みなもと‐の‐よりとも【源頼朝】
源頼朝 (みなもとのよりとも)
源頼朝
源頼朝
源頼朝
源頼朝
源頼朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 20:31 UTC 版)
源 頼朝(みなもと の よりとも、旧字体: 源 賴朝󠄁)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将、政治家。鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)。
注釈
- ^ 足利直義説もある。「神護寺三像#研究史」を参照。
- ^ 『張州府志』に尾張幡屋生まれとある。
- ^ 『尾張志』には尾張幡屋で生まれたことから幡屋武者王といったともある。
- ^ 『尾張名所図会』(前編、5巻)には出生地として熱田神宮西の誓願寺が記載されている。
- ^ 『系図纂要』にも尾張幡屋で生まれたことから幡屋武者王といったとある。
- ^ 『平家物語』(剣巻)に「兵衛佐頼朝は、末代の源氏の大将となるべき故にや、彼の幡屋にてぞ生れ給ふ。」とある。
- ^ a b この時点での清和源氏、河内源氏全体を統括する嫡流の棟梁というものは存在せず、義朝以外の各源氏の武士たちは義朝の意思とは関係ない独立した立場の武士として活動していた[1]。
- ^ a b 為義は義家の四男であったとする説もあり、その場合は義親は頼朝の父祖ではない[3][4]。
- ^ 坊門信隆、吉田経房らとともに務めている[5]。
- ^ これにより「鎌倉殿」の呼称が定着するまで長く「佐殿(すけどの)」と称された。又『吾妻鏡』でも元暦二年に従二位に昇叙するまで兵衛府の唐名である「武衛」で記述されている。
- ^ 『平治物語』によると、池禅尼のこの助命嘆願は早世した我が子・平家盛に頼朝が似ていることから清盛に助命を請うたといわれている。『愚管抄』によると、見るからに幼いのに同情して助命嘆願したと言われている
- ^ 摂津源氏の源仲綱が伊豆守だったとの説もある。
- ^ 頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りである。/金比羅系本『平治物語』によると、一行は近江国へと至るが、頼朝は野路で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。一度はこれを切り抜け野州で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は浅井に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む美濃国青墓へ至るが、ここで傷を負った次兄・朝長を亡くす。父・義朝は尾張国野間で長田忠致の裏切りにより討たれる。それを知った長兄・義平は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、以前の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ六条河原で首を斬られた。頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。/『清檞眼抄』(当時の検非違使の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられたとある。/『吾妻鏡』は大夫属定康というものが大吉寺や私邸に匿ったとする。/古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後に関ヶ原において捕らえられたとある。/なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。
- ^ 池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻・牧の方の父・宗親が池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物であり、平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする説もある[9]。
- ^ また流刑当初は最初に工藤祐継、祐継死後はその弟の伊東祐親預かりの身柄となり伊東に住まわされていて、後に北条預かりとなり中伊豆に行ったと見る説もある[10]。
- ^ 『吾妻鏡』治承4年8月24日条には、石橋山の戦いに敗れ落ち延びる途中で数珠を落とした頼朝が、その数珠は狩場に来た相模国の武士の多くが見知ったものであることを危惧している。
- ^ 時政の次男・北条義時の通称と同名だが別人である。
- ^ 北条時政の最初の正室は伊東祐親の娘とも妹ともされ、義時は彼女の子とされる。政子の生母は不明であるが、政子も義時と母親が同じであった場合、伊東祐親の立場からすれば頼朝に娘と孫(あるいは姪)の二股をかけられたことになる。
- ^ 保立は『吾妻鏡』『曾我物語』などに生じている矛盾を整理して、北条政子との婚姻を安元元年(1175年)夏以前、大姫の誕生を安元2年(1176年)3月とするとともに、頼朝と八重姫の婚姻は伊東祐親自身の意向であったが、頼朝が政子との婚姻を通じて北条氏とも関係を持ったことを知った祐親が一種の「うわなり打ち」として頼朝襲撃に及んだとする説を唱えている[12]。
- ^ a b 『吾妻鏡』治承4年6月27日条には「三浦の次郎義澄・千葉の六郎大夫胤頼等北條に参向す。日来京都に祗候す。去る月中旬の比、下向せんと欲するの刻、宇治合戦等の事に依って、 官兵の為抑留せらるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんが為参入するの由これを申す。日来番役に依って在京する所なり。武衛件の両人に対面し給う。御閑談刻を移す。他人これを聞かず。」とある。
- ^ この挙兵決意には都の三善康信の知らせや[13]、京より下った三浦義澄、千葉胤頼らの言葉があったとも言われている[注釈 20]。
- ^ なお、平家側の本来の追討目的は伊豆に潜伏していた源頼政の孫の源有綱で、頼朝が狙われていたというのは誤報であり、知行国主の交代によって厳しい立場となった頼政の家人で在庁官人の工藤茂光が有綱の代理として頼朝を持ち出したという見解も示されている[14]。
- ^ 以仁王の乱を受けて、伊豆国の知行国主が源頼政(伊豆守は息子の源仲綱)から平時忠(伊豆守は猶子の平時兼)に交替したのは治承4年6月29日で、時忠から目代に任じられた兼隆が頼朝に討たれたのはそれからわずか47日後のことであるため、兼隆が襲撃されたのは目代任命以前より頼朝と同じく中央から下ってきた流人として頼朝と勢力争いを続けた(頼朝の背後に北条時政がいたように、兼隆にも同じ田方郡の堤信遠が背後にいた)ことが背景にあったとする見方もある[15]。
- ^ 『吾妻鏡』の記載する頼朝の挙兵の詳細は以下の通りである。挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝えた。皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らしたことを頻りに後悔した。当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が到着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に佐々木定綱、経高、盛綱、高綱、加藤景廉を従え山木兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げた。
- ^ 従った者は北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであった。
- ^ 『吾妻鏡』には次のような逸話がある。平家方は頼朝を捜し梶原景時は居所を知るが、景時は「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘った。この間に頼朝は3歳より奉っていた観音像を岩窟に隠し、実平に対し「首を景親らに伝う日、この本尊を見て源氏の大将に非ざる由、必ず誹りを招く」と述べた。
- ^ その後、野口実はもう一つの可能性として、かねてから浦賀水道一帯と支配権を巡って対立してきた三浦氏と長狭氏が、長寛元年(1163年)に杉本義宗(三浦義澄の兄で和田義盛の実父)が長狭常伴に討たれた(『延慶本平家物語』)ことで決定的な対立関係となり、三浦氏は最初から頼朝を擁して長狭氏を滅ぼすつもりで軍事行動を起こし(平家方についたという話自体が言いがかりの可能性もある)、常伴はこれに応戦せざるを得なかったとする見解を出している[22]。
- ^ なお、『吾妻鏡』によると8月29日の安房上陸後の頼朝軍の動向は次の通りになる。頼朝は、最初に幼少時仕えていた安西景益に御書を送り、9月3日、安房国の住人長狭常伴に襲撃されかかるが、先に安房国に渡っていた三浦義澄が察知して撃退する。翌4日一族および在庁官人を率いて参じた景益の進言に従い、和田義盛を広常の許に、安達盛長を常胤の許に使者として遣わし、洲崎明神に参詣して御願書を奉じる。9日盛長が千葉より帰参すると、丸御厨を巡検し伊勢太神宮への御願書を書き、洲崎明神に寄進状を送った後、13日に上総国に赴く。その際千葉常胤の加勢を得、下総国で常胤の嫡孫成胤が、同13日に平家に従う下総国目代を滅ぼし翌14日以前から千葉氏と敵対関係にあった平家の縁者千田判官代親政を生虜る(結城浜の戦い)。17日には広常の参入を待たず三百余騎で下総国府に入り、常胤から源頼隆を引き合わされる。頼隆は平治の乱で共に戦い討たれた源義隆の遺児であり、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ家人とした。19日、当初は日和見を決め込んでいた上総広常が2万騎を率いて参じると、本来は喜ぶべき所を逆に広常の遅参を咎め、恭順させたとされている。だが、この広常の日和見に関しては現在疑問を抱く学説が提示されており、広常は当初から頼朝方として行動していたと考えられている(野口実『源氏と坂東武士』)。また、頼朝の房総での動向については、『吾妻鏡』以外の延慶本『平家物語』『源平闘諍録』『源平盛衰記』などに細部にわたる異説があり、定説はない。
- ^ 『吾妻鏡』によると9月29日にいつまでも帰服をしない江戸重長の謀殺を葛西清重に命じるが清重はこれを辞退したと推測される[23]。その後、10月4日に畠山重忠、河越重頼、江戸重長が頼朝に従うと、彼らによって父・三浦義明を討たれた義澄ら三浦一族を頼朝が説得して、三浦・秩父両一族を和解させた。頼朝の手による相模の有力武士団である三浦氏と武蔵の有力武士団である秩父氏の和解は鎌倉を安定させる上で重要な意味合いを持った[24]。
- ^ 後に大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。また先祖の源頼義が京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移し、父義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立落成が1180年に行われた。
- ^ 反乱軍の主力は駿河を制圧した甲斐源氏であり、頼朝は黄瀬川に駐留して形勢を観望していたという説もある[25]。
- ^ その遺言は「わが子孫、一人と雖も生き残らば骸を頼朝の前にさらすべし」であったという[27]。清盛の死去に対して頼朝は「天罰をかうむり了はんぬ、仏神の加被ひとへに我が身に在り、士卒の心いよいよ相励むべし」と豪語し、東国の結束は一層強まったという[28]。
- ^ 政子の安産祈願のために、鶴岡八幡宮の参道を御家人らと共に自ら手で築き、また、伊豆山権現に土肥遠平、筥根権現に佐野基綱、相模一宮に梶原景高、三浦十二天に佐原義連、武蔵六所宮に葛西清重、常陸鹿島神宮に小栗重成、上総一宮に上総良常、下総香取神宮に千葉成胤、安房東条庤明神に三浦義村、同国洲崎明神に安西景益を祈祷のため奉幣使として遣わした[11]。
- ^ 常陸においては佐竹氏が未だに反抗していたとの見方もある。詳細は「金砂城の戦い」参照。
- ^ 『平家物語』『源平盛衰記』ではこのあたりを次のように記している。相模国松田に住んでいた源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく信濃国へと走った。頼朝は武田信光の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国関山で2,000余騎を率い待ち構え、頼朝は10万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取った。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景と岡崎義実を使者として返す。行家か義仲の嫡男義高を人質として差し出すように求める。義仲はこの時11歳の義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、6歳の長女大姫の婿とした。
- ^ 頼朝は、範頼らの入京にあたって軍に充分な食糧を携行させ、また略奪や狼藉行為を堅く禁じていたため、義仲軍上洛時のような混乱は生じなかった。
- ^ 頼朝は平治の乱で命を救われた池禅尼の息子である平頼盛を通じて法皇と交渉を行っており、頼盛が鎌倉へ下った際、平家都落ちの際に奪われていた官職と荘園を戻させ、手厚くもてなしている[11]。
- ^ なお、このとき義経は任官から漏れて、後に頼朝に無断で検非違使の官位を得たことで怒りを買ったとされている。この任官が頼朝の不興を買ったという話は最近では否定的な見方をされつつある。義経が西国攻めを任されなかった理由には、義経は「京都の治安維持」を要請されその必要上、西国に出兵させることができなかった[32]、一ノ谷の戦い直後に伊勢・伊賀で平氏の残党勢力が三日平氏の乱を起こしたために出撃できなかった[33]等の説が提示されている。
- ^ 『吾妻鏡』元暦2年(1185年)正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり[34]、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平家の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平家滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある[35]。
- ^ それには義経の専横や東国武士達の反感が記されていたという[11]。
- ^ 無断任官者は兵衛尉義廉、佐藤忠信、師岡重経、渋谷重助、小河馬允、後藤基清、馬允有経、梶原友景、梶原景貞、梶原景高、中村時経、海老名季綱、馬允能忠、豊田義幹、兵衛尉政綱、兵衛尉忠綱、平子有長、平山季重、梶原景季、縫殿助、宮内丞舒国、山内首藤経俊、八田知家、小山朝政ら24名。
- ^ この事件は、義経との関連で論じられることが多いが、「自由任官の禁止」(従者・郎党を持つ権門であればこうした規制は一般的であった)、「成功の重視」(鎌倉幕府が官職を推挙する際には朝廷への成功を果たした者から推挙する)、「任官後の在京勤務励行」(朝幕関係と東国を領域とする幕府支配の固有性を維持のバランスを重視する。なお、この方針により翌年2月2日に配下の御家人の任官返上を朝廷に申し出ている[11])という、鎌倉幕府の朝廷官職に対する基本政策が示された点が重要である[36]。
- ^ その頃、鎌倉では駿河以西の御家人に書状を送り、今度の頼朝の上洛は取り止めたがなお怠りなく軍備を固めるように命じて、いざとなれば大挙出兵して上洛する場合に備えている。
- ^ 法皇が高階泰経を通じて出した弁明の使者は11月15日に鎌倉に到着したが恐怖にかられて営中に参ぜず、一条能保の屋敷に行って鎌倉殿宛の書状を持参したことを告げた。能保にあてた一通には「義経等の事は、まったく泰経の仕組んだものではなく、ただ義経の兵力を恐れて院に奏上しただけである」と取り成しを願う内容であった。能保は使者を頼朝の所へ連れて行き、泰経の頼朝宛の書状を披露した。それは「行家・義経謀反のことは、天魔の所為というほかない。頼朝追討の宣旨を下さねば宮中で自殺するなどと言うので、当座の騒ぎを避けるための処置であり、法皇の本心ではなかった」という法皇の意向に従った弁明であった。11月26日、鎌倉の使者が泰経に返事の書状を持参して、院の御所の泰経を尋ねると、不在という答えだったので大いに怒り、文箱を院の中門の廊に投げ込んで立ち去った。その書状は兼実に届けられ、表に「大蔵卿殿御返事」とあり、下の署名はなく、内容は「行家・義経謀反のことは、天魔の所為とおっしゃるが、とんでもない事だ。天魔とは仏法の妨げで、人倫の災いとなる者の事。頼朝は多くの朝敵を滅ぼすと、政権を法皇にお任せしたのに、たちまち謀反人とされてしまったのはどういうわけか。法皇のお考えと無関係に、そもそも院宣が下されるものなのか。行家といい、義経といい、召し捕られぬところから、国々も疲弊し、人民も難儀をする。日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」と後白河法皇の変心と無責任ぶりを痛罵したものだった。
- ^ 狼狽する法皇と泰経は25日に行家と義経の探索を命じる宣旨を重ねて出す。「行家・義経が逆風の難にあったのは天罰である」と義経を罵り、泰経に謹慎を命じる。
- ^ 千葉常秀(祖父常胤譲り)・梶原景茂(父景時譲り)・八田知重(父知家譲り)が左兵衛尉、三浦義村(父義澄譲り)・葛西清重が右兵衛尉、和田義盛・佐原義連・足立遠元が左衛門尉、小山朝政・比企能員が右衛門尉。
- ^ 頼朝の肖像については、『[特別展]没後八〇〇年記念 源頼朝とゆかりの寺社の名宝』展図録[47]に、不出品作も参考図を付け、網羅的に掲載・解説がされている。
- ^ 兼実に頼朝のことを伝えた静賢の言葉とする説もある。
- ^ 例えば、元暦元年(1184年)6月に受領に任じられた三河守源範頼ら3名[59]、同じく文治元年(1185年)8月に受領に任じられた伊予守源義経ら6名[60]は、いずれも頼朝の戦功と引き換えに、その推挙によって任じられた清和源氏の一族であった[61]。
出典
- ^ 細川重男『頼朝の武士団』洋泉社、2012年。
- ^ 「鬼武丸」は『続群書類従』所収の「清和源氏系図」による。「鬼武者」は『系図纂要』による。
- ^ 佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』第45巻、山形県立米沢女子短期大学、2009年12月、19-29頁、CRID 1050001202927787264、ISSN 02880725。
- ^ 川合康「鎌倉幕府の草創神話」『季刊東北学』第27号、2011年。/所収:川合 2019, pp. 270–271
- ^ 『山槐記』平治元年2月19日条。
- ^ 『清檞眼抄』
- ^ 元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』NHKブックス、2004年。
- ^ 野口実『源氏と坂東武士』吉川弘文館、2007年。
- ^ 杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」上横手雅敬監修『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、1994年
- ^ 坂井孝一「源頼朝の流人時代に関する考察」『創価人間学論集』第5巻、創価大学人間学会、2012年3月、1-12頁、CRID 1050001337728152192、hdl:10911/3360、ISSN 1882-7942。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『吾妻鏡』
- ^ a b c 保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年、304-318頁。ISBN 978-4-7517-4640-0。
- ^ 『吾妻鏡』治承4年6月19日条
- ^ 永井晋『鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍―』吉川弘文館、1980年。
- ^ 川合康「中世武士の移動の諸相」メトロポリタン史学会編『歴史のなかの移動とネットワーク』桜井書店、2007年。/所収:(『院政期武士社会と鎌倉幕府』, p. 42-44)
- ^ a b 野口実「源頼朝の房総半島経略過程について」『房総史学』25号、1985年。
- ^ 『千葉県の歴史 通史編 中世』福田豊彦執筆分(2007年)
- ^ 佐藤博信「二階堂氏と安房国北郡―特に二階堂文書を通じて―」『鎌倉』74号、1994年。
- ^ a b 滝川恒昭「源頼朝の再起と安房国安西氏・洲崎神社」『千葉県史研究』第17巻、千葉県、2009年2月、155-165頁、CRID 1390855765226285952、doi:10.24484/sitereports.124406-81812。
- ^ (野口実 2017, p. 35-40)/所収:(『旧国中世重要論文集成:安房国』, p. 47-51)
- ^ 野口実「鎌倉政権の成立と長狭氏」『鴨川風土記』創刊号、1980年。
- ^ (野口実 2017, p. 38-41)/所収(『旧国中世重要論文集成:安房国』, p. 49-52)
- ^ 『沙石集』巻第九「芳心アル人ノ事」より。
- ^ 川合康「鎌倉街道上道と東国武士団」『府中市郷土の森博物館紀要』第23巻、府中市郷土の森博物館、2010年3月、19-33頁、CRID 1390011340301223168、doi:10.24484/sitereports.127463-107712。/所収:(『院政期武士社会と鎌倉幕府』, p. 108-111)
- ^ 川合康『源平の内乱と公武政権』吉川弘文館〈日本中世の歴史3〉、2009年。
- ^ a b c d e f g h i 『玉葉』
- ^ 『玉葉』養和元年8月1日条
- ^ 『玉葉』養和元年4月21日条
- ^ 『吉記』
- ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、83頁。
- ^ a b c 古澤直人「謀叛に関わる勲功賞」『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』吉川弘文館、2019年、63-68頁。ISBN 978-4-642-02953-7。
- ^ 菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 : その伝説と実像』角川書店〈角川選書〉、2005年。ISBN 9784047033740。全国書誌番号:20783117。
- ^ 元木泰雄『源義経』吉川弘文館、2007年。
- ^ 『吉記』『百錬抄』同日条
- ^ 宮田敬三「元暦西海合戦試論:「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討」『立命館文學』第554号、立命館大学人文学会、1998年3月、1389-1411頁、CRID 1520853832875839360、ISSN 02877015。
- ^ 上杉和彦「鎌倉幕府と官職制度 : 成功制を中心に」『史学雑誌』第99巻第11号、史学会、1990年、1855-1877,1970-、CRID 1390282680113057024、doi:10.24471/shigaku.99.11_1855、ISSN 00182478。/所収:上杉和彦『日本中世法体系成立史論』校倉書房〈歴史科学叢書〉、1996年。ISBN 4751725904。
上杉和彦『日本中世法体系成立史論』 東京大学〈博士(文学) 乙第13406号〉、1997年。doi:10.11501/3158341。NAID 500000179219 。 - ^ 河内祥輔『頼朝の時代 一一八〇年代の内乱史』平凡社、1990年。
- ^ 菱沼一憲「源義経の挙兵と土佐房襲撃事件」『日本歴史』第684号、吉川弘文館、2005年5月、17-33頁、CRID 1520290884362757120、ISSN 03869164。/所収:菱沼一憲 編『源範頼』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第一四巻〉、2015年。
- ^ 白根靖大「王朝社会秩序の中の武家の棟梁」『歴史』第91号、東北史学会、1998年9月、1-21頁、CRID 1520572359955555456、ISSN 03869172。/所収:白根靖大『中世の王朝社会と院政』吉川弘文館、2000年、180-207頁。ISBN 978-4-642-02787-8。
- ^ 石井清文「建久二年三月鎌倉大火と源頼朝」『政治経済史学』438・439合併号、2003年。
- ^ 櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」『明月記研究』9号、2004年。
- ^ 北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」今江廣道 編『中世の史料と制度』続群書類従完成会、2005年、137-194頁。ISBN 978-4-7971-0743-2。
- ^ 石井進『中世武士団』小学館、1974年。
- ^ 坂井孝一『源氏将軍断絶 : なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』PHP研究所〈PHP新書〉、2021年。ISBN 9784569848280。全国書誌番号:23474485 。
- ^ 川合康『源頼朝 : すでに朝の大将軍たるなり』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2021年。ISBN 9784623092123。全国書誌番号:23543526 。
- ^ 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』〈中公新書〉2019年。
- ^ 神奈川県立歴史博物館編集・発行、1999年
- ^ 伝源頼朝坐像 e国宝
- ^ a b 「最古の頼朝像 修復中/甲府・甲斐善光寺所蔵 国重文目指し」『読売新聞』朝刊2020年11月4日(社会面)
- ^ “【独自】頼朝「最古」の木像、玉眼も入り修復完了…「息吹き込まれた」”. 読売新聞. (2021年3月28日) 2022年2月27日閲覧。
- ^ 建長寺公式サイトの画像と解説
- ^ 黒田日出男『源頼朝の真像』角川学芸出版、2011年。ISBN 978-4-04-703490-7。
- ^ 黒田智, 石垣孝芳「教科書のなかの源頼朝像」『教育実践研究』第41巻、金沢大学人間社会学域学校教育学類附属教育実践支援センター、2015年10月、13-20頁、CRID 1050564285884451712、hdl:2297/44404、ISSN 1883-1427。
- ^ 永井路子『源頼朝の世界』〈中公文庫〉
- ^ 『玉葉』寿永2年10月2日条
- ^ 『玉葉』寿永2年10月9日条
- ^ 安田元久『源義経』新人物往来社、1993年。
- ^ 渡辺保『源義経』吉川弘文館、1986年。
- ^ 『吾妻鏡』元暦元年6月20日条
- ^ 『吾妻鏡』文治元年8月29日条
- ^ 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年、187-192頁。ISBN 9784762942105。全国書誌番号:21961661。
菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』 國學院大学〈博士(歴史学) 乙第286号〉、2012年。NAID 500000569707 。 - ^ 『中世地域社会と将軍権力』.
- ^ a b c 小長谷正明 2004, p. 74.
- ^ 細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 : 権威と権力』日本史史料研究会企画部〈日本史史料研究会研究選書〉、2007年。ISBN 9784904315019。
- ^ 伊藤正敏『中世の寺社勢力と境内都市』吉川弘文館、1999年。
- ^ 伊藤正敏『寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民―』〈ちくま新書〉2008年。
- ^ “法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓) / 史跡名勝天然記念物”. 国指定文化財等データベース / 文化庁. 2022年6月4日閲覧。
源頼朝(みなもと の よりとも)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/29 23:42 UTC 版)
「神の時空シリーズ」の記事における「源頼朝(みなもと の よりとも)」の解説
「鎌倉の地龍」に登場。鎌倉幕府初代将軍。鶴岡八幡宮境内の白旗神社に祀られる。北条氏の手で暗殺され、鎌倉一の大怨霊と化す。
※この「源頼朝(みなもと の よりとも)」の解説は、「神の時空シリーズ」の解説の一部です。
「源頼朝(みなもと の よりとも)」を含む「神の時空シリーズ」の記事については、「神の時空シリーズ」の概要を参照ください。
源頼朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 10:02 UTC 版)
源氏の棟梁。義経の兄。各軍共通の最終ボスとなっている。隠しキャラクター。
※この「源頼朝」の解説は、「義経英雄伝修羅」の解説の一部です。
「源頼朝」を含む「義経英雄伝修羅」の記事については、「義経英雄伝修羅」の概要を参照ください。
源頼朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 10:02 UTC 版)
源氏の総大将。源平の合戦の英雄である義経を退け、後に鎌倉幕府を開く。使用武器は刀。
※この「源頼朝」の解説は、「義経英雄伝」の解説の一部です。
「源頼朝」を含む「義経英雄伝」の記事については、「義経英雄伝」の概要を参照ください。
源頼朝(みなもと よりとも)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 22:08 UTC 版)
「妖狐伝義経千本桜」の記事における「源頼朝(みなもと よりとも)」の解説
源義経の兄。上総介平広常(かずさのすけ たいら ひろつね)が参軍の際に寄贈したあるお守りが原因で強運に恵まれる。
※この「源頼朝(みなもと よりとも)」の解説は、「妖狐伝義経千本桜」の解説の一部です。
「源頼朝(みなもと よりとも)」を含む「妖狐伝義経千本桜」の記事については、「妖狐伝義経千本桜」の概要を参照ください。
源頼朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 16:39 UTC 版)
義経の異母兄。義朝の三男。兵衛佐の官位から「佐殿」(すけどの)と通称される。幼少の頃から義朝に正嫡として目をかけられるものの、数え十三で源氏の敗亡に遭い、死罪は免ぜられたものの伊豆に流される。以後は慎ましく観経を繰り返す僧のような日々を送っていたが、平氏への復仇を忘れずに静かに機会を待ち続けていた。以仁王の令旨が下されたことによりついに決起し、坂東武士達を自らの足下に糾合することに成功して、平氏打倒の一大勢力を形成した。奥州から帷幕に参じた義経を当初は好意的に迎えながらも、無垢な人柄によって諸兵を惹きつけるその人気を危惧し、自らの政治的地位を脅かしかねぬ存在として警戒し続けた。
※この「源頼朝」の解説は、「義経 (小説)」の解説の一部です。
「源頼朝」を含む「義経 (小説)」の記事については、「義経 (小説)」の概要を参照ください。
源頼朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 08:46 UTC 版)
※この「源頼朝」の解説は、「白狐魔記」の解説の一部です。
「源頼朝」を含む「白狐魔記」の記事については、「白狐魔記」の概要を参照ください。
源頼朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 14:25 UTC 版)
第二幕から登場。鎌倉殿。苦しむ幾多の乙女達を救うため鬼を滅ぼし日本を救う事を目指す男。弁慶の体を乗っ取っていた熊童子に殺害された。
※この「源頼朝」の解説は、「うらたろう」の解説の一部です。
「源頼朝」を含む「うらたろう」の記事については、「うらたろう」の概要を参照ください。
源頼朝(みなもとのよりとも)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 07:05 UTC 版)
「リョウ」の記事における「源頼朝(みなもとのよりとも)」の解説
りょう(義経)の異母兄。優しく、頼りになる兄であったが最愛の妻・政子を亡くした後精神を病み、りょうを女として見るようになり、自分のものにしようとした。
※この「源頼朝(みなもとのよりとも)」の解説は、「リョウ」の解説の一部です。
「源頼朝(みなもとのよりとも)」を含む「リョウ」の記事については、「リョウ」の概要を参照ください。
源頼朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 06:21 UTC 版)
源義朝の三男。長兄の義平、次兄の朝長は既に平治の乱の混乱で死亡しているため、彼が現在の源氏の棟梁である。通称は官職名の右兵衛権佐から佐殿(すけどの)。
※この「源頼朝」の解説は、「遮那王義経」の解説の一部です。
「源頼朝」を含む「遮那王義経」の記事については、「遮那王義経」の概要を参照ください。
源頼朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:59 UTC 版)
「ますらお -秘本義経記-」の記事における「源頼朝」の解説
源氏の棟梁。黄瀬川の陣で弟義経を迎え、範頼と共に木曾討伐、平家追討の大将として起用する。終始穏やかな表情を湛えつつ、腹の内を誰にも読ませない得体の知れない人物として描かれる。第1作最終話にてはじめて素の感情を表に現し、義経を自らと同じ「時代の破壊者」であると論じる。
※この「源頼朝」の解説は、「ますらお -秘本義経記-」の解説の一部です。
「源頼朝」を含む「ますらお -秘本義経記-」の記事については、「ますらお -秘本義経記-」の概要を参照ください。
源頼朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 04:54 UTC 版)
『吾妻鏡』によれば、源頼朝は1199年に落馬の影響で死亡したとする。ただし、異説もある。
※この「源頼朝」の解説は、「落馬」の解説の一部です。
「源頼朝」を含む「落馬」の記事については、「落馬」の概要を参照ください。
「源頼朝」の例文・使い方・用例・文例
源頼朝と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 源頼朝のページへのリンク