澄憲とは? わかりやすく解説

ちょうけん【澄憲】

読み方:ちょうけん

[1126〜1203]平安末期から鎌倉前期にかけての天台宗の僧。藤原通憲の子法印大僧都平治の乱下野流されたが、晩年京都安居院(あぐい)に住み唱導説法)で布教安居院唱導の祖とされる編著に「言泉集」「釈門秘鑰」など。


澄憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 03:49 UTC 版)

澄憲(ちょうけん、大治元年(1126年)- 建仁3年8月6日1203年9月12日))は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての天台宗の僧。父は藤原通憲(信西)。蓮行房・安居院法印とも号する。娘に勅撰歌人の八条院高倉がいる。

経歴

珍兼に師事して天台教学を学び、初め比叡山北谷竹林院に、その後は竹林院の里房である安居院に住した。平治元年(1159年)におきた平治の乱では下野国に配流となったが、まもなく帰京している。承安4年(1174年)、最勝講で祈雨法を修して権大僧都に任じられ、治承元年(1177年)には明雲から一心三観の血脈を相承した。多くの法会で導師を勤めた。

二条天皇中宮であった姝子内親王密通したとされ、弟子の海恵は、澄憲と姝子内親王の間の子であるといわれている[注釈 1]

唱導の名人

澄憲は説法唱導の名人として知られ、安居院流唱導(安居院唱導教団)の祖とされている。 その父譲りの知識から来るわかりやすさ、そして美声は「富楼那尊者の再誕」「説法の上手」と評され人びとを惹きつけ、多くの聴衆の感涙を誘ったと伝わっている[1]

法然に帰依し、その弟子として高名であった澄憲の息子の聖覚もまた「舌端玉を吐く」と称されるほどの唱導の名手であった。澄憲譲りの聖覚の才能により、浄土宗は唱導の力を取り入れ、世間への布教が進んだ。また、法然門下での弟弟子に親鸞がいる。聖覚を尊敬していた親鸞は、聖覚の安居院流唱導の技術を手本に、浄土真宗の庶民布教を行った。

澄憲の著作としては、『源氏表白文』『法滅の記』『唱導鈔』『澄憲作文集』『澄憲作文大体』『澄憲表白集』『言泉集(ごんせんしゅう)』など、聖覚の著作としては『唯信鈔』などが知られる。

系譜

  • 父:藤原通憲(信西
  • 母:高階重仲の娘
  • 妻:不詳
    • 男子:真雲(?-?)
    • 男子:聖覚(1167-1235)
    • 男子:覚位
    • 男子:宗雲
    • 男子:理覚
    • 男子:恵聖(?-?)
    • 男子:恵敏
    • 男子:恵真
  • (密通):高松院姝子内親王
    • 男子:海恵(1172-1207)
    • 女子:八条院高倉(1176?-1248?) - 勅撰歌人

脚注

注釈

  1. ^ 九条兼実の日記『玉葉』に記載されている。

参照

参考文献




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