大祓詞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/06/07 12:48 UTC 版)
大祓詞(おおはらえのことば、おーばらいのことば[1])は、神道の祭祀に用いられる祓詞であり、祝詞の一つである[2]。もともとは朝廷で行われる大祓式に用いられ、中臣氏が専らその宣読を担当したことから、中臣祭文(なかとみさいもん)、中臣祓詞(なかとみのはらえことば)ともいう[1][3]。典型は延喜式巻八に六月晦大祓という題名で載る[4]。一般に大祓詞という場合は大祓の参集者に宣り聞かせるものをいい、中臣祓という場合は神前に奏上する形に改めたものをいう[5]。
概要
古代日本の律令制国家では、朝廷大内裏の朱雀門で「神祇令」に規定された大祓(大解除)の儀式が行われており、その儀で唱えられていた祝詞が大祓詞である[6][7]。大祓詞は、罪(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・穢(けがれ)[注釈 1]を祓うために唱えられた祝詞とされる。ただし、大祓詞に「罪」という言葉は頻出しても「穢」という言葉はなく、古くは「祓へ」は「罪穢」ではなく専ら「罪」を対象としたものであり、「祓へ」とは罪の除去であったと指摘されている[12]。
大祓詞には記紀神話と共通する言辞があり、冒頭には天孫降臨のモチーフが取り入れられ、参列した官人に対して天皇による支配の正当性が確認されている[13][14][注釈 2]。
日本の祓は中国の習俗に由来するもので、大祓にも道教的な要素が加えられている[7]。大祓詞は、日本で仏教の薬師如来信仰の『薬師経』思想が受容され、これが中国の天命思想と結びつき、古代日本の律令制国家のもとで7世紀以降に形成されたものと考えられている[16]。大祓・大祓詞の特性として、擬古的であると同時に、仏教の影響が認められる点がある[13]。
6月・12月の晦日(末日)に行われた二季恒例大祓には天皇の祓の儀と百官の祓の儀があり、百官の祓の儀の祓詞が大祓詞であり、天皇の祓の儀では、天皇の長寿延命を祈願する道教的色彩の濃い祓詞(呪)が漢音(中国語読み)で読み上げられていた[17]。
大祓詞の文献上の初出は『延喜式』(巻八・神祇八・祝詞)で、他の律令祭祀の祝詞と共に収録されている[7][6]。『延喜式』には「六月晦大祓」として記載されており、今日使用されている大祓詞は「六月晦大祓」の祓詞を元にしたものである。中臣祓とも呼ばれるが、この呼称は中臣氏が読み上げたことに由来する[18]。
内容
國學院大學伝統文化リサーチセンター資料館は、『延喜式』収録の大祓詞は、おおきく次の3つの要素で構成されるとしており[4]。
- 第一段・第二段:集められた親王以下の官人等に大祓の実施を周知する[4][15]。
- 第三段:本文に相当する段で最も長く、祓の中核とみなされる[15]。三橋正は第三段をさらに3つに分けている。
- 高天原から皇御孫命(すめみまのみこと、皇孫邇邇芸命)が天孫降臨し、この国を支配していることを確認し、日本の人々が犯した過ちで発生した国中の罪を「天津罪・国津罪」として列挙し、その除去のために、大中臣が「天津祝詞の太祝詞事を宣(の)」ることを命じる[4][15]。
- 天上から八重雲を押し分けて降りてくる「天津神」と、山間から出てくる「国津神」[注釈 3]がそれを聞いて、日本の国中「罪と云ふ罪はあらじ」という状態になる[4][15]。
- 祓の四女神(祓戸神)とされる瀬織津比咩(せおりつひめ)・速開都比咩(はやあきつひめ)・気吹戸主(いぶきどぬし)・速佐須良比咩(はやさらすひめ)が「遺(のこ)る罪はあらじと祓へたまひ清めたまふ事を」次々と受け継いで、罪は川→海→根の国・底の国と運ばれ失われて行き、再度、朝廷に仕える人々に罪がなくなったことを宣言する[4][15][20]。
- 第四段:卜部への指示「大川道(じ)に持ち退(まか)り出でて、祓へ却(や)れ」の周知[4][15]。
戦後の祝詞研究の第一人者である青木紀元は、文章の内容的に、第三段-2の「天の下四方の国には、罪と云ふ罪は在らじ」で罪の祓は終わっており、「祓えつ物(祓のために神に捧げる品物)」を川に捨てることは祓いの後の付属的なことに過ぎないはずであり、第三段の2と3の祓の思想には相違が見られると指摘している[20]。第三段-2の祓の思想は「天つ祝詞の太祝詞事を宣ることによって罪は祓われる」とするもので、第三段-3の祓の思想は「罪が川→海→根の国・底の国と失われて行く」、つまり、祓が終わってから「祓えつ物」を川に流すことで罪が清められるいう考えであり、前者(第三段-2)の思想が古い本来の祓である(記紀神話のスサノヲの罪の祓の説話などに見られる)[20]。後者(第三段-3)は、禊(神聖な水で身心の穢れを浄める宗教行事)の思想が祓に入り込んだものであり、元来明確に区別されていた祓と禊が徐々に混同される過程で生じたものである[20]。
中臣祓は、本文にあたる第三段(天孫降臨のエピソードから罪の消滅まで)は、『延喜式』収録の大祓詞とほぼ同内容となっている[4]。
罪
大祓詞で挙げられる国津罪・天津罪は、全般的に古代的色彩が濃い[21]。人を殺すことや謀反のような基本的刑罰の対象となる罪ではなく、共同体秩序の破壊、農業関連の妨害行為、または祭事に関する農業関連の妨害行為・これが象徴する祭事や神聖なものの冒涜である[22][23]。天津罪は記紀神話でスサノヲが犯した罪であり、三橋正は「実質的な意味を持たなかったと思われる」としている[15]。大祓詞における罪の中には災禍も含まれており、そのため罪全体の整合性について、近代以降に様々に論じられてきた[24]。「大祓は罪でなく災気を除去する儀礼」とする説もあり、その場合、大祓詞で列挙される罪とは「災禍の一表現」と捉えることができる[24]。
内務省が大正3年に神社祭祀や祭式、神道の制度や体制の多くを現在につながる形に整備し、その際に内務省の神社局を中心とする作業グループが、信仰と当時の社会情勢を勘案し、元々の大祓詞にあった天津罪8項目、国津罪13項目の具体的な内容を削除した[25][26]。現代の神社本庁の大祓詞は、罪名の列挙を省略し、単に「天津罪・国津罪」とだけ言っている(大正3年内務省制定の大祓詞にて削除されたものが踏襲されている)。
成立の研究
- 近代
近世の国学者賀茂真淵は、作成された時代を天智・天武両朝の頃と推定している[1]。
- 戦前
戦前の『神道大辞典』は、大祓詞の作者は諸説あるとし、天児屋命の子天種子命説や、常盤大連説、また天智天皇の命により中臣金連が祓詞を献じ、この簡文が二季恒例大祓に用いられ文武天皇朝に新文に改められた等の説を示し、いずれの説もはっきりしたものではないと評している[3]。
- 戦後
大祓詞は『延喜式』収録のものが最古であるが、構造や文体が不統一であり、最古の大祓詞がそのまま残されたわけではなく、段階的に追記や改変が行われたと考えられている[27]。三橋正は、最古の大祓詞からの追記・改変があるとはいえ、『延喜式』収録の大祓詞は、基本的には大祓の草創期(天武天皇朝)の思想を表すとみている[27]。
青木紀元は、大祓詞の文章で不自然に断裂している箇所に注目して分析し、全体(最後の卜部への指示は含まない)を5つに分け、成立年代を次の通り推定した[28][29]。
- 第一段「集はり侍る親王・諸王・諸臣・百の官の人等、諸聞き食(たま)へよと宣ふ。」:第二次成立 大祓の恒例化の時 天武朝(673年 - 686年)末期
- 第二段「天皇が朝廷に仕へ奉る比礼挂くる伴の男・手襁挂くる伴の男…今年の六月の晦の大祓に、祓へ給ひ清給ふ事を、諸聞き食へよと宣ふ。」:第三次成立 平安時代 延喜(901年-923年)に近い頃
- 第三段「高天の原に神留ります皇親神漏伎・神漏美の命を以ちて、…かく聞こし食してば、皇御孫の命の朝廷を始めて、天の下四方の国には、罪と云ふ罪は在らじと、」:第一次成立 臨時大祓創始の時 天武朝初期
- 第四段「科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、…遣る罪は在らじと、」:第二次成立
- 第五段「高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比咩と云ふ神…今年の六月の晦の夕日の降ちの大祓に、祓へ給ひ清め給ふ事を、諸聞き食へよと宣ふ。」:第三次成立[28][30][31]
第三段の内容は臨時の大祓で、「国内の罪の祓除を神に祈願するもの」であり、天武期5年8月16日の臨時の大解除に相当し、天武朝初期と考えられる[28]。青木は、この時点では大祓詞は神に奏上する詞であったと推定し、第三段の最後「罪と云ふ罪は在らじと、」の後には元々「…と申す」で終わる文があり、後世にそれを削除して第四段を繋げたと考えている[32]。
第二次成立は恒例の大祓であり、第一段は集まった諸人に対して宣読するものである[28]。第四段は、青木によると「その参集の諸人に罪の祓除を意識させ、今後一層浄正直の心をもって、朝廷の仕事に勤務追進することを覚悟させるところに主旨がある」[28]。天武期14年正月二十一日条に「明・浄・正・直・勤・務・追・進」の爵位の名目を改めたとあり、これは恒例の大祓の精神をよくあらわしており、よって天武朝後期、天武朝末期と推定される[28][32]。青木は、第一次成立の臨時の大祓と第二次成立の恒例化された大祓の主旨の違いから、大祓詞は第二次成立の時に参集の諸人に対して宣読する詞に変わったと推定している[32]。
第二段・第五段は後に追加されたもので、この2つの段は末尾が呼応する形になっており、同時に成立し追加されたと考えられる[28][33]。第三次成立の2つの段は祓と禊が混同されるようになってから書かれたものであり、また「祓えつ物」を大川道に持っていって水に流すようになってから書かれたものである[20]。青木は、本来「祓えつ物」は祓のために神に捧げる品物であり、後始末は問題ではないため、元々大祓には祓の後にこれを川に流す工程はなく、「祓えつ物」の後始末に意味を見出す考え方は比較的新しいと指摘している[20]。
第五段は、罪が川→海→根の国・底の国と運ばれ失われていく様が流麗な文体で描かれ、時代の新しさを感じさせる[20]。ここに登場する祓の四女神のうち、古典に登場するのは『古事記』の速秋津火比売(速開都比咩)だけであり、青木は、その他の神々は「いずれも大祓の詞の中で、文章の綾と共に生まれた観念的な神々で、宗教的というよりはむしろ文芸的な性格が強く、それだけに新しい神々と言うべきである。」と述べている[20]。
また青木は、大祓の実施時刻は時代を下るにつれて遅くなったようだが、大祓詞の末尾の方に「今年の六月の晦の日の夕日の降ちの大祓に、祓え給ひ清め給ふ事を、」とあることから、「夕日の降ち」の時刻に大祓を行っていた時期に第三次成立の段が追加されたと指摘し、それは平安時代に入ってから、延喜に近い頃ではないか、と述べている[30]。
朝廷の大祓
大祓詞は朝廷の大祓(二季恒例大祓)に用いられた[1]。古代において大祓とは「百官以下万民の罪穢を祓い除き、清浄にするための神道儀礼[注釈 4]」であったとされる[6][34]。朝廷に仕える百官男女の罪、もしくは罪穢を除き去るため、毎年6月と12月の晦日(末日)に京の朱雀門で行われた。令制、貞観儀式、延喜式等によると、宮中において中臣が天皇に御麻を奉り、東西文部が祓刀を奉り、漢音の祓詞を読む。大臣以下の百官男女はみな祓所(朱雀門)に参集し、神祇官切麻を五位以上に頒布し、ここで中臣祓詞を読み、祓い終えた後、六位以下に大麻を引かせる[35]。『延喜式』巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており「十二月准此」と注記がある[36]。
当初大祓は、服属儀礼、国家秩序を象徴する儀礼として始まったが、記紀神話の精神を投影し擬古的な儀礼が行われたことで、「神祇令」で年2回の定例の「六月・十二月晦日大祓」の儀式と臨時の儀式として規定され、神祇(神道)儀礼として律令制にも組み込まれ定着した[37][17][38]。
摂関期以降、朝廷の大祓は国家儀礼としては形骸化したが、一方で貴族が個人レベルで祓を行うようになり、大祓詞は朝廷から民間にも広まり、祓は信仰習俗として定着した[6][10]。
朝廷の大祓は乱世であった室町時代に途絶えた[6]。中世後期に吉田神道を作った吉田兼倶により臨時の祓が行われるようになり、江戸時代中期の元禄4年(1691年)には、6月と12月末に恒例で行う祓も復活した[6]。ただしこれは宮廷内の祓を目的とするもので、二季恒例大祓ではなく、国家の祓ではない[6]。
成立の背景と機能
律令時代の朝廷で大祓が創られた背景としては、当時中国を模範とした国家建設・国家儀礼の確立が目指されており、国家統合の象徴として「伝統的な神祇[注釈 5]」、外来の宗教と区別される在来の伝統的な国家的宗教の創出が必要とされていたことがある[40]。天武天皇は律令国家建設と共に神祇(神道)祭祀を整え、その中心に神格化された天皇を位置付け、前代の宗教儀礼を復活させ大嘗(新嘗)や大解除(大祓)を行った[41]。古代日本の律令制国家において、神祇祭祀には、天皇中心の国家秩序を神の名のもとに確認するという意味があり、2月の祈年祭、6月・12月の月次祭と大祓は、天皇直属の神祇官から全官人まで集めて行い、これを徹底させるものであった[42]。
大祓詞(中臣祓詞)の歴史
中臣祓は神祇官において天皇の禊祓のために用いられた。11世紀初頭には陰陽師たちが私的な祈祷に中臣祓を用いていたことが確認できる。『紫式部日記』寛弘5年(1008)9月10日条に、中宮の安産祈願のために陰陽師が総動員されたこと、彼らが唱える「八百万の神も耳ふり立てぬはあらじ」という中臣祓の結句が聞こえることが記載されている[18]。
中臣祓の文章は、12世紀初頭成立の朝野群載に中臣祭文と題して載るものが最も古い[18]。岡田米夫によると、朝野群載の中臣祭文は、祈祷の意味で神前に読み上げられる大祓詞としては、最も古い形である。朝野群載の中臣祭文では、「祓戸の八百万の御神達」という記述があることが注目される。大祓詞には祓戸の四神が現れるが、朝野群載の中臣祭文ではこの四神に限られない。現在の神社本庁が頒布する大祓詞では、祓戸神を「天津神、国津神、八百万の神達」としているが、朝野群載の中臣祭文の精神を継承したものである[43]。
やがて中臣祓は諸国に伝播していったとみられ、12世紀には春日社において中臣祓が行われていたがことが明らかになっている。さらに仏僧も中臣祓を用いた儀礼を行うようになり、平安時代末期には仏僧による注釈書『中臣祓訓解』が成立したと推定される[18]。伊勢神道では、祓の独自の作法が鎌倉時代初頭までに成立し、鎌倉時代後期から秘伝化していった。吉田神道でも中臣祓は重視され独特の儀礼や註釈が行われた[18]。
中世以来、神道の経典として重んじられ、これを神前で奏上することで祈願が達成できると信仰されるに至る。千度祓や万度祓が盛んに行われ、仏教の祈祷の巻数(カンジュ)をまねて御師が信者の間に配布した。古来その注釈書は数多い[1]。
中世には日本書紀神代巻の研究と並んで、中臣祓の研究も行われた。吉田兼倶において最も著しい。吉田兼右の子孫の吉田兼永・吉田兼右は、吉田兼倶の『中臣祓聞書』・清原宣賢の『中臣祓抄』の講説・宣伝・書写・普及に努めた[44]。
江戸時代の後期に国学や復古神道が盛んになるにつれて、大祓詞という名称が再び用いられるようになった[45]。
近世中後期の国学の盛り上がりの中、国学者の大祓詞への関心が高まり、大祓詞についての様々な論考が書かれた[注釈 6]。こうした流れの中、明治時代に入ると国家の祓としての大祓を復興しようという動きが具体化し、明治維新による旧儀再興の流れに乗って、大祓は「万民の罪穢を祓う行事」として宮中で行われるようになった[25]。
日清戦争・日露戦争を経て、役人や国民の神社崇敬の熱気が高まり、内務省が大正3年に、神社祭祀や祭式、神道の制度や体制の多くを現在につながる形に整備し、大祓式も古代の儀式を参照して策定され、大祓詞も『延喜式』祝詞、中臣祓に準拠したものが定められた[25][47]。
仏教・薬師経の影響
現代の研究では、『延喜式』所収の大祓詞は、仏教の薬師如来信仰の『薬師経』の思想を受容した日本において、『薬師経』の放生思想と、中国の天命思想が結びついて、古代律令制のもとで7世紀以降に形成されたと考えられている[16][注釈 7]
7世紀前半までに日本に伝わった仏教は百済経由であるが、百済仏教では、マントラや仏名を読誦して病気の悪鬼を除去し滅する、密教的な呪術師である咒禁師による医療が発展していた[48]。有働智奘は、放生と大祓の思想は『灌頂経』にも見られると述べている[49]。仏教伝来当時の6世紀、日本は疫病が蔓延し災害が起こる国難の状況にあり、当時の神道思想に即して、病や穢れを除去する呪術が記述された『灌頂経』が受容されたと考えられと考えられる[50]。
天武天皇が執行した大祓、放生では、唐代の玄奘訳の薬師経が大きな意味を持っており、日本の伝統的な祓の儀礼に影響を与えていたと指摘されている[12]。仏教伝来当初に日本中に疫病が蔓延したが、これは「国家が病によって穢れた」という罪であり、大祓が行われたと考えられる[50]。青木紀元は、祓や穢の起源説話であるスサノヲ神話やイザナギ神話には、疫病や災害についての説話がなく、大祓の内容には仏典が取り入れられていることを指摘し、大祓は「日本在来の穢れや祓いの行事に仏教思想が組み込まれた」ものと論じており、西田長男もこれを支持している[12]。有働智奘は、日本に薬師信仰が伝来した時期を6世紀と推定し、仏教医療の呪術を通じて広まったとしている[50]。西尾正仁は、日本で薬師信仰は7世紀半ばまでに受容されたとしている[16]。
『日本書紀』の大祓記事には薬師経の漢訳の影響が見られる[49]。青木紀元と笹生衛の神道研究によると、『日本書紀』の大祓記事は、薬師経の漢訳の隋代の達磨伧多訳『薬師瑠璃光如来本願経』(615年)と、唐代の玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(650年)の影響を受けている[49]。青木紀元は、大祓詞における罪のうち、「『昆虫乃災』『高津神乃災』『高津鳥災』は、災禍であって、罪ではない」と指摘し、「このような災禍の類(略)が祓い清められる罪の中にまじっているのは、仏教の影響を考えねばならない」と述べて、大祓詞には除災招福の経典である薬師経の関与があるとの見解を示し、薬師経の文言との対応関係を示している[51]。加瀬直弥は、青木の研究によって大祓詞への薬師経の影響は明らかになっていると評価し、これを踏まえて、当時の朝廷は広範な災禍に対応する儀礼を必要としており、大祓詞の作成者たちは、「災禍の原因である罪の消滅や、罪からわざわいに至るプロセスの中断」ではなく、「災禍という結果そのものの除去」に強い関心を持って、大祓詞に薬師経における罪を組み込んだと推測している[51]。
脚注
注釈
- ↑ 近世の国学者本居宣長は『玉勝間』で「死を穢とすることは、神代より然り」と述べ、穢という観念は日本で神話が形成された時代からあり、連綿と続く日本に固有の習俗だとしており、民俗学の柳田国男も踏襲し通説となっていたが、現代の研究では、穢は平安時代初期に成立した観念というのが通説で、神話時代から連続する観念・習俗ではないことがわかっている[8][9]。三橋正によると、穢は大祓同様、国家規定から信仰習俗に変化したものである[10]。穢という観念(神は穢を忌むという信仰、穢意識)には変遷が見られ、平安時代初期に成立後、律令制の解体過程・平安後期の王朝国家において、徐々に肥大していき、質的にも変化したと考えられている[8][11]。穢が社会問題になったのは摂関期から中世であり、『延喜式』の「穢」規定が、様々な神社の規定や儀式書、法律書、事典などの根拠とされた[8]。
- ↑ 記紀神話は天武天皇の時代に形成されたもので、同時代性が強いことが知られている[15]。
- ↑ 「天津神」「国津神」は抽象的な神であり記紀神話には登場しない[19]。
- ↑ 『国史大辞典』「大祓」鎌田純一[6][34]
- ↑ 「神祇」とは「天神地祇」の略語で中国の成語。天の神が「神」、地の神が「祇」であるが、日本における両者の区別ははっきりしたものでなく、日本における在来の神々を総称する言葉として用いられたようである[39]。
- ↑ 竹内式部『式部 竹内中臣祓講義』、賀茂真淵『延喜式祝詞解』、同『祝詞考』 、本居宣長『大祓詞後釈』、鈴木重胤『延喜式祝詞講義』の「大祓講義」、平田篤胤『大祓太祝詞考』、同『天津祝詞考』、六人部是香『大祓詞天津菅麻』、岡熊臣『大祓詞鹽之八百會』、大国隆正『天都詔詞太詔詞考』等[46]。
- ↑ 明確に薬師信仰に触れている最古の文献は、『日本書紀』天武9年の薬師寺建立記事である[16]。
出典
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- 西宮一民「解説」『現代神道研究集成 第1巻』現代神道研究集成編集委員会 編集、神社新報社、1998年。
- 村山修一 著「祭文」、日本歴史大辞典編集委員会 編『日本歴史大辞典』 5 サ - シ、河出書房新社、1979年11月、43頁。
関連文献
関連項目
外部リンク
- 大祓詞 - おはらいの文化史(國學院大學伝統文化リサーチセンター資料館)
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