元木泰雄
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元木 泰雄(もとき やすお、1954年[1]12月7日[2] - 2024年4月9日)は、日本の歴史学者。学位は、博士(文学)(論文博士・1995年)(学位論文「院政期政治史研究」)。京都大学名誉教授。兵庫県西宮市出身[3]。
人物
専門は日本中世史。特に、院政期から鎌倉時代にかけての中世前期の政治史。教養部時代に上横手雅敬の『吾妻鏡』の講読に出席したことがきっかけで、中世前期政治史を専攻するようになった[4]。指導教官は上横手雅敬・大山喬平[4]。
経歴
- 1973年3月 大阪教育大学附属高等学校池田校舎卒業
- 1978年3月 京都大学文学部国史学専攻卒業
- 1980年3月 京都大学大学院文学研究科修士課程修了
- 1983年3月 京都大学大学院文学研究科博士課程指導認定退学
- 1983年4月 京都大学文学部研修員
- 1984年4月 日本学術振興会特別研究員
- 1985年4月 京都大学文学部研修員
- 1987年4月 大手前女子大学文学部講師
- 1990年10月 大手前女子大学文学部助教授
- 1995年1月 「院政期政治史研究」で博士(文学)の学位を取得
- 1997年4月 京都大学総合人間学部助教授
- 2003年4月 京都大学大学院人間・環境学研究科助教授
- 2004年3月 京都大学大学院人間・環境学研究科教授
- 2020年4月 京都大学名誉教授
- 2024年4月9日 京都府内の病院で、間質性肺炎により死去。69歳没[3][5]。
門下生
著作
- 『武士の成立』吉川弘文館、1994年 ISBN 9784642066006
- 『院政期政治史研究』思文閣出版、1996年
- 『藤原忠実』人物叢書・吉川弘文館、2000年 ISBN 9784642052177
- 『平清盛の闘い 幻の中世国家』角川書店・角川叢書、2001年/角川ソフィア文庫、2011年
- 『源満仲・頼光 殺生放逸・朝家の守護』ミネルヴァ書房、2004年
- 『保元・平治の乱を読みなおす』日本放送出版協会・NHKブックス、2004年
- 『保元・平治の乱 平清盛勝利への道』角川ソフィア文庫、2012年
- 『源義経』歴史文化ライブラリー・吉川弘文館、2007年、オンデマンド版2019年 ISBN 9784642756235
- 『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』中公新書、2011年
- 『平清盛と後白河院』角川書店、2012年
- 『治承・寿永の内乱と平氏 敗者の日本史5』吉川弘文館、2013年 ISBN 9784642064514
- 『源頼義』人物叢書・吉川弘文館、2017年 ISBN 9784642052825
- 『源頼朝-武家政治の創始者』中公新書、2019年
- 『中世前期政治史研究』吉川弘文館、2024年 ISBN 9784642029889
- 『『兵範記』を読む 保元の乱の全記録』角川選書、2025年(坂口太郎による全面的訂正と補筆・校正を経て刊行。ルビ、出典注記、漢文体史料の読み下し、系図、図版、参考文献は、すべて坂口によるもので、ほぼ共著というべきもの)
- 共著
- 上横手雅敬・勝山清次『日本の中世8 院政と平氏、鎌倉政権』中央公論新社、2002年
- 佐伯智広・横内裕人『平氏政権と源平争乱 京都の中世史2』吉川弘文館、2022年 ISBN 9784642068611
監修・編著
- 『日本の時代史7 院政の展開と内乱』吉川弘文館、2002年 ISBN 9784642008075
- 『兵庫県の歴史』山川出版社、2004年
- 『古代の人物6 王朝の変容と武者』清文堂出版、2005年
- 『日記で読む日本中世史』ミネルヴァ書房、2005年。松薗斉と共編著
- 『図解 中世の革命児 平清盛の真実』朝日新聞出版、2011年
- 『中世の人物●京・鎌倉の時代編 第1巻 保元・平治の乱と平氏の栄華』清文堂出版、2014年
- 『日本中世の政治と制度』吉川弘文館、2020年 ISBN 9784642029667
脚注
- ^ 元木 泰雄 - 吉川弘文館
- ^ “元木 泰雄 (もとき やすお)教授”. 京都大学. 2017年11月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月14日閲覧。
- ^ a b “京都大学名誉教授の元木泰雄さんが死去、69歳 日本中世史”. 京都新聞. (2024年4月10日) 2024年4月10日閲覧。
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: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ) - ^ a b 『院政期政治史研究』、1996年、380頁
- ^ “元木泰雄さん死去 京都大名誉教授、日本中世前期の政治史”. 東京新聞 (2024年4月11日). 2024年4月13日閲覧。
- ^ 『中世前期の政治構造と王家』2015年、220頁
- ^ 『中世公武関係と承久の乱』2015年、316頁
外部リンク
元木泰雄
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元木泰雄は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に突き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している。 頼朝との関係・父子の義 挙兵当時の頼朝は自らの所領や子飼いの武士団もなく、独立心の強い東国武士達が自らの権益を守るために担いだ存在であった。それだけに、わずかな郎党を伴ったに過ぎないとはいえ、自らの右腕ともなり得る弟義経の到来は大きな喜びであった。以後、義経は「御曹司」と呼ばれるが、これは『玉葉』に両者は「父子之義」とあるように頼朝の養子としてその保護下に入ったことを意味し、場合によってはその後継者ともなり得る存在になった(当時、頼朝の嫡子頼家はまだ産まれていなかった)とともに、「父」頼朝に従属する立場に置かれたと考えられる。 頼朝代官として・京都守護 義仲追討の出陣が義経に廻ってきたのは、東国武士たちが所領の拡大と関係のない出撃に消極的だったためである。義経・範頼はいずれも少人数の軍勢を率いて鎌倉を出立し、途中で現地の武士を組織化することで義仲との対決を図った。特に入京にあたっては、法住寺合戦で義仲と敵対した京武者たちの役割が大きかった。一ノ谷の戦いも、範頼・義経に一元的に統率された形で行われた訳ではなく、独立した各地源氏一門や京武者たちとの混成軍という色彩が強かった。 合戦後の義経は疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。 決裂と転落・伝説の始まり 頼朝は戦後処理の過程で、義経に伊予守推挙という最高の栄誉を与える代わりに、鎌倉に召喚し自らの統制下に置く、という形で事態を収拾しようと考えた。だがその思惑は外れた。義経は、平氏滅亡後直後に法皇から院の親衛隊長とも言うべき院御厩司に補任され、検非違使・左兵衛尉を伊予守と兼務し続け、引き続き京に留まった。後白河は独自の軍事体制を構築するために、義経を活用したのである。治天の君の権威を背景に「父」に逆らった義経。両者の関係はここで決定的な破綻を迎える。 義経は頼朝追討の院宣を得たにもかかわらず、呼応する武士団はほとんど現れず、急速に没落した。既に頼朝は各地の武士に対する恩賞を与えるなど果断な処置を講じており、入京以後の義経に協力してきた京武者たちも、恩賞を与えることが出来ない義経には与しなかった。都の復興に尽力し「義士」と称えられた義経がこうした形で劇的に没落したことが京の人々に強い印象を与え、伝説化の一歩となった。 退去した義経らに代わって頼朝の代官として入京し、朝廷に介入を行ったのは、かつての弟たちではなく、頼朝の岳父である北条時政であった。未だ幼年である頼家の外祖父であり、嫡男義時が戦功を義経に奪われるなど、時政は義経に強い敵意を抱いていたと考えられる。その没落によって、時政は頼朝後継者の外戚としての地位を決定付け、勢力拡大の端緒を切り開くことができたのである。
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