橘氏との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 09:43 UTC 版)
義継以前の石井氏の系図をさらに遡ると為通のところに「此時三浦と号し始め」とあり為通が三浦氏の初代となっている。その為通の父忠通についてであるが、平良文の末子ということになっているが、父である平良文の没年(天暦6年(953年))と子の三浦為通の生年(寛弘7年(1010年)頃)から推定して、平良文と忠通の間に実の親子関係があった可能性はほとんどないものと思われる。系図には忠通のところに源頼光朝臣四天王也と記載されている。源頼光四天王の一人に碓氷貞光という人がいるが、最近の研究で、この人物が忠通又はその父親であったといわれている。碓氷貞光(橘貞光)は、碓氷貞光霊社の霊社記によると、碓氷周辺を領土とする武将であった橘貞兼の子で、姓橘氏、代々文武の誉れ高い家柄であったという。碓氷峠山中にて生まれ、その後京に出て活躍、源頼光に仕えてその四天王の一人となり、大江山の鬼退治などで活躍した。このことから、宝治合戦を生き延びた数少ない三浦氏嫡流の末裔である石井氏は、本来橘氏の子孫で、何らかの事情で桓武平氏を名乗る前は、橘朝臣であったのではなかろうかと推定される。橘紋を定紋として使用している石井家が現存しており、家紋がより真実を物語っているのかもしれない。また、系図で三浦氏(石井氏)と同じ忠通を祖とする鎌倉氏、長尾氏、伊作氏(薩摩平氏)などにも橘紋の使用例が見られる。
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