さんがく‐しんこう〔‐シンカウ〕【山岳信仰】
さんがくしんこう 【山岳信仰】
山岳信仰
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山岳信仰(さんがくしんこう、英語: mountain worship)とは、山を神聖視し崇拝の対象とする信仰。
- ^ Fujikane, Candace (2019-09-01). “Mapping Abundance on Mauna a Wākea as a Practice of Ea” (英語). HŪLILI 11 (1): 23–54 .
- ^ Reid, Betty. “Phoenix's mountains are religious sites for Valley tribes” (英語). The Arizona Republic. 2022年1月17日閲覧。
- ^ 「豪ウルルに観光客が殺到、登山禁止目前に駆け込み」『BBCニュース』。2022年1月17日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2020年6月30日). “マオリ族が守り続けた三火山がそびえる聖地 ニュージーランド「トンガリロ国立公園」”. イザ!. 2022年1月17日閲覧。
- ^ 健男霜凝日子神社 上宮(祖母山)。
山岳信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 13:46 UTC 版)
越国より始められた夷征は、慶雲から和銅の頃に庄内以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた蝦夷が群居し、常に噴煙を吐き時々大爆発する鳥海山の存在は朝廷軍にとって脅威であった。そのような状況で、もともと日本では山岳信仰が盛んだった背景もあって、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑ったのではないか、と『名勝鳥海山』では推測している。 前述の『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽国司からの報告には、鳥海山の噴火について、「出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ」等の記述があり、鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている、と『名勝鳥海山』では述べている。 上述のとおり、当初、「鳥海山」という山名は無く、山そのものが大物忌神と称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むことであり、山の爆発は山神が夷乱凶変を忌み嫌って予め発生させるものだと朝廷は考えたことが、この山神を大物忌神と称した所以であると『名勝鳥海山』では考察している。また同書では、山神の怒りを鎮め、その力を借りて夷乱凶変を未然に防ごうとした一例として、『日本紀略』天慶2年(939年)4月17日の条にある秋田夷乱(天慶の乱)発生の報が到達した際、朝廷で物忌が行われたことを挙げている。なお『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条には、大物忌明神の山が噴火したとの記述がある。
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山岳信仰
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榛名山はかつて山岳信仰の対象であったことから、山頂部には榛名神社を祀った石の祠がある。
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山岳信仰
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詳細は「ブルカン・カルドゥン」を参照 ボグド・ハーン山は山岳信仰の対象となっている。文化遺産の暫定リストには記載されている。
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山岳信仰
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山名になっている龍王とは竜族の王で仏法を守護し雨を祈る本尊であり、かつては当山の山頂に雄山神社東社の龍王獄社の小社があった。祭神は天水分神と国水分神で、天地の水を司る神である。 立山カルデラにある湖沼の一つである刈込池は龍王の住処とされ、伝説では立山開山の祖、佐伯有頼が常願寺川の氾濫を鎮めるため水害をもたらす三里四方の悪龍や大蛇を立山権現に祈って全てこの池に閉じ込めたという。 1858(安政5)年の大地震の水害以降は、立山温泉に龍王岳から移動した水上龍王堂があり、刈込池の龍神に請雨止雨を祈祷したとされる。
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山岳信仰
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立山は、縄文の太古から自然崇拝の山として、また、奈良・平安時代以降は山岳信仰による立山修験が現れて、日本三霊山の一つとされている。 越中の守として遣わされた国司大伴家持(天平18年(746年)-天平勝宝3年(751年)以前在任)は、 天平19年(747)「皇神(すめかみ)の 頷(うしは)きいます 新川の その多知夜麻(たちやま)に〜」(国神の領有される新川のその立山に)と立山の霊性を詠んだ。「万葉集」(延暦25年(806年)以降に完)に歌われた立山は、遥かに敬い拝む神山であり、立山は、天皇も知るところであった。「立山賦」および「敬和立山賦」に、片貝川が詠われたのは有力な拠点があったと伺え、片貝川は後世まで立山神のふるさとといわる。現代まで片貝川の小石を持参して頂上に供える習俗は続いており、保の伏山や有頼柳などを伝え、大伴氏から別れた佐伯氏が片貝川、布施川の辺りに蕃衍している。山麓には信仰にかかわる立山の神霊を祀ったとみられ、この奈良時代(710-794)ごろは、古来の地主神とされる刀尾(たちお)天神を敬っていたと見られる。 一方、8世紀ごろに役小角(舒明天皇6年(634年)- 大宝元年(701年)伝)を開祖とする修験道の広まりに加え、これを追いかけて9世紀初頭に空海(佐伯真魚)・最澄(三津首広野)らが密教(真言宗・天台宗)を日本に伝える。山中での修験の広まりと密教が結びつき、立山には、吉野・熊野三山、および、高野山金剛峯寺、比叡山寺門派などの修験修行僧が入ったと考えらる。開山の記に、大日岳・剣岳の両山頂付近では、奈良後期から平安初期の錫杖が見つかっている。秘峰であった立山は、9世紀中ごろに律令国家的な開山がなされ、併せて寺院などの建立が進んだことが伺える。 京の東方立山では、大日、および、不動明王、薬師浄土など真言密教系の修験に取り囲まれる一方で、円密一致をなす天台密教の修験の場である。中心には西方を司る阿弥陀が坐す。 最澄が修めることが出来なかった真言密教は、円仁から円珍(814-891)と渡り補完された。佐伯一門で空海の甥の円珍は、役行者の後を慕い承和12年(845年)大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し修験道の発展に寄与し、承和13年(846年)延暦寺の学頭となって、仁寿3年(853年)唐に渡った。天台山に学ぶのみならず、青龍寺の法全(はっせん)から伯父の空海と同じく密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)に帰国し、翌貞観元年(859年)に園城寺に入り、清和天皇より園城寺を賜わって園城寺を顕教、密教に加えて修験道を兼学する伝法灌頂の道場とし、唐から請来した経典や法具を園城寺唐院に収蔵した。円珍は、最澄が志した真言密教を修めた天台法華円宗の円密一致を補完した。 この円珍の弟子、康済(こうぜい)(828-899)は、比叡山にて承和14年(847年)に受戒し、円珍が天安2年(858年)に唐から帰国したのち、円珍から伝法灌頂を授けられた律師(法橋)となる。康済は、「越中立山建立」と師資相承(ししそうじょう)しており、のちに天台座主第8世・園城寺長吏第4世(別当大師)に至る。高野山、比叡山と同規模以上の一大宗教山として立山(りゅうさん)信仰と共に施設や登山ルートなど形の整えは、在地の佐伯一門が中心に、また、叡山僧では師の円珍から相承けた康済に渡って行われたと見られる。立山の説話では、立山山麓に芦峅寺(あしくらじ)、岩峅寺(いわくらじ)、太田寺(おおたじ)、日中寺(にっちゅうじ)又は森尻(もりじり)など広範囲に広がる六寺の宗教村落跡が伝わるものの、現在は天台の仏寺は残らず、芦峅、岩峅の両拠点の雄山神社の他に、日中に日置神社が、森尻に神度神社が残って僅かに往時を偲ばせている。雄山神社には、雄山の立山本峰に峰本社があり、山麓芦峅寺の中宮(祈願殿)、岩峅寺の麓大宮(前立社壇)とともに、三位一体の形を有し健在である。峰本社を見上げる室堂平には参籠の場として建てられた室堂が復元されている。この他に、刀尾神社が点在しており、また、真言密教の仏寺に刀尾寺や不動明王を祭る日石寺などが僅かに現存している。 康済が律師となったころ、「雄山神」は、清和天皇から貞観5年(863)9月条、初めて官位を授かり、三代実録「25日甲寅、越中国正五位下雄山神に正五位上を授く」とあり、その功績から律令国家の下におかれている。国司同様それ以上に遇される雄山神社の創建が伺え、この時までには開山していたと見られる。また、「雄山神」の功績から、宇多天皇寛平元年(889)8月条、日本紀略「正五位上雄山神を従四位下に叙す」と昇進している。 国司の政務は、在地の佐伯一門の影響があったと想起され、何らか「雄山神」および「比叡山(寺門派)」ともおのおの強く関りあったと見られる。国司は8世紀の家持と池主のほか佐伯御形、佐伯鷹守、9世紀の大伴黒成、佐伯河雄などが続き、 特に10世紀に赴任した従五位下、越中守の佐伯有若 (延喜5年(905年)- 延喜10年(910年)在任) は殊更で、在地にも基盤があったと見て取れて有若の名声を開山縁起に残している。かつて魚津に蕃衍した在地の佐伯一門は、御形、鷹守の頃より拠点を移動して、森尻や日中を経て、開山の前には、芦峅、岩峅の両拠点に移っていたと見られる。 開山縁起では、大宝律令施行の大宝元年(701)に遡って、これら開山を大きく比喩した説話に替えられている。剣山刀尾天神(白鷹の剣岳)を目指して立山に入るも、不意に現れた阿弥陀仏(熊の雄山)に白羽の矢を立て感得して立山建立し、また、慈興律師らの寺院普及などを、国司の有若または子の有頼の功績として説話に祭ったと見られる。説話の基には、熊野三山、および、高野山金剛峰寺などの開山縁起に見られる修験説話形式を踏まえて、かつ、康済と在地の佐伯一門を天台上人系の通字の「慈」(この頃10世紀を例え、中興の祖、良源の諡号は慈恵のように)を名に当て嵌めて、慈朝と慈興などと准えたと見られる。 立山の中心となる神は、古来は「刀尾(たちお)神」が周知され剱岳などに坐すと考えられたが、其れまで秘境であった立山において姿すら未知の秘峰、立山本峰(ほんみね)に坐す「雄山神」が、天台の立山開山に伴って周知されると信仰が改まったと見られる。「雄山神」は、日本神話の説話(古事記(712)、日本書紀(720)など)による天地開闢と黄泉の国、伊邪那岐命(いざなぎ)の黄泉帰りと神産みの禊などに根ざし、末法思想が広がる平安後期11世紀までには阿弥陀信仰と強く結びつき、立山地獄説話と共に西方極楽浄土の神山として立山権現が定着した。また、剣岳に刀尾(たちお)権現(本地、不動明王)として手力男命(たぢからおのみこと)を迎えて祭ったと見られる。 雄山神社の祭神は、主神に伊邪那岐命・阿弥陀如来、副神に手力雄命・不動明王が祭られ、本地垂迹による神仏混淆がみられ、岩峅寺の雄山神社の境内摂社にも刀尾(たちお)神社が祀られている。また「和漢三才図会」(1712年)巻六八に、立山(りゅうさん)・刀尾(とおび)両権現の祭神として伊邪那岐命、手力男命があがっている。 なお、平安以降、立山権現には現在と異なる姿がある。 芦峅寺泉蔵坊本「立山大縁起」には「立山禅定ノ濫觴トハ神祇五代ノ開基、伊弉冉・伊弉諾命ノ霊廟ニシテ則チ陰陽交愛ノ根元、衆生流出ノ本土也」とあり、国初の男女両神のみたま屋であって男女交愛の根元の山としている。元禄9年(1696年)橘三喜は立山に登拝し絶頂の社図を描いており、祠を三間に仕切り、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)・瓊瓊杵(ににぎ)三尊を祀ったかたちである(諸国一宮巡詣記)。 明和7年(1770)京都の公卿町尻兼久が従臣を遣して岩峅寺の立山権現に参詣させた時、岩峅寺の社僧は立山は国初の男女両神を祀ると明言している(岩峅寺文書)。 岩峅寺の「立山略縁起」の一つにも「立山大権現は伊弉諾・伊弉冉の霊躰、一切男女の元神」と記されている(「越中国立山禅定名所附図」石川県金沢市立図書館蔵)。
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山岳信仰
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江戸期から明治にかけて、上州では奥白根山を『荒山権現』として祀り、信仰登山の対象となっていたと云われるが、その遺跡は皆無である。現在、そのルートは日光白根山ロープウェー経由の道に比較的近く、当時の信仰登山に纏わる地名が地図上にのみ見える。 現在は、前白根山山頂に前白根山神社、奥白根山山頂に奥白根山神社がある。
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山岳信仰
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磐梯山の南西麓にあった慧日寺(現在の恵日寺)は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。そもそも慧日寺の開基は806年に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もある。吾妻山神社への参拝ルートは慧日寺門前町の本寺を始点としたいくつかのルートが開拓されている。
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山岳信仰
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652年(白雉3年)、知同和尚と役小角が開山したとされる古い山岳信仰の場である。飯豊山大権現を祀る修験の場として栄え、江戸時代初期までには修験道の修験者が多く訪れた。元禄期以降は修験色は弱まり、稲作信仰、成人儀礼、死者供養などを中心とする庶民信仰の形態に移行した。 また、明治初年の神仏分離によって飯豊山神社となり、地域住民から崇敬された。特に太平洋戦争前までは、飯豊山への登頂は少年の成人儀式として用いられたことから地域との密着性が高まった。15歳までに登頂しなかったものは一人前として認めてもらえなかった(通過儀礼も参照)ことから、盛んに集団登山「御山駆け」が行われていたのである。終戦後は、こうした習慣が廃れはしたものの、女人禁制が解除され、多くの登山者が訪れる山として変貌した。前述したように県境の設定の原因にもなった。
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山岳信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:41 UTC 版)
役小角が開山した寺院であったことから、神峯山寺一帯は山岳信仰が色濃く残る場所であった。一帯の峯を総称する神峯山は龍のご神体として信仰され、境内にある九頭龍滝はその龍の口であると言い伝えられていることなどから、神仏混淆の寺院として天台宗寺院とは異なる側面を持つ場所であることが分かる。現在も修験道を志す修験者が寺領で修行をする光景が見られる。
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山岳信仰
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「恵日寺 (福島県磐梯町)」の記事における「山岳信仰」の解説
慧日寺は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきた。そもそも慧日寺の開基は806年(大同元年)に磐梯山が噴火した翌年のことであり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もある。吾妻山神社への参拝ルートは慧日寺門前町の本寺を始点としたいくつかのルートが開拓されている。
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山岳信仰
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岩木山は、古くから山岳信仰の対象とされていて、山頂には岩木山神社奥宮がある。岩木山神社には、五大柱の神である岩木山大神が祀られている。丹後国の郎党大江時廉の陰謀によって滅ぼされた岩城正氏の子、安寿と厨子王丸の伝説が残されており、安寿が岩木山に祀られているため、岩木山の神は丹後国の人を忌み嫌うという言い伝えがあった。丹後国の人が当地に入ると風雨がうち続く悪天候となり、船の出入りができないとして厳しい吟味が行なわれ、入り込んだ丹後国の人は追い出された。安政5年5月24日の布令には「頃日天気不正に付、御領分へ丹後者入込候哉も難計に付右体之者見当候者、早速送返候様、尚亦諸勧進等も吟味仕候様被仰付候間、御家中竝在町寺社共不洩候様、此段被申触候以上。御目付」と書かれた。 山頂の神社奥宮では夏季になると職員が常駐し、お守りや登頂記念の手拭いを購入することができる。岩木山から遠い五所川原市市浦地区には、関東で見られる富士講のように、近隣の三角錐型の小さな山である靄山(標高152m)を岩木山に見立てて参詣する習俗があった。市浦地区の靄山には岩木山神社があり、別名「脇本岩木山」と呼ばれている。
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山岳信仰
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茶臼岳をはじめ、那須岳山麓の温泉街は、古くから那須連山の山岳信仰のための登山基地のような機能を受け持っていたと云われる。山腹には九尾の狐と殺生石の伝説など、山岳信仰に因む逸話が数多く残されている。またこの殺生石付近の那須湯本には複数の社があり、温泉群にも信仰に因む名称が付されている。
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山岳信仰
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斉明天皇の頃、当山々頂から北方向に下った中腹に聳える龍王山(標高840m辺り)に役の行者(役小角)は籠り修行をしていると阿弥陀三尊が出現、ついには石土蔵王大権現を感得した。その後、龍王山から約0.5km下った平地に天河寺を創建した。天平9年(737年)行基によって当山々頂に石土山が開山され、天平勝宝5年(753年)には芳元によって熊野権現が勧請され、当山絶頂にて「宮とこ」と称した。天河寺はその別当として登拝の拠点として隆盛した。天長5年(828年)には、今の石鎚山弥山にも当山から勧請された。しかし、室町末期に兵火により天河寺は廃塵と化し、その後再興されることはなかった。 現在は、石土宗総本山石中寺(いわなかでら)が男山山頂を石土山頂上として、毎年7月1日から10日までを「石土山入峰大会」と称して信者達が当山および子持権現山に登拝する行事を行い、その10日間は頂上直下にある山小屋に泊まり込んでいる。 なお、最近まで男道と女道は別々で男女は分かれてそれぞれの山に登拝していた。 西の川→名古瀬越谷→十郎あれ→常住(988m)→鳥越→釜床谷→瓶壺→男山(または、鳥越→子持権現山→男山) 西の川→東之川谷→東之川新道→台ヶ森→女山
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山岳信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 08:08 UTC 版)
山頂には金剛笹ヶ峰石鉄蔵王大権現と大日大聖不動明王が祀られる。石鎚山および瓶ヶ森と共に「伊予の三名山」とされてきた。古代、石鎚山として称された山は瓶ヶ森、子持権現山および笹ヶ峰であったとされる。『正法寺史』の記述に基づくと奈良時代の石鎚山は瓶ヶ森、子持権現山、笹ヶ峰のうち、現在の笹ヶ峰を指していたとする説があり、新居浜市の石鈇山正法寺は現在も石鎚権現の別当を主張し毎年7月に笹ヶ峰お山開き登拝をしている。 1935年には、山頂直下の紅葉谷に石鉄神社が建立されていたが、現在では社殿は倒壊し、祭祀場所はちち山山頂に祀られた祠に遷っている。
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山岳信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 16:14 UTC 版)
この山は芦峅寺から鋭い三角形の山容に見えるうえ、山頂は立山連峰を一望できる。そのことから最も古くより立山の山岳信仰の聖地ときて盤を設けて祭祀が行われてきた。またこの山の中腹にはいくつもの安山岩の巨石があり、そのうち一つの石は富山市本宮にある立蔵神社に、公卿石 (符号とみられる碁盤状の線刻が多数ある石)に加工されて奉納されている。この山の麓にはかつての雄山神社本宮があったとも言われている。 2000年7月には山頂に「立山本宮」の石碑が建てられた
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山岳信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 09:50 UTC 版)
葉山は、山岳信仰の山として東北地方一円の尊敬を受けていた。 東北地方には、葉山信仰と呼ばれる信仰がある。葉山は「羽山」「端山」とも書かれ、里から離れた「奥山」に対し、里に近い山という意味をもつ。葉山には農業の神が住むとされ、季節の折々に山に登り、五穀豊穣を祈った。村山葉山は特に、役小角が山を開いて以降は修験道の山となり、山麓に寺院や宿坊が作られ、江戸時代初期までは羽黒山・月山とともに出羽三山の一山に数えられていた。のちに出羽三山の一山となる湯殿山を奥山に見立て、その手前にある葉山という形である。葉山の神は、「葉山薬師権現」と呼ばれていた。 「慈恩寺 (寒河江市)」も参照 初期には、天台宗・真言宗兼学の慈恩寺が葉山別当寺であり、この地を領していた大江氏、最上氏の庇護を受けつつ葉山修験の中心となっていたが、天文年間に慈恩寺が葉山と関係を絶ち、三合山(十部一峠)を奥の院としてからは葉山の山岳修験は衰退し、いつしか出羽三山からも外れることとなった。 江戸時代には、寒河江市畑にあった天台宗大円院が葉山修験の中心となった。かつては12坊の壮大な伽藍を誇り、新庄藩の庇護を受け、新庄藩の祈祷所でもあった。葉山は、農業の神のみならず、最上川水運の守り神として、船頭からも尊敬されたという。 明治時代になると、葉山修験はますます衰亡し、1946年(昭和21年)大円院の敷地がGHQアメリカ陸軍大高根演習場の着弾地に指定されると、大円院への立ち入りが禁止され、寺院は取り壊されて葉山修験はほぼ消滅してしまった。なお、大円院は規模を大幅に縮小して1950年(昭和25年)に村山市岩野に移転し、寺院として現存している。また、もともと葉山で修験を行っていた坊が、慈恩寺の坊として寒河江市慈恩寺に現存する。
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