元木泰雄
元木泰雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:05 UTC 版)
元木泰雄は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に突き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している。 頼朝との関係・父子の義 挙兵当時の頼朝は自らの所領や子飼いの武士団もなく、独立心の強い東国武士達が自らの権益を守るために担いだ存在であった。それだけに、わずかな郎党を伴ったに過ぎないとはいえ、自らの右腕ともなり得る弟義経の到来は大きな喜びであった。以後、義経は「御曹司」と呼ばれるが、これは『玉葉』に両者は「父子之義」とあるように頼朝の養子としてその保護下に入ったことを意味し、場合によってはその後継者ともなり得る存在になった(当時、頼朝の嫡子頼家はまだ産まれていなかった)とともに、「父」頼朝に従属する立場に置かれたと考えられる。 頼朝代官として・京都守護 義仲追討の出陣が義経に廻ってきたのは、東国武士たちが所領の拡大と関係のない出撃に消極的だったためである。義経・範頼はいずれも少人数の軍勢を率いて鎌倉を出立し、途中で現地の武士を組織化することで義仲との対決を図った。特に入京にあたっては、法住寺合戦で義仲と敵対した京武者たちの役割が大きかった。一ノ谷の戦いも、範頼・義経に一元的に統率された形で行われた訳ではなく、独立した各地源氏一門や京武者たちとの混成軍という色彩が強かった。 合戦後の義経は疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。 決裂と転落・伝説の始まり 頼朝は戦後処理の過程で、義経に伊予守推挙という最高の栄誉を与える代わりに、鎌倉に召喚し自らの統制下に置く、という形で事態を収拾しようと考えた。だがその思惑は外れた。義経は、平氏滅亡後直後に法皇から院の親衛隊長とも言うべき院御厩司に補任され、検非違使・左兵衛尉を伊予守と兼務し続け、引き続き京に留まった。後白河は独自の軍事体制を構築するために、義経を活用したのである。治天の君の権威を背景に「父」に逆らった義経。両者の関係はここで決定的な破綻を迎える。 義経は頼朝追討の院宣を得たにもかかわらず、呼応する武士団はほとんど現れず、急速に没落した。既に頼朝は各地の武士に対する恩賞を与えるなど果断な処置を講じており、入京以後の義経に協力してきた京武者たちも、恩賞を与えることが出来ない義経には与しなかった。都の復興に尽力し「義士」と称えられた義経がこうした形で劇的に没落したことが京の人々に強い印象を与え、伝説化の一歩となった。 退去した義経らに代わって頼朝の代官として入京し、朝廷に介入を行ったのは、かつての弟たちではなく、頼朝の岳父である北条時政であった。未だ幼年である頼家の外祖父であり、嫡男義時が戦功を義経に奪われるなど、時政は義経に強い敵意を抱いていたと考えられる。その没落によって、時政は頼朝後継者の外戚としての地位を決定付け、勢力拡大の端緒を切り開くことができたのである。
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