みなもと‐の‐よしつね【源義経】
読み方:みなもとのよしつね
[1159〜1189]平安末期・鎌倉初期の武将。義朝の九男。母は常盤(ときわ)御前。幼名、牛若丸。平治の乱後、鞍馬寺に入り、さらに奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せた。兄頼朝の挙兵に応じて義仲を討ち、次いで平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦に破って全滅させた。のち、頼朝と不和になり、反逆を企てたが、失敗して奥州に逃れた。秀衡の死後、その子泰衡に襲われ、衣川の館(たて)で自殺。悲劇の英雄として伝説化される。九郎判官。
村上元三の歴史小説。の生涯を描く。昭和27年(1952)から昭和30年(1955)にかけて全5巻を刊行。昭和41年(1966)にNHKでドラマ化された際には著者自身が脚本を担当した。
源義経
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源 義経(みなもと の よしつね、旧字体:源 義經)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武将。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。
注釈
- ^ 義経肖像としてよく用いられるこの巻物は弁慶の画と対になっており、『義経記』の藤原泰衡に襲撃される場面を描いたものである(容姿については#容貌・体格を参照)。
- ^ 『系図纂要』では誕生日を2月2日としている。
- ^ 判官とは四等官制において第三位目の職を指す言葉であり、義経が任じられた左衛門少尉が衛門府の、検非違使少尉が検非違使の第三位の職にあたるためこう呼ばれる。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。
- ^ 義経の少年期を記した「牛若奥州下りの事」の部分は金刀比羅宮本にはなく、学習院本、京師本による。
- ^ この時の常盤の逃亡やその後の話は『平治物語』や『義経記』などの軍記物に詳しいが、軍記物の性格上どこまでが事実を語っているかの判定が難しい。
- ^ 軍記物や伝説によると11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知ると、僧になることを拒否して鞍馬山を駆け回り、武芸に励んだ鞍馬山で天狗の面を被った落人(=鞍馬天狗)から剣術の手解きを受けたとされている。
- ^ 藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物は当時多くいた奥州と都を行き来する商人達を元にした虚構の人物と思われる。
- ^ 『吾妻鏡』では「弱冠一人」で宿所を訪れたとあり、『源平盛衰記』では20騎、『平治物語』では100騎を率いていたとする。
- ^ 『平家物語』『源平盛衰記』による。『吾妻鏡』寿永3年2月7日条でも、義経が精兵70騎を率いて鵯越から攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしたとされている。ただし近年、この「戦い」において義経が果たした役割や、「逆落とし」が実際にあったか等については、様々な異論も提示されている。詳細は一ノ谷の戦い参照。
- ^ 『吾妻鏡』6月21日条には、義経は強く任官を望んでいたが、頼朝はあえて許さなかった旨の記載がある。この人事は知行国主頼朝の下にあって兵糧徴収を行なう任務がある範頼らと、在京して平氏との最前線に位置する義経との役割の差であったとみなす説がある[13]。
- ^ なお『吾妻鏡』によると義経の西国出陣の停止は次のような理由になっている。頼朝の推挙を得ずに後白河によって左衛門少尉と検非違使少尉(左衛門府・検非違使の三等官=判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞することができなかった」と報告。頼朝は「意志に背くことは今度ばかりではない」と激怒して義経を平氏追討から外してしまう。しかし、最近の研究によると義経が西国へ出陣しなかったのは三日平氏の乱の影響のためであって、任官はこの時期にはさほど問題となっていなかったのではないかという見解がある[13][14]。
- ^ 従来はこの出陣は『吾妻鏡』元暦2年(1185年)4月21日条、5月5日条の記載に基づき頼朝の命令によって行なわれたとみなされていた。しかし下記のことからこれに疑義を示す見解が強まっている。『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』正月10日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある[15]。
- ^ 『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。義経が戦の作法を無視して、水手と梶取を射殺した話はドラマや小説等によく見られ、安田元久は「このとき義経は、当時としては破天荒の戦術をとった。すなわち彼は部下に命じて、敵の戦闘員には目もくれず、兵船をあやつる水手・梶取のみを目標に矢を射かけさせたのである」[16]として、水手と梶取の射殺が壇ノ浦の戦局を決定づけた最大の要因と推測している。なお『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や梶取を射殺し、斬り殺したと描かれていて、非戦闘員の射殺が義経の命令によるものか、兵の暴走によるものかは定かでない。
- ^ a b 「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにもかかわらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承っているものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利したことなので早く関東へ帰りたいと思います」
- ^ 頼朝は範頼に充てた書状で平氏が三条高倉宮(以仁王)、木曽義仲が「やまの宮・鳥羽の四宮(実際には後白河法皇皇子の円恵法親王)」を殺害したこと(すなわち皇親の殺害行為)が没落につながったと捉えて安徳天皇の保護を厳命(『吾妻鏡』所収「文治元年正月六日源頼朝書状」)し、剣璽の確保についても同様の命令(『吾妻鏡』文治元年3月14日条)を出しており、義経にも同様の命令が出されたとみられている。にもかかわらず、義経は安徳天皇を保護できず、さらに行方不明の宝剣に関しても宇佐八幡宮に発見の祈願を行った(『延慶本平家物語』)だけで積極的に捜索しなかった。なお、頼朝および朝廷は範頼や佐伯景弘らに命じて以後2年近くも海人を用いた宝剣捜索を行ったこと(『吾妻鏡』文治元年5月5日条および文治3年6月3日条、『玉葉』文治2年3月4日条および文治3年9月27日条)が知られている[17]。
- ^ 宣旨作成者は高階泰経、同経仲、同隆経、平親宗、小槻隆職、藤原光雅。親義経派の腹心として難波頼経、平業忠、平知康。結構衆(企てた者たち)として一条能成、中原信康、平業忠(腹心)、藤原章綱(藤原範綱)、平知康(腹心)、藤原信盛、藤原信実、藤原時成、中原信貞。
- ^ 藤原範季、藤原朝方、興福寺聖弘、鞍馬寺東光房など。
- ^ 義経が泰衡によって討たれ、その首級が鎌倉に届けられることになった際の使者を、『吾妻鏡』では「新田冠者高平」と伝えているが、この人物は泰衡の四弟(秀衡の四男)藤原高衡のことであった可能性が高い。「新田冠者」は文治五年奥州合戦で捕虜となった樋爪五郎季衡の子経衡に冠されている名称であるので、使者は経衡だった可能性もあるが、義経の首級を届けるという重要な任務の遂行を、泰衡が自らの弟に託したと考えるのはそう不自然なことではないと思われる。また、奥州合戦後に大河兼任の乱を起こした大河兼任の兄弟・新田三郎入道とする研究もある。[要出典]
- ^ さらに『尊卑分脈』の記述によれば、五弟で忠衡の同母弟とされる通衡も共に誅殺している。また、忠衡は義経誅殺に反対しており、義経の死後、泰衡に対して反乱を起こした(或いは計画した)ために誅殺されたとも推測されている。通衡も忠衡と同様に義経と通じていた、加えて、反乱(若しくは反乱計画)に関わっていたため、殺害されたと考えることもできる。このような状況から、通衡も忠衡同様、義経保護を主張していたと考えることもできる。[要出典]
- ^ 義経の元服を伝えるに資料や伝承には、『平治物語』を初め、現行の能の演目として知られる『烏帽子折』、竜王町の義経「元服の池」、義経元服の「盥」、「烏帽子屋五郎太夫の屋敷跡」、元服の折に参拝した「鏡神社」(国の重要文化財)、その参道にある「烏帽子掛け松」などがある。
- ^ 妹の夫を「聟」と称する用法もあることから、義経が京都を離れた後の文治2年6月6日に常盤とともに捕らえられた義経の異父妹(父は一条長成)を有綱の妻とする保立道久[28]や細川涼一[29]の説もある。
- ^ 盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。
- ^ 同書では母親の常盤は絶世の美女とされており(『平治物語』『義経記』)、容姿が重視されて源義朝の側室となった。父親の義朝については、面識のあった佐藤兄弟の母が義経と対面した際、「こかうの殿をおさなめによきおとこかなと思ひたてまつりしが、さうあしくこそおはすれども、その御子かとおぼゆる(亡き左馬頭殿(義朝)は幼心にもよい男だと拝見しましたが、あなたは父上に比べて見劣りするけれども、そのお子かと思われます)」と述べている(『平治物語』京師本)。
- ^ 『金史別本』は金王朝の正史である『金史』の外伝とされるが、実際にはそのような書物は中国には存在しない。また沢田源内は偽家系図作りの名人であり、現代では『金史別本』は偽書であるとされる。
出典
- ^ 雲際寺の位牌より
- ^ 『吾妻鏡』文治2年閏7月29日条
- ^ a b 『吾妻鏡』文治3年2月10日条
- ^ 『清和源氏系図』続群書類従 第五輯 系図部
- ^ 『吾妻鏡』文治2年6月28日条
- ^ a b c 文楽編・義経千本桜|文化デジタルライブラリー - 文化デジタルライブラリー
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ 滋賀県竜王町「義経元服のいわれ」
- ^ a b 『玉葉』7月30日条
- ^ 『玉葉』11月2日条
- ^ 『玉葉』11月7日条
- ^ 『玉葉』12月1日条
- ^ a b 元木 2007.
- ^ a b 菱沼 2005.
- ^ 宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554号、立命館大学人文学会、1998年。
- ^ 安田元久『源義経』人物往来社〈日本の武将7〉、1966年。
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- ^ 安田 1966, pp. 164, 178.
- ^ 上横手 2004a, pp. 43–44.
- ^ 元木 2007, pp. 129–130, 三日平氏の乱.
- ^ 元木 2007, pp. 154–156.
- ^ 本郷和人『武力による政治の誕生』〈講談社選書メチエ〉2010年。
- ^ 河内祥輔『頼朝の時代 一一八〇年代の内乱史』平凡社、1990年。
- ^ 菱沼一憲「源義経の挙兵と土佐房襲撃事件」『日本歴史』684号、2005年。/所収:菱沼一憲 編『源範頼』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一四巻〉、2015年。
- ^ 『玉葉』5月10日条
- ^ 『玉葉』11月24日条
- ^ 上横手 2004b, p. 95, 野口実.
- ^ 保立道久『義経の登場』日本放送出版協会、2004年。
- ^ 細川涼一「常盤―源義経の母―」『女性歴史文化研究所紀要』第17号、京都橘大学、2009年。/所収:細川涼一『日本中世の社会と寺社』思文閣出版、2013年。
- ^ 大三輪 2005, p. 154, 下山忍.
- ^ 甲冑の奉納に関しては五味文彦・櫻井陽子編『平家物語図典』小学館、2005年、p.11
- ^ 『真岡市史案内』第4号中村城 (真岡市教育委員会発行) 栃木県立図書館蔵書
- ^ 『伊達氏と中村八幡宮』中村八幡宮、1989年。
- ^ 山崎純醒 編『源義経周辺系図解説』批評社、2016年、42頁。
- ^ 『現今児童重宝記 : 開化実益』佐藤為三郎編、此村彦助刊、明19.10
- ^ 上横手 2004b, p. 258, 関俊彦.
- ^ 上横手 2004a.
- ^ 上横手 2004b.
- ^ 菱沼一憲「在京頼朝代官源義経」『國史学』第179号、2003年。/所収:菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年。ISBN 9784762942105。
- ^ 元木 2005.
- ^ 判官物(ほうがんもの)とは - コトバンク
源義経
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九郎判官・源義経は京に生まれ、幼少期に鞍馬寺において剣術を学んだとされる。この義経が学んだ流派が京八流、またはその一派ではないかと言われる。義経の剣術は「敏捷性を生かし、短い刀を用いて素早く敵の懐に入る剣術」だったとされ、義経が源平合戦において実際に使用したとされる車太刀は短く(53cm)反りの大きい刀であり、義経の剣術が伝承通りであった事を伺わせるものである。
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源義経(声:大水忠相)
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「義経英雄伝修羅」の記事における「源義経(声:大水忠相)」の解説
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源義経(京都)
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「桃太郎電鉄2010 戦国・維新のヒーロー大集合!の巻」の記事における「源義経(京都)」の解説
目的地からある程度離れている場合、「八艘飛び」にちなんで8か所の物件駅の中から1か所を選択して、列車ごと空中移動できる。ただし、目的地に近い場所が入っているとは限らないため、断ることも可能。到着先の駅の物件は買えないが、ターンは終了しない。
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源義経
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源義経(みなもと よしつね)
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「妖狐伝義経千本桜」の記事における「源義経(みなもと よしつね)」の解説
九郎判官。武勇に優れ、情理を兼ね備えるが、それが仇となり命を落とす。友である白狐に姓名を譲る。
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源義経
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本作の主人公。源氏の棟梁・源義朝の九男。幼名は「牛若」で、生後ほどなく平治の乱によって父を喪い、生母の常盤が再縁した藤原氏支流の一条長成に養育された。やがて疎まれて洛北の鞍馬寺に入れられ「遮那王」の名で寺稚児となるものの、亡父の遺臣であった鎌田正近とめぐり遭い、源家の御曹司であることを知らされる。以後は源氏の再興と平氏への復讐とを胸に成長し、長じて後に京を出て各地を放浪した末に白河の関を越えて奥州へと流れ、奥州藤原氏の庇護を受けた。兄の頼朝が以仁王の令旨を得て決起したことを知るや奥州を飛び出して帷幕に参じ、鎌倉勢の一翼を担うこととなる。
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源義経
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源義経
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源義経
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「乃木若葉は勇者である」の記事における「源義経」の解説
若葉の1体目の精霊(第9話 - )。対象者は様々な剣技と身軽な動きが可能となる。なお精霊に義経を選んだ理由は園子の精霊が烏天狗であったからとのこと。これは義経が鞍馬山の天狗に剣術を習ったらとする伝説から来るものだと思われる。
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源義経
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「無双OROCHI 魔王再臨」の記事における「源義経」の解説
平清盛を探している。呂布と互角の戦いをしていたが、呉・森・長宗我部軍の介入の所為で呂布に飽きられ、その後で襲ってきた風魔衆・平軍から呉・森・長宗我部軍に守られ合流する。
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源義経(漂太、遮那王)
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「遮那王義経」の記事における「源義経(漂太、遮那王)」の解説
主人公。実は源義朝の九男ではなく、正体は捨て子で、軒下一座というその日暮らしの芸者の一員だった。本当の名前は漂太(ひょうた)。非常に身軽であり、子供ながら素晴らしい軽業を披露していた。背が低く、それを指摘されると激怒する。
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源義経
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「無双OROCHI 3」の記事における「源義経」の解説
本来は平清盛とは不倶戴天の敵だが異界のモンスターに襲われてから妲己に救われて以降、恩返しの為に弁慶と共に妖魔軍に付き従う。
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源 義経(みなもとの よしつね)
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「女騎士さん、ジャスコ行こうよ」の記事における「源 義経(みなもとの よしつね)」の解説
美形の男性。当初は昆虫学者として現れ女装していた。台詞の前に「フフ……」と微笑を浮かべるのが口癖(?)。偽名として源静香を名乗っていたが、変装に関しては麟一郎曰く「下手の横好き」。正体は源義経であるが、正体がバレそうになると武蔵坊から暴力を振るわれる演技をされる(ボコボコにされるのでかなりの痛手をこうむるが)。
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源 義経(みなもとの よしつね)
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「源氏 (漫画)」の記事における「源 義経(みなもとの よしつね)」の解説
別名、沙那王(しゃなおう)。23歳。「源氏」の腹違いの弟。左目は義眼である。武術に秀でる。源氏軍義経隊隊長。義経隊は源氏軍一の精鋭遊撃隊であり奇襲戦法を得意とする。義経は血気盛んな性格で頭を使うのは苦手だが気は優しい。恋愛対象として「源氏」を愛していた。「源氏」の身代わりとして克己を扱い、肉体関係も結んだが、次第に克己本人に惹かれてゆく。平氏軍華井の源氏軍本拠地襲撃と同時期に発生した地震により、一時期日本へ流されてしまうが、桜の船で「日本国」へ戻った。
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源 義経(みなもとのよしつね)
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「闇狩人」の記事における「源 義経(みなもとのよしつね)」の解説
第1話『白き花に入りし者』に登場。本作では「白き我が花に入りし者、黒に染まらん」の言葉を残し、それが財宝伝説となったとされている。同話の最後で「魂転の外法」という転生の秘術によって魂を自らが持つ刀に封じ、自らの寄る辺となる肉体を探し続け、これを乗っ取ることを画策していたことが判明する。
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