紫式部日記とは? わかりやすく解説

むらさきしきぶにっき【紫式部日記】

読み方:むらさきしきぶにっき

平安中期日記2巻紫式部作。寛弘5年1008)秋から同7年正月までの宮仕え見聞感想批評など仮名記したもの。日記文と消息文からなる


紫式部日記

読み方:ムラサキシキブニッキ(murasakishikibunikki)

平安時代日記紫式部著。


紫式部日記

読み方:ムラサキシキブニッキ(murasakishikibunikki)

分野 日記文学

年代 平安中期

作者 紫式部


紫式部日記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/24 07:56 UTC 版)

紫式部日記絵巻五島美術館蔵、国宝[1]

紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)は、紫式部によって記された日記とされる。藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部が、1008年寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月まで、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。

写本宮内庁書陵部蔵の黒川本が最もよいとされているが一部記載については他の写本がすぐれているとも。写本の表紙の表題は『紫日記』とあり、内容にも紫式部の名の記載はなく、いつから『紫式部日記』とされたかは不明。

全2巻であり1巻は記録的内容、2巻は手紙と記録的内容である。『源氏物語』の作者が紫式部であるという通説は、伝説とこの『紫式部日記』にでてくる記述に基づいている。

鎌倉時代初期の13世紀前半ころに、紫式部日記のほぼ全文を絵画化した「紫式部日記絵巻」が制作された。

来歴

寛弘5年(1008年)11月1日に土御門殿で催された敦成親王(後の後一条天皇)誕生後の「五十日の祝い」の宴席場面。左衛門督藤原公任(画面右、室内を眺めやる人物)が「あなかしこ、此のわたりにわかむらさきやさふらふ(恐れ入りますが、この辺りに若紫は居られませんか)」と酔態で戯れに尋ねる。『紫式部日記絵巻』より(五島美術館蔵)

古写本には表題を「紫日記」とするものが多く、室町時代の源氏物語の注釈書「河海抄」には、「紫記」・「紫式部が日記」・「紫日記」・「紫式部仮名記」といったさまざまな名称で現存する紫式部日記に含まれる文章が引用されている。

1010年寛弘7年)に完成されたとするのが通説である。13世紀(鎌倉時代)には『紫式部日記絵巻』という紙本着色の絵巻物が著された。作者は不詳である。なお、『栄花物語』と一部文章が全く同じであり、同物語のあとがきには日記から筆写した旨記されている。

中世の源氏物語研究の中では取り上げられることがほとんど無かったが、江戸時代安藤為章紫家七論で取り上げて以降、源氏物語の成立事情を考えるための第一資料とされるようになっている。

本書の1008年(寛弘5年)11月1日の記述が源氏物語が歴史上はじめて記録されたものであることを根拠として丁度千年後の2008年(平成20年)が源氏物語千年紀に、また11月1日古典の日に定められた[2]

構成

前半部および末尾は、できごとの日記体記述である。その間に「消息文」と呼ばれる、紫式部の意見を述べた書簡体の部分がはさまれている。

日記体部分

寛弘5年7月[注 1] 出産のため、中宮彰子が父藤原道長の土御門邸へ里帰り。
寛弘5年8月 懐妊10ヶ月に入る。公卿たちが宿直。
寛弘5年9月 めでたく敦成親王(後一条天皇)を出産。
寛弘5年10月 一条天皇が面会に土御門邸へ行幸。
寛弘5年11月 誕生五十日の祝宴。中宮彰子は内裏へ還る。
寛弘5年12月 紫式部も内裏に戻る。初出仕の頃の回想。
寛弘6年1月 元旦は坎日(かんにち)の凶日で、若宮の戴餅の儀は延期。

消息文

日記体部分

時期不明記事 (萩谷[3]などによれば寛弘5年5-6月[注 2])道長との和歌贈答。
寛弘7年1月 敦成・敦良(後朱雀天皇)両親王の戴餅の儀。

内容

中宮彰子の出産が迫った1008年寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。また紫式部が中宮彰子に仕える以前から具平親王家にと交流があった様子も伺える[4]

本文

紫式部及び紫式部の出仕と関係の浅くない部分の原文を一部抜粋と現代語訳源氏物語の世界”. 2025年6月24日閲覧。の要約。

紫式部日記(黒川本)

『土御門殿邸の初秋の様子』

秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艷なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう凉しき風のけはひに、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。

 御前にも、近うさぶらふ人びとはかなき物語するをきこしめしつつ、悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させたまへる御ありさまなどの、いとさらなる事なれど、憂き世の慰めには、かかる御前をこそ、尋ね参るべかりけれと、現し心をばひき違へ、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし。

【現代語訳の要約】中宮彰子が出産のため里下りしている藤原道長の土御門殿邸の言葉にできないほどの趣や優美さと、中宮彰子が妊娠中で心身共辛いはずなのに周りに気遣いしている様子を褒め称え、「中宮彰子のような素晴らしい方は探し出してでもお仕えすべきである」としみじみ思う紫式部の様子が記されている。


『道長との歌の贈答』

渡殿の戸口の局に見出だせば、ほのうち霧りたる朝の露もまだ落ちぬに、殿歩かせたまひて、御隨身召して、遣水払はせたまふ。橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせたまひて、几帳の上よりさし覗かせたまへる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顏の思ひ知らるれば、「これ、遅くては悪ろからむ。」とのたまはするにことつけて、硯のもとに寄りぬ。

  女郎花盛りの色を見るからに 露の分きける身こそ知らるれ

「あな、疾。」と、ほほ笑みて、硯召し出づ。

  白露は分きても置かじ女郎花 心からにや色の染むらむ

【現代語訳の要約】朝、殿(道長)が庭の手入れをさせる途中、女郎花の一枝を紫式部の几帳の上から偲ばせる様子が立派な様子と、道長と紫式部の素早い歌のやり取りが記されている。


『菊の綿の歌』

九日、菊の綿を兵部のおもとの持て来て、「これ、殿の上の、とり分きて。『いとよう、老い拭ひ捨てたまへ』と、のたまはせつる。」とあれば、

  菊の露若ゆばかりに袖触れて 花のあるじに千代は譲らむ

とて、返したてまつらむとするほどに、「あなたに帰り渡らせたまひぬ」とあれば、用なさにとどめつ。

【現代語訳の要約】中宮彰子の母・源倫子から菊の綿を貸していただき感謝する様子とその光栄に菊の綿をお返し差し上げようと和歌を詠む紫式部の良い関係が記されている。


いくつかの校訂書が出版されている。

翻訳

脚注

注釈

  1. ^ 7月とはこの日記自体の記述でなく、道長の『御堂関白記』や藤原行成の『権記』による。
  2. ^ 寛弘5年の記事とすれば、なぜこの部に収録されたのか、多くの説がある。萩谷によれば、道長の求愛という忘れがたい思い出を、目立たぬようにすべりこませたのではと指摘する。

出典

  1. ^ e国宝 - 紫式部日記絵巻断簡”. emuseum.nich.go.jp. 2023年8月29日閲覧。
  2. ^ 第13回 紫式部日記”. 京都新聞 (2018年10月25日). 2021年1月10日閲覧。
  3. ^ 萩谷朴『紫式部日記全注釈』(角川書店、1973年)
  4. ^ 紫式部伝 著/斎藤正昭 ISBN4-305-70288-6

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