歴史年表
年齢 1は人口構造のもう一つの基本的特性である。これは一般的に年数かあるいは年数と月数で表すが、ごく小さな子供の場合は月数と日数あるいは年数とその少数で表す。人口学者は通常、年齢をある人がこれまで生きた満年数 2で切り捨てることがあり、これを満年齢 3という。人口統計では時に、年内に到達する年齢 4が問題になる。人がこれまで生きた最後の年の端数を切り上げて、一年と数えることが保険統計上あるが、これは数え年 5という。人口センサスまたは人口動態登録では、申告年齢 6または記載年齢 6を次の整数に切り上げることがしばしば見受けられ、これは特に次の誕生日が近い時に行われることがある。誕生日年齢 7なる語は、特に生命表の計算で個人が誕生日を迎える時点を指すのに用いられる。人口センサスでの設問は、出生の年月日、満年齢、または細かく規定しないで単に年齢を問う。年齢が分からない時は、歴史年表 8を使って年齢を推定する。この年表は、回答者が生きている間に起こった周知の出来事のリストである。
歴史年表
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1927年: 「Pan American Airways」設立。同年にフロリダ州キー・ウェスト - キューバ共和国ハバナ便を開設。その後、アメリカ政府の補助金でアルゼンチンやブラジル行き飛行艇便を開設。 1929年: メキシカーナ航空を買収。 1932年: クバーナ航空を買収。 1933年: 中国航空集団を買収。 1935年: サンフランシスコ - ホノルル - マニラ - 香港の世界最初の太平洋横断航空便を開設。 1937年: 世界最初の大西洋横断航空を開設。 1943年: アベンサ航空の開業に参画。 1946年: 新規にホテル部門を「InterContinental Hotel」(現インターコンチネンタルホテルズグループ)と命名して設立。 1949年: ミドル・イースト航空に投資するとともに経営に参画。 1950年: アメリカ航空の国際線部門であるアメリカン・オーバーシーズ航空を買収。 1950年: 「Pan American World Airways」に社名変更。 1958年: アメリカ初のジェット旅客機・ボーイング707がニューヨーク - パリ線に就航。 1959年: KRT→TBS系列で放映された『兼高かおる世界の旅』の協賛となる。 1961年: 大相撲の賛助に。パンアメリカン航空賞を授与開始。「ヒョー、ショー、ジョォー」で始まるデビッド・ジョーンズ極東地区広報担当支配人の独特の口調が有名に。 1963年: マンハッタン島のパンナムビル(現在のメットライフビル)竣工。 1970年: ボーイング747「ジャンボジェット」超大型ジェット旅客機をニューヨーク - ロンドン線に就航。 1976年: ボーイング747SPにより東京 - ニューヨーク直行便を開始。 1977年: スペイン領カナリア諸島でKLM機とテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故発生。史上最悪の死亡者を出した航空機事故となる。 1980年: ナショナル航空を吸収合併し国内線を強化。 1983年: 国際航空運送協会の統計による旅客・貨物輸送実績世界一の座を、日本航空に明け渡す。 1985年: 太平洋路線と機材、従業員などをユナイテッド航空へ売却。これにより日本路線の自社運航からも撤退。 1988年: イギリス上空でパンアメリカン航空103便爆破事件が起きる。 1990年: ヒースロー国際空港のハブと以遠権をユナイテッド航空へ売却。 1990年: 西ドイツと東ドイツ間の路線運航権をルフトハンザドイツ航空に売却。 1991年: 1月8日に連邦倒産法の適用を申請。その後フランクフルト国際空港のハブとヨーロッパ路線、ニューヨークとボストンおよびワシントンD.C.との間のシャトル便、「パンナム・ワールドポート」をデルタ航空へ売却。中南米路線をユナイテッド航空へ譲渡。 1991年: 12月4日に破産し、運航を停止。その後破産管財人によりマイアミ国際空港のターミナルをアメリカン航空とユナイテッド航空へ譲渡。
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時間 イベント 1924年10月25日 私立青島大学が設立 1926 済南の6つの専門学校の合併と山東大学の設立 1928 私立青島大学と省山東大学は閉鎖 1930年9月21日 私立青島大学に基づいて、省山東大学が採用され、国立青島大学が設立され、学校名はC元平、ヤンジェンシェンが校長となりました。 1932 国立山東大学に改名 1937 戦争が勃発し、学校は本土に移転 1938年 一時停止 1946年10月25日 国立山東大学が正式に再設置 1958年10月 山東大学の教師の3分の2近くが済南に移り、元のキャンパス、提携中学校、一部の教師、海洋、水生、地質鉱山は青島に残った。 1959-1960 山東大学(青島)は、 ia 門大学や復旦大学などの残りの海洋科学研究部隊を統合し、山東海洋大学を設立 1960 中国共産党中央委員会は、中国の13の主要な総合大学の1つとしてそれを特定 1988 その名前を青島海洋大学に変更し、学校の名前は小平によって記される 1998 大学を建設するための「 211プロジェクト 」の最初のバッチに選出 2001 「 985プロジェクト 」建設の主要大学の最初のバッチに選ばれる 2002年10月 中国海洋大学に名を変更 2017年 世界クラスの大学と一流の分野の最初のバッチの1つに選出
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1729年-1786年 モーゼス・メンデルスゾーン: ハスカーラー 1789年 フランス革命 1791年 ダーヴィト・フリートレンダー David Friedländer、ユダヤ教徒初のベルリン市参事議員となるユダヤ教徒と、キリスト教徒は、「モーセの宗教」に立ち返るべきだと主張、同化主義(無理な平均化、遺産・価値観の放棄、政治的という欠点がある) 1795年代 イザーク・ヨースト・レーオポルト・ツンツが生まれる(ヴォルフェンビュッテルのヘデルに赴任したラビ・エーレンベルク Samuel Meyer Ehrenberg によって、二人は普通教育を受けることとなった) 1810年 ベルリン大学設立フンボルトはユダヤ教徒解放の運動に理解を示していた 1810年から1820年代 ユダヤ教科学(ユダヤ教学)が確立されていく 1812年 プロイセン王国のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世、ユダヤ教徒にプロイセン市民権をキリスト教徒とほぼ同権まで引き上げる 1814-1915年 ウィーン会議によりキリスト教徒による差別政策が復活し、ユダヤ教徒の地位が後退する 1815年 イスラエル・ヤーコプゾーン、ユダヤ教徒の人頭税を廃止 1817年 レーオポルト・ツンツ(「ドイツ系ユダヤ人 German Jewish」) エッセイ「ラビ文献について」タルムード、ラビ文献が、非ユダヤ教徒の全ての人に読まれ研究されるべき、と主張した(これは未だ達成されていない)。また、この論文で初めて科学(Wissenschaft)という言葉を使用したとされる(ユダヤ教文書の保存、復元、最先端の科学の導入を主張した)。ツンツは、近代人へのヤハドゥートの説明、近代のヤハドゥートのために、古いラビの言葉でもなく、マスキールの独善的な言葉でもなく、反ユダヤ主義者の妄想と思い込みの言葉でもなく、新たな言葉が必要と考えた。また、結論を出さずにラビ文献を読むべきだと考えていた。優れたユダヤ思想家の1人 1819年 ユダヤ人襲撃暴動 1819年11月7日 エードゥアルト・ガンスが、レーポルト・ツンツ、イザーク・ヨーストらベルリン大学の学友を集め「ドイツのユダヤ人の状況改善の会」を発足する 1820年~1828年 イザーク・ヨースト(「ユダヤ系ドイツ人 Jewish German/Judaist German」)「イスラエル人の歴史」(フラウィウス・ヨセフス以降初めてのユダヤ人の歴史書 / ただ、ヨーストは極端な同化の立場を取った欠点がある) 1821年5月27日 ユダヤ人科学・文化協会 Verein für Cultur und Wissenschaft der Juden, Culturverein der Juden (1819-, ツンツ、ガンス、モーゼス・モーザー設立) 発足 ()会の雑誌名「Zeitschrift für die Wissenschaft des Judentums」に因み、ユダヤ教科学(die Wissenschaft des Judentums)という名称が起こる42会議、17会合、200名近い会員 1822年 プロイセン、キリスト教徒でないガンスを正式な教授への任命を却下 1824年 ユダヤ人科学・文化協会が解散(遺産は現在イスラエル国立図書館にある) 1825年 ガンス、キリスト教に改宗(26年に教授に就任) 1836/7年 ザムゾン・ラーファエル・ヒルシュ Samson Raphael Hirsch (1808 – 1888)、アーブラハム・ガイガーらの分裂の開始→改革派と正統派 1838年 ザームエル・ヒルシュ Samuel Hirsch、デッサウのラビになる(1843年ルクセンブルクの首席ラビ、1866年フィラデルフィアへ移住する) 1844年 改革派が婚姻・カシュルートに関する否定的なミツワーを廃止 1851年 ザムゾン・ラーファエル・ヒルシュ、フランクフルトのラビとなり、急激な改革に反対する新正統派、トーラー・イム・デレフ・エレツ(聖地の道と共にあるトーラー) Torah 'im Derekh Eretz (新正統派とも。新正統派神学 Neo-orthodoxy ではない)を提唱 月刊 ユダヤ教の科学と歴史 Monatschrift für die Geschichte und Wissenschaft des Judenthums (1851-, ツァハリアス・フランケル Zacharias Frankel がドレスデンで創刊) () 1853年~1874年 ポーゼン出身のハインリヒ・グレーツ「ユダヤ人の歴史」 / 伝統派(ドイツにおける正統派と改革派の間を取る):歴史の中での一つのヤハドゥート・ユダヤ人(ヤハドゥートの役割は別として、ただこうした単純化した見方には、欠点や間違いも大いにあると考えられる) 1854年 ブレスラウ・ユダヤ教神学院設立 1856年-78年 ユダヤ教科学雑誌(「イェシュルン」) Jeschurun, Zeitschrift für die Wissenschaft des Judenthums (1856-78, ドイツ語圏で多くの学者が執筆・出版)( ) 1862年-1873年 科学と生活のためのユダヤ人雑誌 Jüdische Zeitschrift für Wissenschaft und Leben (1862-1873, アーブラハム・ガイガーがブレスラウで創刊) () 1869/1870年 ベルリーンにユダヤ教科学高等学院 Lehranstalt für die Wissenschaft des Judenthums, (Berlin) Hochschule für die Wissenschaft des Judentums 設立(講義の開始は1872- / ユダヤ教科学を確立しようとしたアーブラハム・ガイガー、レーヴィ、カッセル、ハイマン・シュタインタールら創設)() 1874年- ユダヤ教科学マガジン Magazin für die Wissenschaft des Judenthums (1874-, アーブラハム・ベルリーナー創刊) () 1876年 分裂法(ドイツの正統派と改革派が分離) 1885年 アメリカ改革派のピッツバーグ綱領:カシュルート廃止 1901年 第一回シオニスト会議 1908–1941年 ロシアにおける、ベラルーシ出身のシモン・ドゥブノフの活動:ロシア・ユダヤ学派の開始ダヴィト・ギンヅブルク、ザルマン・シャザール、エゼキエル・カウフマン、ソロモン・ツァイトリンらを輩出 1908年 ダヴィト・ギンヅブルク David Günzburg の活動によりペテルブルクに「ロシア・ユダヤ人歴史・民俗学協会」設立 1908年 イズレイル・ザングウィル「るつぼ」 1904年~1914年 第二次アリヤー(ロシア・ポーランドからの大規模な帰還)イスラエルの地に帰還し、労働を通して、ヤハドゥート文化・精神の再興をはかり、「正しい社会」を建設することを提唱する労働シオニズムの影響下にあるまたこの際ヘブライ語復興運動が現実のものとしてなされていった 1924年 ヘブライ大学にユダヤ学研究所設立(ゲルショム・ショーレムら) 現在、最大組織の機関としては世界ユダヤ学会議 World Congress of Jewish Studies が存在する。構成は以下のようになっている: A部会: ミクラー、ミクラーの世界 B部会: 歴史 C部会: ラビ文献、ハラーハー、ユダヤ思想(ユダヤ哲学) D部会: 言語、文学、芸術 E部会: 現代社会
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1875年(明治8年) 大久保内務卿、牧羊場設置の上奏を上院に行う。大久保卿は取香牧を視察し、牧羊場並びに種畜場の用地を決定する。9月 下総牧羊場、取香種畜場開設。初代場長に岩山敬義を任命。米国人アプジョーンズ主任技師として雇用。レーサム採用。東北地方より和牛を購入、牛耕にて開墾開始。十倉村両国に牧羊場仮事務所を設置。 1876年(明治9年) 十倉村両国に本庁舎落成。全国より牧羊生徒57名入場。牛痘の為、牛耕を廃止。東北地方より牡馬購入、馬耕を設置。 1877年(明治10年) 内務省勧業寮を廃止。勧農局を設置。長原地区に病畜舎設置。レーサム退職。リチャード・ケイ採用。 1878年(明治11年) 取香種畜場に獣医科が設置される。獣医実地教育が始まる。 1879年(明治12年) アプジョーンズ暴漢の後遺症などにより退職。伊藤内務卿・大隈大蔵卿来場。本庁舎を両国より高堀に移す。 1880年(明治13年) 下総牧羊場と取香種畜場を合併、下総種畜場と改称。 1881年(明治14年) 明治天皇行幸(6月28日~7月2日)。リチャード・ケイ退職。農商務省が設置され農商務局に牧畜、獣医科を置き牧場はその所管となる。 1882年(明治15年) 明治天皇行幸(6月6日~9日)。獣医科を廃止。場内に駒場農学校獣医文科を設置。 1883年(明治16年) 波多野尹政場長に任命される。 1885年(明治18年) 牧場の所管が農商務省から宮内省になる。宮内省下総種畜場と改称。御料局が設置される。 1886年(明治19年) 宮岡正吉場長に任命される。同年勝野源八郎場長に任命される。野馬の飼養を廃止。宮内省官制定める。 1888年(明治21年) 牧場種馬寮の所管に移し、宮内省御料牧場と改称。新山荘輔場長に任命される。 1889年(明治22年) 事務所を両国区高堀から三里塚へ移す。 1891年(明治24年) 牧場会計を独立採算制とする。 1911年(明治44年) 千葉県営鉄道用地(多古線)として8町2反、県道敷地用として2町5反を無償貸付。 1913年(大正2年) 千葉県営鉄道用地として8町2反を県へ無償貸付。 1914年(大正3年) 御料牧場官制公布され、御料牧場は宮内大臣の管理に属し、主馬頭の統理となる。 1921年(大正10年) 本場の特別会計を改め通常会計に移す。 1922年(大正11年) 政府の行政整理により、用地2,044町歩を帝室林野局へ移管。後に、県・民間に払い下げる。御料牧場制を廃止。宮内省下総牧場と改称。馬の生産事業を中止。羽部義考場長に任命される。 1923年(大正12年) 増村嘉雄場長に任命される。 1926年(大正15年) 酒井克巳場長に任命される。 1927年(昭和2年) 新冠牧場に移管の種畜場を本場に戻す。馬の生産業務再開。英国よりサラブレッド種牡馬「トウルヌソル」を輸入。 1934年(昭和9年) 養鶏事業開始。 1935年(昭和10年) 英国よりサラブレッド種牡馬「ダイオライト」を輸入。 1939年(昭和14年) 獣医学実地教育創始記念碑が有志により建立。 1942年(昭和17年) 宮内省御料牧場と改称。田中二郎場長に任命される。 1945年(昭和20年) 主馬寮廃止。主殿寮が設置される。牧場はその所管となる。 1946年(昭和21年) 肉加工工場落成。本格的な肉加工業務が始まる。883町歩を帝室林野局へ移管後、払い下げる。 1947年(昭和22年) 宮内府法施行され、宮内庁は宮内府となる。 1948年(昭和23年) 131町歩を農林省に移管後、払い下げる。孵卵舎新築。 1949年(昭和24年) 宮内府は宮内庁となり、主馬寮廃止。牧場は新設の宮内庁管理部の所管となる。軽種馬の生産業務再開。 1953年(昭和28年) 昭和天皇・皇后、皇太子(現在の上皇明仁)行幸啓(5月7日)。第1回在京外交団招待。 1956年(昭和31年) 牧場が宮内庁の付属機関となる。 1961年(昭和36年) 輓馬生産事業開始。 1963年(昭和38年) 皇居内御料乳牛場を廃止。牧場にて業務を引く継ぐ。 1964年(昭和39年) 高野守雄場長に任命される。 1966年(昭和41年) 新牛乳処理場落成。7月4日 三里塚地区に新東京国際空港設置の閣議決定。 9月~10月 新牧場の候補地調査の結果、栃木県塩谷郡高根沢町に設置の決定。 1967年(昭和42年)3月 新牧場を栃木県内に設置する旨の閣議決定。新牧場の用地買収並びに建設工事が始まる。 1969年(昭和44年)8月18日 牧場閉場式を挙行。 8月~9月 新牧場(高根沢御料牧場)へ移転開始。
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1612年(慶長17年) - 『二天記』によると、4月13日(グレゴリオ暦では5月13日)に手向山から見渡せる巌流島(船島)で、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行なわれた。 1654年(承応3年) - 宮本武蔵の養子で小倉藩の筆頭家老をつとめていた宮本伊織が父武蔵の菩提を弔うため、 宮本武蔵を顕彰する小倉碑文を巌流島が見渡せる手向山山頂に建立。 1866年(慶応2年)7月27日 - 手向山周辺で、熊本藩を主力とする幕府軍と奇兵隊(長州藩)との間で激戦が行なわれた(赤坂の戦い)。小倉藩は4日後の8月1日、小倉城を自焼した。 1887年(明治20年) - 明治政府は、手向山砲台(田向山砲台)の建設をはじめた。このときから手向山の要塞化が行なわれ、一般人の入山は禁止された。この措置は1945年(昭和20年)まで継続されたため、小倉碑文は隣の延命寺山(赤坂山)に移設された(戦後、手向山に復元)。なお延命寺山(赤坂山)とは、現在北九州市立桜丘小学校がある丘陵周辺をさす。 1951年(昭和26年) - 村上元三の小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、 小倉碑文の近くに小次郎碑が建てられた。またこの年から、巌流島の決闘が行なわれたとされる4月13日前後の日曜日に、毎年1回『武蔵・小次郎まつり』が手向山山頂の公園ではじまり、2009年4月12日には『第59回武蔵・小次郎まつり』が開催された。 1966年(昭和41年)3月 - 手向山北端(大瀬戸第一号導灯(前灯))と山頂近く(大瀬戸第一号導灯(後灯))に灯台が設置された。
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1895年 – アーネスト・オーバートン(英語版)は、細胞膜が脂質で作られているという仮説を立てた。 1925年 – Evert GorterとFrançois Grendelは赤血球の膜が2分子の厚さの脂質の層で形成されていることを発見し、細胞膜の脂質二重層について記述した。 1935年 – ヒュー・ダブソン(英語版)とジェームス・ダニエリ(英語版)は、脂質膜はタンパク質で構成される層であり、特定の物質を透過させる孔を持つ構造であると提唱した。その後彼らは、脂質の層の両側がタンパク質の層で囲まれた細胞膜のモデルを提唱した。 1957年 – J. David Robertsonは、電子顕微鏡の研究に基づいて「単位膜仮説」(Unit Membrane Hypothesis)を提唱した。この説では、細胞内の全ての膜、つまり細胞膜も細胞小器官の膜も同じ構造を持っており、リン脂質の二重層の両側にタンパク質の単層が存在するとされた。 1972年 – シンガーとニコルソンは、細胞膜の構造や熱力学に関する最新のデータを説明するモデルとして、流動モザイクモデルを提唱した。
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2109年 - 太陽系外にて地球外生命体(ガウナ)とのファーストコンタクトが行われる。 2371年 - 衆合船が地球に接近して46体のガウナが降下し、ほぼ同時期に人類がヘイグス粒子の運用を実用化する。 時期不明 - ガウナにより地球は破壊され、播種船が太陽系からの脱出を開始する。 2384年8月2日 - シドニアが出航する。 2513年11月6日 - 2691年2月26日 - シドニアから最も近い距離の播種船アポシムズが最終交信を行う。内容は「さよならシドニア」。 2700年頃(シドニア出航紀元500年頃)知的生命体に建造されたと思われる謎の建造物を発見し、その調査中に遭遇したガウナを建造物内で発見した謎の物質(カビ)により撃破する。 斎藤ヒロキ、小林、ヒ山、落合の4人は「不死の船員会」設立時の構成員となる。 時期不明 - ガ273のエナの一部を回収する。 時期不明 - 落合が回収された人型エナを解剖中、人間の子宮に酷似した器官を発見する。 3300年頃第四次ガウナ防衛戦。ヒロキにより融合個体とガウナは撃破されるも、シドニア船員は不死の船員会24名(落合を含めた場合25名)、一般船員392名まで減る。 落合がメインコンピュータの中央記録を補助脳に移し、元のデータの大半を破棄する。事件後、ヒロキにより逮捕される。 ガウナの侵入時に食糧プラントを失ったために食糧危機に陥るが、科戸瀬ユレが遺伝子操作により光合成能力を得る方法を提案し、実行される。また、落合を使って補助脳からデータを安全に抽出する技術を確立する。そのため、ユレは能力を評価されて不死の船員会の構成員となる。 ヒロキがシドニア中央の意向に反感を持って逃亡し、隠匿生活に入る。 時期不明 - 主力衛人は岐神開発の一八式へ、東亜重工は下請けへそれぞれ移行する。 3380年ヒロキが発見されるが、不老薬を摂取していなかったために老衰していた。そのため、小林により初めから不死の機能を組み込んだヒロキの換装用クローン(谷風長道)が造られる。 ヒロキが幼い長道を連れて再度逃走し、ヒ山はヒロキの逃亡を幇助したことで不死の船員会から解任される。 3391年 - ヒロキが死亡する。 3394年(シドニア出航紀元1009年) - 食料を探しに地上へ出てきた長道が発見される(第1話)。 時期不明 - 惑星セブンをシドニアが制圧。植民に成功する。
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1958年、登別熊牧場(現のぼりべつクマ牧場)が開業。世界初の多頭飼育。 1965年、8月、登別で16頭が逸走。 1969年、昭和新山熊牧場、定山渓熊牧場開業。 1973年、7月、阿蘇熊牧場(現阿蘇カドリー・ドミニオン)開業。 1987年、7月16日、秋田八幡平熊牧場が開業。 1990年、春、阿仁町が阿仁マタギの里熊牧場を開設。この頃、定山渓の収益ピークに。 1991年、WSPAとALIVEによる調査と公表。 1992年、WSPAが京都会議で登別を非難。 1997年、ALIVEが熊牧場を再調査。 1998年、「温根湯熊牧場」廃業。 2000年、ALIVE代表(野上ふさ子)が週刊金曜日11月17日号に「野生動物を家畜化する「クマ牧場」のやりたい放題」を寄稿。 2001年、5月26日、ALIVEが八幡平非難ビデオを制作しインターネットに公開。 2003年、阿蘇のゾウ借入をALIVEと野党が阻止。WSPAとALIVEによる熊牧場の再調査と報告公表。 2004年、1月、定山渓熊牧場閉鎖。 2005年、8月、世界動物園水族館協会が熊牧場を視察。12月、日本動物園水族館協会が登別と阿蘇に改善勧告。 2006年、4月29日、日本初のベアマウンテン開業。 2007年、ベアマウンテンが冬ごもり実験開始。 2008年、12月26日、ALIVEがWSPA制作の熊牧場非難ビデオをインターネットに公開。 2009年、1月、パンくん問題で阿蘇が日動水と絶縁。 2010年、10月、八幡平に愛知県豊田市から親子のツキノワグマ搬入。 2011年、4月30日、登別が日動水を退会。10月28日、ALIVEが再び八幡平非難ビデオを製作しインターネットに公開。 2012年、4月20日、秋田八幡平熊牧場で羆6頭逸走、従業員2名噛殺(秋田八幡平クマ牧場事件)。6月1日、八幡平熊牧場閉鎖。 2013年、夏、阿仁マタギの里熊牧場がリニューアル予定。 ※略称:「WSPA」-世界動物保護協会(ロンドン)、「ALIVE」-地球主物会議(東京:代表野上ふさ子)、「日動水」-日本動物園水族館教会、「登別」-のぼりべつクマ牧場、「阿蘇」-阿蘇カドリー・ドミニオン、「定山渓」-定山渓熊牧場、「八幡平」-秋田八幡平熊牧場。
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歴史年表
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平安時代 - 出羽国山本郡山本郷として成立。 平安時代 - 鎧ヶ崎城(荒川城)が建設される。 1549年 - 六郷城が築かれる。 1590年 - 六郷政乗、本領安堵される。仙北一揆 1602年 - 六郷一揆が発生するが、間もなく鎮圧される。 1874年5月6日 - 六郷尋常小学校が開校。 1876年11月1日 - 本道小学校が開校。 同年 - 高野村、本館村、川内池村が合併し、六郷村になる。 1880年2月 - 本道小学校を六郷尋常小学校に併合。 1889年(明治22年) - 町村制施行により六郷村、野中村、六郷東根村が合併し六郷村が発足。 1891年 - 町制施行。六郷町となる。 1896年8月31日 - 陸羽地震(六郷地震)発生。六郷町では、死者30人余、負傷者数十人、行方不明者1人、家屋の全壊900戸余、半壊100戸余。 1912年 - 秋田県内で初めて自転車競争大会が開催される。 1913年 - 町内に初めて街灯がともる。 1916年 - 町内の30件に電話が開通。 1927年9月20日 - 青い目の人形が六郷尋常小学校に贈られる(現存)。 1935年7月10日 - 六郷青年学校が開校。 1936年2月7日 - ブルーノ・タウトが来町。 1947年4月1日 - 六郷町立六郷中学校が開校。 1950年4月 - 秋田県立六郷高等学校が開校。 1956年3月1日 - 鑓田地区が六郷町に編入される。 1963年 - 鎧ヶ崎城が古代城柵跡の認定を受ける。 1964年 - 六郷小学校で学校給食が始まる。 同年 - 町の木がイチョウに決定する。 1973年 - 町民歌、町章が制定される。 1981年3月31日 - 本館小学校が閉校。 1982年1月14日 - 「六郷のかまくら」が国の重要無形民俗文化財に指定される。 1985年1月5日 - 「六郷湧水群」が名水百選に選ばれる。 2001年 - ワールドゲームズのコーフボールの試合が行われる。 2004年11月1日 - 千畑町、仙南村と合併し美郷町となる。
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2007年(平成19年)6月15日 - 運行開始。昼行便・夜行便各1往復。補助席付き4列シートや4列楽座シートなどハイデッカー車両を使用。 10月1日 - ダイヤ改正。夜行便の3号4号を東京駅〜新木場駅間延長。 2008年(平成20年)6月 - 4列楽座シート車両からスーパーハイデッカー独立3列シート車両に変更。 11月1日 - 昼行便下り1号を東京駅17:40発に繰り下げ。早期購入割引運賃を「早売1」に変更。高速バスネットで座席選択可能になった。 2009年(平成21年)12月1日 - 夜行便(3号・4号)を独立3列シートのダブルデッカー車両に変更(4号は翌2日から)。 2010年(平成22年)7月1日 - 昼行便(1号・2号)も独立3列シートのダブルデッカー車両に変更(2号は翌2日から)。 12月 - 年末年始の増車分(2号車)を高速バスネット内で「4列シート便」と表記の上、別枠で発売。 2011年(平成23年)11月21日 - 車両をハイデッカーで3列Gシートと4列楽座シートを搭載した「プレミアムコーチ」車両に変更。 2012年(平成24年)11月 - 昼行便(1号・2号)が新東名高速道路経由に変更。それに伴い、休憩箇所が浜名湖SAから遠州森町PAに変更。 12月21日 - 夜行便(3号・4号)に隣が異性にならない女性優先席を設定。 2013年(平成25年)2月5日 - この日出発の上り夜行便(4号)をもって、3列Gシート(プレミアムシート車両)が廃止。全席が幅広4列の40席車両に変更。 10月1日 - 全便が毎日運行から週末や休日など特定日のみ運行となる。 2018年(平成30年)12月21日 - 夜行便(3号・4号)が東京ディズニーランドに延伸。新木場駅バス停を廃止。 2019年(令和元年)6月1日 - この日より、夜行便が太田川駅発着の「ドリーム知多号」(毎日運行)となり、JR東海バスが参入。これに伴い「知多シーガル号」は昼行便のみとなる。昼行便「知多シーガル号」・夜行便「ドリーム知多号」とも緒川駅に停車開始、「ドリーム知多号」は新木場駅の停車を再開。 10月1日 - 消費税率引き上げに伴う運賃改定。 2020年(令和2年)4月8日 - 新型コロナウイルスの影響により、「知多シーガル号」がこの日より当面の間運休。 4月12日 - 「ドリーム知多号」がこの日の出発便より12月24日の出発便まで(太田川・刈谷・知立発は翌12月25日の出発便まで)運休。 12月25日 - 「ドリーム知多号」がこの日の出発便(太田川・刈谷・知立発は翌12月26日の出発便より)より2021年(令和3年)1月11日の出発便まで運行再開。 2021年(令和3年)1月12日 - 「ドリーム知多号」がこの日の出発便より再度運休。
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1926年(大正15年)1月28日 - 都市計画公園第12号公園として決定。告示当時の面積は、7.89ha(23.9坪)とされた。 1927年(昭和2年)9月 - 西志賀土地区画整理組合が成立。 1930年(昭和5年)5月 - 公園の設計完了。 1930年(昭和5年)6月9日 - 西志賀土地区画整理組合により、起工される。 1931年(昭和6年)11月 - 工事完了。 1934年(昭和9年)11月19日 - 同年9月に区画整理組合から出されていた寄付の申請につき、市会において可決。 1935年(昭和10年)2月1日 - 告示により開園。 1937年(昭和12年)3月1日 - 所在地である西春日井郡萩野村が名古屋市に編入される。 1947年(昭和22年)5月6日 - 告示により、都市計画公園第12号公園としては廃止。総合公園の志賀公園として改めて告示。 1956年(昭和31年)10月15日 - 都市公園法による公園となる。指定面積を2.75haと変更する。 1977年(昭和52年)1月 - 18日から27日にかけて、公園南東角に名古屋市消防局が設置する耐水性防火水槽の工事に伴う見晴台仮設考古資料館(当時)による学術発掘調査が実施された。これまで遺跡としての存在は確認されてきたが、本格的な発掘調査に至ったのははじめてであるという。調査では弥生時代中期後半ごろの土器や土師器などが15点ほど発見されている。
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「サンサンシティマーゴ」の記事における「歴史・年表」の解説
1994年(平成6年)9月23日 - ジャスコ(現・イオン)関店を核店舗として、57店舗の専門店が入居して開業した。 2000年(平成12年)12月1日 - マーゴ本館の増床で、入居店舗数が約100店となった。 2003年(平成15年)11月22日 - 映画館「シネックス マーゴ」が開業する。 2010年(平成22年)7月17日 - 温浴施設「マーゴの湯」が開業する。 11月 - スポーツ用品店のヒマラヤが入居する北館スポーツ館が開業する。 2016年(平成28年)7月9日 - スポーツ館とシネマ館を結ぶ連絡通路が開通した。これにより、本館・スポーツ館・シネマ館が直結され、2階から往来することが可能となった。 2017年(平成29年)10月28日 - 複合商業施設「マーゴ ウエスト」がオープンする。敷地内には8店舗のテナントが入居した。
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戦後、小倉競輪場や大阪競輪場での競輪開催が大成功したことを受けて、兵庫県下でも新たに競輪場が建設されることになった。 甲子園競輪場があった場所は、戦前は阪神電鉄が所有した、アンツーカーのテニスコート100余面を有し世界一の規模を誇った大スポーツセンターであった。1949年6月、その地に池を掘り、余った土砂で地揚げして500mバンクが作られ、鳴尾競輪場として開設。そのため、開設当初のバンクには池があり、さらに池の中央の小さな島にはお稲荷様のお社があり、朱塗りの橋の欄干が水面に映えていた。なお、池は400mバンクに改修された際に埋め立てられ廃止されている。 1949年6月28日に兵庫県営第1回鳴尾競輪が開催され、ここに甲子園競輪場の歴史が刻まれていくこととなる。開設当初の入場料は20円であった。 競輪創成期は観客が競輪の競技特性をよく理解していなかったことや、実力不足の選手も多く見られたことから全国各地の競輪場で暴動や騒乱事件が発生していたが、この甲子園競輪場でも、鳴尾競輪場時代の1950年9月9日、競輪史に最大の汚点を残した鳴尾事件が発生。それまで「キョウリン」と呼ばれていた競輪が、この鳴尾事件以後、「恐輪」とか「狂輪」と揶揄されるようになったため「ケイリン」と呼び改められるようになったきっかけを作った事件でもあった。 甲子園競輪場内に設けられていた資料コーナーにも、鳴尾競輪の開催告知で「きょうりん」とふりがなを付けていた新聞のコピーのパネルが貼られていた。 その後、鳴尾事件を受けて競輪は暫く開催を(全国的に)休止し、鳴尾競輪場も当然に廃止は必至と言われたが、1951年1月に甲子園競輪場と名称を改めることで決着、のちレースを再開することとなる。 1952年 - NHK大阪放送局が全国初のラジオ中継を実施。当時、審判塔の上に放送席を設けて中継を行った。 1953年3月17日 - オートレースが初開催される(その後オートレースは1955年3月26日をもって廃止)。 1956年8月7日 - 特別観覧席が焼失。 1964年10月 - バンクを改修。3・4コーナーをゴール前に寄せて400mバンクとなる。 1965年7月 - 西側スタンドを新築。 1967年8月 - 東側スタンドを新築。 1968年1月 - 南側スタンドを新築。 1969年8月 - 特別競輪「全国都道府県選抜競輪」が開催直前で中止となる。 1969年10月 - 西宮市立東甲子園小学校のPTAが、校庭を競輪場の駐車場として利用することに反対して児童の登校を停止させる。 1973年7月 - 阪神甲子園駅との間で無料送迎バスを運行開始。 1976年4月 - 入場料が50円に値上げされる。 1981年 - 車券のコイン専用自動券売機が登場。ただ後に投票が機械化されたことで、これは後に撤去される。 1984年5月 - 国際競輪を開催。 1985年 - 開設記念競輪(現在のGIIIレース)を初めて開催。 1985年12月 - マスコットキャラクター「キックル君」誕生。 1986年12月 - 西日本初の電話投票が西宮競輪場とともに始まる。 1989年6月 - 電光決定表示盤を設置。 1991年3月 - 投票の機械化。マルチユニット方式となる。 1991年4月 - 北側スタンドを改築、オープン。 1992年4月 - 北側スタンドにロイヤルルームがオープン。 1995年1月17日 - 阪神・淡路大震災発生。この影響でバンク内にひびが入るなどの被害を受け、同年3月末まで開催が休止される。 (時期不明)西宮競輪とともに、投票用マークカードを導入。当時は単勝式・複勝式・枠番連勝式のみであった。 1996年5月 - 車番連勝式車券の発売を開始。 1999年9月23日 - 9月29日 - 開設以来初めての特別競輪(現在のGI)「第42回オールスター競輪」を開催。本来は9月28日が決勝戦(当時は6日間開催)であったが、台風直撃による開催休止があり(9月24日)、1日順延となった。これを機に5月には選手宿舎「甲子園サイクル会館」も竣工していた。 だが、競輪の収益は全国的に1990年代中盤から頭打ちとなり、甲子園競輪も西宮競輪ともども年々減少の一途となり、ついに収支が赤字転落の危機を迎えた。古くは1985年ごろから収支改善のため、西宮市が独自に競輪事業のあり方を調査研究するプロジェクトチームを発足させ、特別競輪の誘致や日本自転車振興会などに納める交付金制度見直しの国への働き掛け、人件費削減などを柱とする提言をとりまとめたこともあり、1990年代に入ってから西日本初の電話投票による車券発売や、近畿で初めてマークシート方式による車券投票制度の導入、特別競輪であるオールスター競輪の誘致など、ファンの新規獲得や収支改善にも努めたがそれでも好転しなかった。このほか、西宮競輪場ではバックスクリーンのアストロビジョンを取り壊し、それまでなかった特別観覧席の新設も行った。 特に、廃止に向けて舵を切った決定打が、オールスター競輪の開催であった。1999年の第42回オールスター競輪自体は大成功で約10億円の黒字を出したものの、その他のレースは皆赤字という状況で、結果として同年度は約2億円の赤字を計上してしまい、好条件が生かせず関係者に衝撃が走った。甲子園競輪場・西宮競輪場はともに人件費のほか施設保有者に競輪場借り上げ料を支払わなければならず(加えて西宮競輪場は組み立てバンクのため、バンクの組み立て・解体の費用も更にかかる)、他にも的中車券払戻金や選手賞金、自転車競技法に基づく上部団体への交付金などもあり、施行者の裁量で自由にできる部分が少ないことが最大のネックとなった。そして翌年度の事業収支予測は、2001年度が8億9000万円の赤字、2005年度には18億円にまで膨らむという最悪の結果が出た。 のち、一部のマスコミで甲子園競輪・西宮競輪の廃止が報道されたものの、一転存続に方針転換する。その後は交渉で施設使用料を25%減額することで施設保有者と合意したほか、いったん従業員を離職させた上で賃金を半額で再雇用し、さらに西宮競輪場とともに一部の発売窓口を閉鎖したりと、できる限りの経費削減を行ったものの、再度行った事業収支予測で再び、赤字予想の結果が出てしまう。西宮競輪のみを廃止し甲子園競輪に一本化する案も出たが、それでも収支の改善は見込めず、「黒字化の目途が立たない」として、事務組合の管理者でもあった山田知西宮市長が2001年10月に撤退を決断した。後に主催者の兵庫県市町競輪事務組合が、財政難を理由に競輪事業からの撤退を正式に表明し、2002年3月の開催を最後に西宮競輪とともに廃止されることとなった。 甲子園競輪は、2002年3月17日から19日の開催をもって廃止された。最後の開催の優勝者は杉本達哉(79期・愛知、A3)であった。そして最終レース終了後、兵庫県市町競輪事務組合による挨拶のあと、地元選手がバンクからレース用ユニフォームをスタンドに投げ込んでファンに別れを告げた。 閉鎖後も施設自体はしばらく残り、競輪選手の練習場として、また阪神甲子園球場でのイベント開催時には臨時駐車場として活用された。だが、その後2002年末頃には隣の自動車学校ともども完全に閉鎖され、跡地は複数の不動産会社に売却された後、大規模分譲マンションや分譲戸建が建設され、現在に至っている。
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歴史・年表
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1954年 - 赤本の刊行を開始する(創刊時は「京都大学」「同志社大学・立命館大学」「大阪市立大学・神戸大学」の5大学を扱う計3冊)。 1964年 - 表紙の色を朱色に統一。 1983年 - 「共通一次問題研究シリーズ」を刊行する(その後1990年に「センター試験過去問研究シリーズ」になる)。 1985年 - 表紙の色を朱色から赤色へと変更。 80年代終盤頃 - 表紙デザインが正方形10個を基調としたものに変更となる。 1993年または1994年 - 表紙デザインが正方形とL字型の図形をあしらったものに変更(センター試験版は除く)。 1997年 - センター試験版の表紙デザインが変更。この時より収録年数が減少する。 2002年 - センター試験版のサイズがB6から現行と同じA5サイズとなる。また収録年数が増加し本試験については全科目で第1回分から掲載されるようになった。 2004 - 2005年 - 一般のものもB6から現行と同じA5サイズとなる。 2005年 - この年より入試問題に使われたエッセーや論文等の掲載について作者の承諾を得ることとし、了解が得られない場合には掲載しないなどの対応を取ることとなった。 2006年 - この年よりデザインが変更され、中央に巨大な正方形が単独で描かれたものとなった(センター試験版は除く)。 2008年 - センター試験版においてこれまでは回答編が別冊となっていたが、本年より問題編が別冊となるように変更された。また表紙デザインも同時に変更された。 2013年 - 公式Twitterアカウント開設。
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