いけだ‐きかん【池田亀鑑】
池田亀鑑
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池田 亀鑑(いけだ きかん、明治29年〈1896年〉12月9日 - 昭和31年〈1956年〉12月19日)は、日本の国文学者。平安文学専攻[1]。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1948年)(学位論文『古典の批判的処置に関する研究』)。二松学舎専門学校教授、大正大学教授、東京大学教授を歴任。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 83頁。
- ^ 伊藤鉃也「池田亀鑑の生い立ち (出雲文化圏と東アジア) -- (学び舎の風景) 」『アジア遊学』第135号、勉誠出版、2010年(平成22年)7月、pp. 201-205。
- ^ 長野甞一 「源氏物語とともに-池田亀鑑の生涯」『説話文学論考』 笠間書院 1980年2月、池田皓 「この道一筋に‐亡兄池田亀鑑を想う‐」『水茎』10号「特集・池田亀鑑」古筆学研究所、1991年3月
- ^ 池田亀鑑博士追悼録「年譜」『学苑』201号 昭和女子大学光葉会 1957年2月
- ^ 坂本太郎「恵まれた東大教授の十七年間 (六)学位論文の審査」(『わが青春』『坂本太郎著作集』第十二巻、吉川弘文館、1989年、初出『古代史への道-考証史学六十年』1980年):なお、坂本の記述中、島津の没年を「二十三年」(実際は、1949年=昭和24年)としている点と、池田が「選科出身」(実際は、本科出身)とあるのは誤り。
- ^ 上原作和「小説家・池田亀鑑の誕生―少女小説編―」「もっと知りたい池田亀鑑と「源氏物語」」第三集、新典社、2016年9月、 p273-321
- ^ 上原作和「流行作家・池田芙蓉、青山櫻州の時代」『もっと知りたい池田亀鑑と源氏物語』第四集、2021年3月、新典社、p301-343
- ^ 池田亀鑑賞
池田亀鑑
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大島本の内容が最初に世に知られるようになったのは、池田亀鑑の校異源氏物語および源氏物語大成によってである。 池田亀鑑は、1926年(大正15年)4月から河内本系統の写本を元に進めていた源氏物語の校本作成事業の途上で出会った大島本について、「青表紙本中最も信頼すべき一証本であって、その数量において、またその形態・内容において稀有の伝本である」と評価した。そして、この校本作成は1931年(昭和6年)に一度は完成させ、完成記念の展観会まで催された。しかし、大島本の出現により、その原稿を破棄し、改めて大島本を底本にして校本作成を一からやり直すことを決断、約10年をかけて1942年(昭和17年)に『校異源氏物語』を完成させた。ここで池田によって示された大島本に対する評価の高さと『校異源氏物語』の完成度の高さにより、以後、源氏物語の校本は、多くの帖は大島本を底本に使用するのが通例となった。(ただし十数帖は必ずしも大島本を優先しない。#各種校訂本での大島本の採用状況に後述。) しかし、大島本の本文には、ほぼ全帖にわたって大量、多彩な補訂の跡が残る。これに対し、『校異源氏物語』およびこれを元にした『源氏物語大成 校異篇』では、補訂の存在自体ほとんど明らかにされていない。「底本」本文として翻刻されている本文にも問題の指摘があり、補訂前の本文をそのまま採用している部分もあるが、補訂後の本文を採用している部分もあり、方針は一貫していない。このため、本来の大島本本文の全貌を再現できているとは言えず、現在では『源氏物語大成 校異篇』の本文は「特に精度の高い校本とは言い難い。」「源氏物語大成での補入や訂正箇所についての校異の採用についてはかなりの基準の曖昧さが残る」と評されている。
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