平治の乱とは? わかりやすく解説

へいじ‐の‐らん〔ヘイヂ‐〕【平治の乱】


平治の乱

読み方:ヘイジノラン(heijinoran)

平安後期平治元年起こった京都の乱。


平治の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/20 19:26 UTC 版)

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。


注釈

  1. ^ 元木泰雄は、『百錬抄』に「信頼の兵」が六波羅に攻め寄せたと記され、また成立年代の古い学習院本「平治物語」でも「信頼方勢揃えの事」という表記があることから、この日の戦いの総大将は藤原信頼であったとみなすべきとしている[1]
  2. ^ 『平治物語』諸本のうち学習院本が最も成立年代が古いものとされている。なお、学習院本は岩波書店の『新日本古典文学大系43 保元物語・平治物語・承久記』に所収されている。
  3. ^ 当時13歳の平宗盛を含めたわずか十数騎の旅であったことや『平家物語』(陽明本)に平家貞が念のために全員分の武装を用意していたとする記述から、清盛は事前に信頼・義朝らの挙兵を知っていた、あるいは清盛自身が乱の黒幕だったのではないか、という説が唱えられたこともある[3]。しかし、道の途中にも平家の郎党の拠点があり彼らが清盛一行の送迎や警固を担当することや、清盛一行の人員も従者らまで含めると総勢はその数倍はいた筈で熊野詣が目的ならば不自然ではない。また、『愚管抄』には宗盛用の甲冑がなくて湯浅宗重の息子(後の上覚)のものを借りている記述があるため、平家貞の逸話が創作の可能性も考慮すべきであるとして、多賀らによるいわゆる「清盛黒幕説」は根拠が乏しいとする反論もある[4]
  4. ^ ただし同書は18日のこととする。
  5. ^ 『愚管抄』。『平治物語』では惟方の弟の藤原成頼が訪れているが、元木泰雄はこれを惟方を無謀な人物に描くための作為とする[6]
  6. ^ 『百錬抄』。『愚管抄』では六波羅に参入とする。『平治物語』ではいったん仁和寺に逃れた後、天皇より遅れて六波羅に参入[6]
  7. ^ 『平治物語』では内裏を警護する信頼派の武士が車の中を改めたところ二条天皇を女房と見誤ったとあるが、『愚管抄』では特に怪しまれずに車が出たとある[7]
  8. ^ 当時の内裏の構造を考慮すると位置関係がおかしくなる[8]
  9. ^ 元木泰雄は、平治の乱は保元の乱と異なり王権の分裂ではなく信西と反信西派の私闘であり、首謀者以外は巻き込まれただけと見なされて処罰は軽く済んだのではないかと推測している[1]
  10. ^ 元木泰雄は、成親らと同様の理由で義朝の子や郎党たちも処罰は軽く済んだのではないかと推測している[1]。また、岩田慎平は、義朝縁者は保護的といっても良い扱いを受けており、義朝は信頼一派に巻き込まれただけという同情が貴族社会にあったのではないかと見ている[9]
  11. ^ 『愚管抄』には「ナクナク仰有ケレバ(泣いて頼み込んだ)」とあり、実際には平身低頭に近かったと思われる。
  12. ^ 古澤直人は11日遅くか12日の事と推定する[19]
  13. ^ 『平家物語』は同国切目とする。

出典

  1. ^ a b c 『河内源氏- 頼朝を生んだ武士本流』中央公論新社〈中公新書〉、2011年
  2. ^ 古澤直人「平治の乱における藤原信頼の謀叛」『経済志林』八〇巻四号(2013年)、のち古澤『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』P119-122.
  3. ^ 多賀宗隼「平家一門」『日本歴史』354号(1977年)や飯田悠紀子『保元・平治の乱』(教育社・1977年)の説
  4. ^ 古澤直人「平治の乱の構図意図をめぐって」『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』P159-170.
  5. ^ 古事談[注釈 4]
  6. ^ a b 元木 p.195
  7. ^ 元木 pp.198-199
  8. ^ 日下力「平治物語解説」『新日本古典文学大系43 保元物語・平治物語・承久記』岩波書店、1992年
  9. ^ 『乱世に挑戦した男 平清盛』新人物往来社、2011年
  10. ^ 『愚管抄』
  11. ^ 元木泰雄『保元・平治の乱 平清盛勝利への道』 角川ソフィア文庫 (2012年初版)kindle版 4.3 挙兵の背景
  12. ^ 古澤「平治の乱の構図意図をめぐって」『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』
  13. ^ 古澤「平治の乱の経緯と結末について」『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』
  14. ^ 元木「保元の乱における河内源氏」『大手前女子大学論集 二二』(1988年)
  15. ^ 本郷『なぞとき清盛』(文春新書、2012年)
  16. ^ 高橋『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ、2007年)
  17. ^ 吾妻鑑』寿永3年4月10日条
  18. ^ 古澤「平治の乱における源義朝の謀反の動機形成-勲功賞と官爵問題を中心に-」『経済志林』八〇巻三号(2013年)、のち古澤『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』に「謀叛関わる勲功賞について」「平治の乱における源義朝の謀反の動機形成」として分割所収。
  19. ^ 『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』P167.



平治の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:23 UTC 版)

源義平」の記事における「平治の乱」の解説

詳細は「平治の乱」を参照 保元の乱の後、摂関家影響力後退し強大な権力有していた治天の君不在という事態に陥っていた。そのような中、信西頭角を現すが、従来院近臣の間には急速に勢力台頭させた信西対す反感生じた。また後白河天皇二条天皇譲位すると、こんどは天皇側近天皇親政目指し、院の側近たる信西敵視するようになり、藤原信頼が反信西派の中心に座るようになる信頼武士にとって必要な物産を産出する陸奥国押さえ、義朝が基盤とした国の一つである武蔵国知行国主であるため、義朝は信頼との関係を深めていく。また信頼は、平清盛にも娘を嫁がせて誼を結ぶようになり、朝廷の武の要というべき立場に立つ。 平治元年1159年12月9日、反信西派により三条殿焼き討ち発生し信西殺害される。この焼き討ちには義朝も加わっていた。熊野参詣で京を離れる清盛留守中を狙ってひそかに挙兵しなければならず、また当初信頼らは清盛が敵に回るとは考えなかったために少数の兵で挙兵したが、義朝は東国にいる義平に援軍要請した。義平は三浦氏上総介氏山内首藤氏など、自身や義朝に私的に親し東国武士のみを率いて都に上った一時的に政権掌握した信西であったが、直ぐに天皇親政派と院政派の間に亀裂生じる。 やがて清盛都に戻ると天皇親政派は清盛手を結び二条天皇六波羅移し藤原信頼謀反人として追討することを決定した12月26日清盛が弟の経盛・頼盛、嫡子重盛などに命じて内裏軍勢派遣する。この日は数時間都において戦闘が行われたが、義平は兵力では大幅に平家軍に劣る信頼軍の中にあって奮戦する(この奮戦状況虚実交えて平治物語』に描かれている。後述)が、戦闘においては敗北信頼降伏したが捕えられて殺害され、義朝一行は東国目指し落ち延びる。 その途中で三弟・頼朝一行からはぐれて行方不明になり、次弟朝長落ち延びる途中で負傷しその傷が元で落命。義平は途中で義朝と離れ東山道から東国をめざすが、途中で義朝の死を知る。その後平治物語』によると、父の仇を討つべく都に戻って清盛の命を狙ったとあるが詳細不明である。しかし翌年永暦元年1160年)に捕えられ、六条河原において処刑された。

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平治の乱

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平頼盛」の記事における「平治の乱」の解説

それを如実に示したのが、平治元年1159年)に起こった平治の乱だった。頼盛は27歳重盛22歳であり、「平氏ガ方ニハ左衛門佐重盛三河守頼盛、コノ二人コソ大将軍ノ誠ニタタカイハシタリケルハアリケレ」とあるように、平氏軍主力率いて戦場臨んだ。『平治物語』では重盛活躍華々しく記されているが、頼盛も父から譲り受けた名刀抜丸」で奮戦するなど、合戦大きな役割果たしていたことがうかがえる。 乱は平氏勝利終わり、頼盛は尾張守となった。翌永暦元年1160年2月、頼盛の郎等平宗清逃亡中の源頼朝捕らえた尾張国京都東国を結ぶ交通の要衝に当たるため、頼盛が尾張守任じられたのは、東国逃れる源氏残党追捕するための措置だったとも考えられる。『平治物語』では、頼朝が家盛に生き写しだったことから宗子助命奔走したとするが、実際に頼朝仕えていた上西門院待賢門院の娘、後白河同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田大宮司家(頼朝母方親族)の働きかけよるもの推測される

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平治の乱

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平賀義信」の記事における「平治の乱」の解説

信濃国佐久郡平賀郷(現在の長野県佐久市)を本拠として、平治元年1159年)の平治の乱に、源義朝に従って出陣する。『平治物語』には平賀四郎義宣と記され三条河原での戦いで奮戦する義宣(義信)を見た義朝が、「あぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」と郎党達に救うように命じている様が描かれている。義朝敗戦の後、その東国への逃避行付き随った7人の1人となる。『平治物語』では、尾張国知多郡内海長田忠致館で義朝の最期知った直後逃亡成功して生き延びるその後地理的に本拠地のある信濃向かった考えられるが、以後20年余に渡って史料からは姿を消す。 なお『平治物語』には、佐渡式部大輔重成(八島重成)と共に従子」と記されている。この従子現代語訳では従兄弟訳されることもあるが、この場合血縁上の従兄弟ではなく一門ではないが、近い源氏」という意味である。また文脈から「一族同様に信頼した若武者」と解釈する向きもある。

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平治の乱

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源義朝」の記事における「平治の乱」の解説

詳細は「平治の乱」を参照 平治元年12月9日1160年1月19日)、義朝は、源光保源季実源重成と共に藤原信頼組んで後白河院信任厚い信西らがいると目され三条殿襲撃する。 平治の乱の原因として旧来の説では先に触れたような『平治物語』の記述史料保元の乱での清盛との恩賞格差に義朝が不満を抱いたという源氏平家因縁説、縁談不成立などによる信西への冷遇怨恨説その結果同じく信西を憎む藤原信頼組んだなどと義朝の動機中心に説明されることが多かった。また信頼も『平治物語』には「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし。ただ朝恩にのみほこりて」と酷評されており、『愚管抄』でも同様である。しかし、そのような通俗的理解竹内理三元木泰雄研究により見直されている。また、信頼従った武士達も義朝のみではなくそれぞれの独立して権門仕え武家自分意志信頼についたであって、義朝の指示信頼方についた訳ではない。 平治の乱の原因実際に後白河院政派二条天皇親政派の対立、そしてその両派共に反信西グループがいたこと、それらを後白河がまとめきれなかったことにあるとされる。 義朝と藤原信頼の関係も信西憎し一点で結びついたという説は理解しすいものの、義朝が信頼従ったのは信頼は義朝が南関東勢力拡大していた時の武蔵守で、その後知行国主であり、義朝の武蔵国への勢力拡大も突然の従五位下下野守への除目信頼らの支援があってのことと思われる信頼はそうした武蔵国中心とした地盤から、保元の乱により摂関家家政機構武力解体した後においてはそれに代わって関東武士達を京の公家社会供給できる立場にあった三条殿襲撃し逃れた信西倒して以降信頼政局中心に立つ。信西追討恩賞として義朝は播磨守任官しその子頼朝右兵衛佐に任ぜられた。しかし信西倒したことによって元々信西憎し一点だけで結びついていた後白河院政派二条天皇親政派は結束する理由無くなり空中分解始める。そして今度藤原信頼二条天皇親政派との反目発生する離京していた清盛勝者信頼臣従するそぶりを見せて都に戻るがその後二条天皇親政派らの謀略によって二条天皇清盛六波羅邸に脱出し形勢不利を察した後白河上皇仁和寺脱出するこの段階で義朝は全ての梯子外されたかたちとなった藤原信頼らに当初同意していた光保は元々二条天皇親政派であるため信頼陣営から離反源頼政信頼陣営から距離を置き廷臣たちも続々六波羅出向いたため清盛官軍地位獲得した。こうして一転賊軍となった信頼・義朝らは討伐対象となり、ついに12月27日2月6日)に京中戦闘開始される平家らの官軍兵数大幅に劣っていた義朝軍は壊滅する

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平治の乱

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信西」の記事における「平治の乱」の解説

詳細は「平治の乱」を参照 やがて院政派の藤原信頼親政派の大炊御門経宗葉室惟方らは政治路線違い抱えながらも、信西打倒向けて動き出すことになる。信頼源義朝配下治め二条天皇に近い源光保味方につけ、軍事的な力を有するようになっていく。その中にあって最大軍事貴族である平清盛信西信頼双方婚姻関係結んで中立的立場にあり、親政派、院政派とも距離を置いていた。 平治元年1159年12月清盛熊野詣に出かけ都に軍事的空白生じた隙をついて、反信西派は院御所三条殿襲撃する信西事前に危機察知して山城国田原避難し郎党命じ竹筒空気穴をつけて土中埋めた箱の中に隠れていたが、郎党尋問した追手発見された。掘り返された際に、自ら首を突いて自害した享年55掘り起こした時には、目が動き息もしていたという。追っ手信西首を切って京に戻り、首はさらし首にされた。また、信西息子たち信頼命令によって配流された。 学問優れ藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られた。『今鏡』でもその才能絶賛する一方で陰陽道の家の出でもないのに天文通じたがために災い受けたのだと評されている。

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平治の乱

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源頼朝」の記事における「平治の乱」の解説

詳細は「平治の乱」を参照 平治元年1159年12月9日、義朝は藤原信頼と共に後白河上皇二条天皇内裏捕える14日13歳頼朝右兵衛権佐へ任ぜられる。26日上皇天皇内裏から逃れる27日官軍となった清盛らが内裏へと攻め寄せ賊軍となった義朝らは敗れて京を逃れ東国目指す永暦元年1160年2月9日頼朝近江国で捕えられ京の六波羅送られ死刑を当然視されるが、清盛継母池禅尼嘆願などにより死一等を減ぜられる。なお、助命嘆願には後白河院上西門院意向働いていたとの説もある。また、平治の乱の本質院近臣同士争いであり義朝は信頼従属する者の一人過ぎずその子供達の処分軽度であったのも当然とする見解示されている。3月11日伊豆国へと流刑された。 なお、次兄朝長負傷により美濃国青墓落命し、義朝は尾張国野間にて長田忠致により謀殺され、長兄の義平は都で処刑され同母弟の源希義土佐国流刑されている。

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