6歳(2018年)
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「ステラーウインド」の記事における「6歳(2018年)」の解説
セール後すぐには引退せず、チャド・ブラウン厩舎に転厩して2018年1月の第2回ペガサスワールドカップに出走。ここでガンランナーの6着となり、同レースを最後に現役を引退した。
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6歳(2018年)
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「シュヴァルグラン」の記事における「6歳(2018年)」の解説
年明け初戦にいきなりGIの大阪杯を選択。鞍上に三浦皇成を迎えたが、スタートで出遅れや3歳時以来の距離2000メートルは忙しかったこともあり16頭立ての13着に大敗した。続く天皇賞・春では再び鞍上にボウマンを迎え、1番人気に支持されたが、ゴール前で勝ち馬・レインボーラインにクビ差捉えられ2着に敗れた。秋には昨年と同じローテーションを組み、京都大賞典では三浦の騎乗が見込まれていたが結局福永が約1年振りに鞍上に戻り4着。第38回ジャパンカップではボウマンがメルボルンカップでの計3つの違反騎乗により騎乗停止処分を課せられ、クリスチャン・デムーロに乗り替わり4着に入線した。第63回有馬記念では秋3戦目でようやく騎乗が叶ったボウマンを背に外枠ながら力走、3着に入った。
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6歳(2018年)
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「ブルドッグボス」の記事における「6歳(2018年)」の解説
この年初戦の根岸ステークスは5着に終わるも、続く黒船賞では3着と好走する。その後の2戦は共に5着に敗れ、休養に入る。
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6歳(2006年)
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「グラッブユアハート」の記事における「6歳(2006年)」の解説
6歳初戦、TCK女王盃は1.2倍の圧倒的人気を集める。レースはスタート後すぐに先頭を奪うとレマーズガールの追い上げを4/3馬身退けて逃げ切り勝ち。交流重賞3連勝で重賞4勝目を飾った。次走、重賞4連勝を狙ったエンプレス杯は1倍台の人気を集めるが4着に敗れる。前年2着だったマリーンカップは直線で馬群を割って抜け出しジーナフォンテン、レマーズガールに半馬身差をつけ優勝。重賞5勝目を挙げた。続くスパーキングレディーカップはスタートで後手を踏み追い上げるも7着。交流重賞で掲示板を外したのはこれが初めてだった。次走のマーキュリーカップは先行するもクーリンガーに交わされ2着に敗れる。連覇を狙った白山大賞典は逃げるも2周目3コーナーで交わされ離れた4着に終わる。勝ったのはレマーズガールだった。続く彩の国浦和記念も4着に敗れる。初めて57㎏を背負っての出走となったクイーン賞は後方から動けず8着と凡退。これが最後のレースとなり2日後の12月8日に競走馬登録を抹消した。引退後は社台ファームで繁殖牝馬となった。
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6歳(2012年)
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「ナイキハイグレード」の記事における「6歳(2012年)」の解説
高知競馬に移籍し、一般戦を3連勝した。続くかきつばた記念では見せ場なく9着に敗れた。5月18日の海上王岩崎弥太郎特別を制する。北海道スプリントカップでは終始後方のまま10着、帝王賞は13着と大敗した。7月22日のトレノ賞は3着に入った。8月6日の夜さ恋フェスティバル特別で優勝。
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6歳(2006年)
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「レマーズガール」の記事における「6歳(2006年)」の解説
3年連続、クイーン賞からTCK女王盃のローテを組み、別定58kgを背負いながらグラッブユアハートの2着と好走。続く、エンプレス杯でも2着となる。次走、マリーンカップはグラッブユアハートに半馬身差をつけられ、ジーナフォンテンと同着の2着、3戦連続の2着となる。初の交流GI出走となったかしわ記念はスタートで後手を踏み、6着まで。次走、4年連続出走となるスパーキングレディーカップは3コーナー過ぎからスパートをかけ、直線では最後追い込んだグレイスティアラを振り切り1着。3年ぶりの制覇となる。次走、マーキュリーカップは3着、日本テレビ盃はシーキングザダイヤ、スターキングマンに次ぐ3着に敗れる。続く、白山大賞典は3番手でレースを進め、3コーナー手前で先頭に立って直線も後続を突き放し3馬身差の圧勝。重賞8勝目で初の牡馬混合戦の重賞を手にした。次走は川崎開催のJBCクラシックに出走、前目でレースを進めるもバテてしまい、12着に敗れる。続く、彩の国浦和記念は地方馬2頭を交わせず3着。続く、4年連続出走となるクイーン賞はトップハンデの57.5kgながら、4コーナーで先頭に立つと直線では後続を引き離し、6馬身差を付けて快勝。重賞9勝目を挙げた。
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6歳(2013年)
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「レディアルバローザ」の記事における「6歳(2013年)」の解説
京都牝馬ステークス11着を最後に、3月16日付で競走馬登録を抹消、引退した。引退後はケイアイファームで繁殖牝馬となる。
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6歳(2004年)
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「ニホンピロサート」の記事における「6歳(2004年)」の解説
4か月の休み明け、コーラルステークスは別定59 kgを背負い7着と凡退。次走、サウジアラビアロイヤルカップはハンデ58 kgを背負い3着に入る。続く欅ステークスは2着に入り、次走、プロキオンステークスは4番手につけると直線抜け出し、1馬身半差をつけ1着。重賞2勝目を飾った。1.4倍の1番人気で迎えたサマーチャンピオンは逃げるロングカイソウを向正面過ぎで早々と捕らえると、4コーナーで満を持して先頭に抜け出しインタータイヨウに5馬身の差をつけて快勝。小牧を背に重賞連勝となった。次走、重賞3連勝を狙ったさきたま杯はスタートで出負けをして4着に敗れる。6歳にして初の統一GI出走となったマイルチャンピオンシップ南部杯は6着に敗退。その後休養に入る。
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6歳(2013年)
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「ソリタリーキング」の記事における「6歳(2013年)」の解説
年が明けてからも勝ちきれないレースが続いていたが、7月のマーキュリーカップで久々の勝利を挙げる。しかしその後は惨敗が続いた。
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6歳(2010年)
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「ドリームジャーニー」の記事における「6歳(2010年)」の解説
2月20日の京都記念から始動。中団のやや後ろからレースを進め、直線でじわじわと末脚を伸ばすもののブエナビスタの3着に敗れた。4月4日の産経大阪杯では単勝1.2倍の圧倒的1番人気で出走。スタートで出遅れて後方からレースを進め、4コーナーで捲り気味に進出して直線で大外から追い上げたが好位から抜け出したテイエムアンコールを捉えきれず3着に敗れた。 その後は天皇賞(春)を目指していたが、4月24日の朝の追い切り後に右前脚の球節に腫れが見られたため、大事をとって回避することになった。骨や腱に異常は無かったため症状は軽かったという。その後、連覇がかかった6月27日の宝塚記念に4番人気で出走、道中後方からレースを進め最後の直線で懸命に追い込んでくるも届かずナカヤマフェスタの4着に敗れた。 秋緒戦は9月26日のオールカマーに出走。スタートで出遅れるも徐々にポジションを上げ、最後の直線で追い上げるもシンゲンの2着だった。その後、出走予定であった秋の天皇賞を脚部不安で回避した。12月26日の第55回有馬記念ではスタートで出遅れ、そのまま後方でレースを進めたがスローペースの中13着と大敗した。
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6歳(2010年)
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ゼニヤッタの現役続行を受け、2年前にゼニヤッタが優勝したアップルブラッサムハンデキャップの主催者であるオークローンパーク競馬場はゼニヤッタとレイチェルアレクサンドラの初対決の舞台として同レースを「アップルブラッサム招待」とし賞金総額10倍、出走頭数を10頭に制限、ハンデ戦から全出走馬同斤の定量戦にし距離も0.5ハロン延長、さらに十分な調整を行うため開催日を1週間遅らせ4月9日にするなどの破格の条件を示した。これに呼応してゼニヤッタとレイチェルアレクサンドラの両陣営は同レースへの出走を決定し、両馬の初対決が行われる運びとなった。 レイチェルアレクサンドラとの対決に向けた2010年の緒戦はサンタマルガリータインビテーショナルハンデキャップ (G1) から始動。レースではダンストゥマイチューンに1馬身差をつけて勝利、G1・9勝目を挙げると共にデビューからの連勝を15に伸ばした。 しかしレイチェルアレクサンドラが前哨戦に敗れたことを理由にアップルブロッサム招待を回避し、このレースでの対戦はならなかった。賞金を例年通りにし別定戦になったレースは5頭立てで行われ、道中最後方から楽に突き抜け2着タプタムに4馬身半差を付け勝利、区切りのG1・10勝目を挙げると共にサイテーション、シガーらに並ぶ北米記録の16連勝を記録した。 4月23日、陣営は次走を6月13日のヴァニティー招待ハンデとすることを発表し予定通り出走した。他馬の斤量が112ポンド (50.8kg) から120ポンド (54.4kg) となるなか、1頭だけ129ポンド (58.5kg) の酷量を負担するものの圧倒的な一番人気に支持。レースでは直線で抜け出した2番人気のセントトリニアンズを決勝線寸前で交わすと1/2馬身差をつけ苦しみながらも17連勝と史上初となる同レースの3連覇、ロックオブジブラルタルと並ぶ連続するG1競走7出走7連勝の世界タイ記録を達成した。 次走としてこれも連覇中の8月7日開催のクレメント・L・ハーシュステークスが有力視されていたがシレフスはヴァニティー招待ハンデ後一貫して「開催されるデルマー競馬場の馬場状態を見て判断する」という慎重な姿勢を崩さず、開催週になってゼニヤッタをデルマーに移動させてからようやく出走を決定した。6頭立てのレースは前半の4ハロンが50秒6というスローペースの中で5番手追走から3角でまくりを仕掛け、4角で先頭に並んだあとはリンターバルの粘りを受けたもののそのままゴールまでクビ差をキープし優勝した。これにより18連勝と同レースの3連覇、連続するG1競走8出走8連勝の世界記録を達成した。 次走には10月2日のゼニヤッタステークスが有力視されていた。このレースはゼニヤッタが連覇中のレディーズシークレットステークスをゼニヤッタのBCクラシック制覇および引退を記念して2009年暮れに改名したものであったが、シレフスはこれについて「改名は名誉なことですが、前の名前のレースで走らせるのがより好ましいと思っています」と発言しこれを受けて主催者のオークツリー競馬協会は「改名を決定したときにはまだ現役続行は未発表だった」として9月1日にレース名を元に戻すことを発表した。5頭立てのレースでは最後尾からレースを進めると3コーナーからまくりをかけ、直線で粘る2番人気スウィッチを決勝線手前で捕らえると半馬身差をつけて優勝した。これにより北米でのデビューからの連勝記録1位タイとなる19連勝と同レースの3連覇、連続するG1競走9出走9連勝を達成した。
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6歳(2008年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:14 UTC 版)
「メイショウトウコン」の記事における「6歳(2008年)」の解説
2008年、連覇を狙う第15回平安ステークスに出走。直線では後方から鋭く追い上げたが届かず2着に敗れた。続く第25回フェブラリーステークスでは8着だった。その後の名古屋大賞典では、最後方からのロングスパートで昨年の同レース覇者アルドラゴンを交わし勝利した。続く第13回アンタレスステークスでは3番人気に推されたが、14着に敗れた。その後、連覇を狙って第25回東海ステークスに出走したが、10着と敗れたが、前年、馬インフルエンザの問題で競走除外となったブリーダーズゴールドカップでサカラートとの競り合いをハナ差で制した。その後、連覇を目指しエルムステークスに出走、1番人気に支持されたが4着だった。続くJBCクラシックは3着だった。続くジャパンカップダートでは1番人気のヴァーミリアンを見る格好で後方からレースを進め、4コーナーでまくりかけ、直線でヴァーミリアンを交わし、出走馬中最速の上がりを見せたが、先に抜け出したカネヒキリをアタマ差捉えられず、2着に終わった。その後、名古屋グランプリに出走、1番人気に支持されたが、ワンダースピードの2着に敗れた。
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6歳(2014年)
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「ベルシャザール (競走馬)」の記事における「6歳(2014年)」の解説
1月17日、ドバイワールドカップに予備登録を行った事が発表され、2月17日に選出・招待受諾を表明した。2月23日、フェブラリーステークスは1番人気に推されたが出遅れが響き、3着に上がるのが精一杯だった。3月29日、初の海外遠征となったドバイワールドカップは4コーナーの不利もあり、11着に敗れた。 2014年5月、浅趾屈腱離脱のため引退し、種牡馬になることが決まった。
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6歳(2020・21年)
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「ネイチャーストリップ」の記事における「6歳(2020・21年)」の解説
9月5日のコンコルドステークス(G3)で始動して2着。10月3日のプレミアステークス(G2)は4着。続く10月17日のジ・エベレストでは残り200mで先頭に立つ最後で伸びを欠き、クラシックレジェンドから3.8馬身差の7着に敗れた。 11月7日のスプリントクラシック(G1)は後続を離して逃げるもビヴァーク(英語版)に並ぶ間もなく交わされ、2着を死守するのがやっとだった。 年が明けて2月13日のブラックキャビアライトニング(G1)で復帰し、2番手での追走から残り400mで抜け出すと後続の追撃を0.5馬身振り切ってG1・5勝目を挙げた。 3月7日のチャレンジステークス(G2)では2着に敗れるも、4月10日のTJスミスステークス(G1)では絶好の手応えで2番手を追走して残り300mで2馬身差抜け出してG1・6勝目を連覇で飾った。 今季の短距離での活躍が評価されて最優秀短距離馬に2年連続で選出された。
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6歳(2018年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 10:13 UTC 版)
「ヤマカツエース」の記事における「6歳(2018年)」の解説
シーズン初戦の金鯱賞は4着に終わり、3連覇はならなかった。大阪杯4着のあと、香港・シャティン競馬場で行われるクイーンエリザベス2世カップの招待を受けるも、右前脚の骨膜炎により辞退した。その後、復帰を目指していたが、右膝のけいじん帯炎を発症したため、9月6日に引退が決まった。今後は北海道新ひだか町のアロースタッドで種牡馬になる。
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6歳(2007年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 05:28 UTC 版)
「ブラックタイド」の記事における「6歳(2007年)」の解説
2007年になってからも中山金杯で3着と好走を続けていたが、続く中山記念では10着と大敗した。この後、大阪城ステークスでも7着に敗れ、日経賞では12着に敗れた。しかしオーストラリアトロフィーでは初めてブリンカーを装着し、開幕週の京都競馬場の前残りとなりやすい馬場の特性を生かして2着に粘った。その後、8か月休養し、ディセンバーステークスで実戦復帰したが、13着に終わった。
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6歳(2005年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:04 UTC 版)
「ダンツジャッジ」の記事における「6歳(2005年)」の解説
6歳初戦、中京記念は12着と惨敗。続くダービー卿チャレンジトロフィーは6着、マイラーズカップは5着と掲示板に入る。その後、新潟大賞典は8着、5か月の休み明けとなった富士ステークスは13着に終わった。その後は骨折が見つかり長期休養に入る。
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6歳(1994年)
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「サクラバクシンオー」の記事における「6歳(1994年)」の解説
6歳となった1994年シーズンは、未だ勝利のない1600メートルで行われるGI競走・安田記念を春の目標とした。前哨戦として、当初は同じ条件で行われる東京新聞杯に登録したが、60キログラムという重い負担重量を課せられることから回避。安田記念直近の前哨戦である京王杯スプリングカップからでは調整が難しいとの判断で、1200メートル戦のダービー卿チャレンジトロフィーより始動した。当日は単勝オッズ1.2倍の1番人気となり、レースでは2番手追走から直線で楽に抜け出すと、最後は小島が手綱を抑える余裕をみせながら勝利した。 5月15日、安田記念を迎える。この競走は前年より国際GI競走となっており、質、量ともに前年を上回る5頭の外国馬が出走。前哨戦の京王杯スプリングカップでは勝ったスキーパラダイス(フランス)を筆頭として、ザイーテン(UAE)、サイエダティ(イギリス)、ドルフィンストリート(フランス)が4着までを占めていた。当日はスキーパラダイスが1番人気、1000ギニーとジャック・ル・マロワ賞優勝の実績があるサイエダティが2番人気、サクラバクシンオーはそれに次ぐ3番人気となった。スタートが切られるとマイネルヨースがハイペースで逃げ、サクラバクシンオーは2番手でこれを追走。1000メートル通過は同距離のレコードタイムから0秒5差の56秒9というハイペースとなる。最後の直線入口ではいったん先頭に立って粘りこみを図ったが、そこから後続に差され、後方待機策をとっていたノースフライトの4着と敗れた。 その後、休養を経て秋を迎えるに際し、陣営は2000メートルで行われる天皇賞(秋)への出走を示唆。10月9日、その試金石として、4歳時に出走したスプリングステークス以来の1800メートルで行われる毎日王冠に臨んだ。当日は人気が割れるなか、この距離の日本レコード保持馬であるネーハイシーザーが1番人気となり、サクラバクシンオーは4番人気となった。レースにおいてサクラバクシンオーは1000メートル通過57秒5というハイペースで飛ばしながら、直線半ばまで先頭で粘った。しかしネーハイシーザーにかわされてから、さらに残り100メートルでフジヤマケンザン、スターバレリーナにもかわされての4着に終わった。ネーハイシーザーの走破タイム1分44秒6は自身のもつレコードを0秒5更新するものであったが、サクラバクシンオーのタイムも旧レコードを0秒1上回るものだった。小島は「守備範囲外の1800メートルであれだけの競馬ができたのは大きな収穫だった」と振り返っている。 その後は短距離路線に戻り、1400メートル戦のスワンステークスへ出走。安田記念の優勝馬・ノースフライトと顔を合わせたが、当日はサクラバクシンオーが1番人気の支持を受けた。レースでは2番手追走から小島が手綱を抑えたままで先頭に立ち、追走するノースフライトに1馬身4分の1差をつけて勝利した。小島は「本当は抑えるだけ抑えてみるつもりだったが、結果2番手からの競馬。他馬とはスピードの絶対値が違う」と述べ、境は「着差以上に強い内容」と称えた。走破タイム1分19秒9は、日本において1400メートルではじめて1分20秒の壁を破るレコードであった。このタイムは、2017年の阪神カップでイスラボニータが走破タイム1分19秒5を記録するまで阪神競馬場のコースレコードとして保持された。 11月20日には秋のマイルGI・マイルチャンピオンシップに出走し、ノースフライトと再戦。この距離ではノースフライトが優勢との評価で、ノースフライトが単勝オッズ1.7倍、サクラバクシンオーが3.3倍となった。スタートが切られるとバクシンオーは抑えながら3番手につけ、ノースフライトがその直後につけた。逃げ馬不在の平均ペースで流れるなか、サクラバクシンオーは前走と同じく小島が手綱を抑えたまま直線入口で先頭に立ったが、直線半ばでノースフライトにかわされ、同馬に1馬身半差の2着と敗れた。サクラバクシンオーは結局1600メートル以上で勝利を挙げることはできなかった。 12月18日、連覇が懸かるスプリンターズステークスに出走。戦前には勝敗を問わずこれを最後として引退することが発表された。この競走は当年より国際競走となり、3頭の外国馬が出走。その中には、通算18戦14勝、アメリカの短距離G1最高峰であるブリーダーズカップ・スプリントでチェロキーランに頭差の2着という実績をもち、「米スプリント界を代表する馬」と触れ込まれたソビエトプロブレムがいた。しかし、地元ではサクラバクシンオーの優位は確実とみられ、当日はソビエトプロブレムを抑え、バクシンオーが単勝1.6倍と高い支持を受けた。レースでは、前半600メートルが32秒4という「超ハイペース」をみながらの4番手を進み、第3コーナーから最終コーナーにかけて進出。最後の直線では独走状態となり、後方から追い込んだビコーペガサスに4馬身差をつけての優勝を果たした。ソビエトプロブレムは見せ場もなく7着であった。 境は競走後のインタビューにおいて「行きたい馬を行かせ、好ポジションをとり、直線で楽に抜け出す完勝。何も言うことはない。この馬は脚部不安に泣かされ続けたが、本当によく頑張ってくれた。スタッフ全員のチームワークの勝利だと思う」と感想を述べ、小島は「レコードで、これだけ完勝するんだから凄い馬。スタンドの声援には感激した。スタッフが愛情をもって応えてくれたことが、素晴らしい形で実を結んだ」と語った。日本中央競馬会(JRA)の広報誌『優駿』は「『地の利』などという言葉で表現してしまうのはあまりにも失礼な強さ」、「これが世界一速い馬だ。そう言ってしまいたいほど、サクラバクシンオーは強かった」と評し、吉田善哉の死後、種牡馬事業を引き継ぐこととなった次男の吉田勝己は「外国馬はなかなか手強いメンバーだった。地元とはいえ問題にしなかったんだからすごい。内国産馬からこれだけのスピード馬が誕生したのは大きな進歩。今年、世界で一番速いのは間違いなくこの馬」と評した。走破タイム1分7秒1はスワンステークスに続く日本レコード。日本レコードとしては1997年まで、コースレコードとしては2001年まで保持された。なおこの競走は、日本馬が将来的にインターナショナル・クラシフィケーションの対象とされることを想定して、国際ハンデキャッパー会議で試験的に行われたレーティング(仮定の斤量数値による競走馬の格付け)において、125ポンドの評価を得た。 当初の予定通り、これを最後に引退。当年のJRA賞では、前年に次点だった最優秀短距離馬にノースフライトを抑えて選出された。1月15日には中山競馬場で引退式が行われ、2度目に優勝したスプリンターズステークスのゼッケン「8」を着けて最後の走りを披露した。
※この「6歳(1994年)」の解説は、「サクラバクシンオー」の解説の一部です。
「6歳(1994年)」を含む「サクラバクシンオー」の記事については、「サクラバクシンオー」の概要を参照ください。
6歳(1998年)
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当初の予定では社台ファーム早来との約束により97年限りで現役を引退する予定だったが、吉原が怪我で走れなかった期間もあったためもう少し走らせたいという希望、伊藤が無事に牧場に返す自信があるということで現役を1年延長することとなった。初戦となった産経大阪杯では単勝1.2倍と圧倒的な支持を集め、1歳年下のメジロドーベル以下に勝利。続く鳴尾記念では道悪が堪えて2着に敗れた。牝馬として史上初のファン投票1位となった宝塚記念では調整遅れもあり、サイレンススズカの3着に敗れた。その後、札幌記念を斤量58キログラムを背負いながらも3馬身差で勝利、グレード制導入以後初となる連覇を達成した。 秋シーズンは調整の遅れやサイレンススズカと鞍上・武豊騎手の兼ね合い、サイレンススズカとレースをするリスク、複数GIタイトルの獲得を目指すという方針等が考慮され、天皇賞(秋)へは向かわずエリザベス女王杯からジャパンカップというローテーションが組まれた。しかし、エリザベス女王杯の1週前に武豊が京都競馬場の新馬戦で後のダービー馬アドマイヤベガに騎乗して1位入線したものの、進路妨害で4着に降着で実効6日間(3週間)の騎乗停止となってしまい、エリザベス女王杯とジャパンカップにおける鞍上が急遽横山典弘への乗り替わりになった。 エリザベス女王杯では当日はオッズ1.4倍の1番人気に支持された。陣営は「ジャパンカップへのステップ」を公言していたが、レースでは最後の直線で上がり3ハロン(最後の600メートル)は33秒5という当時としては破格のタイムの末脚を繰り出して抜け出したメジロドーベルをかわせず、またランフォザドリームに遅れての3着に敗れた。メジロドーベルに4度目の対戦で初勝利を許したことに加え、2年1カ月ぶりに牝馬に先着を許すレースとなった。その後中1週で臨んだジャパンカップではスペシャルウィークに次ぐ2番人気で出走したが、最後の直線で先に抜け出したエルコンドルパサーに2馬身半差遅れての2着に敗れた。引退レースとなった有馬記念では武が鞍上に戻り、この年の皐月賞・菊花賞を制したセイウンスカイに次ぐ2番人気に支持されたが、レース中に落鉄したことが影響しグラスワンダーの5着に敗れた。
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6歳(2005年)
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「ナリタセンチュリー」の記事における「6歳(2005年)」の解説
2005年の初戦は日経新春杯であったが、手綱は田島に戻らず、武豊が騎乗することになるが、前年の京都大賞典で負かしたゼンノロブロイがその後、GI(天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念)を3連勝したことで相対的にナリタセンチュリーの評価も高まり、58kgのトップハンデながら、単勝1.6倍の1番人気となった。しかし、直線で前が詰まる不利があり、ブービーの9着に敗れる。レース後、武豊は自身のサイト(Take a chance!)で「本調子でなかった感じ」「不利を食らいそうな場所にいること自体が動きが悪い証拠」などとコメントしたが、田島は「状態は悪くなかった」「あの馬は勝負どころで気を抜くと言うか遊ぶところがある」「手応えがない感じだが直線では長くいい脚を使う」などとした。 続く京都記念で3戦ぶりに田島が騎乗し、雨で重馬場の悪条件の中、終始内を回って直線を向くと、トウショウナイトに1 1/2馬身差を付けて勝利し、重賞2勝目を再び京都で挙げる。田島は、コンビが復活しての勝利とあって、「京都大賞典の喜びとはまた違う嬉しさがある」と語っている。その後、天皇賞(春)に向けて調整されていたが腰の状態が思わしくなく、長期休養を余儀なくされてしまった。
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6歳(2007年)
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「ダイワメジャー」の記事における「6歳(2007年)」の解説
2007年、アラブ首長国連邦・ドバイで行われるドバイデューティフリーへの招待を受け、天皇賞で3着に退けたアドマイヤムーンと共に出走。当年は日本からの2騎を含め、出走16頭中8頭が国際GI優勝馬という顔ぶれで、4つのG1競走が行われるドバイミーティングの中でも特に出走馬の層が厚いとされた。そうした中でダイワメジャーは調教において際だった動きを見せており、イギリスのブックメーカーの中にはダイワメジャーが1番人気になったものもあった。 スタートが切られると安藤・ダイワメジャーは常の通り先行策をとり、最終コーナーから直線にかけて先頭に立ったが、中団に位置していたアドマイヤムーンに残り300メートル付近で一気にかわされ、同馬から5馬身弱の差で3着となった。安藤は「この馬には不向きな瞬発力勝負になってしまった。馬体を併せる形になっていれば、また違ったかもしれないけれど」と感想を述べた。安藤は後年、スローペースに流れたドバイデューティーフリーではなく、アメリカ調教馬が競り合って進むためペースが速くなるドバイワールドカップに出ていれば、同じコースで行った調教の様子からみて、また同競走で3着となったブリッシュラック(前年の安田記念優勝馬)との比較からみても、好結果が残せたのではないかとしている。 帰国後の6月3日、過去2回を8、4着としていた安田記念に出走。高松宮記念優勝馬・スズカフェニックスに次ぐ2番人気に支持される。枠順は1枠2番と前年に続き内枠であり、スタート後はやはり内で包まれる場面もあり、直線を向いた時点では4番手の位置であった。直線では逃げ粘るコンゴウリキシオーを追走、残り100メートルから馬体を接しての競り合いとなる。安藤は鞭を嫌がるダイワメジャーの性格を考慮して手綱を押す動作のみで追い続け、ゴール前でクビ差抜け出して優勝。現役最多となる4つめのGI勝利を挙げた。安田記念がGIに格付けられた1984年以降、クラシック競走の優勝馬が安田記念も制したのは初めての例となった。 安藤は「内枠だったのでどこで馬を外に出そうか考えていた。最後はなかなかかわせないので焦ったが、一番得意な距離で勝てて良かった」と語った。また上原は「内枠を克服して、最後は本来の走りで勝ってくれた。この馬の頑張りには本当に頭が下がる」と述べ、ウィナーズサークルへ向かうダイワメジャーの後方で、涙を拭う姿もみせた。 6月24日には春のグランプリ・宝塚記念に出走。創設48年目にして初めてフルゲートとなり、7頭のGI優勝馬が揃い競走史上最高のレベルと喧伝されたなか、ダイワメジャーは7倍の5番人気となる。しかし先行することができず中団からの競馬となり、そのまま伸びてくることもなく、アドマイヤムーンの12着と大敗した。上原によれば、このときのダイワメジャーは体調の問題を抱えていた。阪神競馬場の出張馬房に入る際、上原はできるだけ静かな場所に入れたいと「隣に他の馬が入らない場所」という希望を述べたところ、隅の馬房を勧められた。しかし、そこは付近を通る電車の騒音や場内放送が鳴り響くなど非常に劣悪な環境であり、競走前日には蒸し暑くなったこともあり、ダイワメジャーは食欲をなくしてしまったのだという。当日の馬体重は516kgという過去最低の数字であった。安藤も「いつになく落ち着いていると良い方に解釈したが、どうもそうではなかったようだ」と振り返っている。 夏は社台ファームは休養に入ったが、当年8月15日に美浦トレーニングセンターで馬インフルエンザの発生が確認されたことから、ダイワメジャーの美浦への帰厩は1週間ほど遅れた。しかしその後の調整に大きな影響はなく、前年と同じく毎日王冠より始動。当日は出走中最高斤量の59kgを背負いながら、単勝オッズ1.8倍の1番人気に支持された。レースは1000メートル通過57秒5というハイペースを先行し早めに先頭に立ったが、後方から追い込んだチョウサンとアグネスアークに差されての3着となった。安藤は「ブライトトゥモロー(5着馬)に併せていくところまではよかったが、その外から来られた。あれではちょっと」と述べ、上原は「今年はちょっとペースが速かった。あと、外から一気に来られてしまったのも痛かった。(差し馬が)もっと近いところにいてくれたら、もうひと伸びできる馬なんですが」と悔いつつも、「本当は勝たないといけなかったが、先行勢に厳しい流れのなか、よく走ってくれた。最後は決め手の差で負けてしまったが、力のあるところは見せてくれたし、たたき台の前哨戦としてはまずまずの内容だった」などと先への期待を語った。 10月28日には史上2頭目の連覇が懸かる天皇賞(秋)に出走。当日は、馬インフルエンザの影響から凱旋門賞への遠征を断念し、史上4頭目の天皇賞春秋連覇を狙うメイショウサムソンが2.9倍の1番人気、宝塚記念のあと40億円と伝えられる価格でダーレー・ジャパン・ファームに譲渡されたアドマイヤムーンが3.8倍の2番人気、ダイワメジャーが5.6倍の3番人気という順となった。スタートが切られるとダイワメジャーは5~6番手を追走、最後の直線では内側に位置していた馬の斜行の煽りも受け、メイショウサムソンの9着と敗れた。同じく不利を受けたアドマイヤムーンは6着となっており、斜行したエイシンデピュティ(8位入線)は、アグネスアーク、シャドウゲイト、アドマイヤムーン、ダイワメジャーの進路を妨害したかどで14着に降着となった。安藤は「さあ、これからという時にバランスを崩されて馬が斜めになってしまった。内はガラッと空いていたし、こんなことなら逃げれば良かった」と語った。 11月18日にはマイルチャンピオンシップへ出走。当日は1番人気に支持されたが、前年よりも不安視され、オッズは3.8倍であった。前走の反省から、「先頭から行くぐらいのつもりで」と語っていた安藤・ダイワメジャーはスタートから先頭を奪うと、道中いったん3番手に下げたのち、最後の直線残り300メートル付近で再び先頭に立った。最後は追い込んできたスーパーホーネットをクビ差抑え優勝。史上4位タイ(当時)となる5つめのGIタイトルを獲得した。マイルチャンピオンシップ連覇は史上5頭目、前年の同競走から安田記念→マイルチャンピオンシップと続いた「マイルGI三連覇」は、史上3頭目の記録であった。安藤は「並ぶ形になると本当に強い馬、残り50メートルの地点でかわされなかったので、何とかなると思った」と感想を述べ、馬主の大城敬三は「安藤騎手はきっちりと、最高の乗り方をしてくれた」と称えた。この時点で獲得賞金が10億円を突破し、中央競馬史上8頭目の「10億円ホース」となった。 前週には妹のダイワスカーレットがエリザベス女王杯でGI・JpnIあわせて3つ目の勝利を挙げており、年末の有馬記念には「兄妹対決」という興趣も加えられることになった。ダイワメジャーは11月26日にラストランとなる有馬記念への出走を正式発表、ファン投票においては、当年牝馬として64年ぶりに日本ダービーを制したウオッカ、メイショウサムソンに次ぐ3位で選出され、4位のダイワスカーレットを上回った。スカーレットも安藤が主戦騎手を務めており、安藤は翌年以降を考慮してスカーレットへ騎乗、メジャーには皐月賞でコンビを組んだミルコ・デムーロが騎乗することになった。 当日の単勝オッズで10倍以下となったのはメイショウサムソン、ポップロック、ウオッカ、ロックドゥカンブ、ダイワスカーレットまでで、ダイワメジャーは15.2倍の6番人気という評価になった。スタートが切られるとチョウサンが先頭を奪い、ダイワスカーレットが2番手、ダイワメジャーは5番手を追走。途中からダイワスカーレットはチョウサンに並びかけて先頭でレースを進めたが、3番手を追走していた9番人気のマツリダゴッホが残り400メートル地点から一気に先頭に立ち、そのままゴールまで押しきって優勝した。1馬身あまり差がついた2着にダイワスカーレット、ダイワメジャーはさらに2馬身差の3着となり、最後のレースを終えた。競走後、デムーロは「もう少し強気にいけば2着はあったかも」とコメントした。上原は「惜しむらくは妹と同脚質だったこと。ダイワスカーレットに譲らざるを得ず、自分の競馬ができなかった。それで最後に猛然と追い上げてきたときは胸が熱くなった」と振り返っている。 同日の最終レース終了後、ダイワメジャーの引退式が挙行された。デムーロは「皐月賞は思い出に残るレース。今日も勝ちたかったですが、3着でごめんなさい」と語り、安藤は「一生忘れられない馬。引退式で跨がって寂しい気持ちになりました。メジャーの子供にも乗ってみたい」と語った。上原は「デビューからのことを色々と思い出して、言葉が出なくなりました。メジャーにはたくさんの勉強をさせてもらって、本当に感謝しています」と語り、感泣した。なお、この競走前から大城は「本当はもう1年走らせたい。マイルだったら世界一、もう負けないくらいの馬だと思っているから」と未練を覗かせており、また調教助手の飯田によれば、天皇賞を勝ったときに近い状態が競走2日後にやってきていたといい、飯田も「牧場に旅立ってしまうのが本当に惜しいと思った」と振り返っている。 翌年1月8日発表されたJRA賞において、ダイワメジャーは2年連続の最優秀短距離馬に選出。レーティングにおいても前年に引き続きMコラム121ポンドの評価を受け、世界29位タイ(日本調教馬では4位タイ)となった。
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6歳(1992年)
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「カミノクレッセ」の記事における「6歳(1992年)」の解説
休養から復帰したクレッセは1月の日経新春杯で2着のホワイトアローに2馬身差を付けて快勝、芝の重賞を初勝利した。続く天皇賞(春)の前哨戦・阪神大賞典ではメジロマックイーンと再戦したが、同馬と5馬身差の2着に終わった。 天皇賞(春)では、南井がイブキマイカグラに騎乗するため、クレッセには田島信行が騎乗。4番人気だったクレッセは前年のクラシック二冠馬トウカイテイオーやイブキマイカグラには先着したものの、メジロマックイーンには敵わず、2馬身半差の2着に敗れた。 天皇賞後、クレッセは鞍上を南井に戻して、天皇賞(春)の3200mから一気に距離が半減する1600mの安田記念に出走。後方待機策から最後の直線で追い込んだが、11番人気の伏兵であったヤマニンゼファーを捉えきれず、3/4馬身差で2着に終わった。そして、宝塚記念ではメジロマックイーンやトウカイテイオーが故障で不在の中、クレッセはGIで初めて1番人気に支持され、GI初制覇の期待が掛かっていた。しかし、レースでは先行策を採って4コーナーで2番手に上がりながら、逃げていたメジロパーマーを捉えられず、3馬身差の2着に終わった。なお、1984年にグレード制が導入されて以来、春の古馬GI競走に皆勤し、すべて2着となった馬はクレッセのみである。 宝塚記念後、クレッセは休養に入ったが、脚部不安のため復帰できず、秋シーズンは全休となった。
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6歳(2018年)
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「サトノクラウン」の記事における「6歳(2018年)」の解説
始動戦となったドバイシーマクラシックでは2016年香港ヴァーズ以来となるジョアン・モレイラとのコンビで挑むも7着。帰国後は連覇がかかった宝塚記念に出走するも12着惨敗。11月の第38回ジャパンカップで9着を最後に現役を引退した。引退後は社台スタリオンステーションで種牡馬となる。 2016年京都記念 2017年宝塚記念
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6歳(2009年)
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「ステキシンスケクン」の記事における「6歳(2009年)」の解説
休養を終えてこの年に新設された東京スプリントに出走したが、8着に終わった。続く京王杯スプリングカップでは好位集団からレースを進めるも直線で失速し、ブービーの17着と大敗した。続くバーデンバーデンカップでは後方待機策も伸び切れず11着に終わった。続く関屋記念では18着、札幌記念では16着とともに殿負けを喫し、休養に入った。札幌記念の出走を最後にチリで種牡馬になると報じられた。
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6歳(2013年)
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「レインボーダリア」の記事における「6歳(2013年)」の解説
この年は6戦するが惨敗が続き、エリザベス女王杯13着を最後に現役を引退、北海道新冠町の大栄牧場にて繁殖牝馬となる。
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6歳(2018年)
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年が明け、マルチフレンド特別、プリムローズ賞を連勝し、交流重賞のさきたま杯に出走、7着となる。次走、デイリー文月杯は2着、プラチナカップを4着とし、続く長月特別を2.5秒差の大差で勝利する。次走、オーバルスプリントはハナを奪うと後続に差を広げて直線を向くと最後はオウケンビリーヴの差し脚を3/4馬身振り切ってゴール。初重賞勝利が交流重賞となった。その後は京都で行われたJBCスプリントに挑戦するが、最下位に敗れる。
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6歳(2012年)
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「フェイムアンドグローリー」の記事における「6歳(2012年)」の解説
休養を終えて5月20日のヴィンテージクロップステークスから始動し、1番人気に応えて勝利。続く6月21日のゴールドカップでは1番人気に推されるものの7着に敗れた。約3ヶ月の休みを経てアイリッシュセントレジャーで6着、ブリティッシュ・チャンピオンズ・ロングディスタンスカップは5着に敗れる。次走はアメリカへ遠征し、ブリーダーズカップ・マラソンへ出走するがレース中盤で大きく後退し、競走中止となった。これを最後に引退し、アイルランドのグランジ・スタッドで種牡馬となった。
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6歳(2006年)
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「ハードクリスタル」の記事における「6歳(2006年)」の解説
6歳初戦、平安ステークスは11番人気と低評価ながら3着に入る。続く仁川ステークスは5着に敗退。東海ステークスは中団から進出し、先に抜け出したマイネルボウノットを捕えると1馬身半差をつけ優勝。31戦目にして重賞初制覇を挙げた。次走、ブリリアントステークスはハンデ58kgを背負い2番手から競馬をするも3着に敗れる。8月のブリーダーズゴールドカップは1.9倍の断然人気を集める。レースは3番手から追走し、4コーナーで逃げるパーソナルラッシュに並びかけると直線で後続を離し3馬身差をつけ1着。重賞2勝目を飾った。2か月半ぶりのレースとなったJBCクラシックは中団から競馬を進めたが4着に敗れる。ジャパンカップダートは後方から脚を伸ばすも8着に終わった。続く東京大賞典は前目で競馬を進めたものの直線で馬群に沈み7着に敗れる。その後レース後に故障が判明、右第三手根骨骨折で予後不良と診断され、安楽死の措置がとられた。
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6歳(1976年)
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「アイフル (競走馬)」の記事における「6歳(1976年)」の解説
1月5日、900万円以下の身ながら格上挑戦で金杯(東)に出走。有馬記念を制したイシノアラシほか、多数の重賞優勝馬が出走する中、4番人気に推された。中団6番手から最終コーナーで先頭に迫ると、直線で抜け出して後方に1馬身離して優勝、重賞初制覇を果たした。騎乗した菅原泰夫は好位につけた時点で勝利の目処がたったとしている。その後、中山記念など重賞2着3着を繰り返しながら、5月16日のアルゼンチン共和国杯では、中団から追い込みクビ差だけ先着して優勝し重賞2勝目を果たした。騎乗した嶋田功は、「(前略)アイフルは前半ハミを受けず、遊びながら走っていた。これはステイヤーの走りっぷりですよ。小さいけどバネが凄い。今後は距離よりも斤量をどう克服かでしょう」と述懐している。7月の日本経済賞まで続戦するも6着に凡走し、夏休みに入った。 10月23日、中山競馬場のオープン競走と11月13日、東京競馬場のオープン競走と2戦を前哨戦にして、11月28日の天皇賞(秋)に出走。仲住は初経験となる距離、負担重量への不安を漏らしていた。ロングホークが逃げる中、アイフルは中団に位置した。残り200メートルで逃げ馬を捕らえ、共に中団から上がってきたハーバーヤングに1馬身4分の3の差をつけて先頭で入線、天皇賞制覇を果たした。仲住は、厩舎開業15年目で天皇賞初出走初制覇となり、騎乗した嶋田は、1974年春のタケホープ以来の天皇賞2勝目であった。続く有馬記念は、ファン投票11位にとどまり、日本中央競馬会からの推薦馬という形で出走。4番人気に推され、3着に敗れた。
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6歳(2014年)
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「レーザーバレット」の記事における「6歳(2014年)」の解説
4か月ぶり、6歳初戦の白嶺ステークスでトップハンデながら好位から抜け出し追い込むパワーポケットに1馬身1/4差をつけて勝利。オープンに再昇級を果たす。続くコーラルステークスは10着、オアシスステークスは9着とそれぞれ惨敗。その後、大沼ステークスは6着に敗れた。5か月の休み明け、霜月ステークスは上り最速で追い込んだがジョヴァンニを3/4差捕らえられず2着となった。
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6歳(1982年)
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「ジュウジアロー」の記事における「6歳(1982年)」の解説
毎日王冠勝利後は一線級相手にレースを使い続け苦戦が続いていた。5月の新潟大賞典では9着と敗れるがレース後脚部不安が発生。温泉治療などで再起を図った。 4ヶ月後の京王杯AHが復帰レースとなった。当日は昭和57年台風第18号の雨の中に行なわれたが、見事に復活勝利を挙げた。その後毎日王冠を使った後、結果的にラストランとなったカブトヤマ記念に出走する。2線級相手に牝馬ながらトップハンデの57.5kgを背負う。直線追い込み見事な差しきり勝ちを収め1番人気に応えた。このレースの勝利によって現役牝馬獲得賞金トップに躍り出た。[出典無効]そしてジャパンカップ連続挑戦を合言葉に調教を積んでいたが直前の追い切り中に、左前けい側じん帯を痛め休養に入る。
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6歳(2014年)
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久々のダート戦となった1月の川崎記念では2着と好走する。しかしその後は勝ちきれないレースが続いた。
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6歳 (2019/20シーズン)
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「アヴィリオス (競走馬)」の記事における「6歳 (2019/20シーズン)」の解説
19/20シーズンはG1ウィンクスステークスから始動。この路線での絶対女王であったウィンクスが引退し、路線を引っ張っていく主役級が不在な中、昨シーズンの実績と活躍が評価されたアヴィリオスが1番人気に推される。道中は後方からレースを進めたが、伏兵サマダウトの逃げ切りを許した上にまさかの4着敗戦。続くG2チェルムズフォードステークスでも1番人気に推され、前走の反省を活かし早めに動いていったがまたしてもサマダウトの3馬身差つける逃げ切りを許してしまう形となった。ハッピークラッパーやG1オーストラリアンオークス覇者のベリーエレガント、3度目の顔見せとなったサマダウトも参戦したG1ジョージメインステークスでも変わらず1番人気に推されたアヴィリオスは道中最後方に位置し、直線外から一気に他馬を抜き去ると、2着に粘ったドリームフォースに2馬身つける快勝を見せ3つ目のG1タイトルを獲得した。なお、過去2度の対決でいずれも逃げ切ったサマダウトは先手を奪ったものの直線失速し6着に敗れている。
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6歳(2021・22年)
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「ベリーエレガント」の記事における「6歳(2021・22年)」の解説
8月21日のウィンクスステークスに出走し、前方から抜け出しを図るが残り200mでモウンガ(英語版)が襲い掛かり2着に敗れた。9月18日のジョージメインステークスでは4番手付近で中団を追走し、直線入口では5馬身ほどあった差をゴール前で鮮やかに逆転してG1・9勝目を飾った。その後、10月2日のターンブルステークスに出走するが好位から伸びを欠いて4着、23日のコックスプレートは最後方から外を回って3着だった。 11月3日のメルボルンカップに中9日で出走、ゲートを出るや内に切り込んで中団を確保し、向正面で位置を上げつつ直線に入ると持ったままの手応えで前を捉えに行き、2番手から最終コーナーで先頭に立った1番人気インセンティヴァイズを残り300mで捕らえて、そのまま突き抜ける4馬身差の圧勝でG1・10勝目を飾った。 年明けて2月12日のアポロステークスで復帰するも7着に敗れる。26日のチッピングノートンステークスでは残り100mで先頭に立ち、外から追い込んできたシーズアイディールの強襲を0.1馬身差でしのぎ切ってG1・11勝目を挙げた。 その後は3月19日のランドウィックステークスに出走して、直線ではモンテフィリアとの一騎打ちとなり、一時は迫ったもののモンテフィリアに突き放されて2着に敗れた。4月9日のクイーンエリザベスステークスでは馬群の外を回るが5着まであった。 5月12日に陣営はフランスのフランシスアンリ・グラファール厩舎に移籍することを表明。本馬は2400m以上の距離で能力を発揮するステイヤーと表現し、国内では選択肢が限られるため、欧州で活躍させるために北半球で然るべき環境に置くべきとの声明文を公表した。
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6歳(2013年)
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6歳シーズンは4月のG1メーカーズ46マイルステークスから始動。ワイズダンは123ポンドの1.4倍で1番人気。前年のこのレースの勝者データリンクが120ポンドで2番人気、サービューフォートステークス勝ち馬で前走フランク・E・キルローマイルハンデキャップで2着のサイレンティーノが118ポンドで3番人気。レースはいつものように3番手追走。ストレートで逃げるサイレンティーノをかわして先頭に立つ。後ろからデータリンクが迫ってくるが1馬身の差を保ったままゴール。 次走は芝では初めての9ハロン戦となる5月のG1ウッドフォードリザーブ・ターフクラシック。ワイズダンは124ポンドのトップハンデで1.6倍の1番人気。フェアグラウンズハンデキャップ(英語版)などここまでグレードレース3勝のオプティマイザーが120ポンドで2番人気、前年のシューメーカーマイルステークス勝ち馬ジェラニモが122ポンドで3番人気。レースはいつもの通り3番手追走。ストレートで先頭に立って2着オプティマイザーに4馬身3/4差つけて楽勝。 翌6月は前々年の転機となったファイヤークラッカーハンデに出走。ワイズダンはこれまでで最も重い128ポンドを課されるが当然の1番人気。前年のコモンウェルスターフステークス(英語版)勝ちのリーが2番人気。レースは4番手追走からストレートで先頭に立ってリーに2馬身差をつけての勝利。1ヶ月半の間を空けて去年と同じフォースターデイヴハンデに出走。ここも1番人気で、3番手追走から抜け出して3番人気キングクリーサに1馬身1/4差つけて連覇達成。 そして9月のウッドバインマイル。ワイズダンは1.25倍の1番人気。この年のシューメーカーマイルの2着馬ザアプローヴァルが2番人気、英国馬トレードストームが3番人気だった。レースはいつもの通り3番手追走から直線抜け出しでザアプローヴァルに3馬身1/2差付けての優勝。連覇を達成。 続けてこちらも連覇がかかる10月のシャドウェルターフマイルに出走。1.5倍の1番人気。前年も2番人気だったシルヴァーマックスが2番人気、亜国馬ウイニングプライズが3番人気だった。このレースは前日の大雨の影響で芝コースが使えず、急遽オールウェザーでの開催となった。レースはシルヴァーマックスが逃げてワイズダンは道中で二番手に上がる。直線で追い出しにかかるが粘るシルヴァーマックスとの差は縮まらず1馬身1/4差つけられての敗北。 予想外の敗北となったが予定通り連覇を目指してBCマイルに出走。ワイズダンは1.8倍の1番人気。欧州から遠征してきたクイーンエリザベス2世ステークス勝ち馬オリンピックグローリーが2番人気、G2シティオブホープマイルステークス(英語版)勝ち馬ノージェットラグが3番人気だった。レースはいつもとは違い馬群後方7番手で追走。ストレートに入ったところで3番手に上がり前を行くザアプローヴァルを追走。ザアプローヴァルが粘るが3/4馬身差して勝利。史上4頭目のBCマイル連覇を達成した。 この勝利により2年連続でエクリプス賞年度代表馬・最優秀古牡馬騸馬・最優秀芝牡馬を受賞。2年連続エクリプス賞年度代表馬は史上6頭目、2年連続で3部門受賞は史上初となった。
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6歳(2014年)
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「スノードラゴン」の記事における「6歳(2014年)」の解説
長らくダートでの出走が続いていたものの、3月8日に久しぶりの芝となるオーシャンステークス(中山競馬場)に出走し2着、続いて3月30日の高松宮記念(中京競馬場)でも2着となる。一度ダートに戻った6月12日の北海道スプリントカップ(門別競馬場)も2着であった。 再度芝に戻り、8月31日のキーンランドカップ(札幌競馬場)で8着に敗れたのち、10月5日のスプリンターズステークス(新潟競馬場、例年中山競馬場のところ施設改修のため変更)に出走。前走の不調から13番人気と評価を落としていたものの、レースでは残り100mでストレイトガールとレッドオーヴァルと一騎討ちになると思われたところを大外から差しきり、重賞初制覇、芝レース初勝利がGI初制覇となった。鞍上の大野拓弥はデビュー10年目でGIは10戦目での初勝利。管理する高木登調教師も開業8年目にしてGI初勝利となった。 12月14日、ロンジン香港スプリント(G1)に出走し、8着。
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6歳(2005年)
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「オースミコスモ」の記事における「6歳(2005年)」の解説
6歳になってもコンスタントにレースに出走するが入着もできないレースが続き、4年連続出走となった阪神牝馬ステークス9着を最後に引退。年が明けた2006年1月12日に登録を抹消され、繁殖牝馬となる。引退までに40戦を走り、中央10場のうち函館を除く9場に出走した。
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6歳(2007年)
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6歳になり、京都牝馬ステークス12着、3年連続出走となった中山牝馬ステークス12着と二桁着順が続き、クラブ規定により、3月14日に競走馬登録を抹消、故郷の白老ファームで繁殖生活に入った。
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6歳(2014年)
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「ナムラダイキチ」の記事における「6歳(2014年)」の解説
11か月の長期休養を経て山中温泉菖蒲湯まつり特別で復帰、4馬身差で逃げ切り復帰初戦を勝利で飾る。連覇を狙った百万石賞はセイカアレグロに5馬身差をつけて優勝、重賞13勝目を飾った。しかし、その後は骨折をしてしまい、戦線離脱となった。
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6歳(2014年)
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「サイモンロード」の記事における「6歳(2014年)」の解説
名古屋記念 (SP1) 、梅見月杯 (SP1) を1番人気で連勝する。梅見月杯は2着馬に2秒4の大差をつけ圧勝し、前年に続き連覇となった。 東海公営においてNo.1と謳われ、中央馬相手に善戦できる唯一の存在とされた。
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6歳(2018年)
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「イキートス (競走馬)」の記事における「6歳(2018年)」の解説
6月3日のバーデン経済大賞で始動してこれを制し、同レースの2勝を達成した。その後はフランスのサンクルー大賞(G1)に出走したがヴァルトガイストの6頭立て5着、本国に戻ったダルマイヤー大賞では英国調教馬ベンバトルの4着に敗れ、バーデン大賞でもベストソリューションおよびデフォーの英国調教馬2頭に敗れて3着になるなど、勝ちきれないレースが続いたが、11月1日のバイエルン大賞では1番人気デフォーに4馬身差をつける圧勝でドイツのG1競走3勝目を挙げた。これをラストランとして引退し、種牡馬入りした。またイキートスは同年のドイツ年度代表馬に選出された。
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6歳(1992年)
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「ダイタクヘリオス」の記事における「6歳(1992年)」の解説
3月1日、マイラーズカップで始動。暮れのスプリンターズステークスを勝利したダイイチルビーが1.7倍、それに次ぐ5.0倍の2番人気、負担重量60キログラムを背負って出走する。ミルフォードスルーがハイペースで逃げる中、その直後の4番手を追走、最終コーナーで抜け出した。ダイイチルビーの追い上げ見られず独走状態となり、5馬身差をつけて先頭で入線、マイラーズカップ連覇を果たした。続いて4月25日の京王杯スプリングカップは、ダイイチルビーに次ぐ2番人気で出走。好位で直線に向くも伸びず4着。5月17日の安田記念は、好位の内追走から、直線外に持ち出し伸びず6着。6月14日の宝塚記念では、逃げるメジロパーマーに次ぐ2番手で直線に向くも、伸びず5着となった。 夏休みを経て、秋は10月11日の毎日王冠で復帰。ナイスネイチャやサクラヤマトオー、イクノディクタスに次ぐ4番人気に推される。最内枠から「好スタート」でハナを奪って逃げに出た。直線では、イクノディクタス、ナイスネイチャの追い上げを封じて先頭で入線。逃げ切りで重賞6勝目、走破タイム1分45秒6は、1986年毎日王冠でサクラユタカオーが樹立したコースレコード、日本レコードである1分46秒0を0.4秒上回った。それから11月1日の天皇賞(秋)は、トウカイテイオー、ナイスネイチャに次ぐ3番人気で出走。メジロパーマーとともに先手を主張し、共倒れして8着となった。 11月28日、マイルチャンピオンシップに出走。4連勝中の4歳牝馬シンコウラブリイが4.1倍の1番人気となり、それに次ぐ5.0倍の2番人気となる。梅田は岸に対し、ハナで競馬をしないよう、前年と同様の指示を行った。8枠18番の大外枠から発走する。 スタートから指示通り、ハナを奪いには行かず4番手を追走。第3コーナーの坂の下りで先頭を奪取。独走状態で直線に向き、リードを作った。後方からシンコウラブリイ、ナイスネイチャなどが追い上げてきたが封じて、それらに1馬身半差をつけて先頭で入線。GI2勝目、1984年、85年連覇のニホンピロウイナーに続く史上2頭目のマイルチャンピオンシップ連覇を達成。獲得賞金は6億7595万2400円に上り、シンボリルドルフ、オグリキャップ、メジロマックイーンに続いて史上4頭目となる6億円超えを果たした。加えて走破タイム1分33秒3は、1990年にパッシングショットが樹立したレースレコード1分33秒6を0.3秒上回り、1977年にアイノクレスピンが樹立したコースレコード1分33秒5を0.2秒上回った。 オーナーの中村は、この頃、病気で寝込んでいて、ダイタクヘリオスの走る姿が見たいと翌年以降の現役続行を希望していた。しかし、梅田は馬産地から種牡馬としての期待があったことや、「飛行機ではないが"金属疲労"がある」ことを主張して中村を諭し、この年限りの引退が決定する。引退レースと決めて、12月20日のスプリンターズステークスに1番人気で出走。スタートから後方を進んで伸びず、4着敗退。これを以て引退となるところだったが入院中の中村が、病室のテレビからもう一度ダイタクヘリオスの走りを見たいと希望。急遽連闘で12月27日の有馬記念に出走する。メジロパーマーと逃げに出たが、ダイタクヘリオスだけかかって失速。メジロパーマーが逃げ切り優勝を果たす一方で、後退し12着に敗れる。これが真の引退レースとなった。 翌1993年1月31日、京都競馬場で引退式を開催される。主戦騎手の岸を背に、マイルチャンピオンシップ連覇達成時の18番ゼッケンを纏って、直線コースを走行。ニンジンのレイがかけられた。
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6歳(1997年)
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「マヤノトップガン」の記事における「6歳(1997年)」の解説
マヤノトップガンは前年と同じく阪神大賞典から始動。前年からマヤノトップガンの騎乗で悩んでいた田原は、このレースでそれまでの先行策とは一転して初めて最後方からの競馬を試みた。観客からどよめきが起きるほどの驚きを与えたが、マヤノトップガンは3コーナー過ぎから馬なりのまま他馬を交わしていき、4コーナーで先頭に立つとそのまま後続を突き放し圧勝した。 天皇賞(春)では、マヤノトップガン、サクラローレル、マーベラスサンデーの3強対決となった。マヤノトップガンは序盤やや出遅れかかり気味であったが田原は馬なりのまま進めすぐ前方を走っていたギガトンの後ろに付けることで折り合いをつけると3200メートルの最終盤に外側へ持ち出し、先行していたサクラローレルとマーベラスサンデーの2頭を大外から豪快に差し切ってGI4勝目を挙げた。マヤノトップガンがこの時記録した勝ちタイム3分14秒4は1993年にライスシャワーが記録した3分17秒1を2秒7も更新する世界レコードだった(レースに関する詳細は第115回天皇賞参照)。 天皇賞後、マヤノトップガンはジャパンカップを最終目標として京都大賞典から復帰する予定だったが、調教中に左前脚に浅屈腱炎を発症したため、9月25日に現役引退が発表され、種牡馬入りすることとなった。 11月30日の昼、阪神競馬場で引退式が行われた。田原が騎乗してスタンド前を往復し、多くの観客が集まった。
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6歳(1965年)
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「ネイティヴダイヴァー」の記事における「6歳(1965年)」の解説
パロスヴェルデスハンデから2週間後、サンカルロスハンデに三回目の出走。キャンディスポット(英語版)(フロリダダービーなど)に3 1/2馬身差をつけて快勝。 ここで2か月の休養を挟んで3月のアルベイニーハンデに出走。129ポンドを背負わされるが圧倒的一番人気にこたえて二着ウォーヘルメット(ウィリアム・P・カインハンデ優勝)に頭差で勝利。続けて2週間後のサンフランシスコマイルハンデに出走するがヴァイキングスピリットの2着、更に5月のプレミエールハンデに出走するがここもヴァイキングスピリットから4馬身離されての3着に敗れる。しかしプレミエールハンデから10日後のロサンゼルスハンデではヴァイキングスピリットに首差で勝利。更に過去2年でいずれも完敗に終わっていたアメリカンハンデにも勝利。大一番のハリウッド金杯を迎える。 この年のハリウッド金杯の出走馬はヴァイキングスピリット以外にサンタアニタハンデ勝ちのヒルライズ(英語版)・後のカナダ殿堂馬ジョージロイヤル(英語版)などが相手になったが、堂々の一番人気に選ばれる。その期待に応えて単騎逃げから2着の亜国産馬ヴァビントンに5馬身差をつけての圧勝。ハリウッド金杯3回目の挑戦で初の戴冠となった。更に前年と同じくサンディエゴハンデに出走。131ポンドを背負わされたものの2着ネアルコブルー(エルカミーノハンデキャップなど)に3 1/2身差をつけ、1分40秒のコースレコードで快勝。 名実ともに西海岸最強馬となったネイティヴダイヴァーは初めてカリフォルニアを出てシカゴ・アーリントンパーク競馬場のワシントンパークハンデに出走。1番人気を背負ったものの1着テイクオーヴァー(バックアイハンデ)から2 1/2馬身離されての6着に敗退。西海岸に戻って休養に入る。 年末のパロスヴェルハンデから復帰。アイスルオブグリース(ガバナーズゴールドカップ勝ち)に首差で勝利。 6歳時は10戦7勝の成績を収めた。
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6歳(1978年)
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「グリーングラス」の記事における「6歳(1978年)」の解説
1978年はTTの2頭がターフを去っていよいよグリーングラスの天下かと思われたが、相変わらず橈骨の痛みに悩まされていた。中野はできるだけ使うのを我慢し、春の天皇賞に照準を合わせて馬を仕上げていった。 同年もAJCCから始動するもカシュウチカラにクビ差の2着、落馬負傷の嶋田から4歳時以来の騎乗となる岡部に乗り替わったオープン競走では3着。右前脚の深管が痛んで順調さを欠いていたが、第77回天皇賞の直前調教で状態が一変して橈骨の状態も良く、本番では1番人気に支持された。このレースは2番人気・プレストウコウ、3番人気・カシュウチカラと共に史上初の3頭同時単枠指定となった。レースはこれといった逃げ馬の存在がなく、スタートが切られると4、5頭が並んで出ていき、スタートの良かったグリーングラスはその並びの先頭にいたが、並びの中からビクトリアシチーとロングイチーが行くと、グリーングラスは内で他馬が行くままに3番手に下げる。最大のライバルと目されていたプレストウコウ中団、3番人気のカシュウチカラは最後方に付けていたが、最初の3コーナーから4コーナーを回る際に場内が騒然となる。プレストウコウが馬群の中で鞍ズレを起こし、立ち上がって失速した。鞍上の郷原は立ち上がった状態のまま騎乗し、直線へ入ると、馬群から避難させるようにプレストウコウを出し、失速しても走り続けるが、大きく遅れて競走を中止した。競走馬の故障や騎手の落馬以外での競走中止は当時はおろか現在でも極めて珍しい部類であり、場内が異様なざわめきに包まれる中、キングラナークとハッコウオーが先頭に立つ。グリーングラスは内ラチぴったりに4、5番手の好位を進み、向こう正面に入って流れがさらに一転。グリーングラスが一気に先頭に立ち、このレースも実況していた杉本は「もう、二度上って、そして下った京都のこの坂であります。これを克服してこそ、グリーングラス、栄光の盾!」と伝えた。ここで3コーナーの坂で外から猛然とカシュウチカラが追い上げるが、カシュウチカラの鞍上・出口明見はプレストウコウの戦線離脱を見ており、的を前のグリーングラスに絞っていた。出口騎乗のカシュウチカラがグリーングラスに襲いかかると、2頭が激しく鍔迫り合いをして直線に入る。直線でグリーングラスが一気に後続を突き放すと、懸命にカシュウチカラも追った。内からトウフクセダンが恐ろしいまでの勝負根性で馬群をかき分け、前の2頭に迫る。逃げるグリーングラスと追うカシュウチカラ、トウフクセダンの3頭の争いとなり、他馬は7馬身もちぎられる。トウフクセダンがカシュウチカラの僅か前に出て、2頭が併せ馬でグリーングラスに迫るが、あと1馬身の差を付けて完勝。結果はグリーングラスが二つ目のGI級レース及び八大競走勝ちを収め、鞍上の岡部も天皇賞初制覇。ゴール後に杉本は「緑の街道を突っ走りました!三度目の正直!」と伝えている。 続く第19回宝塚記念ではファン投票で堂々の1位に選出され、エリモジョージ・ホクトボーイも出走して天皇賞馬三つ巴対決となった。当日も単勝2.3倍と抜けた1番人気に支持されたが、マイペースで逃げたエリモジョージを2番手でマークするも捕らえきれず2着。有馬記念は脚部不安と感冒によりぶっつけで挑むことになったが、スローペースに翻弄されて同じ青森産馬・カネミノブの6着に敗れた。
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6歳(2010年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 02:10 UTC 版)
「メリッサ (競走馬)」の記事における「6歳(2010年)」の解説
半年以上の休養を経て、5月のテレビ愛知オープンより始動も8着に敗れる。続くCBC賞では、12番人気の低評価であったが4着と健闘し、アイビスサマーダッシュでは1番人気での出走となったが、1000mという極端な短距離に適性がなかったのか、17着のエーシンエフダンズに5馬身付けられたシンガリ負けを喫した。その後北九州記念に再び参戦、前走の大敗もあり5番人気の支持であったが、2着のスカイノダン(ジャスタウェイの半姉である)に半馬身付けて勝利。悲願の重賞制覇を果たした。この後はセントウルステークス3着、夕刊フジ杯オパールステークス6着の結果を残したのちに引退が決まり、10月15日付で登録を抹消した
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6歳(2004年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 10:13 UTC 版)
「ディバインシルバー」の記事における「6歳(2004年)」の解説
年が明け、ガーネットステークスは5着に敗れる。オリビエ・ペリエが騎乗した根岸ステークスは最下位の15着と惨敗した。安藤に手綱が戻った黒船賞は先手を好スタートから先手を奪うと後方から内を突いて伸びたノボトゥルーに1馬身差をつけ勝利、重賞2勝目を飾った。次走、かきつばた記念は5着に敗れたが、北海道スプリントカップを1.5倍の断然人気に応えノボトゥルーに2馬身差をつけて逃げ切り重賞3勝目をあげた。連覇を狙ったクラスターカップはゴール前接戦となり、シャドウスケイプにクビ差敗れて2着。次走、東京盃は逃げるも後続に捕まり5着、初のGI挑戦となったJBCスプリントは4着に入った。続く全日本サラブレッドカップは2番手から抜け出しヨシノイチバンボシに1馬身差をつけて1着、重賞4勝目を手にした。中1週で挑んだとちぎマロニエカップは4着、さらに中2週で出走した兵庫ゴールドトロフィーでも4着に敗れた。 なお、この年は11戦に出走し、10競馬場で走った。
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6歳(2011年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 23:02 UTC 版)
「アーネストリー」の記事における「6歳(2011年)」の解説
5月28日の金鯱賞で復帰となった。不良馬場の中、レースでは2番手につけたがルーラーシップの3着に敗れる。金鯱賞を叩いた後は、宝塚記念に出走。レース当日は昼過ぎに降雨があったものの、良馬場での開催となった。6番人気で迎えたレースは、好スタートから先頭を窺うも、最内枠から押して逃げるナムラクレセントの2番手を追走。1000m通過58.7秒の速いペースの中、直線入り口で先頭に立つと、ブエナビスタ、エイシンフラッシュの追走を封じてそのまま押し切り、念願のGI初勝利を挙げた。勝ちタイムの2分10秒1はコースレコード。父のグラスワンダーも宝塚記念を制しており、史上二組目の親子制覇、史上初の父子制覇となった。 次走は札幌記念の予定であったが、左前脚球節の軽い捻挫を発症したため回避した。その後オールカマーで復帰し単勝1.4倍と断然の1番人気で出走。3番手につけ直線半ばで先頭に立つと、後方から脚を伸ばしたゲシュタルトの追撃をしのいで勝利。勝ちタイムはレースレコードの2分11秒2で、重賞5勝目となった。10月30日の天皇賞(秋)では大外枠18番での出走となり、スタートでの出遅れから押して3・4番手を追走するも、直線で後退し14着と大敗した。12月25日の有馬記念では外からハナを切り超スローペースで逃げ、直線に入っても粘るが後退し10着と大敗した。
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6歳(2012年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 00:34 UTC 版)
「ジョーカプチーノ」の記事における「6歳(2012年)」の解説
初戦となった3月3日のオーシャンステークスでは後方から脚を伸ばすが5着。3月25日の高松宮記念は中団待機も直線で伸びを欠き11着に敗れる。その後5月12日の京王杯スプリングカップでは2〜3番手で追走するも直線で脚色を失い11着に終わった。6月2日付けで競走馬登録を抹消、優駿スタリオンステーションで種牡馬となった。
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6歳 (2018年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:10 UTC 版)
「リアルスティール」の記事における「6歳 (2018年)」の解説
初戦のドバイターフはミカエル・バルザローナとのコンビで出走するも3着に敗れる。帰国後、6月3日の安田記念は見せ場がなく15着と大敗する。その後、放牧に出されていたが右前脚に種子骨靭帯炎を発症したため現役を引退、社台スタリオンステーションで種牡馬入りすることになった。
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6歳(1992年)
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「ミホノビヤクエイ」の記事における「6歳(1992年)」の解説
6歳初戦は1月3日の新春賞。前走、前々走と好戦をしていたミホノビヤクエイは2番人気に支えられ1着で入線、初の重賞制覇を成し遂げる。しかしその後は戦線から離脱、結局次走は10月29日のオータムC(オープン)まで待たなくてはならなかった。オータムCでは7番人気の8着と凡走するも11月19日のA1級アラ系4才上ではインターロツキーの2着と好戦、次走への期待が高まるも迎えた園田金盃ではインターロツキーの7着と惨敗。結局これがこの年最後のレースとなった。
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6歳(2008年)
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「ワンダースピード」の記事における「6歳(2008年)」の解説
休み明け初戦はアンタレスステークスで、フィフティーワナーやロングプライドといった強豪馬が多く出走したこともあり7番人気にとどまったが、レースでは道中先行し、最後の直線で抜け出して2着のドラゴンファイヤーに1と1/4馬身差をつけて重賞初勝利を挙げた。この勝利は羽月友彦厩舎と生産牧場にとっても重賞初勝利となり、馬主にとっては9年ぶりの重賞勝利となった。続く東海ステークスでは1番人気に推されたが、4着に敗れた。続く帝王賞は5着だった。続くシリウスステークスでも1番人気に支持されたが、マイネルアワグラスにわずかに届かず2着だった。その後、ジャパンカップダートに出走したが、人気通りで去年と同じ9着に敗れた。その後、名古屋グランプリに出走し、2着のメイショウトウコンに2馬身差をつけて快勝した。
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6歳(2010年)
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「イーグルマウンテン」の記事における「6歳(2010年)」の解説
2010年の緒戦はドバイに渡り、2月の条件戦から復帰したが2着。このレースを最後に現役を引退した。
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6歳(2013年)
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「アスカクリチャン」の記事における「6歳(2013年)」の解説
4月に休養から復帰したアスカクリチャンだったが、産経大阪杯は7着、読売マイラーズカップは11着、新潟大賞典は8着と春シーズンは不振から抜け出せなかった。抜け出すきっかけになったのは7月の函館記念。ここで3着になると、札幌記念2着、オールカマー5着と好走。そして、オープン特別のアイルランドトロフィーで4着になったアスカクリチャンは11月の東京で行われたアルゼンチン共和国杯で直線で鋭く抜け出し重賞2勝目を飾った。 重賞2勝目を飾ったアスカクリチャンは香港へ遠征し、香港ヴァーズに出走したが7着に終わった。
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6歳(2006年)
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「マイネサマンサ」の記事における「6歳(2006年)」の解説
6歳初戦、京都牝馬ステークスは当時兵庫所属の岩田康誠が騎乗、出方を窺いながらもハナを切ると、直線で4分どころを通って抜け出し、メイショウオスカル、チアフルスマイルをクビ差退けて優勝、重賞初制覇を飾った。3か月半ぶりとなったヴィクトリアマイルは川崎所属の森下博が騎乗し、果敢に逃げたが10着に敗れる。続くマーメイドステークスはトップハンデ56kgを背負い勝ったソリッドプラチナムから0.1秒差の4着となる。1番人気に推されたクイーンステークスは8着と不本意な結果に終わる。続く京成杯オータムハンデキャップは6着、スワンステークスは13着とそれぞれ敗れ、オーロカップは中団から伸びて3着に入った。
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