三浦為通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/16 07:35 UTC 版)
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時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 寛弘7年(1010年)? |
死没 | 永保3年3月14日(1083年4月3日)? |
別名 | 為道、為名、三浦平大夫 |
氏族 | 桓武平氏、三浦氏 |
父母 | 父:平忠通、母:平兼任の娘? 養父:平忠光? |
兄弟 | 村岡忠輔、為通、鎌倉章名、 女子(秩父将恒室) |
子 | 為継、為直、為俊、女子(鎌倉景通室?) |
三浦 為通(みうら ためみち)は、平安時代後期の武将・豪族。三浦氏の祖とされる。桓武平氏良文流。村岡五郎平忠通の嫡男。通称三浦平大夫。別名三浦為名。鎌倉章名の兄。
概略
子に為継、為直(『桓武平氏諸流系図(群書類従)』など、一部の系図では為通と為継の間に為直を置く)、為俊、女子(鎌倉景通室?)らがいる。
『系図纂要』によると、三浦氏は為通が源頼義から相模国三浦郷を与えられたのが始まり。別説として、為通の大伯父・平忠輔が三浦氏の初代であったという説もある。忠輔の系統がすぐに男子絶え、為通の系統が三浦家を継いだというものである。
三浦半島中央部に位置する衣笠山に衣笠城を構え、三浦氏繁栄の礎を築いたとされるが、数種類現存する三浦氏の家系図の中には為通について記載のないものがあることから、その実在を疑う説もある。
画像集
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(清雲寺、横須賀市大矢部5-9-20満昌寺向かい側)
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(三浦氏三代の墓、中央が為継、左右いずれかが為道・義継)
関連項目
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三浦為通(為通流)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:21 UTC 版)
平良文の孫である平忠通の子 為通の代に初めて「三浦」の苗字を名乗ったとされる。地名に由来する苗字である。相模国のこの半島は日本書紀で「御浦」(みうら)と記され、万葉集では「御宇良崎」(みうらさき)と記され(当て字はその後も揺れるが)、いずれにせよこの地は「みうら」という音で呼ばれていたので、その地名を苗字として採用したのである。 その三浦為通は前九年の役で武功を挙げ、源頼義から相模国三浦の領地を与えられる。ただし、為通については数種類現存する家系図の中には記載されていないものもあり、その他信頼性が低い史料にしか見られないことから実在を疑う説も強い。 安西氏・宮沢氏 為通の次男・為俊の息子である為景は安西氏を称した。また、為俊の養子である公俊は宮沢氏の祖となった。
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固有名詞の分類
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