かまくら‐じだい【鎌倉時代】
鎌倉時代 (かまくらじだい)
鎌倉時代
鎌倉時代(中興と大江氏)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:54 UTC 版)
「慈恩寺 (寒河江市)」の記事における「鎌倉時代(中興と大江氏)」の解説
文治5年(1189年)に奥州藤原氏が滅び、寒河江荘の地頭に大江広元が補任されると、慈恩寺も次第に大江氏(寒河江氏)の庇護を受けるようになる。広元の長男大江親広は建久3年(1192年)に寒河江荘を譲り受けるが、承久3年(1221年)承久の乱で失脚し寒河江荘に隠棲する。ただし、親広の子の大江広時、広時の子の大江政広は鎌倉幕府の要職にあり鎌倉に定住していたため、政広の子の大江元顕が初めて寒河江に入部したと言われている。『永正本大江系図』によれば、広元の末子・尊俊が別当坊を継いだことが記録され、『最上院系図』によると親広の孫・成広が別当二十二代を相続して幸繁を称し、三十代幸海・三十五代幸道も大江氏から入った。このことは端的に、慈恩寺と大江氏が密接な関係を結んでいたことを示している。安貞2年(1228年)、勧進僧恵玄房経円が白山神社御宝前に木造の聖観音懸仏を納める(奈良国立博物館所蔵)。正応3年(1290年)、良源阿闍梨により求聞持堂が築造され、虚空蔵菩薩像を安置して聞持院と称した。ここでは虚空蔵求聞持法という密教の修行を行った。ここには、これ以前に薬師堂が建てられており、薬師三尊及び十二神将を安置していたという。永仁4年(1296年)に火災で本堂及び本尊弥勒菩薩以下の諸仏が焼亡するが、正安元年(1299年)に再建が開始され、8年後に完成している。 正慶2年(1333年)、鎌倉幕府が新田義貞によって攻め込まれると、中央で鎌倉方に与した大江貞広なども北条高時に殉じた。貞広の弟懐顕や子顕広は寒河江氏を頼って落ち延びてくることになるが(『大行院大江系図』)、このことが契機となり、寒河江氏は南朝方陸奥守北畠顕家の配下に付いた。元顕の子元政は建武3年(1336年)に北畠軍による足利尊氏の攻撃に参加し、戦功を挙げている(『金仲山眼明阿弥陀尊略縁起』)。しかし、尊氏が軍を立て直して京を奪回すると延元3年(1338年)には北畠顕家が和泉国堺石津で戦死。同年、新田義貞が戦死し、翌年には後醍醐天皇が没して南朝は苦戦を強いられるようになる。東北地方においては、北畠顕家の弟北畠顕信が下向し、寒河江氏はその元で寒河江荘北方を奪還するなど慈恩寺近辺においても戦乱の様相を呈する。文和3年/正平9年(1354年)、斯波家兼が北朝の奥州管領として下向すると陸奥国は北朝の勢力下となり、延文元年/正平11年(1356年)、子の斯波兼頼が出羽国に進出し、延文4年/正平14年(1359年)に大江元政が打ち取られたという。 これ以降、寒河江氏は斯波氏(後の最上氏)の圧力にさらされることになり、延文元年/正平11年(1356年)に火災で慈恩寺本堂・釈迦堂以外が焼亡しているが、大規模な造修の記述も乏しくなる。さらには応安元年/正平23年(1368年)、大江氏と斯波氏は漆川の戦いで激突し、大江氏は滅亡こそ免れたものの寒河江時氏以外の一族61人を失うという壊滅的な打撃を受けて北朝へ降伏。時氏の子元時を鎌倉に人質として出し、所領は縮小されたものの安堵された。これ以降、東国における南朝側の組織的な抵抗は収束し、慈恩寺も一時の平穏を得ることになる。しかし、慈恩寺を庇護する寒河江氏の勢力縮小は、寺社経営を宗徒による自活へと舵を切らせる。 康暦2年/天授6年(1380年)、伊達氏が長井氏領置賜に侵攻し、鎌倉公方が近隣豪族へ救援を命令して退却させることに成功する。しかし伊達氏の侵攻は執拗に続き、至徳2年/元中2年(1385年)に長井氏は本拠地置賜郡を失い衰退してしまう。伊達氏と長井氏はともに北朝側であり、伊達氏は国人領主として力を蓄え、長井氏は室町幕府の要職であった。伊達氏のこの行動は幕府権力からの強い独立志向を感じさせる。この伊達氏の侵攻により、寒河江氏は伊達氏・最上氏と接することになり、双方の内訌や争いに度々巻き込まれることになる。応永2年(1395年)、慈恩寺衆徒が弥勒堂の神輿を箕輪郷(寒河江市箕輪)に振置きして、箕輪郷を寺領としたという。応永6年(1399年)、稲村・篠川に鎌倉方の御所が開設されると、伊達・大崎氏が反旗を翻し幕府(京都)側がこれを支持したため、京都、鎌倉の代理戦争が勃発する。寒河江氏はこの時、幼少期を人質として鎌倉で過ごした寒河江元時の時代であったので鎌倉側に付いたと思われ、応永9年(1401年)には伊達氏苅田城攻めに参加している(『戸沢家譜』)。結局、永享の乱の終結により稲村・篠川御所が廃止される1440年頃まで小規模な戦乱状態であったと考えられる。 大江広元 親広(寒河江荘地頭) 広時 政広 元顕 元政 時茂 溝延茂信 時氏 時広(長井氏) 広顕 貞広 顕広 家広 宗元(那波氏) 懐広 元時 氏政 季光(毛利氏) 重祐 元氏 幸海 冬政 忠成(海東氏) 寒河江時氏 元時 尊俊(慈恩寺別当)
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鎌倉時代(堺北荘と堺南荘)
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鎌倉時代には京都、奈良など後背都市の産業を背景に南北の堺荘が成立した。
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「鎌倉時代」の例文・使い方・用例・文例
- 鎌倉時代の初期のころに
- そのお寺は鎌倉時代に作られました。
- 鎌倉時代以降,神社や寺院などで絵などを扱った部署
- 鎌倉時代以降,神社や寺院などに所属した絵師
- 平安時代や鎌倉時代の,大番役という職務
- 平安時代や鎌倉時代の,大番役という職を務めた人
- 平安時代末期から鎌倉時代において,高利貸しをすること
- 平安時代末期から鎌倉時代において,高利貸しをする者
- 平安時代末期から鎌倉時代に興福寺で作られた木版の経典類
- 鎌倉時代に禅宗とともに宋から伝来した仏寺の建築様式
- 鎌倉時代などの,訴訟手続きの添え書き
- 曲舞いという,鎌倉時代から室町時代にかけて流行した芸能
- 鎌倉時代や室町時代における抵当
- 平安,鎌倉時代のすぐれた筆跡
- (平安時代から鎌倉時代にかけて)種々の俗謡
- (鎌倉時代の)執権という役職
- 鎌倉時代にが,荘園関係の仕事をする全国の荘園に置いた職名
- 鎌倉時代から室町時代において,宴席で歌われた歌
- 大仏様という,鎌倉時代の建築様式
- 鎌倉時代において,大犯三箇条という,守護の権限
鎌倉時代と同じ種類の言葉
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