九条教家とは? わかりやすく解説

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九条教家

読み方くじょう のりいえ

鎌倉時代公卿漢詩人藤原良経二男。号は弘誓院法名は慈観。25才の時大納言に任ぜられたが嘉永元年32才の若さ突如出家をする。詩歌優れ能書家として聞こえた。書は、曽祖父藤原忠通法性寺流流れ汲み父の後京極流属しながらも独特の弘誓院流を確立する建長7年(1255)歿、62才。

九条教家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/11 07:23 UTC 版)

 
九条教家
時代 鎌倉時代前期
生誕 建久5年(1194年
死没 建長7年4月28日1255年6月4日
改名 教家→観空→慈観(法名)
別名 号:弘誓院
官位 正二位大納言
主君 土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇
氏族 九条家
父母 父:九条良経、母:一条能保の娘
養父:九条良輔
兄弟 立子慶政道家教家基家、良尊、道慶
養兄弟:良平
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九条 教家(くじょう のりいえ)は、鎌倉時代前期の公卿書家太政大臣九条良経の次男。九条良輔の養子。官位大納言。なお、家名に関しては養父の良輔が八条院の養子になった経緯から、九条家とは別の八条家という別の家の存在を指摘する説もある[1]

経歴

12歳で近衛中将となり、承元元年(1207年11月29日には14歳で従三位に叙される。建暦元年(1211年)1月に中宮権大夫建保2年(1214年)1月に中納言、同6年(1218年)1月に中宮大夫、12月に大納言に任じられる。また、書家としても優れ、弘誓院流を確立する。

嘉禄元年(1225年9月3日に32歳で明恵を戒師として出家した。『公卿補任』によれば「菩提心」によるものとされているが、一説によれば養父・良輔の没後、九条家の実権を取り戻した教家の実兄・道家による追い落としの圧迫を受けたことに加え、良輔・教家親子の後見人的な存在であった慈円が危篤に陥り(9月26日死去)、将来を悲観したとする説もある(教家の出家により、道家の嫡男九条教実は上臈大納言となり、更に教家が任じられていた橘氏是定の地位を奪った)。なお、3日後には良輔・教家父子に仕えていた藤原光家定家の子)もこれに倣って出家している。

系譜

脚注

  1. ^ 樋口健太郎「八条院領の伝領と八条良輔」(初出:『年報中世史研究』40号(2015年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3

参考文献



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