ここんちょもんじゅう〔ココンチヨモンジフ〕【古今著聞集】
古今著聞集
読み方:ココンチョモンジュウ(kokonchomonjuu)
古今著聞集
古今著聞集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 15:14 UTC 版)
古今著聞集(ここんちょもんじゅう)は鎌倉時代、13世紀前半の人、伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集。単に『著聞集』ともいう。事実に基づいた古今の説話を集成することで、懐古的な思想を今に伝えようとするものである[1]。20巻30篇726話からなり、『今昔物語集』に次ぐ大部の説話集である。1254年(建長6年)10月頃に一旦成立し、後年増補がなされた。今昔物語集・宇治拾遺物語とともに日本三大説話集とされる。
- ^ 福田益和、「「古今著聞集」小考 : 名義をめぐって」 九州大学国語国文学会 『語文研究』 37巻, p57-66, 1974-08-00, doi:10.15017/12146, ISSN 0436-0982。
- ^ 福田益和、「古今著聞集研究序説」『長崎大学教養部紀要. 人文科学』 1975年 16巻 p.1-9, ISSN 02871300。
- ^ 鳥羽僧正の秘画『勝画』の発見高島経雄、文芸社, 2000。
- ^ 志村有弘, 「寛延四年版「続古事談」について : 古今著聞集説話伝承関係」『国文学研究』 8巻 p.71-82, 1972-11-25, 梅光女学院大学国語国文学会。
- ^ 古今著聞集(岩波書店、日本古典文学大系84)の「解説」による。
- ^ 古今著聞集の跋文にも「部をわかち巻をさだめて、三十篇二十巻とす。篇のはしばしに、いささかそのことのをこりをのべて、つぎつぎにそのものがたりをあらはせり」(一部表記を改めた)とある。
- ^ すなわち、「いにしへよりよきこともあしきことも記しおき侍らずば、誰か古きを慕ふ情けを残し侍るべき」(いにしえからの良いこともまた悪いことも、記録して置かなかったら誰が古い時代のことを懐かしむでしょうか)とある。
- ^ 福田益和、「古今著聞集の研究(2) -古今著聞集と徒然草-」『長崎大学教養部紀要. 人文科学篇』 1981年 21巻 2号 p.1-20, ISSN 02871300, NCID AN00205408。
- 1 古今著聞集とは
- 2 古今著聞集の概要
- 3 参考文献
古今著聞集
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1254年に成立した『古今著聞集』に次のようなエピソードがある。 伊勢國別保(べつほ)といふ所へ、前(さきの)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)忠盛朝臣(あそん)下りたりけるに、浦人日ごとに網を引きけるに、或日大なる魚の、頭は人のやうにてありながら、歯はこまかにて魚にたがはず、口さし出でて猿に似たりけり。身はよのつねの魚にてありけるを、三喉ひき出したりけるを、二人してになひたりけるが、尾なほ土に多くひかれけり。人の近くよりければ、高くをめくこゑ、人のごとし、又涙をながすも、人にかはらず。驚きあざみて、二喉をば、忠盛朝臣の許へもて行き、一喉をば浦人にかへしてければ、浦人みな切り食ひてけり。されどもあへてことなし。その味殊によかりけるとぞ。人魚といふなるは、これていのものなるにや。(口語訳)平忠盛が伊勢國別保(現・津市)に来た時のこと、現地住人は毎日網を引いていたが、ある日大きな魚が捕れた。頭部は人のそれに似ていたが、歯は細かく魚のそれ、口が突き出ていて猿に似ていた。身は一般的な魚のそれである。3匹水揚げされた。2人で担いでも尾は地面を引きずった。人が近づくとうめき声を出し、また涙を流すのも人と変わらなかった。(現地住人は)驚きあきれて、2匹を平忠盛のもとに持ってきた。うち1匹を現地住人に返すと、皆で切って食べてしまった。とくに別状はなかった。 味はとりわけ美味であったという。人魚というのはこのようなものを指すのだろうか。 — 橘成季、
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