じえん〔ジヱン〕【慈円】
じえん 【慈円】
慈円
慈円
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/11 00:30 UTC 版)
| 慈円 | |
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| 久寿2年4月15日 - 嘉禄元年9月25日 (1155年5月17日 - 1225年10月28日)[1] |
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| 号 | 北山樵客 |
| 諡号 | 慈鎮和尚 |
| 宗旨 | 天台宗 |
| 師 | 明雲 |
| 著作 | 『愚管抄』 |
| 廟 | 善峯寺、今熊野観音寺、安養寺、延暦寺 |
慈円(じえん、旧字体:慈圓)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧、歌人。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。
父は摂政関白・藤原忠通[2]、母は藤原仲光女加賀。摂政関白・九条兼実、太政大臣・藤原兼房は同母兄にあたる。
経歴
幼いとき11歳に青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)に天台座主・明雲について13歳で受戒。治承2年(1178年)、法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継いだ(なお、覚快は生前に別の人物に譲る意向があったが、慈円の兄である九条兼実が慈円に譲らせようと圧迫したと伝えられている。また、行玄から覚快への継承に異論を抱いていた実寛も慈円への継承に反対したため、覚快・実寛両者が没するまで継承できなかったという[3])。
建久3年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。
天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇の配流とともに兼実の曾孫である践祚した懐成親王(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して懐成復位を願う願文を納めている[4]。『愚管抄』には「鳥羽法皇が亡くなった後に動乱が続いて武者(むさ、武士)の世となった」と記しており、建久3年(1192年)や文治元年(1185年)に成立したとされる鎌倉幕府以前から武士の時代が既に始まっていたことを、当時から認識していたようである[5]。また、『門葉記』に採録された覚源(藤原定家の子)の日記[6]には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。
また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧には否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)、9歳の時に慈円について得度を受けている。
歌人としても有名で家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられている。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えた。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たという。また、『井蛙抄』に残る逸話に、藤原為家に出家を思いとどまらせて藤原俊成・藤原定家の跡をますます興させるようにしたという。『小倉百人一首』では、「おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで」の歌で知られる。越天楽今様の作詞者でもある(歌詞はs:謡物を参照)。
慈円は聖徳太子信仰に篤く、晩年に夢想による十禅師神(日吉社の神、聖徳太子と同体視された)の託宣を深く恃みにしていた[7]。慈円が元仁元年(1224年)に新礼拝講を創始したことで十禅師信仰が確立され、平安末期から盛んになり、鎌倉初期にかけて隆盛した[8][9][10]。慈円は神仏習合の観念を受容し、日吉社の山王権現、最終的に特に十禅師を信仰し、その力で鎮護国家を成し遂げようとした[11]。
墓所としては善峯寺、今熊野観音寺の他、東山区安養寺の宝塔を慈円の墓とする言い伝えもある。
十禅師との子どもの伝承
中世には、十禅師社を拠点とし憑依・託宣を行う巫者集団「廊御子」があり、『廊御子記』(1603年)では、十禅師が稚児に変じて性欲に苦しむ慈円を憐れんで夜な夜な通い慰め、性交から子が生まれたとされ(慈円は「其間ノさいあひの物」を谷底に捨て(山本一は、「さいあひ」は子種を意味することもあるため、これは稚児との性交の後、精液などを拭いとった汚物と解釈している)、その子種が母胎を経ることなく変成して子どもになった)、この子どもが「廊御子」の始祖とされた[7]。このエピソードは慈円の十禅師信仰に根差している[7]。
ただしこれは中世後期の伝承であり、鎌倉初期を生きた実際の慈円の言説とは無関係と言える[12]。ライデン大学のオリ・ポラト(Or Porath)は、十禅寺と慈円の関係は性的なものとして神話化されたと述べている[13]。
慈円願文(貞応3年正月20日)
謹敬白聖徳太子十禅師権現而言、冥顕隔境、凡意易迷、唯以夢知未来、従古存先規、爰太子聖霊夢中賜新宮御体、書文字於札、可興隆仏法王法之象也、新宮社者山王也、賜御体者太子也、件文字・和歌詞書漢字、和歌者山王影向之告、漢字者吾神利生之誓、事已奇異也、其後送年月、此間参当寺天王、雖祈遁寺務、則亦有テ夢告、于今未避、是以、常恒祈願中心之不審於山王、或今亦敬白暮年之進退於太子、其霊告以後経歴九箇年、其間夢告甚多、信之経歳、従尓以降、或東将戮于社、或幼童替于跡、或妻后誕皇子、以受禅、或外舅居執政、以拝任、一々似叶彼霊告、各々亦足信冥感、而間忽以依違、甚不足言、其一々之違乱、末代有道理、此念々之祈請、発智有信心、世上次第之衰微、後末展転之因果、記由来備冥鑑、彼鳥羽法皇崩御、則鳳欠仙洞之君内覧執政之臣在両方、企合戦、君兄弟也、臣兄弟也、相続而亦近臣反逆、信頼与信西、源平競鉾、義朝与清盛、新院先配于讃州、義朝後誅于濃州、彼清盛昇太政大臣、出家入道、立女子於后誕生皇子、即立坊践祚、誇外祖之例、奪法皇之政、誅以仁皇子、焼大仏南都、剰奉篭法皇於鳥羽、忽張行遷都之儀式、当于斯時、伊豆国流人義朝男頼朝、欲奉扶君之聖運、発兵於諸国、北陸義仲先立来江州之間、清盛息男前内大臣宗盛以下集軍兵、奉守護君之時、法皇偸カ遁出武将之手、攀登叡山之峯之日、即時平氏武士奉戴天皇、忽引一族、早落西海、先陣義仲打入洛中、頗与平氏将対頼朝、于時法皇儲軍、与義仲合戦、官軍早破両月執天下政、則亦頼朝発帥攻義仲勝負、北軍又破一時武将滅亡、東帥誅義仲訖、重追至西海、舟帥忽靡波上流血之時、天皇与璽剣倶祖母尼公懐之入海底訖、実剣者沈而不見、神璽者浮而顕現、宗盛称生取、以呈耻、頼朝定死罪、以刎頭云々、彼天皇与宗盛、落去王城之時、法皇以高倉院第四皇子受禅、而今神璽内侍所御洛帰、世以知王法不尽而已、其後、天下似静謐、已卅有余年、此間於関東、前右大将頼朝息男等甚以乱逆云々、外祖時政、誅嫡子頼家、由次男実朝、又則欲誅実朝云々、爰母堂禅尼時政娘也、令舎弟義時・郎従義村等、篭置父時政於伊豆本国、養育子実朝於鎌倉本宅、実朝成人之後、任右大臣、所奉勧請鎌倉館之拝賀八幡宮之間、頼家息男僧雖補彼宮別当、中心畜打父敵、得此隙於宝前、刎其首於剣鉾訖、数千之郎従在外陣、而不知之、一人之義村聞敵僧、而即誅之其後母堂禅尼・義時朝臣等、迎取左大臣若公称将軍仰崇、今之上皇御脱屐之後、二人皇子践祚、今復摂録家中宮誕生君、一歳立坊、四歳受禅、将軍親父左丞相為外舅摂政、末代之美談也、吾国之大本也、然間忽可追討関東武士義時之由、被下宣旨云々、武士等聞之、同心合力、悲将軍之跡、攻上洛都、于時官兵令退散、上皇御寒心云々、則草創天下忽有立王事、摂録又違乱、称辞遁之由云々、万事如夢、一朝似無、光仁天皇之後卅七代、未聞孫王之践祚、亦以三院癈遠島、指五卿梟其首、非語之所及、非心力之所測、君之積悪至極、而宗廟成瞋歟、代之時運莅末、社稷失政歟、而間今上御慈父入道親王、蒙尊号而政理天下、則亦彗星現天、纔両三年之後崩後早訖、世上之云為如何、主上十一二歳、武将在関東、前後法皇或没而御他界、或存而御遠行、今摂録之父子失和漢之才、闇天下之政、可悲者秋也、但今猶天変地変之告荐以聞、神社仏寺之勤、非不修、今老僧所仰信之霊告如何、所障礙之魔雖不審、訪之冥感、重唖已除癒、推之凡意、社参遂百日、此間当寺天王々務再三雖奏辞表、毎度無勅許、因茲、企寺之修造帰参、祈病之平否送日、此後之進退復奈何、此身之安否已迷惑、王法之恙者課末代、兮可待道理哉、老身之告者期八旬、可恃余命哉、就之、亦非無夢告、幼主之重祚・上皇御帰洛、摂政之還補、将軍之成人、皆以似有所遅而已、残涯幾許、都以論之、悉出自冥衆之告、併入于利生之願、山王之納受、太子之冥助、為之如何、中心之一篇只歩菩提之覚路、上智之安立頗知利衰之八法、願也、吾太子十禅師権現聖霊照見仏子懇念、重欲請夢告、已在前、而為足亦信彼、欲待老与病、以迷心、今仏子所奉結于十弾師太子之宿縁尤深、所卑下于小心量之思慮不浅、必以方便之示現、休御老病之心神、唯所欣求者、在仏前而無病、頓取死、住正念後生必離三悪、仏教之智慧為出離之媒介哉、世俗之道理為徳政之助縁哉、知見之前冥感之至、如何得知之、如霊告者成疑者是不信之至也、無信者亦短慮之恨也、而空送年月、既満七旬訖、争無天魔之疑哉、更非不信之咎歟、所迷者皆依償過去之罪業也、所悟者是為発懴悔之信心也、重請太子十禅師権現聖霊聞食此仏子告文、必垂悲愍、
敬白、
已上告文参社之間、改太子詞於十禅師、備権現知見也、貞応三年正月廿日、自倭庄宿所、出京白川殿上廊、同廿一日参着天王寺、同廿二日入室、其後自同廿九日七ケ日之間、於聖霊院読此告文、参着之後令草之也、廿九日於金堂同読申之了、同二月五日書落事等切入之了、此間絵堂事致沙汰、図本体絵出来了、図裏九品往生之間也、同三月四日所労更発、不快之間、企上洛、同令宿白川中二ケ日、同七日越坂本、如前令宿倭庄宿所、同八日朝宮廻了、則服葱七ケ日、同十五日止之了、本病猶不快、同十六日夕以俊範大僧都、寄木入道大津太郎家行向令占之、而件入道無左右答云、不可有別事、季節之間、令更発、其上聊不一向歟、所禦品也云々、聞此占訖、深有覚悟之旨、一仏一切仏之悟、年来卑下凡智、未瑩其悟、今取一仏之日、可取有縁仏神歟、次神明者一切仏菩薩明王天等万廷、不限一尊、摂多尊於一社、入一社於多尊歟、只所詮、一向可奉念吾十禅師、就之浅深之悟、並可瑩之也、第八第九告文、又以俊範僧都啓告之、
伝治二品親王(花押)、
関連作品
- 映画
- テレビドラマ
脚注
- ^ 『慈円』 - コトバンク
- ^ “「慈円」―歴史に流れる「道理」を説いた天台僧―”. DANAnet(ダーナネット) (2017年9月15日). 2020年10月11日閲覧。
- ^ 稲葉伸道 著「青蓮院門跡の成立と展開」、河音能平; 福田榮次郎 編『延暦寺と中世社会』法蔵館、2004年。/所収:稲葉伸道『日本中世の王朝・幕府と寺社』吉川弘文館、278-280・303頁。
- ^ 『鎌倉遺文』3202号貞応3年正月「慈円願文」
- ^ 『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』、2020年10月発行、繁田信一、文芸春秋、P3~P4
- ^ 仁治3年正月24日条
- ^ a b c 舩田 2007, pp. 81–82.
- ^ 佐藤 2003, p. 42.
- ^ 菅原 1987, p. 13.
- ^ 山本 2023, p. 104.
- ^ 曽根原 1997, pp. 61–62.
- ^ 山本 1995, pp. 23–24.
- ^ Porath 2022.
参考文献
- 菅原信海「山王七社の形成」『東洋の思想と宗敎』第4巻、早稻田大學東洋哲學會、1987年6月13日、1-19頁、CRID 1050001202467374336。
- 佐藤眞人「日吉社の巫女・廊御子・木守」『巫覡・盲僧の伝承世界 第2集』福田晃・山下欣一 編、三弥井書店、2003年。
- 曽根原理「安居院澄憲の山王信仰」『東北大学附属図書館研究年報』第30巻、東北大学附属図書館、1997年12月1日、45-66頁、 CRID 1050290088539335168。
- 多賀宗隼『慈円』吉川弘文館〈人物叢書〉、1959年。
- (新装版)1989年 ISBN 9784642051538
- (オンデマンド版)[1]2021年 ISBN 9784642751537
- 多賀宗隼『慈円の研究』吉川弘文館、1980[2] エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
- (オンデマンド版)[3] 2017年 ISBN 9784642725514
- 鈴木正道『慈円研究序説』桜楓社、1993年。
- 舩田淳一「中世叡山律僧の神祇信仰について--本覚思想との関係から」『日本思想史学 日本思想史学会 編』第41巻、日本思想史学会、2007年9月25日、74-93頁、 CRID 1520290882607897472。
- Porath, Or (2022年8月). “Japan’s Forgotten God: Jūzenji in Medieval Texts and the Visual Arts” (英語). Religions 13 (8): 693. doi:10.3390/rel13080693. ISSN 2077-1444.
- 山本一「慈円と性愛 : 許されないものと許されたもの」『日本文学』第44巻、日本文学協会、1995年、23-30頁、 CRID 1390282680753955456、doi:10.20620/nihonbungaku.44.7_23。
- 山本陽子『物語る仏教絵画ー童子・死・聖地』勉誠社、2023年。
外部リンク
- 國歌大觀. 續 歌集部 - 拾玉集(慈鎭)、木村正辭, 井上頼圀 監修[他] 紀元社書店(国立国会図書館)
慈円(ジエン)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/21 14:33 UTC 版)
風衆の長であり長姉。牙王に自らの命を差し出すほど忠誠心が強い。闘いで慈安(ジアン)、慈雲(ジウン)を失い、慈音(ジオン)を青牙に殺された事から反旗を翻し、青牙の左目を失明させるが、それが青牙の怒りを買う事になり、自身も殺されそうになった所、慈安(ジアン)の仇であるホシカブトに命を救われ、いずこかへと去っていった。
※この「慈円(ジエン)」の解説は、「AL (漫画)」の解説の一部です。
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