山王信仰とは? わかりやすく解説

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山王信仰

読み方:サンノウシンコウ(sannoushinkou)

比叡山のふもと、日吉大社対す信仰


山王信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/25 06:12 UTC 版)

現在の日吉大社

山王信仰(さんのうしんこう)とは、比叡山麓の日吉社滋賀県大津市、現日吉大社)より生じた神道神仏習合の信仰である。

概要

山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉社で祀られる神の呼称である。天台宗山門派の本山である比叡山延暦寺鎮守神であった神社(現在の日吉大社)は、『延喜式』神名帳での呼称は「日吉神社」であるが、中世以降は山王大権現、山王権現、日吉山王権現、日吉山王社等と呼ばれてきた[1][2]。研究者の岡田誠司は、日吉大社という名称は歴史的に使用するのはふさわしくないと指摘し、前近代の呼称として(他の山王権現との区別の便利もあり)「日吉山王権現」を用いている[1][2]。比叡山の山岳信仰を起源とするが、歴史の中で様々な信仰が複合し、神仏習合も特徴であり、東西の二つの本殿を中心にいわゆる山王二十一社と境内・境外の末社各百八社から成る複雑な構成であった[1]

当社の呼称は明治維新以降は「官幣大社日吉神社」、戦後は「日吉大社」となっている[1]。日吉社は暴力や破壊を伴う徹底的な神仏分離を行い仏教的要素を排除しており、これは現在まで大きな傷跡を残すこととなった[1][3]。祭神も祭祀も大幅に変更している[1]。現在の日吉大社は、祭神、祭祀、祭祀に携わる人々、社殿内部の装飾や用具まで純神道様式に整えられており、神仏習合が欠かせぬ要素であった前近代の日吉社の祭祀は現在では失われている[3]

日吉神社日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉社を勧請した神社で、現在では大山咋神大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。今日でも山王さんの愛称で親しまれている。

なお、日吉社では神使とするが、猿との関連性についてはよく分かっていない。おそらくは原始信仰の名残りではないかと推測されている。

祭神

絹本著色日吉山王宮曼荼羅図の上部(1334年-1392年頃)。山王二十一社の祭神・本地仏・種子。山王の上位三柱の神「山王三聖」(下段中央)は僧形で、つまりこれらの神々は出家しており、明治の神仏分離以後の神道の神の概念とはかなり異なっている[4]

表の「祭神(諸説など)」は、神仏分離令前に祭られていた、主な祭神説をはじめとする様々な祭神説である(全ての説を挙げているわけではない)[5]。かつて盛んであった山王神道は仏教の天台宗の教理を根本とし、『法華経』、釈迦信仰が中心となっている[6]。天台宗の教理と同じく、釈迦如来(大比叡明神)を真ん中に、両脇に薬師如来(二宮)と阿弥陀如来(聖真子)が配されている[6]。山王信仰・天台宗では大比叡(大宮、現西本宮)、小比叡(二宮、現東本宮)、聖真子(現宇佐宮)の三神を「山王三聖」として、日吉山を代表する神として尊崇する[7]。日吉社の祭神としては大宮より二宮の方が古いが、その関係は平安時代から幕末まで常に大宮が上に置かれており、朝廷からの祭祀においても大きな差が設けられていた[8]

西の山王(現在の西本宮系)

大宮(西本宮)は、王宮の地であった大和の守護神・鎮守神を勧請した分霊で、本来「天皇の神」であり、王宮鎮護神としての性格を持つ[9][10][11]。大宮の系列の神々は境内の西側にまとまっている[10]。この地に根を張った土着の神ではなく、よそから勧請した渡来神である[12]。佐藤眞人は、聖真子は八幡の神、客人は白山の神を勧請した渡来神系の神社であると述べている[13]

社名 祭神(諸説など) 本地
大宮[14]、大比叡(比叡山のこと[7] 大比叡大明神・大宮権現(崇神天皇の王朝のあった大和の三輪山大己貴神〔大国主神〕の神体山)の三輪明神勧請[14][15]。鳴鏑明神、天照大神[14] 釈迦如来[14]
聖真子[14](しょうしんじ) 聖真子権現。天忍穂耳尊(正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊)[16] 阿弥陀如来[14]
客人[14](まろうど) 客人大明神。伊弉冊尊[14] 十一面観音[14]
東の山王(現在の東本宮系)

二宮(東本宮)は近江盆地南部の山の神であり、農耕神としての性格を持つ[11]。比叡山の神であり、山岳神、地主神[9]。その系列の神々は二宮と縁が深く、境内東側の八王子山の山頂と麓にまとまっている[10][9]。佐藤眞人は、十禅師、八王子、三宮の創祀の年代は不明瞭だが、王子神御子神、姫神として自然発生的に祀られた地主神の系列の神であるとしている[17]

社名 祭神(諸説など) 本地
二宮[14]、小比叡(牛尾山のこと[7] 小比叡大明神(国常立尊[14][18]大山咋神〔地主神だったが、王朝の守り神である三輪明神が勧請されたことでその地位を奪われ、大宮の下に置かれた[15]〕)。山末之大主神古事記 薬師如来[14]
十禅師(じゅうぜんじ) 十禅師権現。瓊瓊杵尊天児屋根神荒人神[14](山王神と言葉を交わすことができた霊能ある僧が死後荒人神となったもの[19] 地蔵菩薩弥勒菩薩など[14]
八王子[14](やおうじ) 八王子権現国狭槌尊天照大神の五男三女神(八王子)、天照大神奇魂 千手観音[14]
三宮[14](みぐう) 惶根[16]白鬚明神を勧請とも[14] 普賢菩薩大日如来など[14]

二宮の周囲の摂社末社の一群は、その社名からわかるように、九州や北陸など様々な地域から迎えた遠方の神々であり、天台宗の拡大に伴って境内に勧請されたとみられる[10]

建物の構成と儀礼

日吉社は同じ境内に二つの本殿が近接して並んでおり、古来以来の大社でこのような構成は非常に稀である(他には紀州和歌山の日前国懸神社の例がある)[20]。二宮境内周辺には内王子、悪王子、若宮、児宮等の王子神御子神が祀られているが、佐藤眞人は「その多くはこの地に活動する巫覡が創祀したもの」と推定している[21]。客人宮は山王の下層巫覡であった宮籠法師が創祀したとされる[22]

主要な社殿にはそれぞれ本殿、拝殿があり、さらに彼岸所、御供所、夏堂、神楽所、雑舎、笈同、一切経所、鐘楼などが乱立し、神宮寺や多宝塔、七重塔、不動堂、千手堂などもあった[23]。仏教色が濃厚な中世の境内の様子は、織田信長の焼打ち後に祝部行丸が焼けた社殿の復興のために作成したという『二十一社等絵図』や『日吉社神道秘密記』で詳しく見ることができる[23]。彼岸所や夏堂は主に仏教的修法に使われる建物で、これらは天台座主(延暦寺のトップ)や公家が用うこともあった[24]

多くの社殿は現在は失われており、それぞれの建築に付随したであろう神事や神仏を含めた儀礼があったと思われるが、資料が残された一部しか内容を覗うことはできない[23]。叡山文庫その他に伝わる古書を現在の神事と比較して推定するに、前近代は幾つかの系統の祭祀儀礼が複雑に絡み合って行われていたようである[25]。さらに天台座主の奉幣のような仏教儀礼があり、真榊神事や大榊神事の用に系統が不明の祭儀もある[11]

上七社の本殿床下には「下殿(げでん)」という空間が設けられており、僧侶や宮仕えたちが神仏習合の秘事を行っていたと言われるが、その具体的な内容は神仏分離の際に失われた[23]。神仏分離以前の山王祭では、「大宮下殿において神酒を二十一社に供ふ。榊調進の宮仕祝言して皆大宮下殿に参候す」ということが行われていたといい、祭の準備期間または祭そのものとして神社に籠もるという元々の意味の宮籠であろうと考えられる[24]。これとは別に、中世日吉社には、拝殿とは別に設けられた床下の室である下殿に、人々が常時かつ個人的に籠もっていたようである[24]。この宮籠の主体は社会的に最下層の人々で、平曲琵琶盲僧のような下級僧や、不治の病の人、乞食などであった[24]

成員

延暦寺と日吉社は一体的な関係にあり、天台座主の元、延暦寺の僧侶集団があり、その下に主神(山王権現)を祀る大宮神社と二宮の神主以下、日吉社の神職が奉仕するという独特な在り方であった[1]

日吉社の社家祝部氏は大宮と縁が深く二宮との関係が希薄で、中世では二宮の周辺が巫覡たちの活動拠点となっており、十禅師社や八王子社(殿内に牛巫明神を祀る中七社の末社)は巫女(御子、神子とも[26])の活動が盛んなことで知られていた[27][28]。中世後期には、巫女の憑依託宣の職能が衰退し、巫女と東の山王の神々との特別なつながりも薄れていき、同時に延暦寺と一体の権門として発展することで巨大化した日吉社の巫覡集団も整理され、各社に分属ずる組織形態に編纂されていったようである[29]。近世の山王七社各社には惣殿(大宮のみ総殿)と呼ばれる巫女が所属し、その職を女系で継いでいたが[30]、惣殿という称号は巫女座の長を意味するものと思われる[21]

『耀天記』には樹下僧という巫祝的な社僧の活動が記録されており、彼らが山王七社・二十一社の彼岸所・夏堂に所属する宮仕や彼岸衆、夏僧の組織に発展していった[29]。宮籠はしばしば巡礼や放浪をする宗教者であり、一部が定住し社務組織の末端の巫覡として組織に組み込まれていったと思われる[29]

室町時代末期の史料からは、日吉社の社司(社務)の下に、巫女、廊御子、宮仕(宮仕法師)、木守という職階があったことが分かる[27]。また境内には、彼岸所や夏堂を拠点に活動する彼岸衆や夏僧、社殿の床下などに参籠する宮籠などの宗教者がいたが、彼らは社司を筆頭とする社務組織外の人間であったようである[31]。廊御子は巫女と共に託宣を行う際に琴の演奏を務め、山王祭で神歌を奏し、礼拝講で神楽を行うなどした[32]。宮仕は僧形であり、元々廊御子より下の地位であったが、僧形であったため延暦寺との結びつきを保ち地位を上昇させ、延暦寺と結託して社司に対抗してしばしば論争を引き起こした[33]。木守は下層の巫覡である宮籠が前身であると考えられ[22]、境内の森林管理や掃除を役割とし、社務組織の最下層に位置付けられていた[34]。当主の多くは僧名を持っていたと推定され、本来は僧形だったようである[35]。維新期には日吉社の巫女は四家にまで減少していた[30]

歴史

日吉社の創建と延暦寺

日吉社は、もともと近江国日枝山(ひえのやま:後に比叡山の字が充てられた)の神である「大山咋神」(おおやまくいのかみ)を祀っていたもので、後に近江京遷都の翌年である天智天皇七年(668年)、大津京鎮護のため大和国三輪山(三諸山(みもろやま)とも)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神(おおものぬしのかみ)を勧請しともに祀られた。大宮の祭神が天智天皇の勧請という伝承は『輝天記』や『厳神抄』にみられ[2]、この伝承は平安時代には形成されていた[28]。日吉社の社家祝部氏の先祖は、三輪山の神を統治に送り届ける時に同行した人物で、それにより社家の地位を得たとされている[28]。『袖中抄』等では最澄が延暦寺鎮守として勧請したされている[2]

比叡山に天台宗延暦寺ができてからは、大山咋神・大物主神は地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされた。延暦寺を開いた最澄は寺の周囲に結界を定め、その地主神を比叡山の「諸山王」として比叡社に祀った[36]天台山国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていることに因み、延暦寺ではこの両神を「山王」と称した。なお、最澄にとって比叡山の「山王」とは、山岳信仰に基づく、アニミズム的な形態に近い信仰対象であった[36]

最澄にとって、「山王」とは山の地主神を仏教的に表現したものであるといわれる[36]。最澄が著したと思われる文書には、神名ではなくほとんど「山王」が使われており、あえて「神」とは呼ばなかった点に、仏教徒としての配慮がうかがわれるという[36]。このような最澄による「山王」の扱いが、後に神仏習合の「山王神道」の成立を導いていったともされる[36]

両所三聖

天長2年(825年)に、天台宗の第2代座主である円澄が、延暦寺の西塔を開いた[36]。以後、西塔は独自色を深め、それまでの「東塔」での地主神信仰に対応させるかたちで、小比叡神を祀るようになった[36]。小比叡神には、八王子山の磐座の神である大山咋神が勧請され、小比叡峯にある磐座に神が宿るとされた[36]

西塔の独立により、最澄が当初祀った諸山王は統合され、東塔と結びついて、比叡神または大比叡神と呼ばれるようになった[36]。西塔で祀られる神も山王と呼ばれたため、「山王」は東塔と西塔で二極化することとなった[36]

その後、天台宗の第5代座主であり、夢で様々な啓示を受けたという伝承が残されている円珍が、円珍に夢で入唐を勧めたとされる「山王明神」を、自身の坊に祀るようになった[36]。このため、それまでは最澄の創建として、千手堂または千手院と呼ばれていた円珍の坊が、山王院と呼ばれるようになった[36]。このように、山王明神の信仰は、円珍が個人的に祀ったことから始まった[36]

こうして、大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・比叡山王(山王明神)の「両所三聖」が成立した[36]。なお、円珍にとっては、「両所三聖」の中でも山王(山王明神)は別格で、「両所二聖」を超える存在、つまり、大比叡神・小比叡神を含んだ「比叡山」そのものを象徴しており、最澄が祀った諸山王をひとつにまとめた、非常に大きな信仰対象であったといわれる[36]

地主三聖

延暦寺の第18代座主であり、比叡山中興の祖とされる良源は、天禄3年(972年)に、比叡山の「横川」を、東塔・西塔に匹敵する地位を持つ独立地区として認めた[36]。もともと、横川の発展には良源が大きく関わっており、その独立の裏にも、良源の意向があったとされる[36]。以後、良源の意向は、古くから存在する東塔・西塔よりも、横川に大きく影響するようになった[36]

独立した横川は、西塔と同じように独自の地主神を求め、聖真子(しょうしんし)を信仰するようになった[36]。聖真子の信仰は、既に、康保5年(968年)に認められるとされ、「聖真子」の名は法華経により、正統な仏法の後継者を意味するもので、神名であると同時に法号であり、日本古来の神々の系譜から切り離された独自のものとされるなど、神仏習合の最たるかたちを示しているとされる[36]

ここに、良源の思惑により、大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・聖真子(横川)の「地主三聖」が成立した[36]

だが、円珍によって定められた「両所三聖」を信仰していた僧たちは、良源に導かれて成立した「地主三聖」の信仰に反発することとなった[36]。良源は「地主三聖」の信仰に反対する僧たちを僧籍から除名するなどし、後の山門・寺門分裂への流れを生み出していくこととなる[36]

地主三聖から山王三聖へ

良源により「地主三聖」の信仰が定着するにつれ、「地主三聖」は徐々に「山王三聖」と呼ばれるようになっていった[36]。なお、「地主山王」と呼ばれた時期もあった[36]。「地主三聖」の語は三塔の存在を意識して、それぞれの「地主」を強調しているが、「山王三聖」の「山王」の語は、寺院というより、比叡山という山全体に関わる神を意識しているとされる[36]

特に、正暦4年(993年)の叡山分裂以降、「山王三聖」の語は定着していったとされる[36]。なお、「山王三聖」の語が文献に現れた最初は、康保5年(968年)の太政官牒であるとされる[36]

なお、円珍が個人的に祀った「山王(山王明神)」とは、円珍が実際に夢でお告げを受けたということから、確かに「実在」すると信じられた神を指したものであるが、良源の場合、「山王」の語には確かに実在するという重みはなく、ただ「地主三聖」の総称に過ぎず、抽象的な概念にとどまっていたとされる[36]

山王信仰の発展

天台宗が全国に広がる過程で、山王信仰に基づいて日吉社も全国に勧請・創建された。日吉(ひよし)神社・日枝(ひえ)神社、あるいは山王神社などという社名の神社は、日本全国に約3,800社ある。これにともない、日吉・日枝・比恵・山王・坂本などという地名が各地でみられる。

本地仏制定

山王三聖には、本地仏として、大宮(大比叡神、東塔)に釈迦如来、二宮(小比叡神、西塔)に薬師如来、聖真子(横川)に阿弥陀如来が、それぞれ定められた。これらの本地仏が定着したのは、浄土教の影響により八幡神(聖真子と同一とされる)の本地仏が釈迦から阿弥陀に変わった11世紀以降と推定される[36]。本地仏の制定について、それぞれの由来には諸説があるが、定説といえるものはないとされる[36]。本地仏の制定は、日吉社における、本格的な神仏習合の始まりであるともいわれる[36]

やがて八王子(本地千手観音)、客人(本地十一面観音)、十禅師(本地地蔵菩醍)、三宮(本地普賢菩醍)を加えて山王七社(上七社)となすなど、総本山の威容を整え始めた。そして本地垂迹説によってさらに数を増し中七社、下七社を加えて「山王二十一社」と称した。

東の山王の諸神への信仰

平安末期の『梁塵秘抄』で「東の山王恐ろしや」と謡われたように、中世には山王二十七社のうち東の山王の神々は、崇りにより大神に代わってその神威を発揚し知らしめる山王のミサキ神として、民衆だけでなく貴族からも深く畏怖され熱心に信仰された[37]。平安末期から鎌倉初期にかけて、憑依託宣する神である東の山王の十禅師(童子形・僧形の神)への信仰が隆盛し[13]、三聖ではなく大宮と十禅師を特に重視する重視する考えもみられた[注釈 1]。十禅師や牛御子(八王子社の殿内に祀られる神)の霊験や巫女の憑依託宣は広く知られ、山王の巫女は貴族の元に出入りし政治にも影響を及ぼしていた[41]

山王神道

山王信仰は、「山王神道」とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の垂迹であるとされ、「山」の字も「王」の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。また天台密教は、鎮護国家、増益延命、息災といった具体的な霊験加持祈祷によって実現するという体系(使命)を持ち、山王にも「現世利益」を実現する霊威と呪力を高める性格を与えたようである。

中世以降

中世に比叡山の僧兵強訴のために担ぎ出した神輿は日吉社のものである。

元亀2年(1571年)、織田信長比叡山焼き討ちにより、日吉社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は、安土桃山時代以降に再建されたものである。

なお江戸で「三大祭」として賑わったのは、山王祭(さんのうまつり)、神田祭深川祭であるが、この山王祭は、徳川家康が江戸に移封された際に、同地にあった日吉社を城内の紅葉山に遷座し、江戸城鎮守としたことに始まる。この社の由来は、太田道灌が江戸城築城にあたり、文明10年(1478年)に川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である日吉社を勧請したのに始まるとされる。無量寿寺は平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立したとされる。ちなみに、この江戸の日吉社に日枝(ひえ)神社と名称が付けられたのは、慶応4年(明治元年)6月11日以降のことである。(神仏分離

天台宗が全国に広がる過程で、山王権現も各地に勧請され、多くは天台宗の寺院の鎮守神とされた。明治神仏分離の際に、仏教色を廃し寺院とは別れた。

社名については、「日吉」と書いて「ひえ」と読むもの、「日吉」と書いて「ひよし」と読むもの、「日枝」と書いて「ひえ」と読むものがある。

明治維新以降

明治政府の宗教政策は、樹下茂国、平田銕胤矢野玄道大国隆正六人部是香復古神道系の神道家たちの影響下にあったが、この復古神道とは本居宣長の没後に門人の平田篤胤が大成した神道説で、儒教と仏教への激しい批判、習合神道(神仏習合)の否定を特徴とし、儒教・仏教が伝来する以前の神道への回帰を実現しようとするものであった[42]。彼ら平田派神道家は、政府の宗教政策を通じ、神仏分離と神道国教化を目指しており、明治政府は、自らを正当化する万世一系という近代国家の神話を全国の神社に背負わせるために、1868年明治元年)に神仏判然令神仏分離令、1868年)を発令した[42][43]

これを受けて日本中で破壊的で激しい廃仏毀釈の運動が起きたが、その破壊の契機は、日吉社の社司で明治政府の神祇事務局の権判事でもあった樹下茂国率いる、吉田神社京都市)の神官ら(祝部の生源寺希嶼、生源寺業親、樹下成言など)40名の神職で構成された「神威隊」と、彼らに付き従った坂本村の村民数十名による日吉社での破壊行為である[43][44][45]。岡田誠司は、この事件の原因は延暦寺の寺僧と日吉社の神職団の対立であり、延暦寺と江戸幕府との格別に深いかかわりが明治政府に忌避されたことが日吉社の激しい神仏分離に与えた影響を指摘している[3]。当時の延暦寺の寺僧と日吉社の社僧の関係は良いものではなく、神仏判然令に社僧らが利権を得た形になって暴走し[注釈 2]、彼らは仏像・仏器・仏具・経典といった日吉社に飾られていた宝物を破壊し焼き払い、その数は数千点に上るといわれ、日吉社の七社すべてが彼らの暴力の被害にあった[44][46][47][注釈 3]。樹下茂国は自ら主導して作った神仏判然令を盾に破壊行為を行ったが、布告にあった神社からの仏教的なものの排除を超え、あまりに行き過ぎていたため、明治政府から権威をかさに着て私憤を晴らさないよう注意を受け、一時政府により監禁された[43][注釈 4]。この激しく暴力的な事件は、廃仏毀釈が全国に広がる発端となった[49]

日吉社は率先して仏教色を一掃すると、延暦寺から独立して社名を日吉大社とした。彼らの破壊行為により日吉社は延暦寺の支配下から外れ、神仏判然令が出された年に、仏教色を排した近代的な山王祭が初めて行われたが、七社に奉仕していた僧身分の宮仕・下級僧侶は皆還俗して参加しており、延暦寺の僧侶の参加は許されなかった[46]。樹下茂国たちはさらに仏教の排除を進め、七社のうち、彼らが「仏教臭い」と感じたであろう十禅師、聖真子、八王子の社号を改称した[50]

神仏判然令の翌年の1869年(明治2年)に、樹下茂国と思われる人物が『日吉社禰宜口伝抄』という史料を偽造した可能性が極めて高い[51]。これは11世紀の囗伝を祝部行丸(生源寺行丸)が16世紀に文書化したものとされ[51]、樹下茂国はこれに拠り大己貴神を除く祭神を変更した[18][52]。これらの祭神は、樹下茂国と思われる人物が明治2年初めに大津県に提出した「祭神および勧請年記云々」という文書が初出である[53]

さらに明治政府は、大山咋神の名が『古事記』にあること、大宮の勧請が最澄によるという伝承を重視し、二宮を主神とし、大宮と二宮の祭神を入れ替えた[2]。これが元に戻されたのは太平洋戦争開始後の1942年であり、神仏分離に伴う日吉社と延暦寺の完全な分離と共に、古来の神事・祭儀の改廃に拍車をかけることとなった[54]

現在の社殿

以下に現在の日吉神社の有力社殿(山王二十一社)を列記する。( )内は旧称。

上七社(山王七社)
  • 西本宮(大宮(大比叡))大己貴神:近世と今日で唯一連続性のある祭神[18]
  • 東本宮(二宮(小比叡))大山咋神
  • 宇佐宮(聖真子)田心姫神
  • 牛尾神社(八王子)大山咋神荒魂
  • 白山姫神社(客人)白山姫神
  • 樹下神社(十禅師)鴨玉依姫神
  • 三宮神社(三宮)鴨玉依姫神荒魂
中七社
  • 大物忌神社(大行事)大年神
  • 牛御子社(牛御子)山末之大主神荒魂
  • 新物忌神社(新行事)天知迦流水姫神
  • 八柱社(下八王子)五男三女神
  • 早尾神社(早尾)素盞嗚神
  • 産屋神社(王子)鴨別雷神
  • 宇佐若宮(聖女)下照姫神
下七社
  • 樹下若宮(小禅師)玉依彦神
  • 竈殿社(大宮竈殿)奥津彦神・奥津姫神
  • 竈殿社(二宮竈殿)奥津彦神・奥津姫神
  • 氏神神社(山末)鴨建角身命・琴御館宇志麿
  • 巌滝社(岩滝)市杵島姫命・湍津島姫命
  • 剣宮社(剣宮)瓊々杵命
  • 気比社(気比)仲哀天皇

各地の日吉神社・日枝神社

総本社

別表神社・旧官国幣社

その他の神社

日吉神社(大崎市)[宮城県]

脚注

注釈

  1. ^ 日本の天台宗の宗祖最澄が比叡山に入った際に最初に出会ったのが稚児と山王権現で、それらが天台宗にとって非常に重要な意味を持つという説「一児二山王」があり、これは稚児の神聖視から成り立つ[38]。天台宗では鎌倉末期になると「一児二山王」という言葉が盛んに用いられており、1414年の奥書がある『厳神鈔』では、この「一児」とは十禅師であるとされている[39][40]
  2. ^ 神仏分離令の直後に日吉社の例ほど急速で激しい廃仏毀釈は他になく、奈良国立博物館の野尻忠は「首謀者(樹下茂国)の個性に依る部分も大きい」と指摘している[45]
  3. ^ 宮内庁(1968年)、『明治天皇紀』慶応4年4月1日条に記述された日吉神社神官の暴挙は次の通りである。「客月二十八日,神仏混淆禁止の令発せらるゝや,比叡山日吉神社社司神祇事務局権判事樹下茂国・同神社社司生源寺希璵等,神仏分離のため神体調査の要ありと為し,同社三執行に社殿の鍵鑰の交付を求む,社僧白毫院之れを座主宮に啓して其の指揮を仰ぐにあらざれば交付すること能はざるを答ふ,是の日,茂国等,播磨国明石御崎神社・三河国猿投社・信濃国下諏訪社・同国ツ中島八幡宮・美作国天窟戸開社神職等四十余人及び坂本村農民等を率ゐて日吉神社に至り,社殿を破壊し,大宮に於ては神体を除き,仏像・経巻・仏具等を焼棄し,二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮社等に於ては尊体・本地仏・経巻・仏具・鰐口の類を焼棄し若しくは之を社家に携行す,為に山内騒擾するを以て,十日,布告して祠官の暴挙を禁じ,神社に在る仏像・仏具等の処分は稟請して後其の事に従はしむ,又十三日,延暦寺の僧徒を諭して日吉神社の祭事に関ることなからしむ」[48]
  4. ^ 明治政府が神仏判然令の勢いを弱めたわけではない。樹下茂国は岩倉具視とも昵懇で、明治政府の一部はこうした暴力的な廃仏毀釈の運動を黙認していた[44]

出典

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  36. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 『日吉大社 山王三聖の形成 <最澄・円澄・円珍・良源の山王観の変遷>』(江頭務、イワクラ(磐座)学会会報28号、2013年7月12日)
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  48. ^ 神尾 2003, pp. 15–16.
  49. ^ 【時を訪ねて 1868】廃仏毀釈(京都・奈良)危機生き延びたお地蔵さん『北海道新聞』日曜朝刊別刷り2020年9月27日1面
  50. ^ ブリーン 2009, p. 158.
  51. ^ a b ブリーン 2009, p. 161.
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  53. ^ ブリーン 2009, pp. 159–160.
  54. ^ 岡田 2003, pp. 20–21.

参考文献

関連項目


山王信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 07:32 UTC 版)

日吉大社」の記事における「山王信仰」の解説

詳細は「山王信仰」を参照 かつては境内108社・境外108社といわれていた。以下に示す21社は主なものであり、山王二十一社総称され日吉大神呼ばれる旧称江戸時代までの神仏習合時代の名称である。東本宮境内各社は「大山咋神家族および生活を導く神々」と説明されている。 社格社名祭神旧称本地所在地七社山王七社本宮 西本宮 大己貴神 大宮(大比叡釈迦如来本宮 大山咋神 二宮小比叡薬師如来 摂社 宇佐宮 田姫神真子しょうしんじ) 阿弥陀如来 牛尾神社 大山咋神荒魂 八王子(やおうじ) 千手観音 八王子山白山姫神社 白山姫神 客人まろうど十一面観音 樹下神社 玉依姫命大山咋神の妃) 十禅師じゅうぜんじ地蔵菩薩本宮境内 三宮神社 玉依姫荒魂 三宮(みぐう) 普賢菩薩 八王子山頂 中七社 摂社 大物忌神社 大年神大山咋神の父) 大行事 毘沙門天本宮境内 末社御子社 山末之大主神荒魂御子 大威徳明王 牛尾神社拝殿摂社物忌神社 天知流水姫神大山咋神の母) 新行事 持国天または吉祥天本宮境内 末社 八柱社 五男三女神八王子 虚空蔵菩薩本宮参道 摂社 早尾神社 素盞嗚神 早尾 不動明王 境内入口南側 産屋神社 鴨別雷神 王子 文殊菩薩 境外止観院の附近 末社 宇佐若宮 下照姫神 聖女 如意輪観音 宇佐境内七社 末社 樹下若宮 玉依彦神玉依姫神の子) 小禅師 竜樹菩薩または弥勒菩薩本宮境内 竈殿奥津彦神奥津姫神 大宮竈殿 大日如来 西本境内 二宮竈殿 日光菩薩・月光菩薩本宮境内 摂社 氏神神社 鴨建角身命・琴御館宇志麿 山末 摩利支天本宮参道 末社 巌滝社 市杵島姫命・湍津島姫命 岩滝 弁財天 剱宮社 瓊々杵命 剱宮 倶利伽羅不動 白山姫神社境内 気比仲哀天皇 気比 聖観音または大日如来または阿弥陀如来 宇佐境内

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