将軍は金膺禹の何代前の先祖である…」と、解説されたことがあるが、大韓民国の歴史学者によると、「金日成の金姓は全州金氏であり、金応瑞の金姓は金海金氏であり、全州金氏は新羅王族の末裔、金海金氏は金官伽耶王族であるため、どのように系譜を辿っても金日成が、金応瑞の子孫となることはあり得ない」と虚偽を暴露されてからは、金膺禹以降の系譜しか教えなくなった件を取り上げ、後半では金膺禹が、ジェネラル・シャーマン号事件で民衆を率いたにしては、年齢が若すぎる点、当時の記録に無い点などを取り上げて虚偽を解説している。また内藤如安が斬首された史実はなく、撤退後、1600年には主君小西行長の下関ヶ原の戦いに西軍として参陣。西軍は敗れたものの東軍前田利長の客将に迎えられ、敗軍の将として処罰されることもなく金沢に居した。1613年、江戸幕府よりキリシタン追放令が出されると、キリシタンであった如安にも累が及び、翌1614年、高山右近らとともにマニラに追放された。同地では日本人町を建設し、1626年に77歳の天寿を全うしている。 ^ 『ドキュメント・金日成の真実-英雄伝説「1912年-1945年」を踏査する』によると、金日成の生い立ちについて「彼(金日成)の生家が墓守りという朝鮮王朝時代の身分階層上の『賎民』であり、伯母の玄養信が同じく『八賎(代表的賎民)』の一つムーダン(巫堂)だった…」とある文章による。 ^ 北朝鮮の歴史教育は、『ウィヒョク(金日成の革命歴史)』、『チンヒョク(金正日の革命歴史)』、『オヒョク(金正淑の革命歴史)』の丸暗記であり、これによって受験の合否が決定される。
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^ このうち乃木希典家の家紋は「市松四つ目結い」。 ^ 家紋は「四つ目結い」。 ^ 吉田厳秀の本貫は、「近江国犬上郡吉田村」という説と、「出雲国能義郡吉田庄」という説があり、後者の説によると出雲源氏に含まれることになる。家紋は「三つ盛洲浜」。 ^ 現滋賀県甲良町。
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^ a b c d e 『朝鮮在住内地人実業家人名事典(第1編)』47頁、「土井芳輔」項を参照。 ^ a b “板垣氏”. 世界帝王事典. 2014年7月2日閲覧。
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「今幡西衛 (二代目)」の記事における「補註」の解説
[ヘルプ] ^ 竹内綱の長男である竹内明太郎の会社 ^ 「戯曲『自由党異変』で板垣家に紛争のうづ。思想的立場の相違から筆者の故伯嫡孫守正氏遂に廃嫡に決す」『東京朝日新聞』大正14年(1925年)10月20日号 ^ この今幡西衛らの資金援助によって執筆された原稿(1冊から24冊、及び27冊)は、60年間今幡家に保管され、1991年(平成3年)、東京都渋谷区教育委員会に寄贈され、坂本志魯雄の子孫に保存され、1985年(昭和60年)、高知県立歴史民俗資料館に寄贈されていた原稿(25冊から26冊、及び28冊から85冊)を合わせて、土佐史談会理事の公文豪によって2009年(平成21年)9月に原書房より刊行された。(『板垣退助君伝記』22-24頁) ^ 1932年(昭和7年)6月4日、尾崎正の養父・尾崎旦死去仕候。 ^ “『雋傑坂本先生傳』今幡西衛著”. 坂本中岡両先生銅像建設會 (1927年). 2014年8月8日閲覧。 ^ 『板垣退助君伝記』24頁
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^ a b c 『土器と黎明』青山四郎著、グロリア出版 ^ 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年 ^ 『長老・改革派教会来日宣教師事典』新教出版社、2003年 ^ a b 『日本福音ルーテル教会史』、420頁「神學校が熊本から移轉して、日本ルーテル神學専門學校と改稱して以来、即ち昭和初年からの卒業生を一覧すると、左のとおりである。昭和二年、福山猛、昭和三年、川桐新一、松岡幹三、昭和四年、山内六郎、青山四郎、坂井賢男、高瀬義正、昭和五年、内海季秋、昭和六年、武井正悟、小泉昻、昭和七年、田坂惇巳、妹尾武夫、井芹貞安、大川鐵次、矢野静良、乾一郎、昭和八年、東菊次、野村明、昭和九年、太田敦次、昭和十年俵貢、岡本榮一、石山義澄(中略)昭和十三年、北森嘉蔵」による。 ^ a b c d 『青山四郎先生の召天』大柴譲治著 ^ a b 『日本福音ルーテル教会史』、427頁「この年(昭和12年)支那事變のために應召したのは、青山四郎、坂井賢男、乾一郎の3名であったが、乾一郎は上海「ウーソン(呉淞)」の敵前上陸に参加。激戦して重傷を負い歸國して療養生活に入った」とある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 20:27 UTC 版)
^ a b c d 『土佐の墓(1)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年) ^ a b c d e f g 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ a b “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ 『教授館總宰餘業記録』 ^ 『武道と仇討』
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^ 「八郎丸之郷百貫之内、定所務六十五貫四百文之分出置候、相残所者、速可奉納者也。仍如件。弘治二年五月十二日、香坂筑前守殿」『高野家文書』長野県上水内郡牟礼村(所収『山梨県史』資料編中世2、県外文書、長野県の部)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/17 16:25 UTC 版)
^ a b c d 『山内量平 -日本のルーテル教会初代牧師-』坂井信生著、14頁 ^ a b 『山内量平 -日本のルーテル教会初代牧師-』坂井信生著、15頁 ^ 『日本福音ルーテル教会 教職・按手礼認定名簿(2012)』による ^ 「牧師・川瀬徳太郎先生を憶う」(所収『折尾女子学園五十年史』折尾女子学園記念史編纂委員会編、昭和60年(1985年)11月1日) ^ “板垣氏”. 世界帝王事典. 2014年6月15日閲覧。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 08:35 UTC 版)
^ 「18歳」と偽って入隊 ^ 米倉丹三は、同年7月、奥州棚倉の合戦で軍功をたて正式隊士に昇進。 ^ 『戊辰役戦史(上)』大山柏 p228 ^ 『断金隊出陣日記』歌田稔(靭雄)筆記 ^ 『戊辰役戦史(上)』大山柏 p231-p233 ^ 『断金隊出陣日記』歌田稔(靭雄)筆記 ^ 「二人が心を同じくすれば、其の利きこと金を断つ(二人が心を一つにすれば、その鋭さは金をも断ち切るほどになる)」
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 22:49 UTC 版)
^ a b 死亡日については、土佐藩届出文書、譜類は全て「閏3月10日」であるが、墓碑・過去帳類は「閏3月3日」である。 ^ 『板垣退助君傳記』による。 ^ 18歳の頃と言われる。 ^ 一説には難を免れるため乱心を装ったとも言う。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 23:29 UTC 版)
^ a b “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2021年8月1日閲覧。 ^ 『頭山精神』藤本尚則著
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^ 『自由党史』板垣退助監修、五車楼 ^ 「頭山満先生が福岡郊外の平尾で開墾をしておられたところへ、後年大隈重信に爆弾を投じることになる来島恒喜が「大久保利通が東京紀尾井坂で刺客にやられた(紀尾井坂の変)」という報告を持ってきた。頭山先生は「それじゃ板垣が立つ(武装決起)であろうから、自分はすぐ土佐に行く」と言い残して、そのまま土佐に向かわれた。ところが板垣退助には挙兵の考えはなく「もはやその時にあらず」と語る。何故かと食い下がる頭山に「徳川が皇室の権威を掠めていた時代ならば、敢然蹴って武装蜂起しこれを斃すに怯むべきはあらざれど、王政復古し今や正位に御一人を戴く世にあって、兵を挙ぐるは、朝敵賊徒の謗りを逃る事を避けられまい」と。「然らばどうされるのか」と訊く問いに板垣は、自由民権の旗印で言論をもって藩閥と戦う決意を語った。すなわち立憲政治の妙諦を説き、民選議員の性質を論じ、国会開設の急務を主張し、言論の力で藩閥を倒さなければいかぬ」という堂々たる理論であった。頭山先生は大いに感じ入り、ともに民権運動をやろうという事で、その演説会を県下各所で開き、大いに自由民権の必要性を論じられたのである。(『頭山満伝』)
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^ a b 『明治維新人名辞典』 ^ a b c d 『左行秀と固山宗次その一類』片岡銀作著、大風印刷、2000年 ^ 異説「伊藤又兵衛盛重の嫡子」とも。 ^ 豊永氏、本貫は肥前国松浦郡豊永庄 ^ a b c d e f g h i j k 『左行秀の新研究』橋田庫欣著(所収『刀剣美術』第118-123号)、日本美術刀剣保存協会、1966年11月-1967年3月 ^ 水心子正秀の門弟 ^ a b 「行秀は筑前の鍛工にして名手の聞へあるより、水通丁三丁目の鍛冶七兵衛(関田勝廣)と云へるもの之を請し、己が家に住ましめ其術を学ばせ居しが、後藩に挙げられ士籍となり、のち東武(江戸)沙村に住めり。其水通にありし頃(近藤)長次郎(家の)近隣なれば、日々彼の鍛場に遊び懇切なりし」(河田小龍著『藤陰略話』)より。 ^ 東京都江東区北砂1-2 ^ 『幕末維新(第5編)』山内家史料刊行委員会編纂、672頁 ^ a b 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年 ^ 「筑前の刀鍛冶で我藩(土佐)に召抱へられて居る豊永久左衛門と云ふ者が江戸に居た。私(退助)は之と入懇にし、一寸義侠心があるらしく見受けたから之にも山田(平左衛門)等にも力を合す様頼み置いた」(『無形伯旧夢談』板垣退助談、田岡髪山筆録) ^ a b “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2021年7月5日閲覧。 ^ 『維新土佐勤王史』瑞山会編「乾(退助)が江戸築地藩邸の空舎に關東浪士を隠匿せしめたる事件にてありしなり。是れより先き、彼の乾(退助)が、浪士の跡始末(世話)を壮年血気の山田喜久馬、小笠原謙吉、別府彦九郎等に託して西上するや、浪士一人來り二人來り、漸く其頭数を加へしより、賄料に缼乏し、山田などは鍛冶橋藩邸の留守居役に就きて其の扶助を申し入れぬ。留守居役の宮井俊蔵は、江戸定府の佐幕派なれば乾と浪士の関係を睥睨し藩廰の命なき以上は扶助し難しと拒みしに山田等は無頓着にも土佐より來りし乾の書簡を示し、且つ宮井に迫りて曰く『乾は大監察(大目付)たり。何ぞ之を軽視するや』と。是に於て宮井は右の書簡を以て藩邸に抱への刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門)の土佐へ歸るに託し先づ之を京師藩邸出張重役・寺村左膳(佐幕派)へ密告せしむ。而して行秀の高知へ着するや、横田源作なる者、行秀より右の事實を聴収し、遂に佐幕派の耳に入れり。行秀、平生侠氣ありと称せられ、乾(退助)の江戸に在る時、亦、(退助は)行秀に實を告ぐ(水戸浪士隠匿を打ち明ける)。故に佐幕派は略(ほ)ぼ、その秘密(浪士隠匿と薩土討幕の密約)を知るを得て『乾こそは討幕を唱ふるのみならず、已に私に(独断で)同志の浪士輩を隠匿せしめたる』と(藩内佐幕派の)攻撃甚だ猛烈なりき」1218頁。 ^ 『土佐維新史料』書翰篇(1) ^ 板垣退助『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』159頁、『板垣退助君戊辰戦略』他より。 ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年) ^ a b 『坂本龍馬全集』 ^ a b 『陸援隊始末記』平尾道雄著 ^ 「大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止の太政官布告」 ^ 左行秀の墓石は、境内入口より見て左奥にの墓地内で、墓地入口より前進すると、下に向かう階段の手前左横に所在。行秀と妻・寿満(すま)、次男・末秀と一緒に葬られている。 ^ 『板垣退助君戊辰戦略』(附編『左行秀の裏切り』) ^ 『飛騰』高知県立坂本龍馬記念館だより第62号(2007年7月) ^ 甲藤馬太郎の子孫に伝わる ^ 『坂本龍馬・中岡慎太郎両先生暗殺事件について』谷干城談(明治39年龍馬追弔会に於いて)この講演の中で、谷は前段「当時の土佐の景況についてひととおりお話を申し上げておきたい」として、土佐藩の内情の説明。藩論が統一されておらず、佐幕保守党、佐幕開国党、尊王攘夷党の三つ巴に派閥が分かれており、その中で上士と下士を調和させ、開国党と攘夷党を融和させたのが龍馬と慎太郎の両人である」とし「両人が一時に殺害に遭ふたは、土佐藩はもとより天下の不幸である」と語っている。さらに慶応3年9月以降の左行秀の不審な行動(水戸浪士隠匿の密告など)を取り上げ、行秀が龍馬暗殺犯と内通していたのではないかと考察している。(『陸援隊始末記』平尾道雄著)
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^ 『坂本龍馬とその一族』土居晴夫著、新人物往来社、昭和60年(1985年) ^ 『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、平成18年(2006年) ^ 茂秋の母・宮地軍子の妹にあたる千代子の夫が浅野泰治郎にあたる。 ^ 「浅野セメント株式会社」は、「日本セメント株式会社」を経て、「太平洋セメント株式会社」へ社名変更し現在に至る。 ^ a b c 『高知県人名事典』高知県人名事典編纂委員会編、高知市民図書館、1971年 ^ 『板垣退助愛蔵品展』高知市立自由民権記念館編、2011年10月。※同書の解説文(翻刻)には「此度子爵福岡秀猪娘同姓景子と婚約…」とあるが、同書所載の印影写真ならびに青山霊園の墓碑によって「呉子」が正しいと確認。 ^ a b 『土陽新聞』昭和4年(1929年)12月10日号参照 ^ 『日光の板垣退助銅像』田辺昇吉著(所収『土佐史談』第161号) ^ 『日満支ノ完全諒解ニ成レル珠玉的投資株』(所収『中外商業新報』昭和8年(1933年)12月2日号) ^ 『鉄路五十年』京阪電気鉄道株式会社編、1960年12月 ^ 『京阪70年のあゆみ』京阪電気鉄道株式会社編、1980年4月 ^ 望月圭介伝 1945, p. 769. ^ 望月圭介伝 1945, p. 664. ^ 田辺昇吉『日光の板垣退助銅像』(所収『土佐史談』第161号) ^ 後藤象二郎の墓の向かいにある。 ^ 宮地伴七の養子となる ^ 坂本八蔵直澄の養子となる。本名:山本常八郎(1797-1855) ^ 箱館神明宮宮司・沢辺悌之助の養子となる。本名:山本数馬(1834-1913) ^ 福岡孝弟養女、実は荒木伊三次の七女(荒木周道の妹)、板垣退助継室
※この「補註」の解説は、「宮地茂秋」の解説の一部です。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 03:56 UTC 版)
^ a b c d e f g “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2021年8月1日閲覧。 ^ a b c d 『高知県人名事典』高知県人名事典編纂委員会編、高知市民図書館、昭和46年(1971年) ^ a b 『板垣会館について』今井章博著 ^ a b c d 『頭山精神』藤本尚則著
※この「補註」の解説は、「谷信讃」の解説の一部です。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 02:55 UTC 版)
^ a b c 『萩原三圭の留学』富村太郎著、郷学舎、1981年 ^ 『近世土佐の群像(2)萩原三圭のことなど』による。 ^ 『萩原伴次源守道之墓表』より。 ^ 京都の人 ^ 元女官 ^ 池田信(まこと)。山形県出身、京都帝大土木科卒。小河内ダム建設などに従事。昭和20年(1945年)歿 ^ 日本郵政勤務、静岡県沼津市の人
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^ a b 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ a b 『舊各社事蹟』島崎猪十馬編、昭和6年(1931年)、88頁。北代健太郎、井上蜂萬、乾正士、筒井楠太郎、加藤弥之助、岡本静、板垣鉾太郎、麻田久寿衛、野崎伊太郎らの名があり。 ^ “『自由のともしび』第74号”. 高知市立自由民権記念館 (2013年3月1日). 2020年10月1日閲覧。 ^ 後藤象二郎の墓の向かいにある。 ^ 『土佐の宮地氏』 ^ 『坂本龍馬とその一族』土居晴夫著、新人物往来社、昭和60年(1985年) ^ 『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、平成18年(2006年) ^ 『土陽新聞』昭和4年(1929年)12月10日号参照 ^ 『日光の板垣退助銅像』田辺昇吉著(所収『土佐史談』第161号)
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「ナサニエル・セイヴァリー」の記事における「補註」の解説
^ a b c d e f g 田中 pp41-44 ^ a b 田中 pp46-49 ^ 田中 pp204-206 ^ 田中 pp245-246 ^ 「うえっぶ」一家が「上部」になったのは姓に由来している。 ^ 『日本の島々、昔と今。』有吉佐和子著、集英社、遙か太平洋上に 274-280ページ 1981年4月15日初版発行 ISBN 978-4-08-750736-2
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^ a b c d e f g h i j k l m n 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ 高知県高知市山手町の高知市歴史墓地公園にある。
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「日本福音ルーテル八幡教会」の記事における「補註」の解説
^ “風説新聞(第3号)”. 久留米大学デジタルアーカイブ (1964年12月20日). 2014年6月15日閲覧。 ^ 『日本福音ルーテル教会 教職・按手礼認定名簿(2012)』による。 ^ 『女性史研究 特集 近代の女キリスト者 第14集』家族史研究会編、1982-06-01、19頁(近代熊本の女キリスト者たち)
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[脚注の使い方] ^ a b c d e f “『養蚕実験真説』高野成雄著”. 北信成蚕社 (1909年2月25日). 2020年11月3日閲覧。 ^ “『氣象與養蠶』浪江梯三著”. OPAC (1903年12月). 2020年11月3日閲覧。 ^ “『土地と共に生きている人々の生活の中に「地域文化」が息づいている』池田正人”. NPO法人 信州地域社会フォーラム (2003年9月26日). 2020年11月3日閲覧。 [リンク切れ] - 「中宿の人はいろいろの工夫をした。明治10年代(1877年(明治10年) - 1886年(明治19年))では繭(まゆ)をうりさばいていたのは牟礼村と柳里村で、他の2村は自家用か村内の需要に応じる程度であった。特に中宿は早くから養蚕が盛んであった。高野 成雄が埼玉県の産業学校へ行って養蚕(ようさん)技術を学んできて、広めたことによる。霜の害のときも、室にいれて再発芽の桑を利用し、きょう蛆(さなぎの蛆)の予防などがおこなわれた。信蚕会という養蚕技術改良のための組合をつくり、会員には長野市大豆島の人なども会員になった。この技術改良は、棚育(竹で編んだかごにのせ飼う方法)や、ざ桑育(桑の葉をきざむ)から葉をそのまま食べさせる条桑育にかえかなりの省力化ができた」とある。 ^ 『養蚕実験真説』147頁 ^ 『養蚕実験真説』148頁
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:10 UTC 版)
^ “日本大百科全書(ニッポニカ)「金日成(きんにっせい)」”. 2022年7月1日閲覧。 ^ “Daily NK - 捏造金氏父子抗日斗争的“荒唐的前五位”” (中国語簡体字). Daily NK. (2008年3月1日). http://www.dailynk.com/chinese/read.php?cataId=nk00500&num=1699 2008年3月1日閲覧。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 05:10 UTC 版)
山梨県甲斐市竜王の有富山慈照寺の開祖は、寺伝によれば開山の真翁宗見とともに甲斐守護武田信昌の庶子である「諸角昌清」で、昌清は「諸角虎定」と同一人物であるとも考えられている。諸伝によれば虎定の生年は文明12年(1480年)であるとも言われるが、黒田基樹や柴辻俊六らの研究者は疑問視し、次代の人物である可能性を指摘している。「室住虎光」の確かな史料における初見は弘治3年(1557年)の京進銭納入に際した奉行人連署手形であり、弘治年間には秋山虎繁(信友)とともに信玄に美濃情勢を報告している。武田氏の信濃侵攻に際しては信濃国衆とともに信濃柏鉢城を守備している。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 18:48 UTC 版)
^ 地理院地図 - 国土地理院 ^ 月山(島根県) - 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク) ^ ただし、島根県遺跡データベースの「富田城跡」は標高197mで登録されている。 ^ 萩原さちこ(著者) (2017年3月16日) (日本語). 7つの魅力でとことん楽しむ! 日本100名城めぐりの旅 (電子書籍). 学研プラス.. ISBN 9784059161288 ^ 一説に、「文治元年(1185年)、出雲・隠岐両国の守護となり、月山富田城に入る」とする本もあるが、実際には承久の乱の功により、出雲・隠岐の2国を賜ったため、この年代に関しては疑わしい。 ^ 島根県安来市、月山富田城跡景観の復元など「史跡公園」へ本格整備 ^ 月山富田城史 ^ 月山富田城を発掘調査で知る
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 23:32 UTC 版)
^ a b c d e 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)、151頁 ^ a b 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵(高知県立図書館寄託文書) ^ a b “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。 ^ 『土佐名家系譜』寺石正路編、高知教育会、1942年、576頁 ^ 現住所・高知県高知市梅ノ辻21附近 ^ 『土佐の宮地氏』87頁 ^ 『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、平成18年(2006年) ^ 『土佐の宮地氏』120頁 ^ 青山霊園の宮地家墓の墓碑による。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 15:43 UTC 版)
^ 時間帯を表す明・朝・昼・夕・暮・宵・夜・暁などの語は、時間により2通りあるものもあり、それは斜線で区切って示した。 ^ 24時間記法の6時ではなく、宣明暦では日の出の時刻。貞享暦以降は日の出2刻半(36分)前の夜明け。したがって冬は遅くなり、夏は早くなる。 ^ 24時間記法の18時ではなく、宣明暦では日没の時刻。貞享暦以降は日没2刻半(36分)後の日暮れ。したがって冬は早くなり、夏は遅くなる。 ^ ここでいう1刻は十二時辰ではなく、1日を100等分したものであり、1刻 = 14分24秒。 ^ 現在の時刻による正午と、当時の南中における午の正刻は、経度のみならず、季節に依っても数分程度前後する。均時差・アナレンマ参照。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/05 09:40 UTC 版)
^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ 『土佐史談』第138号 ^ a b c d e f 『舊各社事蹟』島崎猪十馬編、原本昭和6年(1931年)初版、自由民権百年高知県記念事業実行委員会、昭和56年(1981年)覆刻 ^ a b c d e f g h 山本泰三『土佐の墓(1)』土佐史談会、1987年(昭和62年)、292頁 ^ 『高知新聞』明治15年(1882年)5月10日号 ^ a b 『土陽新聞』明治15年(1882年)5月25日附雑報欄 ^ 高知県高知市小高坂住
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 13:57 UTC 版)
^ a b c d 『板垣山墓所整備と東照宮のことなど』髙岡功太郎著(所収『土佐藩ゆかりの会会報』第10号)より ^ a b c d e f g 『岐阜東照宮奉賛会しおり』伊奈波神社、2021年(令和3年)による。 ^ 『岐阜米屋町史』 ^ “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2021年6月3日閲覧。 ^ a b c d 『日光東照宮と板垣退助』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂、2021年(令和3年)6月2日出版による。 ^ 『岐阜東照宮新社殿建設の経過報告』奥田泰士、古川裕基(所収『岐阜まんりょうクラブ』第276号(2020年(令和2年)10月9日発行)) ^ a b c d 『岐阜新聞』2021年(令和3年)6月2日号朝刊 ^ 『中日新聞』(岐阜版)2021年(令和3年)6月2日号朝刊 ^ 『岐阜新聞』2019年5月号
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:13 UTC 版)
^ a b c d e f g h 『高知県人名事典(補遺)』高知県人名事典編纂委員会編、高知市民図書館、1972年(昭和47年) ^ a b “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ a b 『大蔵省人名録:明治・大正・昭和』大蔵財務協会、1973年1月発行、161頁
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:29 UTC 版)
^ この人物を通じて乾和三の血脈が入る。乾和三の曾孫・乾作兵衛信宣(山内彦作信和の弟)の娘が安積祥任の妻で、その娘が乾直建の妻となる。乾和三から板垣退助までの系統は「乾和三 - 乾和成 - 乾信勝 - 乾信宣 - 安積祥任の妻 - 乾直建の妻 - 乾正聰 - 乾信武 - 乾正成 - 板垣退助」となる。 ^ 野本直誠の養子となる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 10:03 UTC 版)
^ 青山2006、96頁。 ^ 『寺村左膳道成日記』 ^ 青山2006、115頁。 ^ 『明治維新人名辞典』 ^ 『官報』第3914号「叙任及辞令」1896年7月16日。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 08:46 UTC 版)
[脚注の使い方] ^ a b c 『但馬高野 満福寺・池田草庵の実像』明楽弘信著、平成25年(2013年) ^ 『当山過去帳』満福寺蔵 ^ 現住所:兵庫県豊岡市城崎町湯島643番地 山本屋 ^ 弘仁上人。満福寺第51世住職。但馬国養父郡上藪崎・山本重良兵衛家の出身。 ^ 『紀伊続風土記』 ^ 『西塔再興由来記』正智院覚道記、文化5年(1808年) ^ a b c 『但馬高野 満福寺・真言宗の教えと陽明学』明楽弘信著、平成28年(2016年) ^ 『中院流傳授目録併聞書・弘補』義超弘元筆 ^ 現在の養父神社の社務所の場所にあった寺院。 ^ 『般若心経秘鍵(末尾願文)』義超弘元筆に「但州養父郡水谷山普賢寺(養父神社)第12世」とあり。 ^ 世界最大級の木彫金箔座像・三大佛 ^ 遠林寺(えんりんじ)は、赤穂浪士ゆかりの寺院。大石良雄が開城の後、尾崎村の「おせど」から通って改易後の残務処理をした場所。当時の住職は祐海。明治時代に廃寺となり本堂は、御崎の広度寺に移築。(遠林寺跡 所在地:兵庫県赤穂市加里屋2163番地1号 臨済宗 随鴎寺の隣) ^ 現住所:奈良県五條市黒駒町244番地 ^ 所在地:兵庫県美方郡香美町小代区平野400番地 ^ 上野村在勤 ^ 第53世 満福寺住職・不虚弘実上人の弟子 ^ 『但馬高野 満福寺・池田草庵の実像』明楽弘信著、平成25年(2013年) ^ 『「歴史と文学、いで湯の町」城崎温泉創業350年の宿』
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:41 UTC 版)
^ a b c d e f g h 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ 寺石正路撰の『土佐名家系譜』(昭和17年刊)によって「後藤正澄(左近右衛門)の妹」と記される書籍があるが、同時代の藩政史料である『御侍中先祖書系圖牒』に「第九養子・助右衛門正晴。前名藤次。養父外姓之従弟。實は第八・橋本宅右衛門孝直二弟也」とある事から「後藤吉正(収五郎)の妹」が正しい。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/05 04:03 UTC 版)
^ 川瀬六郎左衛門の父・川瀬七郎次郎と覇を争った湊惣左衛門はこの湊惣左衛門の先代。 ^ “川瀬六郎左衛門”. 大坂の陣絵巻 (2003年2月24日). 2014年6月16日閲覧。 ^ 『日本キリスト教歴史大事典』
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 19:59 UTC 版)
^ a b c d e f g h i j k l m n 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)、151頁 ^ a b c d e f g h 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵(高知県立図書館寄託文書) ^ a b c “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ 『土佐名家系譜』では、諱を「信良」と記すが、同書の出典である『御侍中先祖書系圖牒』では「信貞」とあり、墓碑にも「信貞」とあるためこれに従う。 ^ 宮地信貞の父・山本信敬の弟が宮地倫。 ^ a b 『土佐名家系譜』寺石正路編、高知教育会、1942年、576頁 ^ 『土佐史談』第69号 ^ 『土佐の宮地氏』 ^ 『潮江天満宮棟札(1)』寛文9年3月19日(1669年4月19日)、大願主・四位侍従対馬守源朝臣忠豊公。奉行・孕石頼母、安田弥市右衛門、岡田嘉右衛門、原四郎兵衛。大工・北岡十右衛門。庄屋・宮地五助 ^ 『潮江天満宮棟札(2)』元禄2年(南呂)8月21日(1689年10月4日)、大願主・土佐太守四位侍従松平土佐守藤原朝臣豊昌公。奉行・山内彦作信和、桐間兵庫義卓、孕石小右衛門元政、岡田嘉右衛門。作事役・島田三郎兵衛敦正。庄屋・宮地五助茂久 ^ 『土佐名家系譜』は、茂好の歿年を「安永五年」と記すが『御侍中先祖書系圖牒』および墓碑によれば「安政五年」が正しい。 ^ 『土佐名家系譜』は「茂好・茂修・茂樹」を兄弟とするが、出典となった『御侍中先祖書系圖牒』では「茂光・茂修・茂樹」を兄弟とするため、これに従う。 ^ 原文『御侍中先祖書系圖牒』に「鹿持孫平妹」とあり。「鹿持孫平雅慶」は『土佐名家系譜』に、「鹿持雅澄の長男」とあるため、「鹿持孫平妹」から「鹿持雅澄娘」に訂正。
※この「補註」の解説は、「宮地信貞」の解説の一部です。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:42 UTC 版)
^ a b c “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年10月1日閲覧。 ^ a b c d e f g 『日本人名大辞典』講談社 ^ a b c d e f 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)、70頁 ^ a b “『なんこく歴史散歩』第58回”. 広報(高知県南国市) (2017年11月1日). 2020年10月1日閲覧。 ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.9 ^ 墓石には「信士」とあるが、過去帳の註記によれば「従四位」贈位の時に菩提寺より「居士」号を贈られたとある。
※この「補註」の解説は、「平井政実」の解説の一部です。
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^ a b c d e f 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年) ^ a b 『居合道真諦』河野百錬著、私家版、1950年(昭和25年) ^ a b c d e f g h i j k 『高知県人名事典』高知県人名事典編纂委員会編、高知市民図書館、1971年(昭和46年) ^ 林茂平(亀吉)は、無双直伝英信流第14代宗家・林弥太夫政敬の孫娘の婿。 ^ a b 『土佐史談復刻叢書(3)泉州堺土藩士列挙実紀(妙国寺の切腹)』土佐史談会、1979年、19頁 ^ a b 『カナダに渡った侍の娘 ある日系一世の回想(原題『Mothertalk』)』ロイ・キヨオカ著、増谷松樹訳、草思社、2002年 ^ 『英信流居合と板垣伯』岡林九敏著(所収『土佐史談』第15号) ^ 大日本武徳会居合道範士は、大正時代では中山博道に次ぎ2人目である。 ^ 金子真吉墓の南上にあり ^ 大江 清。土佐女学校(現・土佐女子高等学校)卒業 ^ a b c d e f g h “『日系カナダ人二世芸術家ロイ・キヨオカの生涯と芸術』”. 国際社会文化研究 (14), 57-95 (2012年12月28日). 2019年9月10日閲覧。 ^ 清岡重清。高知県安芸郡馬路村出身。旧制安芸中学校卒業。1907年渡米。 ^ ロイ・ケンジー・キヨオカ(1926年 - 1994年)、1965年サンパウロ国際ビエンナーレ(銀賞)、1969年大阪万博カナダ館の彫刻を製作、1978年日系文化人として初の「オーダー・オブ・カナダ(日本の文化勲章にあたる)」を受賞。 ^ 映画『葦 -ロイ・キヨオカの生涯と芸術』フミコ・キヨオカ監督作品
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^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵(高知県立図書館寄託文書) ^ 実父の本山茂良は、本名を乾右馬之助と言い、本山茂直(安之進)の養子となって本山家を継いだが、正厚の代でまた乾家に戻ってきたことになる。 ^ 島津斉彬の実妹 ^ 『中山忠能日記(2)』193-195頁 ^ 『嵯峨実愛日記』(1)6頁。 ^ 「一、大島吉之助(西郷隆盛)入來之事。一、薩藩両人(西郷隆盛、吉井友実)、有馬藩(久留米藩)両人(大塚敬介、田中紋次郎)、土藩一人(乾正厚)入來。右は長人入京之 御朝議之由、如何之御事と存候旨、速(すみやか)に御勇断被爲有度旨左様無之而者、朝議之被爲立候儀無之、此後朝議被爲立間敷依而右様申上候由候事。返答(は)尚明日伺公之上、關白殿(を)始(め)両役え可申聞旨申答候事」(『朝彦親王日記』元治元年7月16日條) ^ 『雋傑坂本龍馬』坂本中岡銅像建設会編、弘文社、昭和2年(1927年)4月1日、219-220頁 ^ 『維新土佐勤王史』瑞山會編、602頁 ^ 「(八月)晦日戊戌小雨。一、今日者、予(朝彦親王)不參相願候事、尤常陸宮内府伺公也。一、藝州中老品川直太郎令面會御祝遣候、且去年來毎々到來物挨拶も申候事。但、入來に付(き)肴代金千疋到來由也。一、二條法印招(まねき)に遣(し)新建に而(て)酒を遣候事。一、乾市郎平より關東風聞書到來之事。一、瀧口官人並河左衞門大尉(の)弟、諸陵寮之官人に被召加候様願度旨、予(朝彦親王)へ頼依而 谷森大和介へ可頼旨、先づは返答に及置候也。一、紀伊中納言より以使爲伺 天氣候に付、予(朝彦親王)方も同様見舞申來候由也。一、加賀中納言より以使筑前守、不ラチ恐入候旨以手控申來候由之事」(『朝彦親王日記』元治元年8月30日條) ^ a b 「一、(乾)市郎平へ「大樹上坂周旋之儀、申聞候所、猶重役共へ申聞、否可申上」と申歸候也」(『朝彦親王日記』元治元年9月2日條) ^ a b 「一、土藩乾市郎平令面會候處、過日申入置候「大樹上坂周旋、斷(ことわり)之旨申上置候而「大樹上坂之周旋者(は)、余程(よほど)六ツヶ敷(むずかしく)存(じ)候に付、相斷(あいことわり)之旨也。尤(もっとも)之儀也。但、此儀「予(朝彦親王)より會藩え申入クレ候様」申候。依而(よって)(手代木)直右衞門(を)招(き)委細申聞、承知に相成候事」(『朝彦親王日記』元治元年9月4日條) ^ 「(慶應元年)4月19日癸未晴。一、野崎糺、當番に付き、令對面。土藩盡力之猶々入念候樣分而申置、土方楠左衞(門)、或屋敷に潜伏。此両三(日)中に者、出京。是非共、取押いたし度旨うわさ之事。一、嶋津十大夫來。右は越前宰相越前守より之使也。箇條は當四月參府。年番併御所より被 仰出も候故、何ヶ可致と書面に而(て)伺候所、常例之通、參府可致旨、附紙返答。然所、當秋迄斷申立置候。此邊 朝廷へ不伺、恐入候。右邊(を)含(め)頼來仍而(よって)承知之旨返答す。一、薩藩小松帶刀、近々歸國に付、暇乞に來。口祝、包物等遣於表祝酒遣畢。一、紀藩横井次太夫、歸京に付來。對面斷政之進令、面會會所左に大樹彌進發之書取中納言へ達之寫一通、右書面に差添る口上書一通、都合二通也。從同人爲土産、江戸團扇十五握、御文筒五包到來之事。一、岩下佐治衞門より煮取一陶到來之事。一、寺尾元長診察申附畢。酒遣畢。一、二條宰相仍而(よって)招申、半比來、森田之儀申聞置畢。酒遣畢。一、土藩乾市郎平より紀貫之之眞蹟之摺物「月」字、到來。尤(もっとも)乾より傳候事」(『朝彦親王日記』慶応元年4月19日條) ^ 慶応元年9月7日(1865年10月26日)、今7月8日(1865年8月28日)之晩二之御丸宿番之所 翌7月9日(太陽暦8月29日)御着城之趣承リ朝五ツ時、代合不相待相仕舞之所、當日、御着城不被(あそばさ)遊(れず)重キ御番所明候段達ニ恐入申詞然ニ安易被承違ヲ以、件之次第不心得之至、御不快ニ被 思召依之先月23日(1865年10月12日)愼被仰付置候處、前躰被差免候。(『御侍中先祖書系圖牒』) ^ 『明治維新人名辞典』の執筆者は『御侍中先祖書系圖牒』を参照してい無いと思われ「慶応2年(1866年)6月以降は消息不明」と記載しているが、『御侍中先祖書系圖牒』には明治元年12月17日(1869年1月29日)まで記載があり消息不明ではない。 ^ “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。 ^ 板垣退助の壮年期の古写真 初公開。後藤象二郎、乾正厚と共に撮影 ^ 「高知市出身の政治家で自由民権運動の指導者・板垣退助(1837年-1919年)の30歳代半ば頃の姿を撮影した写真が見つかり、高知市立自由民権記念館が、平成24年(2012年)7月13日、その画像を報道陣に公開した。大阪府池田市に居住する板垣退助の曾孫が保管していたもので公開は初めて。高知近代史研究会の公文豪会長(63歳)によると、写真は明治2年(1869年)1月頃に撮影されたとみられ、板垣退助の壮年期の古写真としては「大変貴重」という。写真では中央に板垣退助、向かって右側に後藤象二郎、左側に退助の次男・正士を養子に迎えた乾正厚が写っている。退助以外はいずれも髷を結っている姿。(画像)30歳代半ば頃の板垣退助(中央)の写真を手に記者会見する高知近代史研究会・公文豪会長=平成24年(2012年)7月13日午後、高知市立自由民権記念館にて。平成24年(2012年)8月1日から、同館で開催する「新出史料展」で一般公開する」(『千葉日報』平成24年(2012年)7月13日号) ^ 『御侍中先祖書系圖牒』 分家・初代乾市郎兵衛正直(1688年死去)より第七養子市郎平正厚(1870年死去)までの系図を収録。
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^ a b c 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年 ^ 「中村らは薩摩藩へ移管後、四出乱暴を極めた。幕府は薩摩藩邸に潜匿するを知り、薩邸に掛け合ふて身柄の引き渡しを請求したが、薩邸はこれに応じない。幕府は大に怒りて遂に兵を派して薩邸を焼討ちした。鳥羽伏見の激変は時勢の然らしむる処とは云へ、此薩・幕の大衝突が殊にその気運を促したもので、伯(板垣)の『好(よ)き幕明(まくあけ)』とは之を謂つた」(『無形伯旧夢談』板垣退助述、田岡髪山筆録) ^ 『日光東照宮と板垣退助』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂 ^ 『日光東照宮と板垣退助』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂 ^ 幕府陸軍約3300人、高崎藩・笠間藩兵約2000人に、諸生党が結成した追討軍数百人が追従した。 ^ 『水戸市史 中巻(五)』 1990, p. 300–301. ^ a b c d e 『無形伯旧夢談』板垣退助述、田岡髪山筆録 ^ 『幕末維新(第5編)』山内家史料刊行委員会編纂、672頁 ^ 私の滞江中(江戸詰の時)、一日(ある日)深編笠を被った一人の浪人が訪ねてきた。之を引見すると、其浪人は水戸藩士・中村勇吉と名乗り『君(乾退助)の名を聞き、身を託し大事を謀らんと思ひたち訪問した』と言ふ。乃(すなは)ち筑波山の残党で武・総・野州に数多の同志を有し、幕府の「お尋ね者」となっていゐる。此者が私の名を聞いて来たとは俄かには信じられぬが、兎に角、身を託して来たからには、所謂『窮鳥懐に入る』の類で見捨る訳には行かぬ。浪人隠匿の爲めに罪科を得るなら其れ迄の事。寧ろ彼(中村)と死生を共にせんと決心した。それから中村とその一派、相楽総三、里見某ら数名を我藩(土佐藩中屋敷・築地)藩邸に潜匿せしめた。当時、参勤交代の制が緩和されて藩邸には多数の人が居らぬ。彼等を潜ましむるには絶好であつた。(『無形伯旧夢談』板垣退助述、田岡髪山筆録) ^ 『陸援隊始末記』平尾道雄著 ^ 『土佐維新史料』書翰篇(1) ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年) ^ 板垣退助『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』159頁、『板垣退助君戊辰戦略』他より。 ^ 薩摩藩三田屋敷(現在地・東京都港区芝5丁目7-1 NEC本社ビル附近) ^ 『慶明雑録』上野戦争負傷者名 ^ 『江城日誌』 ^ 中村は「空腹である」と言って重症瀕死の状態にも関わらず飯を六杯食べて見せたが、その3日後に亡くなった。(『無形伯旧夢談』板垣退助述、田岡髪山筆録) ^ a b c d e 板垣退助『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』159頁、『板垣退助君戊辰戦略』他より。 ^ 「後、奥羽戦争が終わり、私は東京にて西郷に面会した。その席に三条(実美)公もお居合わせで、其他の諸人も居た。平素沈黙の西郷は私を見ると忽ち口を開いた。『板垣さんは恐ろしき人よ。浪人を薩摩屋敷へ担ぎ込んで、屋敷の焼討ちに遭はした』と。私は直ぐに之に応じた。『それはむごい事よ。浪人の統御者(西郷)こそ如何にやと思ふに。然し好き幕明きではないか』西郷はそれを聞いて呵々笑ふた」(『無形伯旧夢談』田岡髪山筆録より)
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^ a b 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ a b c 『全国版幕末維新人物事典』歴史群像編集部編 ^ 「勤役中、御侍中御加増取調之儀に付、不愈之儀有之。(中略)然に右等念入可取扱筈之處、件之次第依之、今廿七日慎被仰置候」(『御侍中先祖書系圖牒(「乾退助」項)』土佐藩編纂) ^ 「慶應紀元歳次乙丑六月祥日・菅原成質」と刻まれており1865年の奉納と分かる。 ^ 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻) ^ “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2021年8月13日閲覧。 ^ 『迅衝隊出陣展』中岡慎太郎館編、2003年(平成15年)
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^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ a b c d 『続・武藝小傳』 ^ a b c 『ありやなしや』清水礫州 ^ 『自由党史』板垣退助監修
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^ a b 河野百錬著『居合道真諦』1950年 ^ a b c “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ a b c d 河野百錬著『無双直伝英信流居合兵法叢書』 ^ a b c d e f g 平尾道雄著『土佐武道史話』高知新聞社、1961年 ^ a b c d e 岩田憲一著『師伝芥考・土佐の英信流』1984年 ^ 武藤到和・武藤平道 共編『南路志』1815年(文化12年) ^ a b c d 中西岩樹著『無雙直傳英信流居合に就いて』土佐史談会、1933年 ^ 『土佐武道史話』平尾道雄著では「享保17年7月7日歿。享年70歳」と記すが、『御侍中先祖書系圖牒』でも「享保17年7月17日」とあるため、平尾説は採らない。 ^ a b 山本泰三著『土佐の墓(2)』土佐史談会、1987年 ^ 『土佐遺事雑纂(下)』、第66條【安田道玄】項参照 ^ 安田道玄は、土佐藩お抱えの医師。婉女が後年に作詩したものに「安田道玄良医に呈す」と記されしものあり。広谷喜十郎著「女医・お婉さん(2)」(『高知市広報 あかるいまち』1998年3月号)。 ^ 『土佐医学史考』平尾道雄著 ^ 『教授館總宰餘業記録』 ^ 山本泰三著『土佐の墓(1)』土佐史談会、1987年、90頁
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^ a b c d e 『尊卑分脈』。 ^ a b 外部リンク。 ^ 現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎附近。 ^ 一説には隠岐国守護とも。 ^ 現在の島根県出雲市高岡町
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^ a b c d 『土佐藩ゆかりの会』会報誌 ^ 板垣退助の次男である乾正士の長男にあたる。『讀賣新聞』昭和12年12月2日、9日、16日、23日号記事より。 ^ 『讀賣新聞』平成24年7月13日号記事より。 ^ 『牧師・川瀬徳太郎先生を憶う』(所収『折尾女子学園五十年史』折尾女子学園記念史編纂委員会編、昭和60年(1985年)11月1日) ^ a b 『日本福音ルーテル教会史』424頁、「昭和十年の總會に於て(中略)乾一郎は芦屋傳道所へ」とあるが、同書422頁には「昭和九、十年に於て新しく傳道地を開拓したのは、鹿兒島、京都北、(兵庫)芦屋、(大阪)豊中であった」とある。『板垣精神』所収の乾一郎の履歴によれば、芦屋への着任は昭和8年12月13日である。正式名は「芦屋傳道所」であるが、当時の書簡や名刺に「ルーテル芦屋教会」の名称が使用されている。『(日本福音ルーテル)教会自給十年計画・昭和十一年一月現在自給表』によれば芦屋は、昭和10年度「一圓」、昭和11年1月「一圓五十銭+(五十銭)」であった。 ^ 『養蚕実験真説』を著した高野成雄は乾八重野の実弟。 ^ a b “『養蚕実験真説』高野成雄著”. 北信成蚕社 (1909年2月25日). 2020年8月13日閲覧。 ^ a b c d e 『讀賣新聞』昭和12年12月2日、9日、16日、23日号記事。 ^ a b c 『板垣会』会報第1号より ^ 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号) ^ 『山内量平 -日本のルーテル教会初代牧師-』坂井信生著、中川書店、1993年 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年8月13日閲覧。 ^ 板垣退助芝公園旧邸の現住所は、東京都港区芝大門1-10-11附近で、現・芝大門センタービルにあたる。(『立國の大本』板垣退助遺著/髙岡功太郎現代語訳、一般社団法人板垣退助先生顕彰会発行、12頁より) ^ 『高知県立高知城東中学校卒業生名簿』 ^ 塩見俊二は、昭和43年(1968)7月、板垣退助先生顕彰会顧問に就任。 ^ 『日本ルーテル神学校 五十年のあゆみ』日本ルーテル神学校編纂、1959.11.2 ^ 『土器と黎明 -ある伝道者の生涯-』青山四郎著、1978年、グロリア出版 ^ a b c 『軍歴簿(乾一郎)』陸軍省編成による。 ^ 『讀賣新聞』昭和12年12月2日号記事。 ^ 『板垣退助銅像修復の栞』板垣退助銅像改修期成会編(1990年) ^ 『土陽新聞』昭和4年(1929年)12月10日号参照 ^ 『日光の板垣退助銅像』田辺昇吉著(所収『土佐史談』第161号) ^ a b c 『日本福音ルーテル教会史』、420頁「神學校が熊本から移轉して、日本ルーテル神學専門學校と改稱して以来、即ち昭和初年からの卒業生を一覧すると、左のとおりである。昭和二年、福山猛、昭和三年、川桐新一、松岡幹三、昭和四年、山内六郎、青山四郎、坂井賢男、高瀬義正、昭和五年、内海季秋、昭和六年、武井正悟、小泉昻、昭和七年、田坂惇巳、妹尾武夫、井芹貞安、大川鐵次、矢野静良、乾 一郎、昭和八年、東菊次、野村明、昭和九年、太田敦次、昭和十年俵貢、岡本榮一、石山義澄(中略)昭和十三年、北森嘉蔵」による。 ^ 『日本ルーテル神学校 五十年のあゆみ』41頁では「昭和八年」とあるが「昭和七年」の誤記。 ^ 『癩病療養所の慰問と神の恵み』乾一郎 ^ 現住所・兵庫県芦屋市西芦屋町2-3 ^ a b 『板垣精神』、395頁 ^ 「高知市桜馬場8番地」は後の「高知市越前町1丁目54番地」で現在の「高知市越前町1-10-3附近」(『板垣精神』、401頁) ^ 『日本福音ルーテル教会史』、427頁「この年(昭和12年)支那事變のために應召したのは、青山四郎、坂井賢男、乾一郎の3名であったが、乾一郎は上海「ウーソン(呉淞)」の敵前上陸に参加。激戦して重傷を負い歸國して療養生活に入った」とある。 ^ a b c d 軍歴簿では「8月23日、川沙鎮敵前上陸、続く羅店鎮の戦闘で、右上腕部貫通銃創」を受け上海野戦病院で療養。内地送還されたのは翌年以降である。 ^ 乾一郎の戦友として、同部隊の山崎正一軍曹、志和貞雄伍長、須賀信之伍長らの武勇伝も同時に報じられた。最終回が全文にわたり高知弁で報じられたのは「乾伍長:おゝのかしい。あしが一人の支那兵を突いた時、(支那兵が)ふり返つてあしの顔を見たきに、あしやこの男にも親か兄弟もあるらうに、これも神の子ぢやにと思うたぜよ」の部分「支那兵もわれらも神の子」の文言が戦意高揚を失するのではないかと問題となり、掲載不許可となりかけたものを高知弁に直して有耶無耶とし掲載の許可を得たものと伝えられている。(『板垣精神』456頁より) ^ G・K・リン夫人の事を学生たちは「徐啓林」と洒落て中国人風に渾名で呼んでいた。 ^ 『板垣精神』457頁、『戦地に届いた手紙』より「My dear Mr. Inui: Last night I dreamed about you and so I will write you a few lines this morning. I was glad to get a card from you about a month ago. So sorry to hear you had to under go an operation in January, it was so painful But I hope, by God’s mercy, you are going to be entirely well again, & soon. You have had a long & tiresome spell of healing delicate. Long ago I promised to send you a small photo of our family so last summer when Kenneth came, we had some taken in July 1937. I am sending you one today. Kenneth was 18 years old. Marian was 15. You can see how they have grown & developed. Kenneth's address is "Phi Sigma Kappa" Gettysburg, Pennsylvania, USA. I'm sure had like to have a card from you. Do hurry & get well. I wonder if you will be able to attend the Convention at Kobe this & next week. with sincere good wishes your friend. Mrs. G. K. Lim. (Lucy Lim) 448. Umabashi, 4 chome. Suginami Ku, Tokyo」(「杉並区馬橋4丁目」は現在の「杉並区高円寺北4丁目」で、現在の地図では「馬橋キリスト教会」があるが関連は不明。「Phi Sigma Kappa" Gettysburg, Pennsylvania, USA」は現在は「マサチューセッツ大学アマースト校」になっている) ^ 宣教師・S・O・トウラクソン(Rev. S.O.Thorlaksson, B.D.)は、明治23年(1890)5月26日、米国ミネソタ州ミネソタで誕生。1913年、ミネソタ州セントピーターのグスタフ・アドルフス大学を卒業後、シカゴ・ルーテル神学校へ入学。1916年、同校卒業。同年5月結婚。6月、アイスランドシノッドで按手礼を受け、ゼネラル・カウンシルによって日本宣教の任命を受け、同9月、日本に来着。最初の1ケ年は東京日本語学校で学び、のち名古屋へ赴任した。昭和16年5月、米国伝道局から推薦され、米国大平洋岸に住む日本人移民二世の教化事業に従事することとなり、日本伝道を辞して米国に帰国し、再び日本へ着任することはなかった。米国の日本人排斥法案に反対し、日米の親善に努めたが日米開戦後は、やむなくサンフランシスコに在住し、米国海軍の軍属下として軍人のため超教派的救済事業に従事した。終戦後は北部カルフォルニア地方の日本人、アイスランド人のための自由伝道に従事し、またそれらのよき相談役として奉仕事業を続けた。(『日本福音ルーテル教会史』、156頁、467頁より) ^ 「トウラクソン(Þorláksson、通常はThorlakssonと表記)」姓はグリーンランド南西沖に位置するアイスランド人固有の名前であり、アイスランド系米国人であったと思われる。 ^ 『板垣精神』、388頁 ^ 溝田繁:映画『プライド 運命の瞬間』(1998年、東映) - 梅津美治郎役など。 ^ 『皇紀二千六百年と教会合同』日本基督教連盟編 ^ 系譜としては、板垣退助家の分家・旧土佐藩士 乾市郎兵衛家の第九代当主となる。 ^ 『板垣精神』、382頁 ^ 『板垣精神』、388頁 ^ a b 『恩師・乾一郎先生の言葉』より。 ^ 新約聖書『ヨハネ伝』第8章32節「真理は汝らに自由を得さす可し(ἡ ἀλήθεια ἐλευθερώσει ὑμᾶς/眞理令爾得自由/ヘー・アレーテイア・エレウテローセイ・ヒュマース)」より命名。「真理を知ることは、私たちの思考と生活を拘束し、不自由にしている様々なもの、即ち桎梏、苦悩、不安から解放してくれるであろう」より。(『板垣精神』398頁) ^ a b 【板垣退助の孫】乾一郎 出演『北から南から』(中部日本放送)昭和38年(1963)8月放送
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^ 文久二年に坂本龍馬が日根野弁治から授かった小栗流和兵法三箇条にも「手裏剣 持撃離」と書かれている。
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^ 明治15年(1882年)から明治16年(1883年)頃か。 ^ アメリカ・カンバーランド長老教会の最初の宣教師。 ^ 佐賀県で病死 ^ 大和十津川の大水害で溺死 ^ 田辺で死去 ^ 東京で死去 ^ 「牧師・川瀬徳太郎先生を憶う」(所収『折尾女子学園五十年史』折尾女子学園記念史編纂委員会編、昭和60年(1985年)11月1日) ^ “板垣氏”. 世界帝王事典. 2014年6月15日閲覧。
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^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年10月1日閲覧。 ^ a b c “『北川貞彦(立志社「日本憲法見込案」起草者)の生涯と業績』外崎光広著”. 高知短期大学(社会科学論集49) (1985年4月1日). 2020年10月1日閲覧。 ^ a b c 『高知県人名事典』高知県人名事典編纂委員会編、高知市民図書館、1971年(昭和46年) ^ a b 『舊各社事蹟』島崎猪十馬編、昭和6年(1931年) ^ “『自由のともしび』第74号”. 高知市立自由民権記念館 (2013年3月1日). 2020年10月1日閲覧。 ^ 『我國憲政の由來』板垣退助著
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補註
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^ a b “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。 ^ a b 『牧師・川瀬徳太郎先生を憶う』(所収『折尾女子学園五十年史』折尾女子学園記念史編纂委員会編、昭和60年(1985年)11月1日) ^ a b 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号) ^ 平成6年8月まで12年10ヶ月務める ^ “板垣退助薨去100回忌記念書籍出版”. 高知新聞デジタル. (2019年3月12日). https://www.kochinews.co.jp/article/detail/260497 2019年9月25日閲覧。
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[脚注の使い方] ^ 土佐国長岡郡左右山村に籠居した松田(旧姓・田村)新九郎重正(1673年-1746年)の曾孫・乾重眞(丹七)の代に奉行所の許可を得て、乾氏に復姓した系統にあたる。 ^ 『功名が辻』司馬遼太郎著(「醍醐の花見」の項) ^ a b c 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号) ^ “『第159飛行場大隊 その戦歴と追想』乾常美、園部良一編”. 一五九飛大会事務局 (1987年5月1日). 2017年7月29日閲覧。 ^ じんとく (2014年8月17日). “昭和萬葉集(巻五)(175)(昭和十五年~十六年の作品 ) Ⅲ(12)”. 2020年4月25日閲覧。 ^ (意訳)「大詔を奉戴して武装を解除し、疲れ果てて大地に寝転んだままいつの間にか夕暮れになっていた。思えば応召出征して以降、はじめて深い眠りについたのだ。目覚めてみると、軍服が濡れて色が変わるほど自分が寝ながら泣いていたことに気が付いたのだ」 ^ 1964年(昭和39年)8月13日高知の第14回夏季大学『竜馬がゆく 取材ばなし』講師:司馬遼太郎 ^ “『巡礼四国遍路 29 国分寺』”. 朝日新聞デジタル (2016年10月29日). 2017年7月29日閲覧。 ^ 養子。実は乾和成の外姓の従弟 ^ 養子。実は田村亦兵衛の次男。母方は乾氏血縁 ^ 乾重眞(丹七)の代に、乾和利(山内右近)と相談の上、奉行所の裁許を得て、乾氏に復姓 ^ 養子。実は乾和公の次男 ^ 土佐国長岡郡左右山村 ^ 「山嶽社」を創始した医師 ^ 医師 ^ 神主・宮地重岑(伊勢守)の養子となる ^ “『土佐山の山嶽社』”. 高知市広報『あかるいまち』 (2006年5月1日). 2017年7月29日閲覧。
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^ a b “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ 『土佐名家系譜』寺石正路編、高知教育会、1942年、576頁 ^ a b c d e f g 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)、151頁 ^ 現住所・高知県高知市梅ノ辻21附近 ^ 『土佐の宮地氏』87頁 ^ a b 『坂本龍馬とその一族』土居晴夫著、新人物往来社、昭和60年(1985年) ^ a b 『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、平成18年(2006年) ^ 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵(高知県立図書館寄託文書) ^ 『潮江天満宮棟札(1)』寛文9年3月19日(1669年4月19日)、大願主・四位侍従対馬守源朝臣忠豊公。奉行・孕石頼母、安田弥市右衛門、岡田嘉右衛門、原四郎兵衛。大工・北岡十右衛門。庄屋・宮地五助 ^ 『潮江天満宮棟札(2)』元禄2年(南呂)8月21日(1689年10月4日)、大願主・土佐太守四位侍従松平土佐守藤原朝臣豊昌公。奉行・山内彦作信和、桐間兵庫義卓、孕石小右衛門元政、岡田嘉右衛門。作事役・島田三郎兵衛敦正。庄屋・宮地五助茂久
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[脚注の使い方] ^ 『御侍中先祖書系圖牒』による。 ^ この紙製の陣羽織は乾彦作家に代々家宝として伝来し、現在は高知県立歴史民俗資料館の所蔵となっている。 ^ 一豊の姉である「お通」の娘にあたる。 ^ 『一豊公紀』には「1586年1月18日(天正13年11月29日) 於江州長浜宇内、大地震。山川転動裂壊家屋、顛潰長濱之御城殿崩、與禰姫様喪亡、御歳六歳。号光景妙円。是、見性院様御腹子也。此時、御家人乾彦作和信始数拾人死」とある。 ^ 『新編美濃志』には土岐道謙の後裔に乾内記という名が見られる。 ^ 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号) ^ 養子。実は乾和成の外姓の従弟 ^ 養子。実は田村亦兵衛の次男。母方は乾氏血縁 ^ 乾重眞(丹七)の代に、乾和利(山内右近)と相談の上、奉行所の裁許を得て、乾氏に復姓 ^ 養子。実は乾和公の次男
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^ この人物を通じて乾和三の血脈が入る。乾和三の曾孫・乾作兵衛信宣(山内彦作信和の弟)の娘が安積祥任の妻で、その娘が乾直建の妻となる。 ^ 野本直誠の養子となる。
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^ a b c d e f g 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』142頁。 ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』156頁。
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[脚注の使い方] ^ a b c d 『但馬高野 満福寺・池田草庵の実像』明楽弘信著、平成25年(2013年) ^ 但馬国養父郡浅野村・橋本新右衛門家の出身。第55世 満福寺住職・弘鳳上人の実弟 ^ 弘栄は、但馬国養父郡八鹿町国木・中島長兵衛家の出身。満福寺で弘融のもとに学び、美作国津山・聖徳寺の住職となったが、のち第60世 満福寺住職を継ぎ、さらに岡山県苫田郡香々美・圓通寺(現住所:岡山県苫田郡鏡野町寺和田1466番地)の住職となった。 ^ a b c 『但馬高野 満福寺・真言宗の教えと陽明学』明楽弘信著、平成28年(2016年) ^ 鹿園寺 - 現住所:兵庫県朝来市山東町粟鹿1788番地 ^ 別当寺は、本地垂迹説により「神社の御祭神が仏の権現である」とされ「神社はすなわち寺である」として、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体とされていた。神仏習合の時代から明治維新に至るまでは、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれた。 ^ a b “柳田国男『狼と鍛冶屋の姥』”. 三省堂. (1942年). https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062590/205?tocOpened=1 2019年11月23日閲覧。 ^ 現地説明板に「山野口神社の御祭神は大山祇命であります。別称は『山の口のおおかみ』と申し上げ、流行病を退けられ『つきもの』を落とす神として広く信仰されています。この奥には神の滝があり、上社跡、中社跡が遙拝できます。社殿は元禄年中(江戸時代)建立と伝えられております」とあり。 ^ 「大神(オオカミ)=狼」からの訛化か。 ^ 菱屋半七『筑紫紀行』第9巻、享和元年6月10日項参照 ^ a b 『掃部狼婦物語』 ^ 百井塘雨『笈埃随筆』寛政6年 ^ 『兵庫県神社誌』 ^ “高岡功(KDDI顧問・上席理事)”. KDDI株式会社組織変更及び人事異動について (2003年4月1日). 2014年6月16日閲覧。 ^ “板垣退助しのび100回忌 東京・品川区で子孫ら30人墓前祭”. 高知新聞デジタル. (2018年9月30日). https://www.kochinews.co.jp/article/219587/ 2019年9月25日閲覧。 ^ “板垣退助没後100年記念 新しい伝記『板垣精神』玄孫 の高岡功太郎さん監修”. 高知新聞デジタル. (2019年3月12日). https://www.kochinews.co.jp/article/260497/ 2019年9月25日閲覧。 ^ “「薩土密約」の石碑 京都祇園に建立 板垣退助の子孫ら集う”. 京都新聞デジタル. (2019年9月23日). https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/25211 2019年9月25日閲覧。 ^ “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年10月10日閲覧。 ^ 『養父町史』 ^ 橋本善右衛門順治「元治元年12月28日、但馬国養父郡浅野村13番屋敷(現・320番地)、橋本嘉左衛門家へ婿入」 ^ 靖國神社御祭神資料「橋本市蔵。明治37年9月2日遼陽攻撃戦に於て戦死」
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「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」の記事における「補註」の解説
^ a b “『板垣精神』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年11月1日閲覧。 ^ 『立國の大本』板垣退助著による。 ^ 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰』早稲田大学所蔵(所収『板垣精神(解説)』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂、髙岡功太郎訳/解説) ^ 『自由黨史』板垣退助監修 ^ a b 『我國憲政の由來』板垣退助著(所収『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学) ^ 鈴木安蔵は「板垣(退助)君並に立志社先輩諸氏は武士階級の教育を受け育った人々であり、彼等の述べるところの自由主義とは『泰西大家の新説』と日本文化によって醸熟された武士道精神の融合により誕生したものである」とする。 ^ 『立国の大本』板垣退助著、第三章・君民二致なし「元來、世の聵々者流は、君主々義といひ、民本主義といふが如く、各其一方に偏し、始めより兩者を相對立せしめて議論を立つるが故に、理論上兩者相敵對するが如き形を生じ、其爭の結果、社會の秩序を紊亂するに至る也。抑も予(板垣退助)の見る所を以てすれば、君主と人民とは決して相分つべきものにあらず。何となれば君主といひ人民といふも、決して單獨に存在するものにあらずして、人民ありての君主、君主ありての人民なるを以て也。則ち既に君主といふうちには、人民の意志の綜合、換言すれば輿論の結晶體といふ意味が含まれ、人民といふうちには又た之を統治して其秩序を維持する所の、最高權を執る者の存在すといふ意味が含まる。是故に民無くして君在るの理無く、人民無きの君主は一個の空名たるに過ぎず。(中略)專制君主と雖も其理想は實に人民を撫育し、其安寧幸福を求むるに在り。是故に君主と人民とは二にあらずして一也。決して始めより相敵對すべき性質のものにあらず。兩者は始めより其目的を同うし、利害を齊うせるものにして、恰も唇齒輔車の關係に在り。(中略)君主々義の神髓は卽ち取りも直さず民本主義の神髓たる也。(中略)君主々義といひ若くは民本主義と稱して、互に相爭ふが如きは、抑も誤れるの甚だしきものにして、君民は同一の目的を以て相契合融和し、共同して經綸を行ふべきものたることを知るに難からざるべし。而かも特に我邦の體制に於ては、君民の關係は恰かも親子の關係の如く、先天的に既に定まり(中略)我邦に於ては建國の始めより、君民一體にして、君意と民心は契合して相離れず。之が爲めに我邦に在ては毫も禪讓若くは選擧の形式を躡むの必要無く、人民の總意、輿論は直ちに君主によりて象徴せられ民意は卽ち君意、君意は卽ち民意にして君民は一にして決して二致無き也」より。 ^ 坂野潤治・田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁
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[脚注の使い方] ^ 『兵庫県 郷土資料事典』人文社、1997年 ^ a b 『寺院大図鑑(天台宗兵庫教区)』 ^ a b c d e f g 『但馬の名僧・山本良航傳』 ^ 1858年(安政5年)居組村に寺子屋を開いた修験者 ^ “『安政5年(1858)修験者・役谷龍尊が居組村に寺子屋を開く』”. 新温泉町歴史年表 (2010年). 2019年11月20日閲覧。
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^ ただし、この戦闘については『三国史記』では新羅本紀だけが伝え、高句麗本紀・百済本紀には対応する記事が見られない。 ^ 詳細不明。前述の狐鳴城の異称とする説もある。(→井上訳注1980 p.85) ^ 『三国史記』百済本紀には、伊飡(2等官)と記されている。 ^ 「(炤知麻立干)十五年秋七月、置臨海、長嶺二鎮、以備倭賊」(『三国史記(新羅本紀第三)』) ^ 「(炤知麻立干)十九年夏四月、倭人犯邉」(『三国史記(新羅本紀第三)』) ^ 「(炤知麻立干)二十二年春三月、倭人攻陷長峰鎮」(『三国史記(新羅本紀第三)』) ^ 『三国史記』は「冬十一月、王薨(500年11月、王が薨去した)」とのみ記すが、実際には同年3月から始まった倭軍との戦争に関連して死亡した可能性が高い。
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^ 二・二六事件で反乱軍とされる勢力による『蹶起趣意書』は、一君万民論に基づき起草されたもので、皇国の「八紘一宇」完成への障害として「万民の生成化育」を抑圧させている特権階級を弾劾している。
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^ a b c d e f g h i 『横浜社会辞彙』、日比野重郎編、横浜通信社、1917年5月、38頁【川瀬徳太郎】項より。 ^ a b 『山内量平 -日本のルーテル教会初代牧師-』坂井信生著、18頁 ^ 『日本キリスト教歴史大事典』 ^ a b c 『牧師・川瀬徳太郎先生を憶う』(所収『折尾女子学園五十年史』折尾女子学園記念史編纂委員会編、昭和60年(1985年)11月1日) ^ a b 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号) ^ 『女性史研究 特集 近代の女キリスト者 第14集』家族史研究会編、1982-06-01、19頁(近代熊本の女キリスト者たち)「パウラスが、一番頭を悩ませたのは売春婦の問題ではなかっただろうか。捨てられた老人や子供たちと違って、売春婦は必要とする人たちがいた。彼女たちが捨てられるときは病気がひどくなったって役に立たなくなるときであった。「逃げて私の所へ来さえすれば、誰でも売春生活から救ってあげる」と遊郭の近くで叫ばねばならなかった川瀬徳太郎牧師や、遊郭に売られた女たちが逃げてくる家として、宣教師館の所番地を書いたパンフレットを配ったネルセン夫人(パウラス宣教師の奥方)の協力があった。新聞記者は貧民の状態について敏感で、週に何回も話を聞きにやってきた」とある。 ^ “風説新聞(第3号)”. 久留米大学デジタルアーカイブ (1964年12月20日). 2014年6月15日閲覧。 ^ 『日本福音ルーテル教会 教職・按手礼認定名簿(2012)』による ^ 『日本福音ルーテル教会史』福山猛編、1954年4月 ^ 板垣会関連資料より。 ^ “板垣氏”. 世界帝王事典. 2014年6月15日閲覧。 ^ “杉崎光世先生略歴および主要著作目録 (後藤巖教授・大路博美教授・杉崎光世教授退職記念号)”. 九州国際大学法学論集 6(3) 巻末1-7 (2000年3月). 2014年6月25日閲覧。 ^ “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月15日閲覧。
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^ a b c d e f 『英信流居合と板垣伯』岡林九敏著(所収『土佐史談』第15号) ^ 『師伝芥考・土佐の英信流』岩田憲一著、1984年(昭和59年) ^ a b c d 『高知日日新聞』1936年(昭和11年)7月24日号による。 ^ 『高知日日新聞』1936年(昭和11年)7月24日号「御維新後、欧州文明の流入に伴ひ古来の日本武道は漸く地に墜ちんとするに至り、当流も同様衰微の一途を辿った。時に明治26年板垣伯歸省せられて土佐居合の全國無比なること並にこれが復活の志を説かれてより、谷村派の蘊奥を究めたる五藤正亮を、材木町新築道場に迎へて一般に指導を乞ふことゝなった。五藤はこれより追手筋共立学校に於て主として中学生を教授せられたが、當時の愛弟子には、森本兎久身(海軍大佐)、坂本政右衛門(陸軍中尉)、田口刺戟(海軍大佐)など諸氏がゐる。森本兎久身は、明治30年五藤正亮の允許を得て上京有信館の門を叩いた。師範根岸信五郎は森本の居合を見て「海内無雙也」と激賞せられた。明治31年五藤正亮歿後は同派の谷村樵夫が専ら指導の任に當たつた」より。 ^ 『英信流居合と板垣伯』岡林九敏著(所収『土佐史談』第15号)「明治26年、板垣伯帰高せられし際、伯(板垣退助)は谷村家と親戚にて武道の嗜み深く其の精髄を会得されて居らるゝ事とて、同志の者が当時材木町にあった武学館に伯を招待し一場の講話を希望致せしに、伯は「千早振る神の勲功われ受けて、萬代までも傳へ残さむ」と林崎神助源重信の詠める歌を引き、土佐に於ける英信流居合術および松嶋流棒術の功績を讃えて其の廃絶を惜しまれた。「…特に居合の如きは今や刀を抜く事もなき時代とて、今にして其の技を誰か適任者をして継承させ後世に傳へねばならぬ」と弁舌せられ、而して「誰かその技を受け継ぎたる適任者はをらぬか」と問はれた。詮議の結果、居合は五藤孫兵衛正亮、棒術は新市町の横田七次が尤も修養深き事が判明し、伯より親しく両氏に子弟指導のことを相談され其の快諾を得るや、素封家として知らるゝ菜園場の竹村與右衛門氏に謀りて道場を建設せしめられ、共に此の処に於いて子弟を教導する事となりし。其の後、時の第一中学校長渋谷寬氏は居合術が心身鍛錬に特効あるを認め五藤正亮を聘して生徒指導の任に当たらしめた」より。 ^ 『板垣退助と英信流』広谷喜十郎著(所収『高知市広報 あかるいまち』2007年7月号) ^ この時、板垣退助より竹村に御礼として贈られた「死生亦大矣」の揮毫は、数少ない板垣退助の直筆史料で、板垣退助遺著『立国の大本』の冒頭に掲載されたほか、退助生家に建つ高野寺に複製された石碑が建立されている。退助は揮毫を依頼されてもほとんど断ったが、竹村が「板垣自筆の揮毫を」と所望し、強硬に粘ったため、退助が断り切れず書いたもので、現在確実に板垣退助自筆と判明している揮毫は2点しかないが、その一つである。もう一つは、明治4年(1871年)、武田信玄第三百回忌法要の際に、松本楓湖の画による武田二十四将の肖像が武田氏一族の菩提寺である甲斐恵林寺に奉納されたが、各武将の直系子孫が画賛を書くことになり、この時も断り切れず依頼されて退助は板垣信方の肖像画に直筆で画賛を書いた。松本楓湖の板垣信方肖像画は、数少ない板垣退助の直筆史料として、現在は財団法人歴史博物館信玄公宝物館の所蔵。 ^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。
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^ a b c d e f g h 『居合道真諦』河野百錬著、私家版、1950年(昭和25年) ^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。
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^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ a b 『師伝芥考・土佐の英信流』岩田憲一著、1984年(昭和59年) ^ a b 『土佐 武道と仇討ち 平尾道雄選集(第4巻)』平尾道雄著、高知新聞社、1980年 ^ a b c d 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)
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^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ a b c d 『江戸期の土佐における居合関係史』 ^ 墓石に「帰元義山良忠信士位」とあるのによる。 ^ a b 『英信流居合と板垣伯』岡林九敏著(所収『土佐史談』第15号) ^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ 井上栄三郎は、板垣退助の長女・兵子の初婿で、一時「板垣栄三郎」を名乗るものち離婚。兵子は片岡光房に再嫁した。(『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編より) ^ 中山秀貞は、乾正清の曾孫。「∴乾正清-中山秀信-中山秀利-中山秀貞」となる。
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^ a b c “松本丑太郎(内田村最初の村長さん)”. 内田名所人物100選(菊川市立内田小学校) (2011年). 2014年7月11日閲覧。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
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^ a b c 『東洋民権百家伝』(岩波文庫収録) ^ a b 『小室信介の墓石撤去を憂う』髙岡功太郎著、一般社団法人板垣退助先生顕彰会、令和4年(2022年)2月25日 ^ 明治15年(1882年)7月23日に起きた壬午事変のこと。朝鮮の漢城で兵士の暴動により、日本公使館員らが多数殺傷された事件。 ^ 『小室信介の墓、無縁墓石として撤去間近』2022年3月 典拠管理 FAST: 173472 ISNI: 0000 0000 8197 873X LCCN: n85343806 NDL: 00034887 SUDOC: 11339053X VIAF: 11306266 WorldCat Identities: lccn-n85343806 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
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[脚注の使い方] ^ 一説に、「文治元年(1185年)、出雲・隠岐両国の守護となり、月山富田城に入る」とする本もあるが、実際には承久の乱の功により、出雲・隠岐の2国を賜ったため、この年代に関しては疑わしい。 ^ 『明月記』による。
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^ 『岩崎弥太郎日記』慶応3年(1867年)5月20日條「萩原静安ノ子三圭、当分御雇ヲ以、御臨時御用被仰付様、参政(後藤象二郎)より被命」 ^ 『岩崎弥太郎日記』慶応3年(1867年)6月15日條「萩原三圭、洋夷修行方被仰付之」 ^ 『鴎外留学始末』1999年、5項 ^ 明治16年と同21年の上申書からみた明治天皇皇子女夭折問題深瀬泰旦、日本医史学雑誌 第61巻第2号(2015) ^ “萩原三圭(はぎわらさんけい)”. 谷中・桜木・上野公園 路地裏徹底ツアー. 2005年6月5日閲覧。
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^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ 墓碑では「元衛門」 ^ a b 『師伝芥考・土佐の英信流』岩田憲一著、1984年(昭和59年) ^ a b c d e f 『土佐の墓(1)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)、279頁 ^ a b 『土佐 武道と仇討ち 平尾道雄選集(第4巻)』平尾道雄著、高知新聞社、1980年 ^ a b c 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)
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^ 『無雙直傳英信流居合に就いて』中西岩樹著、土佐史談、1933年(昭和8年)による。 ^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ a b c d e f 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ 『師伝芥考・土佐の英信流』岩田憲一著、1984年(昭和59年)
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^ 『土佐史談』 ^ a b c d e f g h 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ 東京品川の墓石の記載による ^ 現在は品川神社の裏手にあたる。板垣退助の墓も同所にある。
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^ 乾正信を初代として起算した世代数。板垣信方より起算した場合は14代目となる。 ^ 現社名「エーアンドエーマテリアル」 ^ 『東京日日新聞』昭和3年(1928年)2月4日号参照 ^ 『東京朝日新聞』昭和3年(1928年)2月4日号参照 ^ 『板垣退助銅像修復の栞』板垣退助銅像改修期成会編(1990年) ^ 『土陽新聞』昭和4年(1929年)12月10日号参照 ^ 『日光の板垣退助銅像』田辺昇吉著(所収『土佐史談』第161号) ^ 『板垣退助銅像修復の栞』板垣退助銅像改修期成会編(1990年) ^ 『板垣会会報』第1号 ^ “板垣退太郎(オムロン(立石電機))”. 幕末英傑録-幕末維新子孫総覧2 (2002年). 2014年2月11日閲覧。 ^ 桶川町助役・秋山比呂の三男 ^ “元日本経済新聞社編集局商品部長・秋山有世”. 平成19年(2007)度事業報告 (2007年). 2014年6月16日閲覧。 ^ “桶川市選挙管理委員長・秋山有世”. 埼玉県桶川市情報ステーション (2012年5月1日). 2014年6月16日閲覧。 ^ “景気先行指標としての日経商品指数-卸売物価指数に4ケ月先行-輸入通関やM2とも相関高い(経済分析講座),著者 秋山有世”. 日本経済研究センター会報(論文) (1981年8月15日). 2014年6月16日閲覧。 ^ “追悼 米良周さん(秋山有世)”. 週刊先物ジャーナル『めらの目(第388回特別・最終号)』 (2012年2月22日). 2014年6月16日閲覧。
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^ 『最新 満洲国人名鑑』満洲帝国国務院総務庁編、明文社、1934年 ^ 『満洲紳士録(第1版)』中西利八編、東京・満蒙資料協会、1937年 ^ 『満洲紳士録(第3版)』中西利八編、東京・満蒙資料協会、1940年 ^ 『満洲紳士録(第4版)』中西利八編、東京・満蒙資料協会、1943年 ^ “(株)富士通SSL・井深克憲『PSI上の数式処理システムSAM(SAM : Symbolic Algebraic Manipulation System on Fifth Generation Computer's PSI II Machine)』”. 全国大会講演論文集(第39回) (1989年10月16日). 2020年8月18日閲覧。 ^ “『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月15日閲覧。
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^ 板垣退助暗殺未遂事件 - 「板垣死すとも自由は死せず」(国立公文書館 アジア歴史資料センター) ^ 池田豊志知著 『獄裏の夢:一名 相原尚褧君実伝』(1889年、金港堂) 3ページ ^ a b c JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 130画像目 ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 125画像目 ^ a b JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 131画像目 ^ a b 岩田徳義著 『板垣伯岐阜遭難録』(1908年、対山書院) 46ページ ^ 池田豊志知著 『獄裏の夢:一名 相原尚褧君実伝』(1889年、金港堂) 4ページ ^ a b c JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 132画像目 ^ a b c d e f JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 134画像目 ^ 池田豊志知著 『獄裏の夢:一名 相原尚褧君実伝』(1889年、金港堂) 5ページ (3行目「校長」は「訓導」の誤り) ^ a b c JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 135画像目 ^ 歴史探訪第13回 板垣死すとも自由は死せず(2015年、OKB総研) (PDF) のように、尚褧を校長とするのは、池田(1889年)に起因する誤り。 ^ 岩田徳義著 『板垣伯岐阜遭難録』(1908年、対山書院) 47ページ ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 133画像目 ^ 山本武利著 「明治期の新聞投書」(『関西学院大学社会学部紀要』第33号、1976年) (PDF) 62ページ ^ 小股憲明著 「明治期における不敬事件の研究」(要旨) (PDF) (京都大学博士論文) ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15110351900、公文類聚・第六編・明治十五年・第八十一巻・治罪三・審理(国立公文書館) 1・2画像目 ^ a b c d e JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 140画像目 ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 141画像目 ^ a b c JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 126画像目 ^ a b JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 127画像目 ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 139画像目 ^ a b c JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 128画像目 ^ 所収『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学、238頁 ^ 板垣退助暗殺未遂事件 ~「板垣死すとも自由は死せず」~ アジア資料歴史センター ^ 4月9日に岐阜県令小崎利準に対して報告したもの ^ 『板垣退助』中元崇智著、中公新書、2020年、95頁より ^ a b c 「(岐阜遭難)當時、板垣氏は官憲に向つて、敢(あえ)て相原を逮捕するなきを望みたるが、其の後、(明治)二十二年(大日本帝國)憲法發布の大典に當つて、國事犯の罪人は大赦令により、悉(ことごと)く放免せられたるに、板垣氏は『相原は罪名國事犯に非(あ)らざるも、均(ひと)しく國事に關する者なれば、大赦の恩命に浴せぬは洵(まこと)に残念の事なり』とて、同年三月十三日附を以て『赦免哀願書』を (明治天皇)陛下に奉呈し、次で相原は同月二十九日、北海道空知集治監より釋放された。相原は五月十一日、東京にて板垣氏に面會を乞ひ、先年の己の行爲に對し大に悔悟陳謝せり。板垣氏は素(もと)より一片の含む所もなく寧(むし)ろ公敵と認めての彼が擧動を『壮(おとこ)なり』とし、『尚(な)ほ將來に於ても余の行動を不臣不逞と認むる事あらば、何時にても再び刃を加ふべし』と説かれ、相原は深く其の宏量に感激し涙を垂れて辭去したり」(『(自由民権)舊各社事蹟』島崎猪十馬編、昭和6年(1931年)、53-54頁) ^ a b c d 「是れより先き、板垣伯の事を以て出京せられ芝愛宕町の寓居に住せり。依て君(相原)は河野廣中、八木原繁祉両氏の紹介を得て、同(5月)11日伯に面謁せられぬ。其坐に列なりしものは、只八木原氏一人のみ。其時伯は君(相原)に向て「今回、恙なく出獄せられ、退助に於ても恐悦に存じ参らす」との挨拶をしませり。君(相原)一拝して「(明治)15年の事は、今日、更に何とも申す必要なし。只、其後生な爲めに幾度も特赦のことなど御心にかけられたる御厚意の段は幾重にも感謝し参らする」旨を述べられたり。其れより君(相原)は罪人となりて後ち、岐阜にて寫されたる寫眞一葉を取出し「是れ御覧候へ、此れこそ小生が伯を怨み参らせたる後、岐阜にて寫したる撮影にて候よ」と伯の前に差出されたれば、伯は「左様なるか。其時よりは如何にも今は年、老られて見ゆ。退助が知人にて北海道(の監獄)に行きたる者は誰も意外に年老て帰らるゝ事よ。久しき間の御苦労を察し参らする」と云はれたり。君(相原)は又一葉の寫眞を出し是は此頃特赦の後に寫したるものなるが、永き記念の徴までに呈し参らせたし。伯にも御持合せも候はゞ、其思召にも一葉賜はらずや」と申されば、伯は「如何にも予も一葉進じたけれども、兼て寫眞をとらする事の少なくして此處には、一葉だも持合さず。國許にはありたりと覺ゆれば、歸郷の上は必ず贈り参らすべし。都合によりては此地にて寫させ進ずべければ必ず待せ玉へ」と申され重ねて「又退助は今も昔も相異らず常に國家を以て念と成し、自ら國家の忠臣ぞと信じ居りしに、當時、足下は退助を以て社會の公敵と見做し刃を退助が腹に差挾まれたるに、今は相互無事に出會すること人事の變遷も亦奇ならずや」と。古より刺客の事は歴史上に屡々見ゆれども一旦手を下して刃を振ひたる其人と刃を受けたる其人が舊時の事を忘れて再び一堂の上に相會し手を把て談笑するなど、足下と退助との如きは千古多く其比ひを見ず。今日の會話は史家が筆して其中に入るゝとも更に差支へなきことよ。併しながら若(も)し此後退助が行事にして如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば其時こう斬らるゝとも刺さるゝとも思ふが儘に振舞ひめされよ」と改めて申されたり。此時、八木原氏にも亦言葉をはさみて「小生も當時、岐阜の事ありし報を得しときは相原なる者こそ悪き奴なれと思ひしに、今日、其人をば小生が紹介して伯に見えしむること、小生に取りても亦榮あることなり」と云はれぬ。引續き種々の話ありたりしが、君(相原)がもはや暇玉はるべしといはれしとき、伯は起ちて「北地極寒、邊土惨烈(たれど)國の爲めに自愛めされよ。退助は足下(きみ)の福運を祈り申し候」と申されたりと。嗚呼、積年の舊怨一朝にして氷解せり。英雄胸中の磊落なる實に斯くこそあるべけれ(『獄裡の夢 : 一名、相原尚褧君実伝』池田豊志智編、金港堂、明治22年(1889年)7月より) ^ 『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年 ^ a b 『元勲板垣退助伯爵傳』より。 ^ 相原曰く「恐(おそれ)入恥入り申し候。僕(あ)は大人(たいじん)の器(うつわ)たらず、殊更に天下(くに)を語るに足りず。淺學無才の徒ならば、先づ邊鄙(かたいなか)に往(ゆ)きて蟄居(ひきこも)り身を修めんと欲す」と。伯は「予かつて土佐の城下(まちなか)より放逐されたる時、神田と云ふ郷(さと)に在りて民庶(みんしよ)に交り身を修(をさ)めんこと有之(これあり)。君は如何(いか)にせむとすや」と訊くに、相原は「僕(あ)は、先づは無心に土壤(つち)を耕して日の光を感じ、雨の音を聞き、矩(のり)を越へず人(ひと)の爲(ため)、皇國(すめらみくに)の御爲(おんため)に陰乍(かげなが)ら奉公せんと欲す。之(これ)が僕(あ)の贖罪ならんか。願はくば人知らぬ遠き北海道に身を移し、開拓の業(わざ)を以て働かんと欲す」と。(『元勲板垣退助伯爵傳』) ^ 『自由党史』 ^ JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023003000、公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年(国立公文書館) 57画像目 ^ 池田豊志知著 『獄裏の夢:一名 相原尚褧君実伝』(1889年、金港堂) 序 1ページ ^ 武藤鏡浦著 『板垣遭難:自由の碧血』(1918年、岐阜日日新聞社) 128ページ ^ 池田豊志知著 『獄裏の夢:一名 相原尚褧君実伝』(1889年、金港堂) 奥付
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 09:43 UTC 版)
^ 永原一照の墓石に「尾州生 姓源朝臣 山内刑部大輔」とあり。 ^ 山崎能長の子の右馬助景長が近江国野洲郡永原村を領して永原氏を称した。 ^ 永原一照の墓碑銘による ^ 本山町教育委員会による現地案内板より。 ^ 高石左馬助は、一豊が土佐領内を巡検した際に19通もの直訴状を提出する等し、年貢上納を再三拒否していた。 ^ 板垣退助は系譜(家督の相続上)的には、清和源氏・源頼信流武田支流板垣信方の長男板垣信憲の系統であるが、血統上は永原一照の子孫にあたる。 ^ 本山町の史跡・文化財(町公式サイト)
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補註
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^ 近衛家別邸・御花畑屋敷を島津家が借受け、小松帯刀が寓居していた。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac “『板垣精神』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年9月10日閲覧。 ^ 『板垣退助 -板垣死すとも自由は死せず-』高知市立自由民権記念館、1994年 ^ 文久2年6月6日付片岡健吉宛板垣退助書簡(国立国会図書館蔵) ^ 薩摩藩士・大山綱良は日記に「文久2年4月16日、長州永井雅楽ト申仁、専ら奸計ニ而候得共、周旋致候由、岩倉殿弥御正論相立候事、長州公(毛利慶親)早々御下京相成候旨、先達而被仰出候事」(『大山綱良日記』)とあるように、長井雅楽の『航海遠略策』を「奸計」と考える意見が多かった。 ^ 『寺村左膳道成日記(1)』文久2年(1862)10月17日條 ^ a b 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ NPO法人『板垣会会報』第1号 ^ a b 『日本歴史を散歩する』海音寺潮五郎著 ^ 土佐の地名 ^ 土佐藩の力士の名 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻) ^ 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年 ^ “赤松小三郎「御改正之一二端奉申上候口上書」”. 蚕都上田アーカイブ. 2017年11月5日閲覧。 ^ 『続再夢紀事 第六』日本史籍協会、1922年、pp.245-252 ^ 近安楼(「ち加やすらう」)「巽バシより切通しの間、松湯、ときは屋のならびにアリ、櫻井屋の向ひ也」 ^ 「石川清之助」は中岡慎太郎の変名。 ^ 西郷隆盛のこと。 ^ 薩長同盟が結ばれたのと同じ場所にあたる。 ^ 中岡慎太郎『行々筆記』慶応3年5月25日條「福(福岡孝弟)・乾(退助)・毛(毛利吉盛)・谷(干城)と喰々堂に集る」より。 ^ 中岡慎太郎『行々筆記』慶応3年5月26日條「今朝、西郷に至り、乾・ 毛・谷決意のことを論じ帰る」より。 ^ ベルギーからの直輸入ではなく、米国南北戦争で使用され、戦争終結後に余剰となった武器類が日本へ輸入されたものと言われる。 ^ a b c 従来は慶応3年6月に起草された『船中八策』を基礎に『新政府綱領八義』が書かれたとされていたが、現在は『船中八策』は、『五箇条の御誓文』と『新政府綱領八義』を混ぜて作られた後世の歴史小説のフィクションであることが確定している。 ^ a b c d 『保古飛呂比』佐々木高行筆、『維新土佐勤王史』瑞山會、『中岡慎太郎』尾崎卓爾著より。 ^ a b c d e f 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年) ^ a b c 「龍馬宛て、桂の手紙原本公開 討幕の決意促す」日本経済新聞ニュースサイトで2018年4月12日掲載の共同通信記事(2022年1月1日閲覧) ^ a b c 『京都養正社所蔵 坂本龍馬書状について』池田敬正著、大阪府立大学、1972年 ^ 8月20日(太陽暦9月17日)の時点で、藩論の大勢は大政奉還論に固められていた ^ 「この言葉は、現在に置き換えると大東亜戦争敗戦後の北方領土未返還問題、韓国による竹島占領問題、日本国憲法成立時の憲法学上の疑義問題なども総て予見し得るものである」(『板垣退助の伝えたい言葉』板垣退助先生顕彰会、解説編より) ^ 「詔。源慶喜、籍累世之威、恃闔族之強、妄賊害忠良、数棄絶 王命遂矯 先帝之詔而不懼、擠万民於溝壑而不顧、罪悪所至 神州将傾覆焉 朕、今、為民之父母、是賊而不討、何以、上謝 先帝之霊、下報萬民之深讐哉。此、朕之憂憤所在、諒闇而不顧者、萬不可已也。汝、宜体 朕之心、殄戮賊臣慶喜、以速奏回天之偉勲、而、措生霊于山嶽之安。此 朕之願、無敢或懈」 ^ 「将軍・徳川慶喜が明治天皇に大政を奉還している様子を描いた絵」ではなく「10月13日に二条城において将軍・徳川慶喜が諸藩重臣に大政奉還を諮問している様子を描いた絵」である。 ^ 句読点を追加し、読みにくい箇所は、原文より一部を平仮名に改めた。 ^ 『板垣退助君伝記』宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年 ^ 龍馬自筆本が2枚残っており、国立国会図書館と下関市立長府博物館に所蔵 ^ a b 『幕末諸隊100』三才ブックス ^ 百科事典 王政復古 (日本) (コトバンク) ^ 徳川内府大政返上将軍辞職ノ請ヲ允シ摂関幕府ヲ廃シ仮ニ総裁議定参与ノ三職ヲ置ク(宮堂上ニ諭告)、『法令全書』慶応3年、慶応3年12月9日、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。 ^ 家近, p. 2495/2967. ^ 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の兵糧方を務めた坂本柳佐は、慶応3年(1867年)12月12日夕方から夜の二条城内の様子について、「彼の夕などは二條城に於きまして、今 丸太町通で薩藩を會津の藩が、五人一時に殺した とか何とか云ふ注進が参りました、それで其夜になつて慶喜公が出立となりました、それを會藩が 慶喜公御下坂とあれバ此處で残らず屠腹して仕舞ふ と云ふので、夫れから容保と云ふ人が涙を流して諫めた、其處で又 薩藩を何人斬つた と云ふ注進がありました、慶喜公も會津や桑名を留めましたら内部で軍さが起る勢ですから少し斷念したと思はれます、其丈の策畧は無くして、唯一時に早る者ばかり多かつたです」と述べ、慶喜が二条城を出る直前、会津藩士や桑名藩士は暴発寸前であったことが分かる。 「」内の引用元は、『史談会速記録 合本 五』(編著者:史談会 発行所:原書房 発行:昭和46年(1971年)12月10日 復刻原本発行:明治27年(1894年)) 94~95頁。 (原本は『史談速記録 第23輯』「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(一次)附四十九節」九十~九十一頁。) ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第1冊』300~302頁 (著者:太政官 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)10月5日) 復古記 巻十 慶応三年十二月十六日 (2018年9月26日閲覧。) ^ 『昔夢会筆記』 ^ 『大日本外交文書 第一巻』 ^ 「(慶応4年)正月十四日夜半過、薩藩川端平助、突然西役所玄関に上座す。其の有り様頗る狼藉なり。則ち警衛我が兵士・関雄之助(沢村惣之丞)、彼が薩人なるを知らず、依って小銃を放てり。是が為即死し、屍を検査するに薩人なり。哀れむべし彼は同志に遅れたるを憤りて駆付たり、我が兵は狼藉と見て突然発砲したり、双方哀れむべし義なれども、大事尽力の際、一つの小事より薩土恨を挟みては、大害にも及ぶべきと佐々木氏(佐々木高行)の果断に出で、速に雄之助に自尽を命じたり。依って薩藩少しも恨みを挟まず。但、小田小太郎(吉井源馬)、野村辰太郎等立会、介錯致候事」(『維新土佐勤王史』) ^ 板垣退助率いる迅衝隊は、戦地における飲酒、略奪、放火、婦女子に対する乱暴行為を堅く禁じており、違反者は軍法会議に掛けて有罪の場合は即刻処刑を断行すると告知していた。実例を上げると、土佐から進軍しての初戦、備中松山城無血開城ののち、松山城下にいた迅衝隊士が駐留中、軍服を誂えようと北川宅之助配下の足軽・大久保虎太郎、楠永鉄太郎、岡上先之進、国沢守衛の4名が、2月3日、松山城下の呉服店において好みの生地を選び仕立てを頼んだ。売価5両であったものを2両に値切ったが、まけてくれないので「おい、この松山城下は、焼き払われるはずであったものが、我藩のとりなしで焼かれずに済んだのだぞ。にも関わらず諸品を高値で売るとは不埒千万。不足があるなら隠岐守(松山城主)から貰え」と啖呵を切って持ち返ったことが発覚した。双方の証言を吟味し、「民間人に対して略奪同様の行為」と軍律に触れることになる。4人は有罪となり、松山城追手先の堀側に土壇場を築きこれを獄門台とし、大隊司令・高屋左兵衛、軍監・中村禎助が諸隊長と藩兵を率いて整列し、隊長・北川宅之助が4人の隊士に向って、「其方儀、軍法を犯し不届之仕業有之(これあり)に付、断頭被仰付」と罪名罰状を読み聞かせ、バッサリ、バッサリと濡れ紙を切るような音をさせて首を打ち落とした。このように、強引な値引きであっても略奪同様として堅く禁じた厳しい軍律が守られていた。これは「畏くも「錦の御旗」を奉じて戦う官軍にあっては、菊の御紋に恥じるような行いがあってはならぬ」という板垣退助の考えが貫かれ、のちの帝国陸海軍の戦地での行動規範に引き継がれた(『土佐藩戊辰戦争資料集成』林英夫編、高知市民図書館、2000年) ^ a b 土佐藩兵2個小隊:小笠原謙吉(迅衝隊三番隊)、谷重喜(迅衝隊四番隊)、北村重頼(迅衝隊砲兵隊)(7門)鳥取藩兵6個小隊:佐分利九允銃士隊、天野祐次隊、藤田束隊、宮脇縫殿隊、建部半之丞隊、山国隊(丹波の農民有志による義勇兵)、佐分利鉄次郎砲兵隊(2門)、高島藩半小隊(伍長岩本順吉郎指揮) ^ 天然理心流の門人・佐藤彦五郎らを中心とした部隊。 ^ a b 『無形板垣退助』平尾道雄著 ^ 高松宮家『幟仁親王行実』1933年、184頁、NDLJP:1212495/158。 ^ 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰』早稲田大学所蔵(所収『板垣精神(解説)』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂、髙岡功太郎解説) ^ a b 『奥州改元大政元年資料(東武皇帝の閣僚名簿)』による。 ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第十二冊』390頁~417頁 復古外記 奥羽戦記 第六 (太政官、豊原資清編、内外書籍、昭和5年(1930年)5月8日) (2018年10月15日閲覧。) ^ 上野戦争の頃から輪王寺宮が天皇として擁立されるという噂は流れており、慶応4年閏4月29日(1868年6月19日)、勝海舟の日記に「此頃彰義隊の者等、頻に遊説し、其黨倍多く、一時の浮噪軽挙を快とし、官兵を殺害し、東臺に屯集殆ど四千人に及ぶ、其然るべからざるを以て、頭取已下に説諭すれども、敢て是を用ひず、虚勢を張て、以て群衆を惑動す、或は陸奥同盟一致して、大挙を待と唱へ、或は 法親王を奉戴して、義挙あらむと云、無稽にして無着落を思はず、有司もまた密に同ずる者あり、甚敷は 君上の御内意なりと稱して、加入を勸むる者あり、是を非といふ者は、虚勢を示して劫さむとす。」と記し、この時点で彰義隊は「陸奥同盟」と一緒に新政府に反乱を起こすことや、輪王寺宮を奉戴して政権奪取することを企図していたことが分かる。また慶応4年閏4月29日の時点で江戸の勝海舟はすでに「陸奥同盟」という言葉を用いており、輪王寺宮を奉戴してのクーデター構想もすでに彰義隊が江戸で喧伝していたことが分かる。国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』144~145頁『海舟日記』勝安芳筆、改造社、昭和3年(1928年)11月5日、閏4月29日條より。 ^ 大山柏著『戊辰役戦史 下巻』時事通信社、1968年、22頁。 ^ 北緯37度35分43秒 東経140度14分37秒 / 北緯37.59528度 東経140.24361度 / 37.59528; 140.24361 ^ a b 伯、凱旋の兵に諭戒す。「戊辰之役、會津陷(お)ちて庄内またその兵を解けり。伯、朝議より凱旋の令を拜し、十月四日、愈々歸還の時に臨て全軍に諭戒して曰く、「不肖、退助、推(お)されて一軍の將となり、當初、剣を仗(たづさへ)て諸君と共に故郷を出るの時、生て再び還る念慮は毫(すこし)も無かりし。屍(しかばね)を馬革に裹(つゝ)み、骨を原野に曝(さら)すは固(もと)より覺悟の上の事なり。想はせり今日征討の功を了(を)へ、凱旋の機會に接せんとは。これ何等の幸(しあはせ)ぞや。獨(ひと)り悲(かなし)みに堪(た)へざるは、吾等、戰友同志は露(つゆ)に臥(ふ)し、雨(あめ)に餐(まか)するの餘(あまり)、竟(つひ)に一死大節に殉じ、永(なが)く英魂(えいこん)を此土(こゝ)に留むるに至り、眸(ま)の當(あた)り賊徒平定の快を見て之(これ)を禁闕(きんけつ)に復奏(ふくそう)する事(こと)能(あた)はざるの一事なり。而(しか)して我等、此の戰死者を置き去りにすと思はゞ、低徊(あてなき)躊躇(さまよひ)の情(こゝろ)に堪(た)へざるものあり。それを何事(なにごと)ぞや諸君らの中に刻(とき)を競(きそ)ふて南(みなみ)に歸(き)さんと冀(こひねが)ふは。抑(そもそ)も此の殉國諸士の墓標(おくつき)に對(たひ)し心(こゝろ)に恥(は)づ處なき乎(や)」と。而(しか)して軍を二面に割て若松を發し二本松へ向ふに當(あた)り諸隊に令しむるに曰く、「今時(いま)、凱旋奏功の時に臨み、敢(あへ)て惰心を起して王師(にしきのみはた)を汚す者あらば、忽(たちまち)にして軍法を以て處す。然(さ)れば全軍謹んで之(これ)を戒(いまし)めよ」と。依て九日、二本松を過ぐるに臨(のぞ)みては猶(なほ)一層手厚くして毫釐の過(あやま)ちも莫(なか)らしめたり」(『板垣精神』より) ^ 『板垣退助君伝記』宇田友猪著 ^ 家近1995、196-201頁。 ^ 『谷干城』 ^ 板垣は大政奉還に真っ向から反対している。戦略の一部だと考えていたなら反対しない筈だからである。 ^ 坂本龍馬宛木戸書簡。8月2日付、9月4日付。 ^ 萩博物館『討幕エネルギーの系譜』(平成22年4月17日(土)-平成22年6月20日(日))において明治29年に作られた複製品が記念展示された。 ^ 『保古飛呂比』二、452頁、506-507頁。 ^ 『土佐藩ゆかりの会』会報第9号 論説より ^ 室町通り鞍馬口下る西入森之木町462附近 ^ “「薩土密約」の石碑 京都祇園に建立 板垣退助の子孫ら集う”. 京都新聞デジタル. (2019年9月23日). https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/25211 2019年12月5日閲覧。
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^ a b c d e 榎本鐘司「北信濃における無雙直傅流の伝承について : 江戸時代村落の武術と『境界性』」『スポーツ史研究』第7巻、スポーツ史学会、1994年、 21-36頁、 doi:10.19010/jjshjb.7.0_21、 ISSN 0915-1273、 NAID 110002941988。 ^ 一書に「益之極」とするは誤り。『土佐藩御侍中先祖書系圖牒』ならびに土佐藩政史料によらば「益之丞」。 ^ 一書に「亀之極」とするは誤り。『土佐藩御侍中先祖書系圖牒』ならびに土佐藩政史料によらば「亀之丞」。 ^ 長谷川流和術 ^ a b c d e 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵 ^ a b 『江戸期の土佐における居合関係史』 ^ 『史談速記録』板垣退助談、223輯 ^ 第15代・谷村自雄の歿後すぐに五藤孫兵衛正亮が、第16代宗家を継承したかのように記載する書もあるが、これは細かい経緯を省略しているもので、実際には紆余曲折があった。しかし、五藤正亮が「第16代宗家」として、無双直伝英信流の復興・継承・拡大に務めたことに異論は無い。 ^ a b c 『英信流居合と板垣伯』岡林九敏著(所収『土佐史談』第15号) ^ a b c d 『高知日日新聞』1936年(昭和11年)7月24日号による。 ^ 『板垣退助と英信流』広谷喜十郎著(所収『高知市広報 あかるいまち』2007年7月号) ^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ 「谷村亀之丞自雄-楠目繁次成榮-谷村自庸-土居亀江」と記す系譜も存在するが、師弟関係(実際に教わった系譜関係)としてみれば間違いとは言えない。(『師伝芥考・土佐の英信流』) ^ a b 『英信流居合と板垣伯』岡林九敏著(所収『土佐史談』第15号) ^ 『無雙直傳英信流居合に就いて』中西岩樹著、土佐史談、1933年(昭和8年)による。 ^ 相伝刀は林六太夫守政の所持した刀で、板垣退助(当時乾退助)が林家の子女と婚姻(退助の初妻)した際に乾家へ伝わり、明治以降、廃刀令に伴い居合が廃れかけた際、板垣伯が道場建設に盡力。竹村与右衛門邸の敷地の一角を借り受け、無双直伝英信流の常設道場が初めて完成した際、板垣伯が五藤孫兵衛正亮に贈り、道場に奉安された刀と言われる。これが以降、宗家継承者に相伝することになった。(『林六太夫守政旧蔵刀の由来』より) ^ a b 河野百錬著『大日本居合道図譜』昭和18年初版より ^ 河野百錬著『大日本居合道図譜』昭和42年再版より ^ 河野百錬著『大日本居合道図譜』より
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^ 瀧山一揆を収めた人物。 ^ 板垣信方の娘婿。実は於曾氏。永祿元年(1558年)、武田信玄の命に依って、板垣家を再興 ^ 永原一照次男 ^ 板垣退助五男、絶家再興 ^ 乾正春の養子となる ^ 板垣退助次男 ^ 乾正厚の養子となる ^ 乾友正家の絶家再興
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^ 「戯曲『自由党異変』で板垣家に紛争のうづ。思想的立場の相違から筆者の故伯嫡孫守正氏遂に廃嫡に決す」『東京朝日新聞』大正14年(1925年)10月20日号 ^ 「祖父も相原も人間的に見た。虚偽の生活は出来ぬ。自由になれれば幸い。当の守正君は語る」『東京朝日新聞』大正14年(1925年)10月20日号 ^ 「一方、舞台協会では守正君の意気に感じあくまでも上演する事に決したといふ。そして恐らく問題が大きくなればなる程、興行政策からいへば望ましい事だらうと芝居仲間では穿つた噂さへしている」『東京朝日新聞』(大正14年(1925年)10月20日号) ^ 「板垣守正君の『自由党異変』上演問題では帝劇の山本専務や大倉社長などに対して上演阻止、脅迫状や圧迫がましい運動が盛んなさうだが、帝劇側はこんな事には慣れたもので、ひとりでニヤニヤ笑つてゐる」『東京朝日新聞』(大正14年(1925年)10月21日号) ^ 板垣家側の「『自由党異変』が世に出る時には、旧自由党員も華々しく応援する」という文言は、「上演差止」めと「守正廃嫡」の法的な裁許が下りるまでの時間稼ぎであった可能性が高い。また、守正側は祖父板垣伯の遺品の一部を後継者の実弟・板垣正貫側に渡さないなどの対抗措置を行っている ^ 『新聞集成 昭和編年史』の1928年1月27日記事によると、「板垣守正氏民政党に入る」とある。 ^ 「祖父の築いた城にお尻。民政党に入つて驚かした板垣守正君の気焔」『東京朝日新聞』(昭和3年(1928年)1月27日号) ^ 「お尻を向けた守正氏を勘当。恩人等への申訳をと。親族会議で決めた板垣家」『東京朝日新聞』(昭和3年(1928年)2月4日号) ^ 「仙石新総裁が引き立て役に。板垣守正君を秘書にして満鉄につれて行く」『東京朝日新聞』(昭和4年(1929年)8月27日号) ^ 『満洲紳士録(第4版)』中西利八編、1334頁 ^ 『毎日新聞』(昭和26年7月18日朝刊)の記事によると「午後8時半 村立診療所で胃癌のため死去。享年52歳。告別式は同21日午後2時から東京芝の青松寺」とあり、『朝日新聞』によると「大根村鶴巻園の仮宅にて午後10時死去。51歳。夫人桃子さん(39歳)と一子があり」とある。 ^ 『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂 ^ 戸籍上は、板垣鉾太郎の四男 ^ 昭和5年(1930年)1月26日高知県安芸郡北川村大字野川 尾崎旦の養子となる。 ^ 戸籍上は、板垣守正の長男 ^ “昭和26年(1951)7月 活版・墨書 1通 父板垣守正 告別式の案内状(差出人 喪主板垣正明・板垣桃子, 宛先 浅沼稲次郎)”. 『浅沼稲次郎関係文書(その2)書簡の部目録』国立国会図書館憲政資料室 (2012年6月1日). 2014年6月16日閲覧。 ^ 父守正認知届出済。のち昭和15年(1940年)4月6日広島県芦品郡駅家町大字服部永谷 三島薫、同人妻美代子の養子となる。
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