永福寺跡
名称: | 永福寺跡 |
ふりがな: | ようふくじあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 神奈川県 |
市区町村: | 鎌倉市二階堂 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1966.06.14(昭和41.06.14) |
指定基準: | 史3 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S40-5-045永福寺跡.txt: 源頼朝が奥州平泉で見た藤原氏建立の寺にならった寺で、本堂は2階建(二階堂の名の起こり)、その前にすぐれた苑池を設けた。今も礎石、中島、立石、汀石等がのこり、鎌倉文化史上重要な史跡である。 |
永福寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 13:40 UTC 版)


座標: 北緯35度19分41秒 東経139度34分04秒 / 北緯35.32806度 東経139.56778度
永福寺跡(ようふくじあと[1])は、神奈川県鎌倉市二階堂(旧:鎌倉郡二階堂村)にある寺院跡。鎌倉時代初期に源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。2階建ての仏堂であった事から二階堂とも称された。寺跡は国の史跡に指定されている[2]。また世界遺産候補となっている武家の古都・鎌倉の構成資産のひとつ。
歴史
源頼朝は1189年(文治5年)9月の奥州合戦を契機に、数多の戦を供養し源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。造立責任者は工藤行政、建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。1192年(建久3年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。
1405年(応永12年)に火災に遭い[3]、のちに廃絶した。
調査
1983年(昭和58年)から開始された発掘調査で、北方から流れ込む谷川を水源とする南北200メートル、東西40 - 70メートルの苑池を中心とした浄土庭園の西岸に、二階大堂(釈迦如来)を中心に南北に阿弥陀堂(阿弥陀如来)、薬師堂(薬師如来)の翼廊を従えた中心伽藍が確認された。このことから、伽藍全体の空間構成は無量光院をモデルにしたと考えられる[4]。
現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている[5]。
復元
長らくススキが生える湿地となっていたが、史跡指定翌年の1967年(昭和43年)度から土地の公有化を進め、2007年(平成19年)以降復元整備工事に着手し、2017年(平成29年)6月、二階堂、阿弥陀堂、薬師堂などの基壇(基礎)と苑池の復元が完了し、公開された。
発掘データをもとに、CGによる復元も試みられている[6][7](鎌倉市と湘南工科大学との 協働[8][9])
脚注
- ^ 鎌倉幕府時代の当時は河内国の叡福寺に習って「えいふくじ」と読んだ。
- ^ 史跡永福寺跡について(鎌倉市)
- ^ 新編相模国風土記稿 二階堂村 永福寺蹟.
- ^ 小野健吉『日本庭園 : 空間の美の歴史』岩波書店〈岩波新書 ; 新赤版1177〉、2009年、106-108頁。ISBN 9784004311775。国立国会図書館書誌ID:000010065621。
- ^ 新編相模国風土記稿 二階堂村.
- ^ 永福寺 3DCGによる復元(YouTube)
- ^ 「AR永福寺」で、鎌倉時代の永福寺を体験(鎌倉市)
- ^ 「国指定史跡永福寺跡」のコンピューターグラフィックによる復元(武家の古都・鎌倉)
- ^ 大滝由明, 長澤可也, 羽切孝昌「コンピュータグラフィックによる永福寺の復原」『情報処理学会研究報告』第2005巻第25号、情報処理学会、2005年3月、127-134頁、CRID 1520572359478822528、ISSN 09196072、2024年4月3日閲覧。
参考文献
- 「山之内庄二階堂村上」『大日本地誌大系』 第39巻新編相模国風土記稿4巻之90村里部鎌倉郡巻之22、雄山閣、1932年8月、344頁。NDLJP:1179229/176。
- 「山之内庄二階堂村下永福寺蹟」『大日本地誌大系』 第39巻新編相模国風土記稿4巻之90村里部鎌倉郡巻之22、雄山閣、1932年8月、363 - 370頁。NDLJP:1179229/185。
関連文献
関連項目
外部リンク
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