日本在来馬
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日本在来馬(にほんざいらいば)は、日本の在来馬、すなわち、洋種馬等の外来の馬種とほとんど交雑することなく残ってきた日本固有の馬、及び、その馬種の総称である。
注釈
- ^ 文献上では、『続日本紀』霊亀2年(716年)6月7日条に、新羅国の丈五尺五寸(165センチ)の紫の驃馬(ひょうば・強い馬)2匹を献上した記述があり、事実とすれば、国内にも大形馬が極々一部渡来していた事になり、中央に集中していた事にもなる。
- ^ 指定名称は「岬馬およびその繁殖地」。
- ^ 上馬(じょうめ=優れた馬)・中馬(ちゅうめ=中等な馬)・下馬(げば=下等な馬)の内、駿馬は上馬に分類される。
- ^ また、源義経の「太夫黑」、 また、今川義元の愛馬等で五尺馬も生まれている。四尺八寸を超える馬は、「八寸(やき)に余る」と呼ばれ、在来馬の中では、大馬と認知された(従って、高楯黒は大馬である)。参考・週刊朝日百科1 『日本の歴史 中世Ⅰ-① 源氏と平氏 東と西』 朝日新聞社 2002年 4-23
- ^ 『続日本紀』養老5年(721年)3月9日条に、馬の所有数に関する記述があり、「五位の者は四匹、六位以下庶民までは三匹」とあり、一般的な武士は三頭が限度であり、源義経の乗りかえ馬が四頭なのは、義経自身が五位のためである。従って、乗りかえ馬の数の差は、位の高低の違いによる。
- ^ 『続日本紀』天平11年(739年)4月14日条には、「天下諸国に令し、駄馬(荷を運ぶ馬)一匹が背に負う荷物の重さは、大二百斤(120 kg)であったのを改め、百五十斤(90 kg)を限度にすると決めた」とあり、運送馬でも100 kg前後の荷で体力に問題が生じた事がわかる。仮に、全武装が30 kgで武人自体の体重が60 kgとしても、計90 kgで、馬の体力が保てる割合であり、鉄砲の弾を防ぐ馬甲まで備えた場合、長時間馬を走らせる事は困難である。従って、前近代のアジア馬といった中形馬で戦術論を無視した「騎兵万能論」は成り立たない。
- ^ 『厩牧令(くもくりょう)』の記述では、上等馬の場合、毎日、塩2勺を与え、中等馬の場合、塩1勺、下等馬には食べさせないとあり、上等な軍馬を養うのに塩が重要とされた事がわかる。なお、上等馬には粟も毎日食べさせていた。
出典
- ^ 野沢謙が、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った。
- ^ 川嶋舟, 颯田葉子「日本在来馬のミトコンドリアDNA多型」『東京農業大学農学集報』第54巻第3号、東京農業大学、2009年12月、211-213頁、CRID 1050001338710974976、ISSN 0375-9202、NAID 110007389346、2023年10月18日閲覧。
- ^ “日本在来馬、対馬から全国へ 南の小型馬も中型馬と同じルート:朝日新聞デジタル”. (2020年11月6日)
- ^ “参考 福津郷土史会”. 2020年10月20日閲覧。
- ^ “福津郷土史会”. 福津郷土史会. 2021年10月26日閲覧。
- ^ “遺跡トピックスNo.0268日本最古級のウマ-塩部遺跡(しおべいせき)〔甲府市〕”. 山梨県. 2021年10月27日閲覧。
- ^ 奥州市で5世紀後半の馬骨が出土
- ^ 研究代表者 西中川駿『古代遺跡出土骨からみたわが国の牛,馬の渡来時期とその経路に関する研究』西中川駿〈科学研究費補助金(一般研究(B))研究成果報告書〉、1991年 。
- ^ 当時の日向は鹿児島、宮崎を含んだ南九州地域の総称とされる
- ^ 松井章 『動物遺存体から見た馬の起源と普及』(『日本馬具大鑑 一』所収、40頁、1992年)
- ^ 『Story 日本の歴史 古代・中世・近世史編』 日本史教育研究会 山川出版社 2001年 ISBN 4-634-01640-0 p.137
- ^ 『東北学 vol.7』 作品社 2002年 ISBN 4-87893-513-8 p.120
- ^ 日本在来馬の飼養頭数の推移 (PDF) 社団法人日本馬事協会 (2012年9月11日閲覧)
- ^ 本田豊著 『絵が語る 知らなかった江戸のくらし 農山漁民の巻』 遊子館 2009年 ISBN 978-4-946525-99-5 p.56
- ^ 小和田哲男 『この一冊で 日本の歴史がわかる!』 三笠書房 1996年 ISBN 4-8379-1628-7 p.222
- ^ 江戸時代の日本の人口統計#幕末の推定人口変遷
- ^ 『中島悦次校注 宇治拾遺物語』 角川ソフィア文庫 初版1960年 p.183の脚注21より
- ^ 青木康洋 (2015年8月31日). “なんだこれは!馬を背負った武士の銅像に隠された真実!”. だれかに話したくなる、歴史の裏側. Business Journal. 2023年11月26日閲覧。
- ^ お茶人の友4『煎茶の心得』 世界文化社(普及版) 13刷1999年(初版 1985年) ISBN 4-418-85304-9 p.147
- ^ 『今来才伎 古墳・飛鳥の渡来人』 大阪府立近つ飛鳥博物館 2004年 p.26
- 1 日本在来馬とは
- 2 日本在来馬の概要
- 3 特徴
- 4 保護
- 5 信仰
- 6 脚注
日本馬
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「第4回ジャパンカップ」の記事における「日本馬」の解説
休養中であった三冠馬ミスターシービーが秋から戦列復帰し、2戦目の天皇賞を1番人気で快勝しジャパンカップに駒を進めた。 当初は菊花賞をスキップしてジャパンカップに行くとの噂もあった二冠馬シンボリルドルフは菊花賞を勝利し三冠馬となり、中1週というローテーションで参戦を表明した。 シンザン以来20年来なかった三冠馬2頭が出走するということで日本馬初のジャパンカップ制覇に大きな期待がかかった。当時珍しかったパドックの横断幕には「最強コンビ1-7一点日本の夢」とあった。 天皇賞で敗れこの年に新設されたマイルチャンピオンシップに行くと表明していた宝塚記念優勝馬カツラギエースもジャパンカップに廻ることとなった。 また、この年の古馬路線は春の天皇賞で上位を占めたモンテファスト、ミサキネバアー、ホリスキー、京都大賞典優勝のスズカコバン、前年の大井競馬の三冠馬サンオーイが天皇賞で着外に敗れ、前年の有馬記念と先の天皇賞で2着のテュデナムキングはまたも故障で休養のため回避。天皇賞4着のトウショウペガサスは条件馬のため適距離のマイルチャンピオンシップとジャパンカップの両方を回避しダービー卿チャレンジトロフィー (GIII)へ向かった。日本馬の出走頭数が揃わない危惧もあり、中央競馬会の熱心な呼びかけに桜花賞優勝などこの年の4歳牝馬路線を引っ張ったダイアナソロンが要請に応じる形で出走を表明した。 地方からは東海公営のリュウズイショウが選出されたが出走を辞退。チュウオーリーガルが追加で招待されたが、レース直前の東京競馬場で最終調整中に管骨を骨折し、出走を取りやめている。よってこの年はNAR所属馬は出走していない。
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日本馬
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「第1回ジャパンカップ」の記事における「日本馬」の解説
タクラマカンは父がアメリカ合衆国の名馬ダマスカスというアメリカ産で、輸入時はイシカリという名前だったが、競走馬としてはタクラマカンの名前で走った。外国産馬の出走可能な競走が限られていた時代であったため、重賞勝利は無かったが、同期のカツトップエース、サンエイソロンに勝ったこともある4歳馬であった。 前哨戦では無いが、同年10月25日に行われた天皇賞(秋)は、当時3200mの長丁場であったが激闘の末ホウヨウボーイがモンテプリンスをハナ差抑えてレコードタイムで優勝した。この2頭の他3着ゴールドスペンサー、6着ラフオンテース、7着メジロファントム、12着ジュウジアローもジャパンカップに参戦を表明した。詳しくは第84回天皇賞を参照。 ホウヨウボーイは前年の有馬記念優勝馬で年度代表馬。モンテプリンスは前年の東京優駿、菊花賞ともに1番人気ながら2着、前走も2着の「無冠のプリンス」。ゴールドスペンサーは南関東公営競馬の浦和競馬場出身で、浦和時代も川崎記念2連覇や浦和記念を優勝した名馬であったが、この年の秋に中央競馬に移籍して、毎日王冠4着、前走3着の2走しかしていなかった。ラフオンテースは牝馬ながらデビュー5連勝で阪神3歳ステークスを優勝したがその後は不振で、この年夏の小倉競馬で復活し4連勝で天皇賞に出走していた。メジロファントムは名脇役の古豪で天皇賞や有馬記念の2着があるものの、2年以上未勝利であった。ジュウジアローも牝馬であるが、この年の毎日王冠をレコードタイムで勝利していた。 残る別路線組はサクラシンゲキである。東京優駿4着もあるが短距離の名馬で、この年の春にはスプリンターズステークスを圧勝、前走の1400mのオープン戦も圧勝して果敢に参戦してきた。
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日本馬
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「第41回ジャパンカップ」の記事における「日本馬」の解説
2021年優駿牝馬を制したユーバーレーベンは、優駿牝馬後に屈腱周囲炎に似た症状を発症、休養後秋華賞に直行するも13着に敗れ、本競走に出走した。 キセキは2017年菊花賞を制した後は勝利がないものの、2019年・2020年の宝塚記念では2年連続2着、2021年の同競走でも5着に入着し、前走京都大賞典でマカヒキの3着に敗れ、本競走に臨んだ。 ユーバーレーベン キセキ(画像は2018年ジャパンカップ出走時)
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