源頼朝とは?

みなもとの よりとも 【源頼朝】 ○

1147~1199鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男平治の乱後、伊豆蛭ヶ小島配流1180年以仁王もちひとおう)の平氏追討令旨に応じ挙兵石橋山に敗れ安房逃げたが、東国武士の来援得て関東を制しつつ鎌倉にはいって根拠地とした。同年平維盛追討軍を富士川に破る。83年東国支配認め宣旨を得、ついで弟の範頼・義経西上させ、85年浦で平氏討滅全国平定その後義経追討口実全国守護地頭設置武家政治基礎確立92年征夷大将軍に任ぜられた。

源頼朝 (みなもとのよりとも)



源頼朝

作者海音寺潮五郎

収載図書さむらい本懐
出版社文芸春秋
刊行年月1988.4
シリーズ名文春文庫

収載図書武将列伝 源平
出版社文藝春秋
刊行年月2008.3
シリーズ名文春文庫


源頼朝

作者坂口安吾

収載図書安吾史譚―七つ人生について
出版社PHP研究所
刊行年月1993.9
シリーズ名PHP文庫


源頼朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/02 08:53 UTC 版)

源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将政治家鎌倉幕府の初代征夷大将軍




注釈

  1. ^ 足利直義説もある。神護寺三像を参照。
  2. ^ これにより「鎌倉殿」の呼称が定着するまで長く「佐殿(すけどの)」と称された。又『吾妻鏡』でも元暦二年に従二位に昇叙するまで兵衛府の唐名である「武衛」で記述されている。
  3. ^ 『平治物語』によると、池禅尼のこの助命嘆願は早世した我が子・平家盛に頼朝が似ていることから清盛に助命を請うたといわれている。『愚管抄』によると、見るからに幼いのに同情して助命嘆願したと言われている
  4. ^ 摂津源氏源仲綱が伊豆守だったとの説もある
  5. ^ 頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りである。/金比羅系本『平治物語』によると、一行は近江国へと至るが、頼朝は野路で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。一度はこれを切り抜け野州で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は浅井に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む美濃国青墓へ至るが、ここで傷を負った次兄・朝長を亡くす。父・義朝は尾張国野間長田忠致の裏切りにより討たれる。それを知った長兄・義平は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、以前の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ六条河原で首を斬られた。頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。/『清檞眼抄』(当時の検非違使の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられたとある。/『吾妻鏡』は大夫属定康というものが大吉寺や私邸に匿ったとする。/古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後関ヶ原において捕らえられたとある。/なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。
  6. ^ 池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻・牧の方の父・宗親が池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物であり、平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする説もある(杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」上横手雅敬監修『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、1994年)。
  7. ^ 『吾妻鏡』治承4年8月24日条には、石橋山の戦いで落ちのびる途中で数珠を落とした頼朝がその数珠は狩場に来た相模の武士の多くが見知ったものであることを危惧している。
  8. ^ 時政の次男・北条義時の通称と同名だが別人である。この時に義時は4歳ほど。
  9. ^ この挙兵決意には都の三善康信の知らせや京より下った三浦義澄千葉胤頼らの言葉があったとも言われている(『吾妻鏡』)。
  10. ^ なお、平家側の本来の追討目的は伊豆に潜伏していた源頼政の孫の源有綱で、頼朝が狙われていたというのは誤報であり、知行国主の交代によって厳しい立場となった頼政の家人で在庁官人の工藤茂光が有綱の代理として頼朝を持ち出したという見解も示されている(永井晋『鎌倉源氏三代記』(吉川弘文館))。
  11. ^ 以仁王の乱を受けて、伊豆国の知行国主が源頼政(伊豆守は息子の源仲綱)から平時忠(伊豆守は猶子の平時兼)に交替したのは治承4年6月29日で、時忠から目代に任じられた兼隆が頼朝に討たれたのはそれからわずか47日後のことであるため、兼隆が襲撃されたのは目代任命以前より頼朝と同じく中央から下ってきた流人として頼朝と勢力争いを続けた(頼朝の背後に北条時政がいたように、兼隆にも同じ田方郡の堤信遠が背後にいた)ことが背景にあったとする見方もある(川合康「中世武士の移動の諸相」(初出:『歴史のなかの移動とネットワーク』(桜井書店、2007年)/所収:川合『院政期武士社会と鎌倉幕府』(吉川弘文館、2019年)) 2019年、P42-44.)。
  12. ^ 『吾妻鏡』の記載する頼朝の挙兵の詳細は以下の通りである。挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景佐々木盛綱加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らしたことを頻りに後悔する。当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が到着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に佐々木定綱経高、盛綱、高綱、加藤景廉を従え山木兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げた。
  13. ^ 『吾妻鏡』には次のような逸話がある。平家方は頼朝を捜し梶原景時は居所を知るが、景時は「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘った。この間に頼朝は3歳より奉っていた観音像を岩窟に隠し、実平に対し「首を景親らに伝う日、この本尊を見て源氏の大将に非ざる由、必ず誹りを招く」と述べた。
  14. ^ 『吾妻鏡』によると9月8日に北条時政を甲斐源氏武田信義に加勢を要請すべく甲斐へ派遣したとあるが、延慶本『平家物語』によると時政は安房へは向かわず石橋山敗戦の直後直接甲斐国に向かっている。
  15. ^ なお、『吾妻鏡』によると8月29日の安房上陸後の頼朝軍の動向は次の通りになる。頼朝は、最初に幼少時仕えていた安西景益に御書を送り、9月3日、安房国の住人長狭常伴に襲撃されかかるが、先に安房国に渡っていた三浦義澄が察知して撃退する。翌4日一族および在庁官人を率いて参じた景益の進言に従い、和田義盛を広常の許に、安達盛長を常胤の許に使者として遣わし、洲崎明神に参詣して御願書を奉じる。9日盛長が千葉より帰参すると、丸御厨を巡検し伊勢太神宮への御願書を書き、洲崎明神に寄進状を送った後、13日に上総国に赴く。その際千葉常胤の加勢を得、下総国で常胤の嫡孫成胤が、同13日に平家に従う下総国目代を滅ぼし翌14日以前から千葉氏と敵対関係にあった平家の縁者千田判官代親政を生虜る(結城浜の戦い)。17日には広常の参入を待たず三百余騎で下総国府に入り、常胤から源頼隆を引き合わされる。頼隆は平治の乱で共に戦い討たれた源義隆の遺児であり、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ家人とした。19日、当初は日和見を決め込んでいた上総広常が2万騎を率いて参じると、本来は喜ぶべき所を逆に広常の遅参を咎め、恭順させる。しかし、この広常の日和見に関しては現在疑問を抱く学説が提示されている(野口実『源氏と坂東武士』など)。また、頼朝の房総での動向については、『吾妻鏡』以外の延慶本『平家物語』『源平闘諍録』『源平盛衰記』などには細部にわたる異説があり、定説はない。
  16. ^ 『吾妻鏡』によると9月29日にいつまでも帰服をしない江戸重長の謀殺を葛西清重に命じるが清重はこれを辞退したと推測される(『沙石集』巻第九「芳心アル人ノ事」より)。その後、10月4日に畠山重忠、河越重頼、江戸重長が頼朝に従うと、彼らによって惣領の三浦義明を討たれた三浦氏一族を頼朝が説得して、三浦・秩父両一族を和解させた。頼朝の手による相模の有力武士団である三浦氏と武蔵の有力武士団である秩父氏の和解は鎌倉を安定させる上で重要な意味合いを持った(川合康「鎌倉街道上道と東国武士団」(初出:『府中市郷土の森博物館紀要』23号(2010年)/所収:川合『院政期武士社会と鎌倉幕府』(吉川弘文館、2019年)) 2019年、P108-111.)。
  17. ^ 反乱軍の主力は駿河を制圧した甲斐源氏であり、頼朝は黄瀬川に駐留して形勢を観望していたという説もある(川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年)。
  18. ^ その遺言は「わが子孫、一人と雖も生き残らば骸を頼朝の前にさらすべし」であったという(『玉葉』養和元年8月1日条)。清盛の死去に対して頼朝は「天罰をかうむり了はんぬ、仏神の加被ひとへに我が身に在り、士卒の心いよいよ相励むべし」と豪語し、東国の結束は一層強まったという(『玉葉』4月21日条)。
  19. ^ 政子の安産祈願のために、鶴岡八幡宮の参道を御家人らと共に自ら手で築き、また、伊豆山権現土肥遠平筥根権現佐野基綱相模一宮に梶原景高、三浦十二天佐原義連武蔵六所宮に葛西清重、常陸鹿島神宮に小栗重成、上総一宮に上総良常、下総香取神宮に千葉成胤、安房東條庤明神三浦義村、同国洲崎明神に安西景益を祈祷のため奉幣使として遣わした。なお、政子の妊娠中に亀の前と密通、それを知った政子に亀の前の住む家を破却されている(『吾妻鏡』)。
  20. ^ 『平家物語』『源平盛衰記』ではこのあたりを次のように記している。相模国松田に住んでいた源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく信濃国へと走った。頼朝は武田信光の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国関山で2,000余騎を率い待ち構え、頼朝は10万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取った。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景と岡崎義実を使者として返す。行家か義仲の嫡男義高を差し出すように求める。義仲はこの時11歳の義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、6歳の長女大姫の婿とした。
  21. ^ 頼朝は平治の乱で命を救われた池禅尼の息子である平頼盛を通じて法皇と交渉を行っており、頼盛が鎌倉へ下った際、平家都落ちの際に奪われていた官職と荘園を戻させ、手厚くもてなしている(『吾妻鏡』)。
  22. ^ なおこのとき義経は任官から漏れて、後に頼朝に無断で検非違使の官位を得たことで怒りを買ったとされている。この任官が頼朝の不興を買ったという話は最近では否定的な見方をされつつある。義経が西国攻めを任されなかった理由には、義経は「京都の治安維持」を要請されその必要上西国に出兵させることができなかった(菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』)、一ノ谷の戦いの直後伊勢・伊賀で平氏の残党勢力が反乱を起こしたために出撃できなかった(元木泰雄『源義経』)等の説が提示されている。
  23. ^ 『吾妻鏡』元暦2年(1185年)正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』同日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平家の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平家滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある(宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年)。
  24. ^ それには義経の専横や東国武士達の反感が記されていたという(『吾妻鏡』)。
  25. ^ 無断任官者は兵衛尉義廉、佐藤忠信師岡重経渋谷重助、小河馬允、後藤基清、馬允有経、梶原友景、梶原景貞、梶原景高、中村時経、海老名季綱、馬允能忠、豊田義幹、兵衛尉政綱、兵衛尉忠綱、平子有長、平山季重梶原景季、縫殿助、宮内丞舒国、山内首藤経俊八田知家小山朝政ら24名。
  26. ^ この事件は、義経との関連で論じられることが多いが、「自由任官の禁止」(従者・郎党を持つ権門であればこうした規制は一般的であった)・「成功の重視」(鎌倉幕府が官職を推挙する際には朝廷への成功を果たした者から推挙する)・「任官後の在京勤務励行」(朝幕関係と東国を領域とする幕府支配の固有性を維持のバランスを重視する。なお、この方針により翌年2月2日に配下の御家人の任官返上を朝廷に申し出ている(『吾妻鏡』))という、鎌倉幕府の朝廷官職に対する基本政策が示された点が重要である(上杉和彦「鎌倉幕府と官職制度」『日本中世法体系成立史論』校倉書房、1996年(原論文は『史学雑誌』99巻11号、1990年))。
  27. ^ 延慶本『平家物語』によると義経は鎌倉入りを許され頼朝と対面、慰安されたのち鎌倉の外れで待機したという。
  28. ^ その頃鎌倉では駿河以西の御家人に書状を送り、今度の頼朝の上洛は取り止めたがなお怠りなく軍備を固めるように命じて、いざとなれば大挙出兵して上洛する場合に備えている。
  29. ^ 法皇が高階泰経を通じて出した弁明の使者は11月15日に鎌倉に到着したが恐怖にかられて営中に参ぜず、一条能保の屋敷に行って鎌倉殿あての書状を持参したことを告げた。能保にあてた一通には「義経等の事は、まったく泰経の仕組んだものではなく、ただ義経の兵力を恐れて院に奏上しただけである」と取り成しを願う内容であった。能保は使者を頼朝の所へ連れて行き、泰経の頼朝宛の書状を披露した。それは「行家・義経謀反のことは、天魔の所為というほかない。頼朝追討の宣旨を下さねば宮中で自殺するなどと言うので、当座の騒ぎを避けるための処置であり、法皇の本心ではなかった」という法皇の意向に従った弁明であった。11月26日、鎌倉の使者が泰経に返事の書状を持参して、院の御所の泰経を尋ねると、不在という答えだったので大いに怒り、文箱を院の中門の廊に投げ込んで立ち去った。その書状は兼実に届けられ、表に「大蔵卿殿御返事」とあり、下の署名はなく、内容は「行家・義経謀反のことは、天魔の所為とおっしゃるが、とんでもない事だ。天魔とは仏法の妨げで、人倫の災いとなる者の事。頼朝は多くの朝敵を滅ぼすと、政権を法皇にお任せしたのに、たちまち謀反人とされてしまったのはどういうわけか。法皇のお考えと無関係に、そもそも院宣が下されるものなのか。行家といい、義経といい、召し捕られぬところから、国々も疲弊し、人民も難儀をする。日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」と後白河法皇の変心と無責任ぶりを痛罵したものだった。
  30. ^ 狼狽する法皇と泰経は25日に行家と義経の探索を命じる宣旨を重ねて出す。「行家・義経が逆風の難にあったのは天罰である」と義経を罵り、泰経に謹慎を命じる。
  31. ^ 頼朝の肖像については、『[特別展]没後八〇〇年記念 源頼朝とゆかりの寺社の名宝』展図録(神奈川県立歴史博物館編集・発行、1999年)に、不出品作も参考図を付け、網羅的に掲載・解説がされている。
  32. ^ 例えば、元暦元年(1184年)6月に受領に任じられた三河守源範頼ら3名(『吾妻鏡』元暦元年6月20日条)、同じく文治元年(1185年)8月に受領に任じられた伊予守源義経ら6名(『吾妻鏡』文治元年8月29日条)は、いずれも頼朝の戦功と引き換えに、その推挙によって任じられた清和源氏の一族であった(菱沼一憲「源頼朝〈御権威〉の成立と新秩序」『中世地域社会と将軍権力』、汲古書院、2011年、P187-192)。
  33. ^ 伊豆では水銀が産出されている

出典

  1. ^ 『張州府志』に尾張幡屋生まれとある。
  2. ^ 『尾張志』には尾張幡屋で生まれたことから幡屋武者王といったともある。
  3. ^ 尾張名所図会』(前編、5巻)には出生地として熱田神宮西の誓願寺が記載されている。
  4. ^ 系図纂要』にも尾張幡屋で生まれたことから幡屋武者王といったとある。
  5. ^ 平家物語』(剣巻)に「兵衛佐頼朝は、末代の源氏の大将となるべき故にや、彼の幡屋にてぞ生れ給ふ。」とある。
  6. ^ 「鬼武丸」は『続群書類従』所収の「清和源氏系図」による。「鬼武者」は『系図纂要』による。
  7. ^ この時点での清和源氏、河内源氏全体を統括する嫡流の棟梁というものは存在せず義朝以外の各源氏の武士たちは義朝の意思とは関係ない独立した立場の武士として活動していた(細川重男『頼朝の武士団』洋泉社)
  8. ^ 坊門信隆吉田経房らとともに。『山槐記』平治元年2月19日条
  9. ^ 『清檞眼抄』
  10. ^ 元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』(NHKブックス、2004年)
  11. ^ 野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館、2007年)
  12. ^ また流刑当初は最初に工藤祐継、祐継死後はその弟の伊東祐親預かりの身柄となり伊東に住まわされていて、後に北条預かりとなり中伊豆に行ったと見る説もある(坂井孝一「源頼朝の流人時代に関する考察」)。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 吾妻鏡
  14. ^ なお『曾我物語』には工藤祐経河津祐泰を殺害したことで知られる安元2年(1176年)10月の奥野の巻狩りにも参加する頼朝の姿が描かれるなど、頼朝の立場は流人であったとは言え、伊豆およびその周辺では「名士」として遇されていたとみられる説もある(保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0)。
  15. ^ これに対して、保立道久は『吾妻鏡』・『曾我物語』などに生じている矛盾を整理して、北条政子との婚姻を安元元年(1175年)夏以前、大姫の誕生を安元2年(1176年)3月とするとともに、頼朝と八重姫の婚姻は伊東祐親自身の意向であったが、頼朝が政子との婚姻を通じて北条氏と関係を持ったことで頼朝の庇護者としての面子を潰された祐親が一種の「うわなり打ち」として頼朝襲撃に及んだとする説を唱えている(保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0)。
  16. ^ 源氏累代の家人からは挙兵に否定的な態度をとるものが少なくなかった一方で、知行国主変更に伴って圧迫を受けた武士、平家に近い豪族と対立関係にある武士たちの協力が見込められそうな状況にはあった。
  17. ^ 従った者は北条義時工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであった
  18. ^ 後に大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。また先祖の源頼義が京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移し父義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立落成が1180年に行われた
  19. ^ a b c d e f g h i 玉葉
  20. ^ 吉記
  21. ^ 常陸においては佐竹氏が未だに反抗していたとの見方もある。詳細は金砂城の戦い参照
  22. ^ a b c 古澤直人「謀叛に関わる勲功賞」『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』(吉川弘文館、2019年) ISBN 978-4-642-02953-7 P63-68.
  23. ^ 頼朝は、範頼らの入京にあたって軍に充分な食糧を携行させ、また略奪や狼藉行為を堅く禁じていたため、義仲軍上洛時のような混乱は生じなかった。
  24. ^ 白根靖大「王朝社会秩序の中の武家の棟梁」(初出:『歴史』91号(東北大学東北史学会、1998年)、所収:白根『中世の王朝社会と院政』(吉川弘文館、2000年) ISBN 978-4-642-02787-8 P180-207)
  25. ^ 石井清文「建久二年三月鎌倉大火と源頼朝」政治経済史学会 編『政治経済史学』438・439合併号(2003年)の説
  26. ^ 櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」 『明月記研究』9号、2004年
  27. ^ 北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:今江廣道 編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0743-2 P137-194)
  28. ^ 石井進『中世武士団』小学館、1974年
  29. ^ 黒田日出男 『源頼朝の真像』 角川学芸出版、2011年、ISBN 978-4-04-703490-7
  30. ^ 黒田智 石垣孝芳 「教科書のなかの源頼朝像」『金沢大学人文社会学域学校教育学類教育実践研究』第41号、金沢大学人文社会学域学校教育学類附属教育実践支援センター、2015年10月1日、pp.13-20。
  31. ^ 安田元久『源義経』
  32. ^ 渡辺保『源義経』
  33. ^ 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』(汲古書院、2011年)
  34. ^ a b c 小長谷、2004年、P.74
  35. ^ 保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0
  36. ^ 細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史』(日本史料研究会)
  37. ^ 伊藤正敏『中世の寺社勢力と境内都市』(吉川弘文館)
  38. ^ 伊藤正敏『寺社勢力の中世』(ちくま新書)





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