くじょう‐みちいえ〔クデウみちいへ〕【九条道家】
九条道家
九条道家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 23:45 UTC 版)
九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。太政大臣・九条良経の次男。官位は従一位・准三宮、摂政、関白、左大臣。九条家3代当主。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経の父。
注釈
- ^ a b 当時の西園寺公経の影響力を疑問視する説[1]もある。
- ^ 父 道家、母 掄子はともに頼朝の同母妹 坊門姫の孫にあたり、頼経は父母双方から源氏の血を引いている。
- ^ 仲恭天皇の追諡は明治3年(1870年)7月の太政官の布告による。
- ^ 近衛家実の娘・長子を中宮としていた後堀河天皇は道家の家実排除と関白就任(安貞二年の政変)を快くは思っておらず、将来的には後堀河天皇が譲位をして院政を行うことが決まっていたにも関わらず、道家は彗星の出現などを口実として天皇の抵抗や幕府の反対意見を排して譲位の日程を強引に定め、これまで道家に好意的であった天皇生母の北白河院でさえも道家が外祖父になりたいがために譲位を強行したと批判したという(『民経記』貞永元年閏9月28・29日条)[2]。
- ^ 当時、後鳥羽法皇は死去していたが、順徳上皇は佐渡で健在だった。
- ^ 近年、雅成親王ではなく、忠成王の誤りとする説もある。雅成親王は順徳上皇の同母弟、忠成王は上皇の第五皇子であることから、いずれにしても順徳上皇・仲恭天皇亡き後にその皇統を継承し得る人物であった[6]。
- ^ 『吾妻鏡』延応2年3月6日条の将軍頼経の妹が尚侍に就いた記事と『五代帝王物語』藤衣巻の竴子と内侍のかみ(尚侍)が(西園寺)太政大臣の娘を母とするとした記事から、頼経・竴子・佺子は西園寺公経を外祖父とする同母兄弟とする。
出典
- ^ 本郷和人『人物を読む日本中世史 頼朝から信長へ』講談社選書メチエ、2006年、ISBN 4062583615 など。
- ^ 曽我部愛「後高倉王家の政治的地位」(初出:『ヒストリア』217号(2009年)/所収:曽我部『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P.24-30.
- ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、P190-196.
- ^ 『明月記』4月6・16日、5月14日条。
- ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 2023年、P91-94.
- ^ 曽我部愛「〈宮家〉成立の諸前提」『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7 P.218-232.
- ^ 高松百香「鎌倉期摂関家と上東門院故実-〈道長の家〉を演じた九条道家・竴子たち」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年)P184-185より[注釈 7]。
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